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映画評論

映画評論 PART7

バブルへGO ! タイムマシンはドラム式

制作;日本

制作年度;2007年

監督;馬場康夫

 

(1)あらすじ

 2007年、巨額の借金を抱えて崩壊寸前になった日本経済。

 窓際の財務官僚・下川路(阿部寛)は、かつてバブル経済を崩壊させた「総量規制」を阻止するため、タイムマシンを用いて歴史の改変を行おうとする。 そのエージェントに選ばれたキャバ嬢の真弓(広末涼子)は、現代と全く違うバブル文化に驚愕しつつも、バブル崩壊の真相に迫って行くのだった。

 

(2)解説

  この稿は、いわゆる「パクり」がテーマである。

 これは私的な意見だが、そもそも「パクり」とは作劇の邪道であり、元ネタの作者に対する非礼である。だから、原則としてやってはならない行為なのだが、例外というのもあって、それは「元ネタ作品に対する愛情と尊敬をたっぷり込めた上で、元ネタの弱点を修正することで、よりハイレベルの作品に仕上げた場合」であろう 。

  ところが、日本映画は、それが出来ていないものが非常に多い。

  『バブルへGO!』をDVDで見る少し前に、織田祐二主演の『ホワイトアウト』というのを見たのだが、これは腰を抜かすほど出来が悪いパクり映画だった。この映画は、明らかにアメリカ映画『ダイハード』のパクりなのだが、元ネタの面白さの理由についてまったく考察しておらず(つまり上辺だけ真似している)、ありとあらゆる意味でピンボケしており、しかもストーリーが途中で破綻していた。たとえば、『ダイハード』の最も重要なテーマは「夫婦愛」なのだが、映画『ホワイトアウト』からは、そういう要素が完全に抜け落ちていた。

  なお、『ダイハード』は、日本製アニメ『未来少年コナン』(高畑勲監督)のパクりという説がある。言われてみれば、確かに良く似ている。もしそうなら、それはパクり方として大成功であろう。ところが、それをさらに逆輸入した『ホワイトアウト』は、すべてを台無しにしているのだった。つまり日本のクリエイターは、70年代まではハリウッドによってパクられるほど優秀だったのに、2000年代に入ると、逆にハリウッド映画(その元ネタは日本なのに)の劣化コピーしか出来なくなるほどダメになったということだ。これは、ゆゆしき事態である。

  さて、『バブルへGO!』だ。この映画の元ネタは、どこからどう見ても『バック・トゥー・ザ・フューチャー』だ。 ただ、そのパクり方は、『ホワイトアウト』に比べると随分マシである。ちゃんと、「異なる時代間のカルチャーギャップがもたらす笑い」と、「タイムパラドックスがもたらす家族の再生」を興味の主軸においたコメディとして成立しているので、少なくとも元ネタのメインテーマを外すような酷いことになっていない。

  『バブルへGO!』はコメディ映画なので、その設定の無茶ぶりについて、あまりうるさい突っ込みはしたくない。「バブル崩壊は、一部の高級官僚と外資系ハゲタカファンドが私利私欲で仕組んだものだ」という新説(笑)や 、「あのとき総量規制さえやらなければ、日本経済は21世紀になっても好調だったはずだ」という異説についても、突っ込んだらキリが無いのだが、あえてやらない。

 いちおう少しだけ言うと、バブルというものは、いつか必ず弾けるからバブル(=泡)なのであって、これが弾けるのを阻止することは不可能なのである。もちろん、政策的に対処することで、いくらか問題先送りにすることは可能だが、その場合は後の世代が受けるダメージが数倍にもなる。アメリカ発のリーマンショックなどが、その好例であろう。だから、どうしてもバブル問題を解決したいのであれば、「バブル崩壊を阻止」するのではなく、「バブル発生を阻止」するのが正しい有り方なのである。そういう意味では、この映画はテーマ設定の段階で間違えているし、すなわち登場人物は全員、徹頭徹尾間違った行動をしていることになるわけだが、どうせコメディ映画なので、そこを突っ込んでも意味がないだろう。

 ここで、あえて突っ込むべきなのは、やはり物語のテーマ性であろうか。

  元ネタの『バック・トゥー・ザ・フューチャー』がなぜ名作かと言えば、それは「アメリカの家族」についての諧謔精神とブラックユーモアに満ちているからである。

 「1950年代のアメリカの家庭像」は、全世界の家族の在り方の「模範」とされて来た。テレビドラマの『奥様は魔女』あるいは『大草原の小さな家』などが好例だが、「ハンサムで人格者の夫と、それを支える貞淑無比で優しく賢い美人妻、そして彼らの愛情をたっぷりと受けて育つ可愛い子供たち」こそが、50年代のアメリカの家庭のモデルであり、アメリカが全世界に訴えようとした「アメリカ型民主主義と資本主義」の成功の象徴であった。全世界は、それでアメリカに憧れてアメリカ文化を見習うようになったのである。 しかし実際には、こうした家族像は「プロパガンダ」であった。現実のアメリカには、そんな理想的な家庭など、ほとんど存在しなかったのである。逆に、だからこそドラマの中で極端に美化することで、アメリカが目指すべき家庭の理想形を訴えていたとも言える。ところが、この理想の現実化に見事に失敗した結果として、80年代以降のアメリカ社会における家庭崩壊がもたらされたのだった。

 『バック・トゥー・ザ・フューチャー』という映画は、実は、そのことをテーマにした映画なのである。なんで、主人公マーティ(マイケル・J・フォックス)が、設定上、50年代にタイムスリップすることになるかと言えば、そこが「極端にカリカチュアされた理想のアメリカ」だったからである。しかし、実際には理想化されたイメージ通りの社会とはほど遠くて、そのことがもたらすカルチャーギャップもまた、タイムトラベルによる約30年間の時間差がもたらすカルチャーギャップに加えて、この物語の重要な隠し味になっているというわけだ。つまり『バック・トゥー・ザ・フューチャー』は、驚くほど複雑で知的な装置に満ちた高度な諧謔映画なのである。

  ところが、『バブルへGO!』は、そこまで突っ込んだ知的作業を経て作られた映画ではない。この映画の中盤から、急に「家族再生」の物語がパラレルに出て来るのだが、それが「バブル崩壊阻止」というメインテーマと微妙にズレていたのが残念である。劇中でのバブル崩壊と主人公の家庭崩壊の問題は、ほとんど無関係に見えたので、この映画のスタッフが『バック・トゥー・ザ・フューチャー』の猿真似をする都合上、深く考えずに何となく「家族」テーマを劇中に入れ込んだとしか思えなかった。

  その点で明らかに、『バック・トゥー・ザ・フューチャー』の方が、物語としての品質は上であろう。「家族再生」の問題にメインテーマを絞り込み、ブレることなく、それをとことん語り尽くしているから。

 もっとも、『バブルへGO!』が、『バック・トゥー・ザ・フューチャー』に敬意を払った結果として、似たようなテーマを持って来たのだとすれば、それはそれで良心的なのかもしれないが、パクり方としては二流といわざるを得ない。

  なお、「一つの物語に2つのテーマを無造作に放りこんだ結果、それが互いにギスギスと不協和音をもたらす」という愚かな物語作りは、これ以降、悲惨な形で常態化する。

 たとえば、キムタク主演の『SPACE BATTLESHIP ヤマト』は、往年の名作アニメ『宇宙戦艦ヤマト』のリメイクだが、一本の映画の中に2つの全く異なるテーマを無造作に詰め込んだ結果、テーマ同士が互いを否定し打ち消し合う惨状を呈し、救いようがない酷い出来になっていた。具体的には、『宇宙戦艦ヤマト』(1作目)のメインテーマである「生命尊重」と、『さらば宇宙戦艦ヤマト』(2作目)の「特攻精神」を、何も考えずに一本にくっつけたため、物語が矛盾と混乱のオンパレードになってしまったのだ。どうして監督も脚本家も、そんな基本的なことに気付かなかったのだろう?どうせ『ヤマト』をリメイクするなら、1作目か2作目か、どちらか一方に絞るべきであっただろうに。「それだとカネにならない」とか、誰かが言い出したせいだろうか?

 いわゆる「製作委員会」システムの弊害について言おう。ここでは、大勢のスポンサーやスタッフがあまりにもゴチャゴチャと関与しすぎるため(その目的はあくまでも私的な金儲け)、参加者みんなの勝手な声が大きくなってしまって、一個のポリシーに即したしっかりと筋の通った物語を作り難くなってしまった。つまり、「船頭多くして船走らず」という事になってしまった。特に、日本人は「和の精神」やら「横並び」が大好きなので、参加者全員の顔を同時に立てようとするから、どうしても矛盾と混乱の度合いが大きくなってしまう。

 最近の日本映画の出来の悪さ(テーマ とストーリーが整合せず、しかも互いに矛盾しまくる)は、この視点でかなりの程度は説明できるだろう。

  ところで、『バブルへGO!』で 私が一番ツボに入ったギャグは、主人公・真弓がバブル期の女性の顔を一目見て「眉毛太っ!」というシーンだ。これには笑った。確かに、80年代の女性はみんな眉毛が太かった。ただ、あの頃の皆が付け眉毛をしていた(つけまつける?(笑))とは思えないので、逆に、最近の女性はみんな眉毛を剃っているのであろうか?AKBも、あの膨大な人数が全員、眉毛剃っているのか?そっちの方が、なんだか怖いわっ!(苦笑)

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