歴史ぱびりよん

ゴジラ

制作;日本

制作年度;1954年

監督;本多猪四郎

 

(1)あらすじ

ビキニ岩礁におけるアメリカの水爆実験によって、古代恐竜の生き残りであるゴジラが、突然変異を起こして暴れ出した。

東京に上陸した全長50メートルの怪獣ゴジラは、防衛隊の必死の抵抗を一蹴して、首都を火の海にする。

孤高の科学者芹沢(平田明彦)は、化学兵器オキシジェン・デストロイヤーとともにゴジラに挑むのだった。

 

(2)解説

今さら解説なんて、する必要あるのか?

言わずと知れた日本映画の最高傑作の一つであり、怪獣映画の至宝である。未見の人は、今すぐにでもDVDレンタルの店に行った方がよい。

歴史をテーマに「していない」エンターテイメントとしては、文句のつけどころがない超絶的名作である。もはや、「神が宿っている」としか言いようがない。

っていうか、歴史と関係ない映画なのに、どうして『歴史ぱびりよん』で取り上げるのかって? それは、この怪獣映画の背景に隠されたメッセージが、当時の時代性を大きく反映させており、まさにそれこそが、この荒唐無稽な怪獣映画を大人の鑑賞に堪える世界的名画に押し上げているからである。

怪獣映画というのは、基本的に幼稚なものである。なぜなら、科学的に有り得ないからである。

柳田理科雄さんの『空想科学読本』などを見てもらえば分かる通り、そもそも全長50メートルの生物が陸上で直立すると、自らの重さに耐えきれずに圧死してしまうはずなのである。もっとも、鯨やある種の恐竜は確かに大きい(大きかった)わけだが、彼らは水中で生活するか、あるいは四足や尾の構造を工夫することで、自重を大幅に軽減することが出来ている(出来ていた)からこそ、科学的に生物として問題なく生活できる(た)のだ。しかし、ゴジラみたいなのは無理なのである。

もっと突っ込んで言えば、「口から放射能火炎を吐く」のが物理的に無茶である。なんで、本人は火傷しないのだろうか? このように、怪獣映画はそもそも科学的に荒唐無稽なので、ある程度の常識を身につけた大人にとっては、失笑の対象にしかなり得ない。

ところが、怪獣映画の背景に置かれたストーリーが、人間社会における大きな問題提起を内包している場合、ここでの「怪獣」は、深刻な問題の寓意(メタファー)としての新たな価値と意味を持ち、独特の魅力を放つようになる。 アメリカ映画で言えば、『ソンビ』や『遊星からの物体X』がその例に当たる。これらの怪物は、増殖する人間のエゴないしウイルスのメタファーとして機能したからこそ、ゴジラ以上に荒唐無稽な存在にもかかわらず(笑)、大人の鑑賞に堪える独特の魅力を発揮するに到ったのである。

それでは、怪獣ゴジラは何のメタファーかと言えば、もちろん「核兵器とB29」である。

この映画の製作の契機となったのは、「第五福竜丸事件」であった。これは、ビキニ岩礁で操業中だった日本の漁船が、アメリカの水爆実験に巻き込まれて船員が被爆した事件である。つまり日本人は、この十年に満たない間に、ヒロシマ、ナガサキに続いて核爆弾の犠牲になったということだ。この恨みと悲しみこそが、『ゴジラ』で語られる本当のストーリーなのだ。

劇中のゴジラは、なぜか夜しか行動しない。こいつは、人間を捕食するわけでもないのに南の海から東京に上陸し、そして空襲警報のサイレンの中、都市を破壊し放射能を撒き散らす。この恐怖描写は非常に説得力があり、見ていて身体が震えるほどである。もちろん、「東京大空襲」などの経験者が、自らの恐怖体験をそのままリアルに映像にぶちまけたから、こうなったのだろう。

このゴジラを殺せる唯一の兵器は、科学者芹沢が独自開発した秘密兵器「オキシジェン・デストロイヤー」だ。しかし芹沢は、この超兵器の存在が世界平和の脅威になるのではないかと恐れ、その行使を躊躇する。この辺りの心理描写も、「戦争に懲り懲り」だった当時の日本人の価値観がストレートに反映されていて素直に共感できる。彼を巡る恋愛物語もよく出来ている。

このように、『ゴジラ』は、当時の日本人の戦争や放射能への恐怖がストレートに反映された作品となっており、だからこそ荒唐無稽なはずの怪獣ゴジラに強烈な説得力が付与されたのだ。

それが、続編が進むにつれて「金儲け主義」の幼稚な内容へと変貌していき、語るべきテーマさえ背景から抜け落ちていく過程は、惨めとしか言いようがない。ゴジラ映画の変遷とは、すなわち日本社会の堕落の寓話なのである。

今回の福島原発事故の始末などを見ていても、「これが、本当に『ゴジラ』を制作したのと同じ民族なのか?」と首をかしげたくなる。 日本人いや人間は、歯止めなく、どこまでもどこまでも堕落できる生物なのかもしれない。