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長編歴史小説

黄花太平記 第三部

15.征西府、肥後に入る

 興国六年(1345)五月、修復を終わった深川城の大広間で、菊池肥後守武光は居並ぶ一族の面々に言い渡した。

 「武重公の永眠以来、我々は逆賊の影に脅え、不安な日々を送って来た。我らは摂関藤原一族の末裔としての誇りを忘れ、この七年、頭を隠しながらモグラのように暮らして来た。一色、少弐、大友、合志、少岱、詫間、川尻。彼らは我が物顔で肥後領内を荒らし回り、民百姓の営みを妨げた。だが、これからは違う」

 武光はここで一旦言葉を切り、緊張の面持ちでたたずむ一族の反応を待った。彼らは皆、過去の屈辱を思い起こし、あるいは将来への自信をもって、頬を赤くしていた。

 「言っておく。おいの目標は、筑紫の逆賊を一掃し、正しい帝のために京を回復することにある。そのためには、これまでより遥かに苦しい試練に耐えねばならぬであろう。あるいは、一時の方便で屈辱に甘んじることもあるかもしれぬ。ばってん、おいを信じてほしい。おいは必ず目標を達成してみせる。筑紫全土に、菊池の『並び鷹羽』を翻して見せる。京に正しい帝をお迎えして見せる。だから、その時まで苦しみに耐えて、おいについて来てもらいたい。今言えることは、それだけだ」

 口を閉じた武光を迎えたのは、大きな歓声であった。逞しい指導者を与えられ、雄大な目標をはっきりと示された充実感で、万座の人々は涙ぐんでいた。

 「十郎に来てもらったのは、正解だったようだ」武茂や武澄、そして武豊ら、武光の兄たちも、誇らしげに弟の勇姿を見守っていた。

 武光の活動は、精力的だった。それまではいい加減だった財政記録を吟味し、武器や食料の備蓄量から稼働可能兵力を試算した。また、一族の所領の総人口を計測し、潜在的兵力の割り出しに成功した。

 「ふむ、次郎兄上の晩年に比べると、財政も兵力も余裕がある。あまり遠征を行わなかったのが良かったようだ・・・。それにも拘わらず兵が弱くなったのは、寄合衆のせいだな。寄合衆の制度は、惣領の威信が強いときには有効だが、威信が弱い場合は、却って一族の各人の独立傾向を助長してしまう。そのため、各自で勝手に兵を訓練し、統一性無く勝手に戦することになり、これが我が軍の弱体化につながったのだ。これは、問題だな」

 冷静に状況を分析した武光は、独自の戦略の元に兵の訓練を行おうと考えた。すなわち、兵士各人を完全に分業化し、しかも一つの命令系統の下に一糸乱れず動くように訓練を行おうと発案したのだ。彼の目標は、菊池軍全軍に、あの変幻自在の『鳥雲の陣』を可能ならしめることであった。

 そのためには、兄たちにも自分の考案した訓練を強要しなければならない。武光は、時間をかけて根気よく説得した。そのため、半年もするころには、武光の計画は完全に軌道に乗っていた。

武光は、しかしこれに満足しなかった。どんなに厳しく鍛えても、所詮は他人の兵は思いどおりにならない。完全に自分の思いどおりに動く親衛隊を養わなければならない。彼は、新しく継承した武重や武士の所領から募った兵と、豊田以来の馴染みの兵を併せて精鋭部隊を編成し、これを 馬廻衆 ( うままわりしゅう ) と名付けた。

 次に彼が目を向けたのは、菊池一郡の防備である。阿蘇惟時が敵となった現在、城を捨てて九州山脈に逃げ込む戦法は過去のものである。それに、城が何度も陥落するようであっては、兵の士気にも悪影響がでるだろう。ここに、菊池一郡を難攻不落の要塞に造りかえる必要性が生ずるのだ。

 かくして、武光は菊池本城を深川から 隈府 ( わいふ ) ( 守山 ( もりやま ) )に移すことを決定した。隈府は堅固な山城であり、攻めにくく守りやすい。また、その地形上、周囲に無数の砦や外城が設けられた形になる。今まで本城であった深川城も、外城の一つとして利用できる。

 武光自らの指導のもと、いつしか菊池全郡が隈府を中核とした要塞地帯に変貌していた。

 領民たちは、これらの要塞群を『菊池十八 外城 ( とじょう ) 』と呼んだ。もっとも、本当に城が十八もあったかどうかは不明であるが。

 こうして菊池一族は、軍事的にも経済的にも、みるみるうちに力をつけていった。

 だが、一族の中には、これらの急進的な改革に戸惑う者も多かった。惣領の座を横から奪われた形の与一武隆などは、しきりに保守派を集めて武光を陥れようとした。もっとも、より優れた具体的な政策を提示できない与一を支持する者は少なかったが。

            ※                 ※

 一方、大宰府の少弐頼尚の耳には、豊田武光が惣領に就いてからというもの、菊池一族が妙に活気づいているとの噂が頻繁に入って来た。

 「武光か、嫌なやつが惣領になったものだ。まだ若いが手ごわい男よ。・・・よし、試しに引っ掻き回してみるか」

 九月に入って、少弐頼尚は一軍を引っ提げて肥後に侵入した。宇土の如来寺を本陣にして菊池勢の動きを待つ。しかし、菊池勢に動きは無かった。代わりに、阿蘇惟澄と内河義真が攻めかかった。

 「ふむ、武光は手の内を見せるつもりが無いらしい。あるいは、軍勢の再編成に夢中で出て来られないのかな。まあよい、惟澄相手に火傷するのも馬鹿らしい。いったん兵を引こう」

 こうして少弐軍は、上手に撤退していった。

 今や、一色探題にはっきりと敵意を持つ頼尚は、南朝軍との戦で兵が傷つくことを避けるようになっていたのである。

           ※                 ※

 頼尚を撃退した阿蘇惟澄は、しかし盟友の武光の精力的な活動を、羨望の目で見ていた。

「十郎は惣領になれた。それに引き換え、おいはどうだ。吉野の帝は、義父(惟時)を頼りにしているという。なぜ、敵に回った男を惣領と認め、このおいを放っておくんだ。こんなにも吉野のために尽くしているのに・・・」

 征西府も、惟澄の忠義を無視している訳ではない。現に、惟澄のために既に多くの肥後南部の荘園を与えている。だが、それは惟澄の理想には遠かった。彼は、阿蘇大社の全軍を率いて、武光とともに九州を睥睨したかったのである。

 そんな惟澄を、武光はしきりに慰めた。

 「惟澄どの、おいがすんなりと菊池の惣領に就けたのは、全て貴君の尽力のお陰だ。この恩は決して忘れぬ。おいからも、征西府に阿蘇大宮司就任のことを話してみるよ」

 頻繁に谷山に意見書を送る武光。しかし、谷山はそれどころでは無かった。島津貞久の猛攻が始まったからである。

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 足利尊氏は、菊池一族に有力な指導者(武光)が誕生したと聞いて、危機感を覚えた。北朝の 貞和 ( じょうわ ) 元年(1345)秋、尊氏は戦局不利な島津貞久から日向守護職を取り上げ、足利一族の畠山義顕に与えた。この措置は、義顕の勢力を強めると同時に、島津氏の尻を叩くという二つの意味があった。

 「くそっ、将軍はお怒りじゃ。なんとしても谷山を潰すのじゃっ。者共続けっ」八十近い高齢の島津貞久は、それでも老体に鞭打って自ら出陣した。

 だが、谷山征西府の防備は堅かった。懐良親王自らが刀をふるい、島津軍を追い散らした。後年は勇猛を謳われるようになる薩摩隼人も、この時は在地豪族の多くを敵に回し、ゲリラに苦しめられていたため、その実力を発揮できなかったのである。

 北朝の貞和二年、同時に南朝の興国七年(1346)、九州の情勢は混迷の色を深めた。菊池武光は領内の整備に明け暮れ、静かに鋭気を養っていた。連戦連敗が続いた阿蘇惟時は、惟澄と和睦を結んで再び中立化した。日向守護職を奪われた島津貞久と新たな日向守護の畠山義顕の間には、次第に深い溝が生じた。その溝を巧みに縫って、征西府は島津氏の攻撃に耐え抜いた。一方、北九州では一色範氏と少弐頼尚が、北朝の旗を掲げる味方同士でありながら、博多と大宰府で冷たく睨み合っていた・・・。

 京の足利尊氏は、頼尚と範氏の不和を敏感に察し、一色勢を補強する措置に出た。これまで京にいた範氏の二人の息子、 直 ( ただう ) 氏 ( じ ) と 範光 ( のりみつ ) を、手勢とともに九州に送り込んだのである。

 「ご無沙汰です、父上」「ご尊顔お変わりなく、嬉しいです、父上」

 「よく来たな、ご苦労であった。父も嬉しいぞ」

 親子三人は、久しぶりの再会を心から喜びあった。

 喜びのあまり、一色範氏は十二月に入って、鎮西探題の職責を直氏に譲ることに決めた。

 「難しい仕事は、若いお前たちに任せるぞ。俺は出家して後見することにしよう」

 かくして、範氏は 道猷 ( どうけん ) 入道を名乗り、息子たちの背後から九州情勢に目を光らせる立場となった。

 さて、範氏剃髪と同じころ、吉野で改元の儀が執り行われ、興国七年は 正平 ( しょうへい ) 元年に改まった。この改元は、気まぐれに行われたわけではない。これは、南朝の計画する大反攻の予兆に外ならなかった。

 東国から帰還した北畠親房は、畿内の各地に忍びの者を派遣し、幕府の屋台骨を揺さぶろうとした。彼の狙いは、足利直義と高師直の間の冷たい戦争を煽り立てることである。

 畿内で戦の影が薄くなったため、恩賞方や武者所を牛耳る師直、師泰兄弟の活躍の場は地方に移らざるを得ない。高兄弟を憎む直義は、裏から朝廷に働きかけ、高兄弟の主力を中国や中部の宮方討伐のために派遣させた。この結果、畿内の北朝方の勢力は、一時的に弱体化することとなったのである。これも、親房の工作の成果であろうか。

 そして北畠親房は、その好機を逃さなかった。 楠木 ( くすのき ) 正行 ( まさつら ) を主力とする畿南の宮方は、今や一斉に蜂起した。時に、正平二年(1347)の八月である。

 紀伊の隅田城が楠木勢に奪われたと聞いた足利直義は、ただちに和泉・河内の守護である 細川 ( ほそかわ ) 顕 ( あきう ) 氏 ( じ ) に、楠木追討を指令した。

 勇躍して出撃した細川顕氏は、九月に入って四天王寺付近で楠木勢と接触した。細川軍は三千、楠木軍は一千。

 「楠木の小伜め、親父の二の舞いにしてくれるわ」圧倒的な兵力の顕氏は、決戦の勝利を殆ど疑わなかった。ところが・・・・。

 藤井寺の合戦は、楠木方の大勝利に終わった。楠木正行は、父(正成)譲りの戦上手であった。得意の情報戦略で敵の本陣の位置を把握し、少数精鋭でそこに突入したのである。

 敗れた顕氏は、四天王寺に立て籠もり、京に援軍を要請した。慌てた直義は、若狭・丹波守護の 山名時 ( やまなとき ) 氏 ( うじ ) に、細川救援を指令した。

 そして、細川・山名連合軍五千と楠木軍一千の戦いは、十一月に入って 瓜生野 ( うりゅうの ) で行われた。寒風すさぶ中での激しい戦いは、しかしまたもや楠木軍の圧勝に終わった。特に、山名勢は本陣を強襲されて壊滅状態となり、時氏親子は重傷を負い、時氏の弟は三人とも戦死する有り様であった。

 久しぶりに上がる吉野方の凱歌。逆に、京都の朝廷は恐慌状態に陥った。

              ※                 ※

 畿内の凱歌が九州にも伝染したのだろうか。薩摩でも、征西府軍の勝利が続いた。

 その理由は、谷山に強力な援軍が到着したことにある。忽那、村上を中心とする瀬戸内海賊衆が大挙来援したのである。彼らは、海岸沿いの島津方城塞を次々に焼き払った。ここに鹿児島湾の制海権は、一時的に島津氏の手を離れて征西府のものとなった。

 連戦連敗で意気の揚がらぬ島津軍を見て、懐良親王は、ついに北上の決断を下した。

 「よしっ、肥後に行くぞ。肥後で菊池武光と阿蘇惟澄と手を組むのだ」

 時に正平二年十一月二十七日、懐良親王とその一行は、五年間の根拠地であった谷山城と桜島の噴煙を後にした。陸路は危険であるため、海賊衆の護衛のもとに海路を辿った。薩摩には三条泰季が残り、島津氏との戦を引き継ぐこととなった。

 「そうか、ついに宮将軍が見えられるか」菊池武光は空を仰いだ。兄・武重以来、菊池一族は、この時をどれほど待ち焦がれたことだろう。

 自らの手勢をまとめた武光は、出迎えのために親王の上陸予定地である宇土に向かった。

 宇土は当時、菊池一族の宇土 道光 ( どうこう ) 入道 高俊 ( たかとし ) が治めていて、武光の一行を快くもてなした。

 肥後の豪族たちは、みな緊張の面持ちで様子を見守った。なにしろ、肥後に皇族がやって来るのは有史以前の出来事である。皇族との接し方など、ほとんどの豪族が分からない。これまで北朝に味方していた武士たちも、宮様を敵とするのには抵抗を感じていた。

 待望の懐良親王の一行が、宇土に入港したのは、正平三年(1348)正月二日のことであった。随行するのは、五条頼元と 良 ( よし ) 氏 ( うじ ) の親子、中院義定らの公家。それに、四国から馳せ参じた新田一族や名和一族の残党たちであった。

 「ついに来たぞ。肥後の土を踏んだぞ、爺」

 「長かったですな、宮様。本当に長かった」

 朝廷人とは思えぬほどに日焼けした親王と頼元卿は、感涙にむせびながら、手に手を取って喜びを表した。八つの歳に畿内を後にした親王は、このとき既に二十を迎えていた。

 「だが、爺、これからだ。菊池武光が、本当に頼りにできる男か否かを見極めなければならぬ」親王は、唇を強く結んだ。

 「御意」頼元の表情にも緊張が走った。

 さて、宇土道光の居城に入った一行は、そこで念願の菊池武光との対面を実現させることができた。

 「菊池肥後守武光と申します」城の大広間の下座で跪き、頭を垂れた男は低く言った。「無事な到着、祝着至極にござります。武光を始め、肥後の豪族一同、首を長くしてお待ち致しておりました」

 上座で平仄に片手をおいた親王は、優しく声をかけた。

 「菊池肥後守、わざわざ出迎えご苦労であった。良い、顔を上げよ」

 「ははっ」

 静かに顔を上げた武将の瞳は、親王の目とがっちりぶつかり、火花を散らした。

 菊池武光は、年の頃二十七、八であろうか。日焼けした肌と、広い肩幅。どっしりした猪首と、吊り上がった鋭い目が実に印象的である。瞳の中には、強固な意志と断固たる自信が満ちあふれている。これこそが、征西府の期待した主将の条件なのだった。親王は、武光の立ち振る舞いを観察し、安堵の吐息を漏らした。

 一方、武光も親王の人柄を見て胸をなでおろしていた。武光は、親王の高貴な血を利用して、一族及び中小豪族たちの結集を図るつもりであったから、親王は上品で貴い印象を与える人でなければならなかった。また、これからの前途に様々な困難が予想される以上、親王は単なる気弱な坊っちゃんであってもならなかった。高貴で逞しい人物。武光の瞳に映るのは、まさにそんな理想どおりの人物であった。

「肥後守、宮将軍は、肥後国内の豪族たちの謁見を行いながら菊池へと向かう予定である。すでに菊池側の準備はできておるか」親王の右側に座る五条頼元が声をかけた。

 「そこに抜かりはござりませぬ」そう言いながら、武光は頼元卿の人物も観察した。

 頼元は、年の頃五十前後の老人で、周囲に安心感を与える落ち着いた風貌をしている。親王と共に様々な修羅場をくぐり抜けて来ただけのことはあって、有りがちな意固地なうらなり公家ではなく、武士のことにも理解が深い人物という印象を受けた。

 いずれにせよ、親王一行と菊池武光の会見は成功であった。幸先善し。武光は、密かに胸をなでおろした。

 正月十四日、宇土を出発した一行は、続々と駆けつけて来る中小武士たちの応対におおわらわであった。なにしろ、物珍しさからか、北朝方の武士まで訪ねて来るのだから。

 親王は、つねに堂々とした態度を貫き、悪びれることがなかった。その高貴な印象は田舎豪族たちに感銘を与えた。これに加えて、親王は降伏者の領土をそのまま安堵する政策を公表したため、北朝を離反して征西府に馳せ参ずる武士が続出した。肥後南部の相良定頼もその一人であった。相良は、つい数日前まで南朝方の内河義真と交戦中だったというのに、親王から征西府の旗をもらって満足そうにしていた。

  御船 ( みふね ) に到着した一行は、そこで阿蘇大宮司惟時と惟澄親子の謁見を受けた。親王は、元弘以来の両者の勲功を褒めたたえ、これからの一層の協力を要請した。だが、阿蘇惟時の背信については、一言も触れたり責めたりしなかった。

 「かたじけなきお言葉、惟時、申すべき言葉もござりません」深く頭を垂れる惟時であった。彼はこのとき以降、二度と北朝方として兵を動かすことは無かった。

 阿蘇親子との公式の謁見の後、親王は密かに阿蘇惟澄を呼び寄せた。

 「惟澄、ご苦労であった。渋る大宮司を、御船に呼び出した功労、感謝するぞ」親王は、優しく語りかけた。

 「逆賊に味方した不肖な父ではありますが、お許しいただけまして、かたじけのうござります」三十の坂を越えた働き盛りの惟澄は、厳粛な面持ちで頭を下げた。

 「惟澄、そなたの活躍と忠誠心は、吉野の帝の叡慮にも目出たいぞ。これからも、変わらぬ忠勤に励んでくれ。頼りにしておるぞ」

 「私ごときに、過分なお言葉。身にあまる光栄にござります」真面目な惟澄は、心の底から感激し、涙ぐんでいた。

 しかし、懐良親王が巧みに肥後の人心を掌握していたころ、吉野全山は深刻な危機を迎えようとしていた。

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