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ドラキュラZERO  Dracula Untold

制作:アメリカ、イギリス、日本

制作年度:2013年

監督:ゲーリー・ショア

 

(あらすじ)

15世紀初頭、トランシルバニア(現ルーマニア)の君主ヴラド3世(ルーク・エヴァンス)は、宗主国オスマン帝国(現トルコ)からの人質供出要求に悩んでいた。人質に出された1000人の少年は、かつての自分のようにオスマン帝国の兵士へと調教され、残虐行為に従事させられることが明らかだったからだ。

人質筆頭である自分の幼い息子への愛に引かれたヴラドは、人質を受け取りに来た帝国の使節団を衝動的に皆殺しにしてしまう。しかし、報復にやって来るはずのトルコの大軍には、とても勝ち目が無いだろう。

窮した彼は、伝説の怪物の力を借りるべく魔の山に向かう。自らが魔物の力を手に入れて吸血鬼となり、オスマン帝国に挑むために。

 

(解説)

歴史上のドラキュラをテーマにした映画。これって、今まで有りそうで無かったんだね。

「吸血鬼ドラキュラ」は、アイルランドの作家ブラム・ストーカーの手による小説だ。ルーマニアの魔物ドラキュラ伯爵が、美女の生き血を求めてロンドンの夜を徘徊する。この架空の魔物にはモデルがあって、それは15世紀に実在したワラキア大公ヴラド3世だ。彼は絶頂期のオスマン帝国を打ち破るほどの活躍を見せたが、国の内外で串刺し刑を乱用する残虐性を発揮。その因果もあって、最期は非業の死を遂げた人物である。

ただし、「ドラキュラZERO」は、必ずしも史劇というわけじゃなくて、ヴラド3世が「本当に吸血鬼になってしまう」物語なのだ。

こういう物語は、非常にリスキーである。なぜなら、しっかり演出しないと、ホラーなのか史劇なのか中途半端になって、ストーリーが崩壊してしまうからだ。案の定、この映画はそうなっていた(泣)。

本来、「巨悪を倒すために悪の力を借りる」ストーリーは、ドラマ要素に満ちていて魅力的である。主人公が自覚的に悪に成るのは、それ自体が深い心理的葛藤を伴うドラマだからである。

我が国の過去の作品では、永井豪の「デビルマン(漫画版)」が、まさにそんな物語である。人類を滅ぼそうとする圧倒的に強力なデーモン族の存在を知った少年・不動明は、人間の心とデーモン族の肉体を併せ持つデビルマンに成ることで、人類の平和を守ろうとする。つまり、「自らがデーモンに成ることでデーモンの侵略に対抗する」という究極の選択をしたのである。不動明のこの行為は、「デーモン族がとてつもない巨悪であり」、「強大過ぎるため他に対抗手段が存在しない」ことから正当化される。すなわち、「巨悪に対抗するために悪の力を借りる」という行為に十分な説得力が出る。

しかし、「ドラキュラZERO」は、この部分の作り込み方が極めて弱い。なぜなら、劇中で描かれるオスマン帝国は、理性的で上品な国家なのである。彼らが、劇中でトランシルバニアになした悪事(とされる行為)は、「人質の供出要求」。しかし、この時代、宗主国が従属国に人質を要求するのは当然のことである。また、オスマン皇帝メフメト2世と人質時代のヴラドが「兄弟同然の仲だった」というエピソードが加わったため、「オスマン帝国における人質は、非常に優遇される」ことが明らかになってしまった。つまり、この映画の世界において、オスマン帝国は「巨悪ではない」のである。常識的な付き合い方が出来る、話せば分かる人たちなのである。

それなのに、一時的な息子への愛に目がくらんで帝国の使者を皆殺しにしたヴラドは、「アホウ」としか思えない。だから、彼の妻子や国民が蒙る受難は、自業自得にしか思えない。デーモン族の脅威を前にした不動明とは、まったく状況が違うのである。

こうして、魔物の力を借りて吸血鬼になるヴラドの行為には、まったく説得力が出ないし、共感も出来ない。主人公の一連の行動が、アホウが愚行の上乗せを続けているようにしか見えないのだ。

どうせなら史実を無視して、オスマン帝国とメフメト2世を、「流血殺戮大好きの悪魔集団」みたいに描写すれば良かったのに。そうしなかった理由は、もしかすると制作サイドに、「重要な映画配給先であるトルコ共和国を怒らせたくない」という大人の事情が働いたのだろうか?

いずれにせよ、ホラーなのか史劇なのか曖昧で中途半端にしたところから、物語の破たんが起こったのだ。中途半端が一番よくない。

映画に限らず物語は、「作り始める前に、しっかりとブレインストーミングをしておきなさい」という教訓であろうか。

それでも、私は「吸血鬼」と「オスマン帝国」がどちらも大好きなので、一本の映画の中で両方見られたのは、なかなか嬉しかったりする(笑)。