歴史ぱびりよん > 映画評論 > 映画評論 PART2 > アレキサンダー Alexander
制作;アメリカ
制作年度;2005年
監督;オリバー・ストーン
リドリー・スコット監督が『グラディエーター』で成功して以来、ハリウッドでは歴史大作が次々に作られている。最新のデジタル技術を用いれば、派手なコスプレ戦闘シーンも簡単に撮影できるからだ。
しかし、皮肉なことに、最も迫力に溢れるコスプレ戦闘を実現させたのは、ニュージーランドの新鋭監督ピーター・ジャクソンのファンタジー映画『ロード・オブ・ザ・リング』3部作である。客観的に見て、この映画の迫力を凌駕できる史劇は有り得ないだろう。そのため、この映画以降に制作された史劇は、ドラマ部分を厚くしてコスプレ戦闘の迫力不足を補おうと苦闘している。
オリバー・ストーン監督のアレキサンダーは、まさにこうした流れの中で制作された作品である。アレキサンダー大王(コリン・ファレル)の生涯を、彼の部将であったプトレマイオス(アンソニー・ホプキンス)を狂言回しに据えて描いたこの映画では、英雄アレキサンダーの実像を、マザコン の同性愛者で狂騒な破滅型人間として逆説的に描写し、従来の英雄史観に一石を投じようと試みている。ストーン監督のこの野心的な試みは、高く評価したい。
しかし、残念ながら演出力不足である。
私は、ストーン監督の能力を高く評価したことは一度もない。アカデミー賞を受賞した『プラトーン』は『戦争のはらわた』のパクリ映画としか思えなかったし、『JFK』も演出のテンポが悪すぎてまったく面白いと思わなかった。素直に面白いと感じられたのは『ウォール街』くらいかな。はっきり言って、ストーン監督は能力が低いと思う。
それに加えて、アレキサンダーを演じたコリン・ファレルもミス・キャストである。彼は、カリスマ的な君主を演じられる柄ではない。彼が演じたアレキサンダーは、戦略戦術や政治に長けているようにはまったく見えず、最初から最後までその辺のチンピラ同然としか思えなかった。それが監督の狙いだとしたら、そもそもその時点で大失敗である。アレキサンダーのような偉業を達成した人物が、そこらのチンピラ同然の若僧であったはずはないからだ。これでは、たいていの観客は納得しないだろう。
問題は、それだけではない。ストーリーが、老いたプトレマイオスの回想をぶつ切りにして語られる形式なので、歴史の予備知識がない人は何が何だか分からないだろう。また、アレキサンダーとその母親(アンジェリーナ・ジョリー)との確執がストーリーの核であるはずなのだが、あまり十分に書き込まれていなかったように思う。
戦闘シーンも良くなかった。劇中で描かれるのは、ガウガメラの戦い(VSペルシャ)とインダス川の戦い(VSインド諸侯)程度である。史実では、どちらもアレキサンダーの誉となる戦いだったはずなのだが、前者は迫力不足だし、後者はアレキサンダーが負けたようにしか見えなかった。ここでインダス川の戦いをわざわざ出した理由は、インドの戦象部隊をデジタル技術で描写したかったのだろう。しかし、戦象部隊の迫力は『ロード・オブ・ザ・リング 王の帰還』の足元にも及んでいないので、逆効果だったと思う。
要するに、何もかも中途半端なのである。
いずれにしても、劇中でアレキサンダーの精神病理性ばかりが強調されるので、彼の人間的魅力が観客にまったく伝わらない。これでは、主人公のことが少しも好きになれないから、物語全体が途中で詰まらなくなってしまう。その結果、最後のアレキサンダーの病死の場面も、まったく感動が湧かなかった。「気が狂った変態が死んでくれて良かったね、周囲のみなさん」って感じである。そういうわけで、アレキサンダーの死が実は、部将たちの共謀による毒殺だったのだというプトレマイオスの衝撃の(?)独白も、まったくインパクトが無かった。「ああ、やっぱりね」と思っただけのことである。
何度も言うことだが、ハリウッド映画の人間描写は皮相的に過ぎる。ある人物を、徹底的に善人に描くか徹底的に悪人に描くか、どちらか一方なのである。善悪二元論なのである。アメリカ人の精神世界と文化レベルが、意外と大したものじゃないということが、それだけで明らかだ。もう少し、アレキサンダーの善の部分(たとえば人種問題や異文化に対してリベラルな面)を描いても良かったと思う。
この映画は、発想と着眼点は良かったのに、監督と俳優の能力不足によって駄作となった作品の好例であろうか。