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長編歴史小説

黄花太平記 第三部

11.征西将軍宮・懐良(かねよし)

 堺の梅富屋庄吾郎は、商用の合間を縫ってしきりに安徳寺を訪れた。ここには、尼となった一人娘の妙子がいたからである。

 かつては菊池頼隆の妻であった妙子は、記憶の一部を無くしたままであったけれど、笑顔を絶やさない清楚な尼御前として評判であった。

 庄吾郎と妙子は、寺の境内や市中を歩きながら歓談した。真夏の陽光のまぶしい中、二人は久々の安らぎを満喫した。

 笑顔を浮かべて梅富屋の堺屋敷に戻った庄吾郎は、出迎えた弥次六の告げた、博多からの最新情報に驚いた。

 「なんと、あの懐良の宮が、ついに筑紫に入ったというのか」

 「はい。忽那や村上といった瀬戸内の水軍に守られて、五月某日、薩摩の山川港に上陸なされたとのことです。また一騒動になりますなあ」

 「ううむ、菊池様を初めとする筑紫の宮方が活気づくからなあ」

 娘の嫁ぎ先であった菊池氏への好意と、平和への渇望の二つの感情に挟まれて、庄吾郎は複雑な表情を浮かべた。

         ※                  ※

 阿蘇宮 ( あそのみや ) 懐良 ( かねよし ) 親王 ( しんのう ) は、後醍醐天皇の十六番目の皇子とされている。母親は左中将藤原為道の娘といわれるが、確かには分からない。兄弟があまりにも多い懐良の出生が曖昧なのは、ある程度仕方がないことである。

 だが、ここで最も重要な事は、懐良が南朝の征西将軍であり、西国の政治、軍事の全てを吉野朝廷に委任されている事実である。それゆえ、懐良の動向は西国の豪族たちの注目の的であった。彼が根拠地を西へ西へと動かすたびに、現地の豪族たちはもとより、室町幕府も神経をとがらせたものである。

 懐良親王の苦難の旅は、延元元年(1336)に始まった。 五条 ( ごじょう ) 頼元 ( よりもと ) らわずかの側近とともに瀬戸内海に船出した八歳の少年は、翌年には 忽那 ( くつな ) 義範 ( よしのり ) の根拠地、忽那島に入り、九州上陸の機会を窺っていた。だが、その雌伏の日々は、幕府方の妨害もあって、五年間続いた。そのうちに、頼りにしていた阿蘇惟時は中立化し、菊池武重は病死してしまった。

 「これ以上は待てない。これ以上我慢しても、状況は悪くなるだけだ。危険は承知のうえで筑紫に入ろう」

 十四歳の日焼けした少年に成長した親王の言葉に、側近たちも頷かざるを得なかった。

 瀬戸内海の海賊たちの支援を受けた親王の一行は、豊後、次いで日向に足場を造ろうと試みたが、北朝勢力のあまりの強さに果たせず、針路を南に向けて薩摩に入ることにした。

  薩摩には、守護である島津氏の専横に密かに憤りを感じている豪族が多かった。それに加えて、先遣隊として薩摩入りしていた 三条 ( さんじょう ) 泰 ( やす ) 季 ( すえ ) の工作の成果もあって、伊集院、谷山を初め、矢上、鮫島といった土豪が、親王の元に次々に馳せ参じたのである。

  谷山 ( たにやま ) 隆信 ( たかのぶ ) の居城に入った懐良は、谷山城に 征西府 ( せいせいふ ) が誕生したことを喧伝した。

 征西府。西国を平定し、京都を敵から奪い返すことを目的とする地方政権である。ここに、九州の南北朝史に新局面が到来したのである。

 あわてて攻め寄せる島津貞久の大軍と抗戦する合間にも、懐良親王の視線は常に北に向けられた。

 「いつまでも、薩摩の田舎に燻っているわけにはいかない。筑紫を平定するためには、大宰府と博多の制圧が不可欠なのに・・・」鎧にもすっかり慣れた親王が言うと、

 「御意、しかし、我らが頼みとする阿蘇大宮司(惟時)の態度は不明瞭でおじゃる。菊池一族の力も、武重どのが死んでからは、往年ほどではありませぬ。なんとか彼らの奮起を期待したいところですが」と、五条頼元が答える。

           ※                 ※

 親王主従の苦心を知ってか知らぬか、征西府の薩摩入りは、博多の一色範氏を動揺させた。

 「征西将軍宮を、肥後に入れてはならぬ。薩摩で片付けるように島津入道に伝えよ。・・・・・このままでは、菊池一族が息を吹き返すやも知れぬ。直ちに肥後に進攻し、菊池の息の根を止めよと、大友氏泰に伝えよ」

 かくして、大友氏泰の率いる大軍は九州山脈を西に向かった。時に、興国四年(1343)の四月である。だが、寄合衆を中心に結束を固める菊池氏は強かった。菊池武敏や武豊の活躍は未だに目覚ましく、菊池一郡をめぐる一カ月の攻防戦の結果、敗れて撤収する大友軍の姿があった。

 「不甲斐ない大友めっ」

 怒りに顔を歪める範氏。しかし、その顔が喜色に埋め尽くされる日がやって来た。

 征西府の薩摩入りを知り、足利尊氏はついに決断を下したのだ。一色範氏に恩賞決定権、裁判権を正式に付与したのである。従来、範氏には九州の御家人に対する軍事命令権しか与えられていなかった。そのため範氏の地位は、鎮西大将軍という厳しい肩書にも拘わらず、決して高いものではなかった。御三家と呼ばれる在地豪族たちの冷ややかな視線に悩まされることも多かった。愚痴を連ねた手紙を、何通尊氏の元に届けたことか。だが、今や一色範氏の地位は、全九州の長官としてふさわしいものとなったのだ。

 「やっとこれで、少弐頼尚に嘗められずに済むぞっ。田舎大名どもめ、俺の前に跪くがよいっ」

 この時以降、一色範氏は 鎮西管領 ( ちんぜいかんれい ) 、あるいは 鎮西探題 ( ちんぜいたんだい ) と呼ばれることになる。

             ※                 ※

 「将軍は、俺を裏切った・・・・」

 博多の空が一色一族の喜びに包まれているころ、大宰府の空気は重かった。少弐頼尚は、京都の空を恨めしげに見つめ、唇を噛んだ。

 少弐氏の目標は、幕府の筆頭御家人として全九州に君臨することにあった。そのため頼尚は、足利一族というだけの理由で自分の上に立つ一色範氏が憎くてならなかったのだ。それでも頼尚は、範氏の存在が宮方討伐のための経過措置だと信じたればこそ、今日まで耐えてこられたのである。しかし尊氏は、そんな頼尚の気持ちを知りながら、一色範氏に絶大な権限を与え、鎮西探題を復活させた。頼尚の期待を裏切った。

 「父や弟たちを犠牲にしてまで、将軍に尽くしたというのに。あれは全て無駄だったのか・・・」

頼尚の心を埋め尽くす暗い怒りは、やがて九州の未来に重要な結果をもたらすことになる。

             ※                  ※

 だが、北朝方に鎮西探題が誕生した興国四年は、南朝方にとって不幸が続く年であった。

 まず五月十二日、あの脇屋義助が四国で病死した・・・。

 義助は、北陸から吉野に戻った後、四国の南朝を立て直すために新田一族を引き連れて鳴門の海を渡った。百戦錬磨の義助は、土居、得能氏の残党と力を合わせ、一時は四国の南軍を大いに盛り立てたのだが、その矢先に流行の病に罹り、呆気なくその人生を終えたのであった。

 不運は、これに止まらなかった。ほとんど時を同じくして、我らが菊池一族にも大きな不幸が訪れようとしていた。

 四月の大友軍との激戦で受けた矢傷が悪化し、菊池九郎武敏が倒れたのである。

 どうやら、今で言う破傷風に罹ったのであろう。

 「畜生、まだ死ぬ訳には行かぬ。・・・おいが死んだら、一族はどうなる」

 最初は涙を流しながら歯軋りをしていた九郎は、しかし、訪ねて来た大智禅師の教えを聞いて、いつしか諦観の境地に近づいていた。

 「おいは昔、天下の晴れ舞台で足利尊氏を相手に伸るか反るかの一戦を戦った。敗れはしたが、その思い出だけでも、冥府のよい語り草となろうよ。悔いはない」

 妻や幼い嫡男(後の 武世 ( たけよ ) )の沈痛な眼差しに笑顔を向ける、まだ二十五歳の猛将は、痛む体を堪えつつ、静かに嘯いた。

  寄合衆の面々や阿蘇惟澄が見舞いに訪れる中、武敏はその中に一つの顔を捜し求めた。だが、その顔はなかなか姿を見せなかった。

 「十郎(武光)の奴、また今日も訓練か・・・。あいつも熱心だな。近ごろは忙しくて寄合衆の会議にも顔を出さないそうな。豊田荘の郎党たちは、あまりの激しい特訓に生傷が絶えないらしいが・・・。たまには、顔を見せに来て欲しいのに」

 幼いころ、武芸の上達を目指して競い合った弟のことを思うと、武敏の胸は熱くなった。

 自らも生傷だらけになった十郎武光が、ようやく兄のもとを訪れたとき、既に菊池武敏は危篤状態であった。その傍らでは、大智禅師が静かに念仏を唱えていた。

 「九郎兄上、こんなに悪くなっていたなんて」

 涙を浮かべ、腫れ上がった兄の手を握り締めた十郎には、兄の目が一瞬自分を見て微笑んだかに思えた。だが、それが菊池武敏の最期であった。

 周囲を圧する号泣の中で、武光は誓った。兄の遺志は、必ずこの武光が果たして見せると・・・・・。

            ※                  ※

 軍事の柱石を失った菊池氏は、しかしいつまでも悲しい気分に浸っていられなかった。谷山の懐良親王の元から派遣された公家の 中院 ( なかのいん ) 義定 ( よしさだ ) が、筑後への進出を寄合衆に要請したからである。

 「将軍宮(懐良)は、菊池氏の戦果を、首を長くして待っておられるぞ。早急に肥後周辺を安定させて、征西府を迎え入れるのじゃ」

 義定卿の言葉に、寄合衆は評定を行った。

 「おいは、出兵には反対です。九郎兄上を失ったばかりの我が軍は、力不足ですぞ。とても探題には対抗できますまい」惣領の 武士 ( たけひと ) は、冷静に判断して反対意見を述べた。だが、管領の木野武茂は彼を窘めた。

 「又二郎よ、九郎の死によって菊池の家が弱まったと、敵に思わせてはならぬ。我らの武力が未だに健在であることを、武家方に示さねばならぬのだ。・・・よろしい、今回はおいが自ら出陣するっ」

 武茂の発言力はやはり大きく、寄合衆の方針は積極策に決定された。

 おいは、飾り物に過ぎないのだ・・・自分の無力さを、またもや思い知らされた又二郎であった。

 五月下旬、木野武茂、大城藤次、中院義定に率いられた菊池勢主力は、筑後に進出し、同志である草野一族の拠点、竹井城に入った。

 この知らせを受けた博多の一色範氏は、ただちに龍造寺、深堀といった肥前勢を招集し、大友軍と力を合わせて竹井城に攻め寄せた。五月から七月までの激しい攻防戦の後、ついに菊池勢は敗れ、肥後へと撤退した。

 「よしっ、今度こそ菊池の息の根を止めるぞ」

 調子に乗った一色軍は、そのまま肥後へ突入しようとしたのだが、思わぬ妨害が入った。

 大友 貞順 ( さだより ) が筑後の 生葉 ( いくは ) で遊撃戦を仕掛けて菊池勢の撤退を援護したため、範氏は菊池攻めを中断せざるを得なかったのである。

 「命令を聞かぬ少弐といい、一族に反乱分子を抱える大友といい、懐良の宮に苦戦する島津といい、筑紫の武家は世話の焼ける奴らばかりだわい」

 そこには、長蛇を逸して肩をすくめる鎮西探題・一色範氏の姿があった。

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