歴史小説家 三浦伸昭の歴史ぱびりよん

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映画評論

映画評論 PART7

おくりびと

制作;日本

制作年度;2008年

監督;滝田洋次郎

 

  (1)あらすじ

 不景気で東京のオーケストラの仕事を失った小林大吾(本木雅弘)は、妻の美香(広末涼子)とともに郷里の山形県酒田市に帰郷するのだが、ひょんなことから葬儀会社で納棺師の仕事に就くことになる。

 この仕事は俸給は高かったけれど、周囲の偏見や誤解に始終苦しめられることになった。しかも、妻でさえ逃げてしまう有り様。悩み苦しむ大吾だったが、この仕事の社会的貢献の高さに気づくことで、大きく成長していくのであった。

 

  (2)解説

 「第81回アカデミー賞外国語映画賞」に輝く名作である。その反動で、日本でも大ヒットした。ノーベル賞でも青色発光ダイオードでも八木アンテナでも村上春樹でも同じだが、外人様(特にアメリカ白人様)が高く評価したものが、時間差で日本で人気が出る現象は、今に始まった話ではない。それはそれで問題なのだが、今回はそこには突っ込まない。

 映画『おくりびと』は、往年の日本映画全盛期を思わせる重厚な出来で、私もおおむね満足であった。葬儀社の佐々木社長を演じた山崎務は、こういう役をやらせると見事に嵌る(『ヤマト』の沖田艦長役は酷かったが)。しかも、この社会でタブーにされがちな「死を扱う仕事」の大切さをアピールした点でも、この映画の社会的貢献度は極めて高い。

 ただし、私が肩透かしを食ったように感じたのは、このテーマの映像化において最も重要かつ困難なハードルであったはずの「死穢(しえ)」の問題が、軽くスルーされていた点である。『歴史ぱびりよん』的には、そこを突っ込まざるを得ない。

 日本人は、「死」に対して独特の宗教観を持っている。すなわち、「穢れ」の問題である。このテーマについては、文化人類学者や民俗学者はもちろん、作家の井沢元彦氏なども詳しく論じているのだが、日本人は、「この世の悪や不幸はすべからく『穢れ』によって引き起こされる」と考える。

 「穢れ」が生じる原因は様々だが、「恨みを抱いて死んだ魂」こそが、その最悪のものだという考え方をする。死体もまた、その発生源だから、やはり穢れている。この「穢れ」を浄化するのが神社であり神主であり、そこに「日本神道」の最大の存在意義があるのだ。ちなみに、天皇家というのは日本神道の総本山みたいなものであり、すなわち日本の国家的かつ民族的な「穢れ」を取り払ってくれる存在なのであり、だからこそ「象徴」としてこの国に存在してもらうことに重要な意味があるのだ。

 ここまでの説明で十分理解できるだろうけど、「靖国神社」とは、実は、戦死者や戦犯処刑者の無念な魂が社会にもたらす「穢れ」を浄化するための装置なのである。あれは決して、「戦争英雄や戦犯を美化顕彰している」施設ではない。韓国や中国は、この点について大きく誤解している可能性があるのだが、日本の政治家は、ちゃんと彼らに説明しているのだろうか?

 いずれにせよ、これらの話は、外人には分かりにくいどころか、ほとんど理解不能だろう。天皇や日本神道は、かなりユニークな「日本独特の概念」なのだ。このテーマについては、この ホームページ内の『概説・太平洋戦争』の終盤で詳しく論じているので、興味がある方は、そちらも参照してください。

 さて、『おくりびと』の主人公・大吾は、日常的に死体と接することで、「穢れ(死穢)」を直接的に受けることになった(納棺師は、神社の神主じゃないので「穢れ」を浄化出来ない)。だから周囲の人々は、彼の職業を知ったとたんに生理的な嫌悪感を抱くのだ。最愛の妻でさえ、「穢らわしい 」 、「そんな手であたしに触れないで」と泣き叫んで家を出て行くのだ。理不尽な話だが、これはおそらく縄文時代から日本人のDNAに伝わる感情なのだから、どうしようもないのである。

 ちなみに、いわゆる「部落民(えた非人)問題」の淵源もここにある。部落差別は、その対象者の「先祖」が、死体処理や屠畜や革製品製造などに携わり、職業として「穢れ」を貯め込んだことから来ている。これはある意味で、インドのカースト制度よりも遙かに悪質な差別の在り方なのだ。

 「穢れ」というのは、これほど深刻で強烈で根深い解決不能な重大問題なのだが、映画『おくりびと』では、なんとも呆気なく終息させてしまっていた。出て行った妻も、呆気なく復縁してしまった。いちおう作劇上、表面的もっともらしい解決の説明を付けてはいたが、「穢れ」問題の特殊な深刻さを考え合わせた場合、いかにも甘すぎるだろう。

 私には、製作スタッフが面倒になって(あるいは怖くなって)「逃げた」ように見えて仕方がなかった。こういう場合、責任の所在を曖昧に出来る製作委員会システムは便利である。

 しかし、「穢れ」の問題を華麗に(?)スルーしたからこそ、この問題にまったく興味を持たないアメリカ様の歓心を買うことが出来て、晴れてアカデミー賞を取ることが出来たわけだ。そういう意味では、スルーして結果的に大正解だったと言えるかもしれない。

 こうして、私のような変わり者の観客だけが、微妙なフラストレーションを抱えたまま取り残されるのであった(苦笑)。

 なお、広末涼子が出て来る映画を2つ続けて取り上げたわけだが、私は別にヒロスエのファンというわけではない。むしろアンチである。だって、大根じゃん。私は、「顔は可愛いけど演技が下手くそ」な女優が嫌いなのだった。だって奴らは、あんまり努力しないで金儲けしているってことじゃん?同じ理由で、綾瀬はるかも堀北真希も嫌いである。そういうわけで、『バブルへGO!』も『おくりびと』も、ヒロスエさえ出ていなければ、もっと好きになれていたかもしれないのだが。

  最近の日本映画やドラマがレベル低下した理由の一つに、「俳優の技量低下」がある。製作委員会システムの下では、大手タレント事務所の歓心を買うことが大切なので、制作者が技量を基準にして俳優を選ばないからである。だから、無駄にイケメンや美女(しかも、みんな大根)がウジャウジャ出て来る物語が出来てしまい、リアリティと説得力が皆無となるのだ。

 やれやれ。

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