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チェルノブイリ  CHERNOBYL

制作:アメリカ、イギリス

制作年度:2019年

監督:ヨハン・レンク

 

(あらすじ)

1986年4月26日未明。ソビエト連邦のウクライナ共和国で、チェルノブイリ原発4号炉が事故を起こした。炉心爆発という前代未聞の大惨事(レベル7)によって、致死性の放射能が周辺地域に大量に溢れ出す。

しかし、対外的メンツや官僚的責任逃れのために、事故そのものを矮小化しようとするソ連の党幹部や官僚たちのせいで、事態は急速に悪化する。このままでは、ロシアのみならずヨーロッパ全土が人間の住めない土地になるだろう。

いち早く事態の深刻さに気付いたレザノフ博士(ジャレッド・ハリス)とシチェルビナ連邦副議長(ステラン・スカルスガルド)は、力を合わせて打開策を練る。

その過程で明らかになった事故の原因とソ連の腐りきった体質は、彼らを絶望させるのだった。

 

(解説)

アメリカのHBOとイギリスのSky-UKが共同制作したミニドラマ。言うまでもなく、旧ソ連で実際に起きた事件の映像化である。

インターネットでのユーザー評価が異常に高いので、AmazonでBlu-rayを購入したのだが、あまりの面白さに全5話を徹夜で一気に観てしまった。人生の中で、ここまで高品質のドラマを観たのは生まれて初めてだ。ありとあらゆる面で、100点満点の出来だった。

撮影現場は、主にリトアニアの廃炉だったそうだが、徹底的に細部に拘り抜いたリアリズムと、完全にロシア人に成り切った欧米俳優たちの重厚な演技に魅了された。俳優たちは、びっくりするほど笑わないし泣かない。喜怒哀楽の感情を極端に抑えている理由は、ロシア人の民族性を再現しようとしているのだ。そのため、物語は全体的に地味で淡々としているのだが、それがまたリアルで良い。

ほとんどの事故や災害は、まったく予期せぬ形で訪れる。そして人間は、人生経験豊富で社会的地位が高い者ほど、自分の知見を過大評価し、現実に起きた異常事態を受け入れようとしない。チェルノブイリ原発所長ディアドロフは、炉心が完全に爆発して跡形も無くなったというのに、屋上に飛び散った炉心内の亜鉛をその目で見たというのに、その現実を否定する。そして、部下たちに無意味な注水作業を強要して人的被害を拡大させる。そして、上層部に対して、事故が収束しつつあると虚偽の報告をする。ソ連上層部も、不都合な真実を受け入れたくないから、若干の疑問を抱きつつもそれを承認しようとする。

事故現場の写真分析をすることで、最初に事態に気づいた原子力物理学者のレガソフ博士は、決死の提言をゴルバチョフ書記長に敢行。その場に同席していたシチェルビナ連邦議会副議長は、レガソフの見解の裏取りをするために、不本意ながら博士とともに現場に向かう。そして、彼自身も事態の本質に気づくのだった。

このドラマは、地味ながら、非常にオーソドックスなバディムービーの構造になっている。最初は反発し合っていたレガソフとシチェルビナが、互いの長所と短所を認め合うことで、一緒に仕事を進めて行くうちに友情に結ばれる展開が熱い。その友情が最高潮に達した瞬間に永遠の別れが来るという筋立ても、使い古された極めてオーソドックスな演出技法ではあるが、オーソドックスだからこそ素直に泣けるのだ。

その他の登場人物の中では、ホミュック博士(エミリー・ブラント)が良い味を出している。この人は、実際にこの事故の終息に向けて活躍した大勢のソ連の科学者を一つに纏めて創造されたペルソナらしい。そんな彼女は、その特徴を生かして、神のような立ち位置からレガソフたちに助言を与える。この態度こそが、複雑に迷走する物語全体の羅針盤となり、光明となっているのだ。

そして、無数の炭鉱夫や兵士たちやボランティア。事故終息のために、文字通りに命を捨てて働く人々の姿は、本当に尊い。

やがて明らかになる事故の本当の原因。ディアドロフ所長の出世欲とメンツによる無茶苦茶な原発運用も酷いのだが、原発そのものの技術的欠陥を隠蔽し、事故後もなおも隠蔽しようとし続けるソビエト政府は、さらに輪をかけて醜い。

レガソフとシチェルビナは、「この腐った国の官僚たちを糾弾したところで、どうせ何も変わらないし、自分たちがKGBによって処罰されるだけだ」と諦めモード。そこをホミュックが、「ソ連がどうかではなく、全人類の未来のために、今ここで自分たちが犠牲になって後世に教訓を伝えるべきだ。二度と、原発事故のような悲劇を起こしてはならないから」と、心を込めて諭す。

そんな彼らの命がけの告発にもかかわらず、ソビエト連邦は短日で崩壊。そして、原発は未だに無くならないし、福島でも原発事故が起きてしまった。

とはいえ、ドラマの主張と矛盾するようだが、チェルノブイリ事故があの時のソ連で起きたのは、むしろ人類の幸運だったと思うぞ。レガソフ博士やシチェルビナ副議長が優秀だったこともそうだが、その前提として、ゴルバチョフ書記長は素早く正しい決断が出来るリーダーだったし、ソビエト連邦は、独裁統治下の人民を強権的に動かすことが出来る国だった。だからこそ主人公たちは、迅速に無茶苦茶な人海戦術を用いて、被害を抑え込むことが出来たのである。

仮に、今の日本であのレベルの事故が起きたらどうなるだろう(福島原発事故は、チェルノブイリに比べると、幸運にも軽微だった)。無責任な縦割り行政のこの国では、コロナ対策を見れば分かる通り、リーダーたちが責任を押し付け合って実効性あるプランを一つも出せないはずだから、アジア全域がなし崩し的に人間の住めない汚染地域になるだろう。そして、生き残った日本人は、事故の原因を曖昧にして、結局誰も責任を取らないことだろう。

そう考えると、別の意味で恐怖に襲われるドラマなのであった。