歴史ぱびりよん

砂の器

制作;日本

制作年度;1974年

監督;野村芳太郎

 

(1)あらすじ

昭和46年の夏、蒲田操車場で、身元不明の初老男性の他殺死体が見つかった。

今西刑事(丹波哲郎)と吉村刑事(森田健作)は、被害者が事件直前にトリス・バーにて、重要容疑者との会話の中で洩らしたとされる、東北弁の「かめだ」という言葉一つを頼りに捜査を開始する。

やがて、捜査線上に浮かび上がったのは、新進気鋭の作曲家・和賀英良(加藤剛)の姿だった。彼の秘められた過去、そして殺害動機、被害者との関係は、刑事たちでさえ慟哭を禁じ得ないほど過酷で激烈なものだった。

 

(2)解説

今さら解説なんて、する必要あるのか?

言わずと知れた日本映画の最高傑作の一つであり、ミステリー映画の至宝である。未見の人は、今すぐにでもDVDレンタルの店に行った方がよい。

歴史をテーマに「していない」エンターテイメントとしては、文句のつけどころがない超絶的名作である。もはや、「神が宿っている」としか言いようがない。

っていうか、歴史と関係ない映画なのに、どうして『歴史ぱびりよん』で取り上げるのかって? それは、このミステリー映画が放つメッセージが、当時の時代性を大きく反映させており、まさにそれこそが、『砂の器』を日本史上に轟く永遠の名画に押し上げているからである。

・・・・え?4回連続でほとんど同じ文章を書いているって?いやあ、コピー&貼り付けは楽チンだなあ。てへぺろっ♪

さて、この映画の原作は、松本清張の同名の推理小説である。

映画に感動したので読んでみたところ、小説の方はあんまり面白くなかった。犯行動機や犯行手段の書き込みが弱かったり非合理的だったりして、ミステリーとしては三流だと思った。しかしながら映画版は、こうした原作の問題点を全て改変し、あるいは弱いところを強調することで、数段優れた作品へと進化させているのだ。脚本家の橋本忍の知性の高さには脱帽である。

また、この映画の重要な主題の一つに「音楽」がある。犯人役の設定が有名音楽家ということなので、芥川也寸志ら有名作曲家を大動員してオーケストラの名曲「宿命」を仕立て、その全曲をクライマックスに延々と流すと言う冒険的な作劇に果敢にチャレンジし、しかもその冒険に大成功しているのである。これをやるために、原作小説ではシンセサイザーを用いる前衛音楽家だった和賀英良を、映画版ではオーケストラの作曲家兼指揮者へと設定変更しているのだった。

私はこの映画を10回以上見ているのだが、見るたびに新たな発見と感動を得られて飽きるということがない。しかも、クライマックスではいつでも感涙を禁じ得ないのだ。すでに、すべてのシーンとセリフを暗記しているというのに。そして、俳優陣の豪華さも、それだけでため息が出るほどの素晴らしさだ。

これほど見事なミステリー映画は、古今東西を見回しても存在しないだろう。日本映画というよりは、もはや世界のミステリー映画の王者だと言いきってしまって良いだろう。

推理もの(ミステリー)というのは、要するに謎々遊びでありゲームである。だからこそ、犯人や謎の正体が分かってしまうと物語への興味が消滅するのが普通なので、「もう一回読みたい、見たい」と思わせる作品は極めて稀である。ところが、例外的に「何度も読みたい、見たい」と思わせる作品が存在する。それは、ストーリーのリズム、探偵役の魅力、犯人の人間像、背景に流れる詩情や時代性などが、全ての面で優れている作品である。映画版『砂の器』は、この条件を満たしているからこそ、10回以上見ても飽きが来ないのである。

また、この映画は「古き良き時代の日本人」の価値観をストレートに描いていて、その意味でも深い感銘を受ける。 主人公の刑事たちは、生粋のワークホリックで、休日を返上までして犯人探しに血眼になる。もともと、松本清張作品に出て来る刑事像は、「天才肌ではない朴訥な公務員が、持ち前の忍耐心でコツコツと足で証拠集めをしていく」リアルさに特徴がある。そして、『砂の器』の刑事たちには、こういった清張作品の刑事の価値観がストレートに反映されているのだった。そんな彼らの執念は、完全犯罪と思われた事件の真相に肉薄していく。

これに対する犯人は、煎じつめて考えれば「仕事を邪魔されたくないから」こそ、己の過去を知る恩人を殺害してしまった。

高度成長期の日本人は、「己の仕事」に深い誇りを抱き、それに邁進することこそ人生だと考えていた。『砂の器』の登場人物たちは、この価値観を何の疑問も抱かずに共有しているのだった。つまり、刑事たちと犯人の対決も、結局は異なるベクトルを向いた同じ価値観のぶつかり合いなのであって、だからこそ、そこに深いドラマ性が生まれるのだ。

日本経済の成功は、まさにそういった人たちによって支えられて来た。翻って、昨今の日本社会を俯瞰的に見回せば、深い絶望のため息を禁じ得ないのである。

なお、『砂の器』は、後に何度かドラマ化されているのだが、あまりの出来の酷さに、最初の数分で気分が悪くなってチャンネルを切り替えることの繰り返しである。

そういえば、なぜか最近、清張ブームが再燃して、いくつもの清張原作の映画やドラマが制作されたのだが、どれもこれも酷い出来で見るに堪えないものばかりだ。 そもそも、清張作品が訴える昭和時代の価値観は、平成日本のそれとは相容れない部分が多い。それを、何も考えずに平成のスタッフとキャストを使って映像化しようなんて、考えるだけムダで愚かな行為である。それでも、平成のスタッフとキャストの技量が上がっているのなら多少の救いはあるかもしれないが、実際には昭和に比べて激しく劣化しているのだから、まったくお話にならない。

日本映画(+ドラマ)は、そもそもの企画レベルの見識からして、どうしてこんなに経年劣化してしまったのか?

その秘密は、この稿を読んでいるうちに、おいおい明らかになることだろう。