歴史ぱびりよん

太 陽 The Sun

制作;  ロシア、イタリア、フランス、スイス

制作年度;2005年

監督;  アレクサンドル・ソクーロフ

 
 

(1)あらすじ
 
 第二次大戦末期、昭和天皇(イッセー尾形)はいつものように公務をこなしていた。
 
 老僕に着替えを手伝ってもらい、侍従長(佐野史郎)にスケジュールを指示される。大臣たちと会議をして、海洋生物学の研究をする。暇な時は、家族の写真やハリウッド女優のスナップを観賞して楽しむ。そんな彼は、自分が「生きている神である」という状況を納得できずにいた。
 
 やがて終戦になると、皇居はアメリカ軍の監視下に置かれた。GHQを訪れた天皇は、その飾らない人柄でマッカーサー元帥(ロバート・ドーソン)を驚かせる。ひとしきりの哲学談義の後、マッカーサーはある重大な提案を行うのだった。
 
 皇居に帰った天皇は、疎開先から戻って来た皇后(桃井かおり)に重大な決心を伝えた。「神」を辞めて、明日から「人間」になるのだと。
 
 
(2)解説
 
 私が、心から尊敬するソクーロフ監督の一本。
 
 おそらく日本での公開は無理だろうと考えて諦めていたけれど、昨年(2006年)ミニシアターで公開されたのだった。私は、これを横浜のムービルで見た。
 
 ロシア映画は、伝統的に哲学的で芸術的なものが多いのだが、その中で特に異彩を放つのがソクーロフの才能だ。彼は、「20世紀の独裁者」をテーマに3部作を制作した。 すなわち、ヒトラーを描いた『モレク神』、レーニンを描いた『牡牛座』、そして昭和天皇を描いた『太陽』である。いずれも、独裁者の「私生活の姿」を描いて本質を抽出するというユニークなアプローチを採っている。
 
 キリスト教世界では、「生きている人間が神である」ことは有り得ない。また、「神」が「人間」に戻ることも有り得ない。この有り得ないことの連続が昭和天皇の生涯だったわけで、外国の知識人の視点から見たこういった不思議さも、映画の主題になっている 。
 
 俳優のほとんどが日本人で、みんなきちんとした日本語を話す。その点で、『硫黄島からの手紙』と同様に、日本文化がリスペクトされていると感じた。イッセー尾形の演技も見事である。「あっそ」という口調など、本物の昭和天皇のようだった。
 
 しかし、この映画での昭和天皇の描き方には、賛否両論あることだろう。おそらく、右翼の人も左翼の人も納得しないのではないだろうか?右翼から見れば「天皇陛下をバカにしている!」という事になるだろうし、左翼から見れば「天皇を美化している!」という事になるからだ。もしも日本人の作家がこういうのを制作したなら、たいへんな騒動になるだろう。ロシア人のソクーロフだから、良かったのである。
 
 私はリベラルな立場の人なので、この映画における天皇の描き方には心から納得している。ただ、なんとなく「美化しているのかな?」と感じることはあった。
 
 実際、ソクーロフは、明らかに昭和天皇をリスペクトしている。映画の中の天皇は、広い心を持ち道徳的で優しくユーモラスで、「可愛らしさ」すら感じさせる人柄だ。劇中のマッカーサーは、天皇の「愛らしさ」に深く心を動かされるのだ。
 
 その理由は、監督の個人的な思い入れによるらしい。彼の父親は、第二次大戦末期に千島列島で戦っていた。もしも日本があのタイミングで降伏しなければ、彼の父は戦死していたかもしれなかった。だからソクーロフは、本土決戦を避けて終戦を決意した昭和天皇の勇気に心から感謝し恩を感じているのだった。 監督のこういった暖かい感情が、映画の中にストレートに反映されている。
 
 この映画が世界に広く認知され、この映画の昭和天皇の姿が「歴史の通説」になれば、今後の日本のアジア外交にとっても有益なのではないか?私は、そんな思いも抱いたのであった。
 
 なお、この映画では一箇所だけCGが使われるシーンがある。天皇が午睡中に見る夢の中で、巨大な魚の群れが空中を泳ぎまわって次々に卵を産む。その卵が爆弾と化して地上に降り注ぎ、多くの市民を殺戮するシーンである。銀色の体をうねらせながら卵(爆弾)を落としていく魚(もちろんB29のモチーフ)の幻想的な美しさと不気味さに息を呑み、ソクーロフの天才性を痛感した。
 
 私が思うに、「CGの最も効果的な使い方」はこれである。
 
 CGは、ようするにアニメだから、どうしても映像が薄っぺらで嘘っぽくなる。だから、CGを用いてリアリティを表現するのは、愚か者のやることである。
 
 ハリウッド映画は、ちゃんとこういうことを考慮していて、まともな映画ではCGを使わない(もちろん、低予算のB級映画は論外)。使う場合は、なるべくファンタジーやSF映画で用いる。どうしても現実的な映画で使う場合は、巨額の資金を投じてCG自体の質を高めた上で、画質を工夫してCGの欠点を消そうと努力する。たとえば「硫黄島2部作」では、画面をセピア色に統一することで、CGの欠点が目立たないように工夫していた。
 
 ソクーロフが用いたCGは、はっきり言ってハリウッドに比べ安っぽい。しかし「天皇の夢の中」で用いることで、かえってCGの持つ固有の弱点である薄っぺらさと嘘っぽさを、幻想的な不気味さに転化して前向きに用いたのである。そういう意味で、彼の知性はハリウッドの知恵と技術を凌駕したと言えよう。
 
 翻って日本映画を見ると、安っぽいCGを「リアリティの創出」に用いているから愚かである。「ALWAYS三丁目の夕日」の遠景のCGの薄っぺらさは、映画そのものを破滅させていた。「DEATH NOTE」の死神のCGも、あまりにも人形っぽくて、死神の怖さや不気味さがまったく表現出来ていなかった。 「ALWAYS」も「DEATH NOTE」も、日本映画にしては良い出来だったので、とても残念に感じた。CGの持つ固有の弱点を、弱点のまま用いているからそうなるのである。これは、「竹やりを用いてB29を撃墜しようとする」のと同レベルの愚行である。
 
 やはり、日本人の知性はロシア人にもアメリカ人にも劣るのであろうか?