歴史ぱびりよん > 映画評論 > 映画評論 PART4 > コーカサスの虜 Prisoners of the mountains
制作; ロシア、カザフスタン
制作年度; 1996年
監督; セルゲイ・ボドロフ
(1)あらすじ
舞台は、 チェチェン紛争下のロシア。
チェチェンゲリラの奇襲によってロシア軍の隊列が襲われ、2人の新兵ワーニャ(セルゲイ・ボドロフ・ジュニア)とサーシャ(オレーグ・メンシコフ)が捕虜となった。 捕虜2人は、アブドル(ドジェマール・シハルリジェ)というチェチェンの村長に引き取られる。村長は、ロシア軍の捕虜となった一人息子と交換するための人質として彼らを買ったのだった。
足かせをつけられ村に連行された二人だったが、人質要員ということもあってか、村での待遇はなかなか良かった。ワーニャと村長の娘ジーナ(スザンナ・マフラリエワ)の間には、淡い慕情さえ生まれる。
その一方、アブドル村長はロシア軍司令部と連絡を取るのだが、捕虜交換の話はなかなか進展しない。じれた村長は、捕虜たちに母親宛ての手紙を書かせる。手紙を受け取ったワーニャの母親は、大いに心配して奔走するのだが、官僚機構の壁に阻まれて事態はなかなか進展しない。
その間、隙を見て脱走した2人だったが、あえなく村人に露見し、サーシャは射殺されてしまうのだった。再び捕らえられたワーニャは、不潔な穴倉に押し込められてしまう。
やがて、ロシア軍兵営で不慮の事件が起こり、捕虜であった村長の息子は、流れ弾を受けて死んでしまった。
激怒した村長は、ワーニャを射殺しようとする。しかし、情けにほだされた彼は結局、山の中に捕虜を連れて行き解放するのだった。 自由の身となり、歩いて自陣に向かうワーニャの頭上を反対方向に飛んで行くのは、ロシア空軍の爆装ヘリ部隊。
「やめてくれ!」と叫ぶワーニャの声は、爆音にかき消されるのだった。
(2)解説
アカデミー外国語賞の候補にもなった逸品。
文豪トルストイの同名の原作を、現代のチェチェン紛争を舞台にアレンジしなおした良作である。トルストイやドストエフスキーの作品には、時代を超えた普遍性が宿っているので、しばしば現代に舞台を移して映画化される傾向がある。そして、この作品が訴えているのは普遍的な「反戦」である。トルストイは、生涯にわたって反戦を訴えた人であるが、そのエッセンスが良く表現できていると感じた。
作中に登場するチェチェン人は、トルコ風の風貌をした山岳民族である。我々日本人が誤解し勝ちなのは、ロシアは基本的に多民族国家だという点である。プーチンやシャラポワのような白人は、いわゆるヨーロッパロシアに住む少数派なのである。そもそもロシアという国家は、モスクワやキエフといった内陸の都市から発展したのであるが、その勃興期の大部分をモンゴルの植民地として過ごして来た。17世紀のピョートル大帝のころからようやく対外征服に打って出たのだが、その獲得した領土の大半にはトルコ系やモンゴル系の人々が住んでいる。そういうわけで、ロシア国内では今でもチェチェン紛争のような民族紛争が絶えないのである。
ロシア軍司令官とチェチェン人村長の交渉は、最初から平行線を辿る。話は通じているのに、心が通わないからである。最初から、相手をまったく信頼していないのだ。人種的偏見もあるし、互いに傷つけあったことによる憎しみもある。心が通じない相手とは、何を話しても無駄だ。だから、捕虜交換の話は当然のように進まない。戦争は、こうして生まれ拡大する。
その一方で、村人と捕虜たちの間には奇妙な交歓と友愛が生まれる。これは、肌の色が違っても習俗が違っても、人間の本質は変わらないというメッセージであろう。
また、子を思う親の愛情は、民族や立場を超えて共通である。チェチェン人の村長もワーニャの母親も、息子のことを心から愛している。ラストで、村長がワーニャを処刑しなかったのは、彼の母親の辛い心境を思いやったからだろう。
しかし、そんなワーニャの頭上を、ハインド攻撃ヘリ(『ランボー2』などでの最後の敵役)の編隊が攻撃態勢で飛び去っていくシーンは圧巻である。戦争という非情な現実は、個々人の優しい思いなど全て吹き飛ばしてしまうのである。
原作が古典文学だけに、反戦の主張にややベタなところがあるが、全体的に良質の反戦映画であった。