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長編歴史小説

黄花太平記 第三部

12.早苗と翠(みどり)

 だが、菊池氏の危機は、さらに続いた。

 興国四年(1343)の五月、菊池勢の竹井城進出を見た少弐頼尚は、その隙に再び阿蘇惟時に働きかけた。躊躇していた惟時は、しかし、竹井城における木野武茂の敗退を知って心を決めた。今までの中立策を捨て、足利の名の下に兵を集め、矢部城(上益城郡)に蜂起したのである。

 この情勢に、敗残の菊池方は、なす術を知らなかった。

 「そうじゃ」少弐頼尚は、ふと思い立った。「阿蘇周辺の治安が安定している今のうちに、娘の 翠 ( みどり ) に阿蘇大社の参拝をさせよう。かわいい子には旅をさせろだ」

 頼尚の一人娘の翠は、十三歳になったばかり。かわいらしさの中に、ほのかな色香が感じられ、将来が楽しみな姫だと家中で評判だった。

 「お父様、嬉しい。翠は一度、筑紫一の阿蘇三社に詣でて見たかったの」

 「そうか、よしよし。じゃが、爺やの言うことを良く聞いて、静かに参拝するのだぞ。・・・もしも会えたなら、阿蘇大宮司(惟時)によろしく伝えておくれ」

 「ええ」にっこりと笑った翠は、父の頼尚が思わずはっとするほどに美しかった。

 七月の陽光の中、翠とその乳母を乗せた輿は、守役の爺・武藤太郎兵衛を初めとする屈強な郎党たちに守られて、大宰府を後にした。

 途中で阿蘇惟時からのの護衛もついて、一行は無事に阿蘇大社に到着し、思い思いに参拝し、有名な阿蘇山の噴煙に感嘆した。さすがに肥後は火の国だ。

 だが、翠は大宮司の惟時には会えなかった。なぜなら惟時は、遥か西方の矢部城に立て籠もって、攻め寄せた養子の阿蘇惟澄と激戦を演じている最中だったからである。結局、阿蘇一族同士の醜い戦争は避けられなかったのである。

 「姫様、ここも危険です。そろそろ帰りましょう」武藤太郎兵衛が言った。

 「・・・もう少し遊んで行きたい。だめなの?爺」

 「でも、お屋形様が心配しておられますよ。姫様に、もしものことがあったら、爺は何と言ってお詫びしたらよいか・・」

 「分かったわ、爺」明るい気質の翠は、少ししょんぼりしたが、すぐに気を取り直して、元気に帰途についた。

 そんな翠を菊池早苗に引き合わせたのは、偶然の夕立であった。

 阿蘇から 小国 ( おくに ) に続く山道での出来事である。翠の一行は、突然の激しい雨を避けるため、沿道の切り立った崖に開いた洞穴の中で休息をとることにした。

 「すっかり濡れてしまったわい」

 「火打ち石を貸せ、たき火を作ろう」

 忙しく働く郎党たちは、洞の中の木屑を集めて、上手に火を焚いた。

 一番良い場所に座わらされた翠とその乳母は、チロチロと燃える小さな炎を見つめ、何やら夢うつつになっていた。

 その時である。外で馬の鳴き声がしたかと思うと、人の足音が近づいてきたのは。

 思わず腰のものに手をやる郎党たち。しかし、ずぶ濡れになって洞穴に入って来たのは、まだうら若い女の子の姿だった。

 「あら、先客がいたのね。驚かせて後免なさい。悪気はなかったの」

 にっこりと笑った闊達なその少女は、拍子抜けしている少弐郎党たちの横を擦り抜けると、焚き火の横にするりと腰を下ろした。

 「見たところ、この雨の中を一人とは。娘さんは、どこのお人かな」そう尋ねた武藤太郎兵衛の瞳には、娘の小袖についている鷹の羽の家紋が、くっきりと映し出されていた。

 だが、娘は太郎兵衛の質問を聞いていなかったようである。その注意は、炎を隔てて座る同じ年頃の少女に向けられていた。

 「うちは早苗。あなた、都から来たの?」好奇心に満ちた声が、少女の口から零れた。

 「うちは翠よ。・・・どうして、うちが都から来たと思うの?」

 「だって、着物も簪もとっても奇麗だもの」

 「・・・まあ、ありがとう」微笑んだ翠は、初めて相手のいで立ちを観察した。濡れた橙色の小袖は質素で、髪にも装飾品は無い。おまけに娘自身、色は黒いし丸顔だし、器量の上でも翠の敵ではない。大宰少弐の姫と、田舎娘の差は歴然だ。

 「都って素敵なんでしょう?」うっとりした娘の声に、翠は我に返った。

 「ううん、うちは都から来たのじゃないのよ。大宰府から来たの。都にはまだ行ったことないのよ。・・・本当は行ってみたいけれどもね」

 「ふうん、でも、大宰府の姫が、どうしてこんな山の中に来たの?」

 「阿蘇大社にお参りに来たの。それで、今から帰るところよ」

 「ふうん、お山(阿蘇山)は見たんでしょう。どう思った?」

 「ええ、すっごく綺麗だったわ」

 「うちは、よくお山の周りを遠乗りするのよ。雲ひとつない青空の時のお山は、すんごいの。胸にぎゅっと来るよ」そう言った時の早苗の瞳は、夢見るように輝いていた。

 なんて魅力のある女の子だろう、と翠は思った。若い娘が遠乗りなんて変だけど、そんな世界に憧れる気持ちも、翠の心の中にはあった。いい友達になれるかも知れない。

 あたかも幼なじみのように話す二人の少女。その様子に安心した少弐の郎党たちや翠の乳母は、いつのまにか、めいめいに雑談の輪を広げていた。

 「うちはね、大きくなったら高貴な人のところにお嫁に行くのよ」翠が瞳をキラキラさせながら語った。「宇佐八幡の神主さまがね、うちが赤ちゃんの時にそう言ったんだって。・・きっと叶うわ、だってそんな気がするんだもの」

 「素敵ねえ」早苗は釣られて微笑んだ。「でもね、うちも貴い人の奥方になるのよ。聖護寺の大智さまが、うちが赤ん坊の時に、やっぱりそう言ったんだって」

 「あら」翠は思わず口に手を当てた。こんな山の中で暮らしていて、どうやって貴い人に巡り会うというのだろう。ちょっと想像できないけれど。

 「二人とも夢がかなうといいね」早苗は、翠の気も知らずに無邪気に言った。

 「ええ、きっとそうなるわ・・」

 二人の少女は、にっこりと笑顔を見交わした。

 「姫様、すっかり晴れましたぞ」そのとき、武藤太郎兵衛の喜声が響いた。

「あ、行かなくちゃ」早苗はすっくと立ち上がると、郎党たちに会釈をし、最後に翠に「また会おうね」と言って微笑むと、夕日の差し込む洞穴の外へと駆けていった。

 やがて馬の嘶きが聞こえると、馬蹄の音が遠ざかって行った。

 「奇妙な娘でしたな」

 「一体、どこの者でしょう。阿蘇大社の一族の娘でしょうか」

 残された少弐の郎党たちは、口々に言い合った。

 「いや」武藤太郎兵衛がおもむろに口を開いた。「あれはおそらく菊池の娘よ」

 「ええっ」「菊池ですって」

 「わしは、ずっと姫様とあの娘の会話に耳を澄ませていたのよ。最初は何の気なしじゃった。じゃが、大智禅師の名が出たところで気づいたのよ。亡き菊池寂阿入道武時には一人娘がおって、軽装で馬を乗り回すじゃじゃ馬だと言う噂があることにな」

 思わず顔を見合わす郎党たち。翠の乳母も緊張の面持ちである。

 でも、翠はかえって上機嫌だった。父や叔父たちが、鬼のように恐れ憎む菊池一族の人達も、自分たちと同じ人間で、しかも、中にはいい人もいることが分かったからである。

 「菊池早苗ちゃん。憶えておくわ」翠は、夕焼け空にその奇麗な笑顔を向けた。

             ※                  ※

 大きな馬と、その背中にしがみつく小さな少女の影は、日が暮れる前には鳳儀山に着いており、聖護寺へと続く坂道を駆け上っていた。

 「こんばんわ。禅師はお寺にいる?」寺の正門に愛馬を繋いだ早苗は、境内に飛び込むと庭掃除をしていた禅古に話しかけた。

 「ああ、これは早苗さま、こんばんわ。禅師は、今日は山の庵におられます。もうじき帰られると思いますが」

 「ありがと。山に行くわ」後ろも振り返らず、寺を出て行く早苗であった。

 大智は、現世からの解脱を目指し、深山幽谷の庵で座禅を組んで一日を過ごすことが多かった。もっとも、修行の合間に風景を歌に詠む遊び心を忘れはしなかったが。

 今も、滝の音を耳にして一首浮かんだ大智は、しかし軽快な足音に思念を妨げられた。

「大智さま、来たわ」粗末な庵に駆け込んだのは、大智のよく知っている少女だった。

 「やあ、早苗どのか」

 こんな世捨て人の何が面白いのだろう、と不思議がりながらも、大智は早苗の訪問を楽しみにしていた。

 「今日、うちが誰に会ったと思う?」

 「さあ」大智は楽しげに首をかしげた。

 「驚かないで、少弐の姫なのよ」

 「ほお、どうして少弐の姫がこんなところに」

 「阿蘇大社に参拝しに来たみたいなの。とっても綺麗な姫だったわ。京の人かと思っちゃったもん」

 「それで、どんなお人でしたかな」

 「優しくて明るい子だったわ。桔梗(早苗の乳母)のおとぎ話に出てくるみたいな人だったの。すぐにお友達になれたわ。でも・・・・・」

 「でも・・・・・?」

 「うちの家と少弐の家は仲が悪いわ。兄さんたちは、みんなして少弐は父の仇だとか、裏切り者だとか、逆賊だとか言って嫌うわ。少弐の姫は、あんなにいい人なのに」

 いつも闊達な早苗の表情も、この時は、かすかに曇った。

 「・・・お家のことは、仕方ござらぬ。前世で決められた定めというものがござるのでな」大智も、少し厳粛な表情になった。「でも、一人一人の心の通い合いは、それとは別でござる。敵の姫であっても、友愛を感じる早苗どのの気持ちは、とても尊いものです。その気持ちを、一生大事にしてくだされ」

 「本当?翠さんと友達になるのは、悪いことじゃないのね。良かった」

 「尊いことです」大智は、にこやかに大きく頷いた。

 「ありがとう、大智さま。少し気分が楽になったわ」

 早苗の無邪気な笑顔は、大智の心を暖かくした。

 「さあ、早苗どの。お帰りが遅くなるとみんなが心配しますぞ。一緒に帰りましょう。もう夕餉の時間じゃ」

 「ええ」

 山鳥の合唱を背景に、もうすぐ五十の坂を越える高僧と、もう思春期を迎えつつある少女は、肩を並べて里に向かった。

 木々の隙間からは、阿蘇山の噴煙が美しくたなびいていた。

 

 

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