歴史小説家 三浦伸昭の歴史ぱびりよん

世界史・日本史の隠れた巨人たちを鮮やかに蘇らせる!歴史小説家 三浦伸昭公式ホームページ

映画評論

映画評論 PART8

宇宙戦艦ヤマト2199

制作;日本

制作年度;2012年

監督;出淵裕

 

(1)あらすじ

  西暦2199年、ガミラス帝国の攻撃にさらされた地球は、遊星爆弾による放射能の影響によって、滅亡まで残り1年となっていた。

  最後の地球軍は「宇宙戦艦ヤマト」を建造。イスカンダル星にある放射能除去装置を受け取るため、過酷な宇宙への旅に出発するのだった。

 

(2)解説

 往年の名作アニメのリメイク。

 映画館ではなく、テレビ放送で観たので、「映画評論」コーナーに書くのはどうなのよ?という気もする。そもそも「宇宙戦艦ヤマト」は歴史ものじゃないわけだが(笑)。

 1974年のオリジナル版は、SFというよりむしろファンタジーであった。出渕総監督をはじめ、21世紀のアニメ制作者たちは、そこが不満であったらしく、リメイク版はかなりSF色が強くなっている。「エヴァンゲリオン」の影響が濃厚すぎる気もするが、SFファンは大喜びだろう。それだけでなく、ストーリーも良く練られているし、深い知性すら感じる。

 やはり、本当に頭が良い作家さんは、みんなアニメや漫画の現場にいるのだろうか?『のぼうの城』や『山本五十六』で感じた作劇上の違和感や矛盾は、『ヤマト2199』からは一切受けなかった。もちろん、キムタク主演の実写版より、遥かにレベルが上だった。

 でも、この作品は「ヤマト」では無い。

 オリジナルのファンとしては、むしろまったく別の新作として創って欲しかった。なぜなら、オリジナルのファンタジー色(すなわち寓話性)を奪い取ったことから、オリジナル版が本当に視聴者に伝えたかった重要なメッセージが消失してしまったからである。

 私見だが、1974年版ヤマトが伝えたかったメッセージは2つある。①戦争の恐ろしさ、②生命の大切さ。

 1974年版は、松本零士さんの作家性が随分と濃厚なのだが、スタッフ全員に共有された強固な価値観があり、それがストーリー全体を支配している。私は数年前に、1974年版のDVDセットを大人買いして一気に観たのだが、最終回で涙が滂沱として止まらなくなった。その理由について考察したところ、①と②がストーリー全体に首尾一貫していることに気付いたのだった。

 ①戦争の恐ろしさ、について。

 1974年版ヤマトは、スタッフのほぼ全員が、戦争末期から終戦直後の悲惨な時代の経験者である。彼らは少年時代に、「日本人は一人残らずアメリカ軍によって皆殺しにされてしまう。仮に生き延びたとしても、いずれ餓死してしまう」という深刻極まりない絶望を経験し共有している。その絶望感が、作品全体を首尾一貫して覆っているのだ。「地球滅亡まであと365日」というナレーションは、まさに「日本滅亡まであと○○日」という、時代の絶望感の反映である。この絶望感があるからこそ、地球最後の希望である宇宙戦艦ヤマトのヒーロー性が際立つのだし、ストーリーも盛り上がるのである。

 1974年版では、主人公・古代進の人物造形も、「特攻くずれ」のようなネガティブなメンタリティが非常に強い。彼は、血気盛んで好戦的な若者として描かれているのだが、その深層にあるのは、家族や友人のほとんどを戦争で失った孤独と絶望である。彼は、自分が何のために生きているのか分からなくなることがあり、それで死に急いで無暗に好戦的な態度を取るのだ。それを見守る沖田艦長は、古代とまったく同じ境遇なのだが、老人ゆえ心の出来栄えが違う。そんな沖田が古代の心を思いやって諭し成長させてあげるエピソードこそが、1974年版の重要な伏線になっている。森雪と古代の恋愛関係も、その背景にあるのは、戦後日本が自らの傷を少しずつ癒していく過程とシンクロしている。ここが泣けるのだ。

 ・・・ところが、『ヤマト2199』からは、これらが完全に抜け落ちている。「地球滅亡寸前」という状況も、なんだか他人事みたいな描き方だし、ヤマトの乗員たちはみんな陽気でふやけた顔をしていて、まるで「合コン合宿」に出かけるおバカ大学のテニスサークルみたいである。なにしろ女性キャラは、一人の例外もなくアニメ美少女なのである。一人くらい、デブのオバちゃんがいたって良いんじゃないの?しょせん、「バブル」と「ゆとり」世代の連中には、戦争のリアリティも恐ろしさも理解できないのであろうか?頭は間違いなく良い人たちなんだけどなあ。

 ②生命の大切さ、について。

 ①より、むしろこっちの方が1974年版を語る上で重要じゃないかと思う。

 そもそも、単艦航海の宇宙戦艦ヤマトが、どうして圧倒的優勢なガミラス帝国軍を突破して、しかもこの国を滅亡させる展開になったのか?「子供向けの幼稚なファンタジー系アニメだったから」と、決めつける人が圧倒的多数だろうし、おそらく 『ヤマト2199』の制作スタッフも、そう考えているだろう。だからこそ、SF色を強くして矛盾や不合理を排除しようと頑張ったのだろう。だけど、それは違うのである。1974年版には、全体を通じて、首尾一貫した伏線が敷かれているのである。

 それは、「ガミラス帝国軍は、へっぴり腰の軍隊である」という事実だ。

 嘘だと思う人は、もう一度1974年版を見直してください。ガミラス帝国は、宇宙征服を目指すとか言いながら、異常なまでに自軍の人命を尊重する軍隊で、まるで最近のアメリカ軍みたいである。どんな戦況であっても、なるべく自軍の損害を最小限にする戦略を優先するので、そこをヤマトに付け込まれて敗北するのである。

 そもそも、「遊星爆弾の遠距離攻撃で、一年がかりで地球を滅ぼす」という戦略が異常である。一年などという猶予を気長に与えたからこそ、ヤマトの活躍を招いてしまったのだ。大艦隊を持っているんだから、さっさと直接攻撃で止めを刺せば良かったのにね。そうしていれば、ヤマトとの戦い自体が有り得なかったのだが。

 そして、その後のヤマトとの戦いも、おおむね「へっぴり腰」である。正面から艦隊決戦を挑むのではなく、反射衛星砲による遠距離射撃とか、宇宙生命体に襲わせるとか、人工太陽をリモコン操作でぶつけようとか、ガミラス軍はとにかく「自軍の人命の損失が大嫌い」なのだ。危険な仕事はみんな、遠くから石を投げたり(笑)、あるいは他人にやらせたりするのだ。だから、ヤマトに簡単に逃げられたり突破されちゃうのである。

 ドメル将軍の「七色星団の決戦」も、まさにガミラス軍の「へっぴり腰」が目立つ戦いであった。戦闘機のみをワープさせて、チマチマとヤマトの武装を破壊してから、ようやく艦隊が姿を現す。正面から艦隊決戦をやるのが怖かったのだ。そんな退嬰的な戦法だから、結局、敗北したのである。

 なんでガミラス軍が、そんなにヤマトを恐れたかと言えば、ヤマトが持つ「波動砲」が、宇宙最強の破壊兵器だからである。ガミラスは、この兵器を正面から食らうことは何としても避けたくて、それでセコい戦術をチマチマと採用して自ら墓穴を掘るのである。

 ところが、ヤマトの側では、波動砲の使用を制限しているのだ。木星での試射でその威力を知った沖田艦長が、「大量破壊兵器は人を不幸にする」と考えたからである。したがって1974年版では、試射以降は、波動砲を対人攻撃に用いたことは一度も無い。嘘だと思う人は、1974年版を見直してください。しかし、ガミラス側は、ヤマトのそんな決意は知らない。当然、ヤマトは波動砲を撃ってくるだろうと考えて、それで「へっぴり腰」になる。それで墓穴を掘る。この皮肉なストーリー展開が本当に面白い。

 ここで気付くのは、ヤマト側もガミラス側も、どちらも「生命の尊さ」を熟知している人々だという点だ。そんな両者が相争って殺し合い、ついにはガミラス滅亡にまで行きついてしまう。そのことの悲劇性が、この物語の重要なテーマになっている。このテーマを理解しながら、最終回の森雪の死と復活、沖田艦長の死を噛みしめると、涙が滂沱として止まらなくなるのだ。

 やはり、戦争を経験している1974年版の制作者たちは、「生命」への思いが桁外れに強いのだろう。

 ところが、ファンタジー色を排してしまったSF『ヤマト2199』には、こういった思想性や文学的な味わいは全く存在しない。当たり前のように人が死にまくるし、ヤマト側もガミラス側も、全く生命に対して躊躇することがない。人間の命がゴミのようだ。

 それはやはり、戦争や飢餓を経験していない「バブル」や「ゆとり」が製作しているためだろうね。子供のころにヤマトが大好きだった人たちが、玩具を弄るような感覚で創っているんだろうね。遊び感覚で、人殺しを楽しんでいるんだろうね。キムタク主演の実写映画版も、まさにそんな感じだったけどね。

 『ヤマト2199』は、傑作SFアニメだと思うし、確かに面白い。沖田艦長も、オリジナル版よりカッコいい!

 だけど、1974年版を愛する者にとっては、強いストレスとフラストレーションが残る作品であることも間違いない。

 その事実は、現代の日本社会の心の堕落ぶりと、非常に密接に関係しているように思われる。

ページ上部へ