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長編歴史小説

黄花太平記 第二部

7.中先代の乱

 月日は流れ、建武二年(1335)六月。都では、恐るべき陰謀が巡らされていた。

  後醍醐天皇暗殺計画である。

  その首謀者は西園寺さいおんじ 公宗きんむね 卿。彼は公家でありながら、かつては北条幕府の要人と非常に親しくしており、そのためか、建武政権においては不遇な立場にあった。しかし、彼の目から見ると、後醍醐帝の政策は突飛すぎて非現実的であった。人々の現実的な要求を満たし、しかも、自分も往時のように栄達するためには、北条幕府を再興させるしか無い。

 そう思い定めた公宗の計画は、非常に大掛かりなものであった。 まず、自分が帝を暗殺し、それによる混乱を利用して、北陸で名越時兼、都で北条泰家(北条高時の弟)、信濃で北条時行(北条高時の次男)が蜂起し、一気に後醍醐帝方の残党を討滅する。公宗は、そのための準備として、既に都の自分の邸宅に北条泰家を匿っているのだった。

  彼の暗殺計画は、単純明快。歌会にかこつけて、帝を自分の屋敷におびき出す。そして帝に風呂を勧めるが、その脱衣所に落とし穴が仕掛けてあり、その底には剣が逆さに何本も植え付けられてあるので、落ちたものは確実に死ぬ。

  しかし、この公宗の仕掛けが役立つ機会は永久に来なかった。密告者が出たのである。

  密告者は、公宗の弟・公重きんしげ であった。欲に目のくらんだ弟は、武者所に駆け込むと、兄の陰謀を全て暴露し、密告の謝礼として兄の領地と地位を全て自分に継承させることを要求したのだ。この時代、弟にさえ油断も隙もあったものではない。

  ただちに、武者所の兵が西園寺邸に急行し、公宗とその一族は逮捕された。北条泰家は姿をくらました。公宗はやがて処刑され、謀反事件は一件落着と思われた。しかし・・・。

 計画暴露を知った名越時兼と北条時行が、それぞれ北陸と信濃で蜂起したのである。

 名越勢は、加賀から越前を抜けて京を狙い、時行は三国峠を越えて鎌倉目がけて南下した。 特に、諏訪一族の支援を得た時行軍の勢いはものすごく、建武政権の不満分子を加えて行き、その数は二万に達した。 その行程は、新田一族の上野こうずけ の領地を縦断する形となったが、あの勇猛な新田勢の抵抗は全く見られなかった。 新田は、見て見ぬ振りをしたのだ。時行の進路は鎌倉。鎌倉を守るのは足利直義。足利が苦しむのは望むところというわけだ。つまり、足利と新田の対立が、北条軍をここまで強くしてしまったことになる・・・・。

 この情勢を見た鎌倉の直義は、堂々と出陣し、時行の大軍を迎え撃った。しかし官軍は各地で連戦連敗を重ね、岩松経家いわまつつねいえ と渋川義しぶかわよしすえ が入間で戦死、小山こやま 秀朝ひでとも も府中で戦死、という惨憺たる大敗北となったのだ。

 先頃元服を済ませたばかりの北条時行の若い脳裏には、亡き父高時(幕府の最高実力者)の最後の言葉が反響していた。あれは、新田の総攻撃で炎上する鎌倉での、最後の言葉だった・・・・。

 『亀寿(時行の幼名)よ、父は闘犬と田楽に明け暮れ、政務を怠ったばかりにこのような憂き目にあった。全て父の不徳のせいじゃ。しかしの、わしは足利の寝返りだけは許すことが出来ぬ。新田は仕方ない。先祖の代から辛く当たって来たから、恨まれても仕方ない。甘んじて受け入れよう。だが、足利はどうじゃ。奴らがあれほどの勢力になれたのは、全て我が北条家のお陰ではないか。守時の妹も嫁に呉れてやったではないか。なのに敵に寝返るとは、なんという恩知らずっ。 亀寿、由比浜に小船が隠してある。それに乗って早く逃げよ。そして父の分も長生きして、必ず足利めに恨みを晴らしてくれ、頼んだぞ・・・・・』

 この父の言葉を思い起こす度に、時行の心は鬼になるのだ。時行の気迫は全軍に伝わった。足利との戦いにおいて全軍が鬼になった。

 足利直義は、鎌倉放棄の決意を固めた。帝の分身として鎌倉に派遣されていた成良なりよし 親王と、兄・尊氏の妻と嫡子(千寿王)を守りながらの、都までの辛い逃避行の始まりである。

 鎌倉を落ちる直前、直義は重大なことを思い出した。

  「ああ、いかん。俺としたことが、忘れるところであったわ。渕辺はあるか」

  「はっ、渕辺源五ここにあり」

 「お前を見込んで、重要なことを命ずる」

  「はっ、なんなりと」

  「東光寺に行き、幽閉中の大塔宮のお命を縮めてまいれ」

  「な、なんですって、み、宮を・・・・」

  「聞こえたであろう、二度と言わせるな。宮が北条の手に渡り、人質にされたらなんとする。かと言って今更逃がすには遅すぎるわい。殺め奉るより外にないっ。行けっ、渕辺」

  吹きすさぶ嵐の中、刺客は放たれた。

 大塔宮護良親王は、鎌倉で囚われの身になって以来、写経に明け暮れていた。その日も東光寺の牢内で、蝋燭の光を頼りに日課を続けているのであった。しかし、宮の戦陣で鍛えた直感は少しも衰えていなかった。寺の入り口が開く微かな音を聞き付けて、静かに来客を待ち構えた。そのため、震えながら牢に入って来た渕辺は、宮の恐るべき眼光に真っ向から睨みつけられる形となってしまった。

 「余を殺めに参ったのであろう。いつか来るとは思っていた。足利は、無抵抗の者を平気で討つ卑怯な東夷あずまえびす だと思っていたぞよ」宮は平然と言い放った。「しかしな、余は貴様のような下郎に素直に討たれてやる訳にはいかんのだっ」

 言い終わるや否や、宮は素手で渕辺に飛び掛かった。

 雷鳴すさぶ中、凄絶な取っ組み合いが演じられる。

 しかし、最後に立ち上がったのは渕辺であった。さしもの大塔宮も、長い間の牢獄生活で体が鈍っていたのであろうか。

 「お、お許しくださいっ」

 渕辺は、血まみれの宮の死体に両手を合わせ、しばらく動くことができなかった。彼は死に場所を求めた。数日後、彼は北条軍の中に単身突撃し、そこに死の安息を見つけることができたのだった。

 七月二十五日、鎌倉は二年振りに北条一族の手に奪回された。 このまま鎌倉に留まるべきか、それとも直義を追って都まで攻めのぼるべきか討議され、激論の末後者に決まった。今や北条の大軍は、箱根を越えて東海道を西へ西へと押し出した。

 打倒足利を合言葉にして。

※                 ※

 そのころ、都では対策に手間取っていた。

 今度の北条時行の反乱は、新政始まって以来の危機である。だが、公家たちは口先ばかりで何もしようとしなかった。

  「私めを、征夷大将軍にお任じください」

 足利尊氏は、参内して帝に訴えた。弟は北条軍の猛追撃にあい、苦戦中という。弟思いの尊氏としては、すぐにも救援に行きたかった。しかし、敵の大軍と互角以上に戦うためには、味方を募るための大きな肩書が必要である。尊氏は、それを要求したのだ。

  「ならぬ」 帝は、一言のもとに却下した。

 征夷大将軍は、幕府の長の肩書として一般に認知されている。そんなものを与えて、尊氏を都の外に出す訳には行かない。いや、尊氏が出陣することすら許す訳には行かない。帝は、尊氏の実力と人気を恐れていたのだ。

  「弟を見殺しにはできない。許しが無くとも俺は行くぞ」

  尊氏は、直義を救うために、煩悶の末、帝に背いても出陣する決意を固めた。また、彼の奥底には天下への野心もあった。源頼朝のように、源氏の旗を掲げて武士の利益を守るための幕府を興したかったのだ。彼が新政で窓際族で甘んじたのは、もしかすると計算づくだったかもしれない。新田義貞のように貴族化するよりは、一歩離れた立場で、新政に不満を持つ武士の心を掴むべきと考えたのかもしれない。

  いずれにしろ、足利尊氏はついに起った。一族全部を連れて離京した彼の前に、彼を慕う各地の豪族たちが次々に馳せ参じた。そのため、彼の軍は東海道を東下するにしたがってその数を増して行き、三河で直義の敗残兵を収容したときには、優に四万を越えていた。

  そのため都は、すっかり殺風景になった。多くの武士が、尊氏を追って出て行ってしまったからである。残っているのは、三木一草を初めとする武者所の諸将のみという有様だった。

  「ちぇ、帝の許しさえあれば、おいも北条討伐に行ってもよかったのだが」

 残留組の菊池武重は、単純に悔しがっていた。帝の直属である武者所の要人でさえなければ、尊氏について行って反乱軍と戦うところであった。彼はまだ、尊氏のこの離京がもたらす影響の大きさに気づいていなかったのだ。そして、実にこの時が、菊池一族の運命の分かれ目だったのである。

  勇躍して西上してきた北条軍二万は、三河で待ち受ける足利軍のあまりの数に仰天した。長旅の疲労もあってか緒戦に敗れ、この結果、戦の主導権を足利軍に渡してしまったのだ。

  「やはり、これからは足利の時代だろう」

  「平家の北条は、もう時代遅れか」

  「まだ子供の時行どのより、足利どのの方が頼れるしな」

 多くの豪族にとって、北条氏は既に過去の人である。主将の器量を比較しても、元服したばかりの時行と尊氏では、貫録が全然違う。いったん北条に味方した豪族も、次々に寝返って尊氏についた。そのため北条軍は連戦連敗。足利軍は連戦連勝。

 驚いた朝廷は、尊氏に征東将軍という官位を新設して与え、ついで関東八ヶ国の管領に任じて無断出陣を追認し、彼をなだめようとした。

 「直義、征東将軍は、征夷大将軍とはどう違うのかのう」

 「さあ、同じと考えてよろしいのじゃありませんか、兄上、いや将軍」

 兄弟は、両手を打って笑った。朝廷は我らを恐れている。こんなに愉快なことは無い。

 勢いづく足利軍の前に、戦場は次第に東海道を東へと移動していった。

※                 ※

 尊氏が出陣してから、都はとたんに静かになった。武士の数が激減したからである。

  しかし、武者所の空気は張り詰めていた。万が一、足利軍が敗れたら、次は武者所が北条時行を迎え撃たねばならないからだ。だが、足利軍が箱根の防衛線を突破し、鎌倉を射程距離に収めたとの知らせが入ると、武者所の面々も愁眉を開くようになって行った。官軍の勝利は、もはや間違いない。

 そんなある日、いつものように出勤した菊池武重は、新田義貞から奇妙な噂を聞かされた。大塔宮が殺されたというのだ。しかも、下手人は北条時行では無いという。

 「北条でないとすると・・一体誰が・・」武重は首をかしげた。

  「足利直義、と言う噂じゃ」唸るような声で、義貞は答えた。

  「そんな阿呆な。どうして左馬頭さまのかみ (直義の官名)どのが宮を」

 「俺にも分からん。分からんが、その噂が真実なら、直義は謀反人と言うことになる。肥後どの、やはり我らは出陣する事になるやも知れんぞ」義貞は唇を噛んだ。「一度参内して、噂の真偽を調べてもらう方が良いかもしれないな」

  武重は、さりげなく上目使いに義貞の顔を見た。案の定、真っ赤になっている。 義貞は、恋をしているのだ。その相手は、帝の近くに仕える高級女官のこう 当内侍とうのないじ である。

 ただし、これは義貞の片思いであった。義貞自身、自分の気持ちを誰にも伝えていない。高嶺の花と思って、自分の心の中にしまい込むつもりだったようだ。でも、彼の恋心を知らぬ者は宮中にいなかった。律義で純情な義貞は、想い人の前に来るとたちまち真っ赤になって、額から汗をポタポタ垂らすのである。よほど勘が鈍い人でないかぎり、彼の気持ちは一目瞭然である。近頃は、内侍を連想させる「宮中」とか「参内」という言葉にも敏感に反応し、顔を赤らめるほどになっていて、今も、自分の発した「参内」という言葉に赤面したわけなのだ。

 「なんだか可愛い大将だなあ」

 彼よりも十歳近く年下の武重は、内心でそう思いながら、うわべは厳粛な顔で義貞の話に聞き入るのであった。そんな心のゆとりが有るのも、まだ尊氏離京の影響をそれほど重視していないからであった。

※                 ※

 八月十九日、足利軍はついに鎌倉に突入した。

 北条軍は大敗し、名将、諏訪すわ 頼重よりしげ は北条時行の身代わりとなって戦死した。

 「おのれ、足利尊氏っ。今に見ておれっ」 時行は涙を呑んで、わずかな郎党とともにどこかへ落ちのびて行った。

 同じころ、名越時兼も官軍に包囲され、加賀で討ち死にしてしまった。北条党の反乱は、こうして完全に平定されたのである。

  世間の人々は、鎌倉時代の北条一族を先代と呼び、時行を「中先代」と呼んだ。そのため、時行のわずか二十日の鎌倉占領は、中先代の乱、または二十日先代の乱と呼ばれた。そして多くの人々は、これで平家の世は終わり、源氏の世が来ると予感した。ここでの源氏が、足利氏を指していることは言うまでもないことである。

 足利尊氏は、治安維持を名目に、占領した鎌倉に居座り続けた。京に凱旋するつもりは毛頭無かった。朝廷の邪魔が入らない今こそ、かねての野望を実現させる千載一遇の機会であるからだ。その野望とは、足利幕府の建設に外ならない。尊氏は、いつまでも公家の下にひれ伏している男では無かったのだ。

  関東に有る朝廷の領地や新田氏の領地は、尊氏に従って来た豪族たちに、帝の許しも無いのに恩賞として分配された。それだけではない。尊氏は若宮大路に新邸を建設し、これを「将軍御所」と呼ばせ、自ら征夷大将軍を名乗ったのである。さらに、一族の斯波家長いえなが を奥州管領として陸奥に派遣し、陸奥国司・北畠顕家の事業を妨害させたのであった。

  鎌倉に、幕府が再び出現した。 足利尊氏の謀反は、もはや歴然である。関東の領土を奪われた新田義貞は激怒し、畿内の足利領を次々に没収した。

 しかし朝廷は、まだ尊氏を懐柔しようと手を尽くしていたのだった。

  「兄上、これでは菊池には帰れんですな」八郎武豊が嘆息した。

 「うむ、残念だが、帰国が遅れることを国元に知らせよう」思案顔の武重。

 建武二年八月いっぱいで、菊池一族の任期は終わり、故郷に帰れるはずであった。しかし今は国家の非常時である。懐かしい家族の顔は、しばらくお預けするしかなかった。

  十月初旬、朝廷は、中院具光なかのいんともみつ 卿を鎌倉に派遣した。尊氏を都に呼び戻すための勅使である。尊氏の態度いかんで運命は決まる。

 しかし、具光は敢えなく追い返されて来た。尊氏は、都に帰るつもりはないという。

 東西の緊張は高まり、人々は戦の影におびえる毎日であった。

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