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長編歴史小説

黄花太平記 第三部

17.貴公子・ 足利直冬 ( あしかがただふゆ )

 四条畷合戦以来、高師直とその一族の権勢は高まる一方であった。

 前述したように、革新派の師直は、外様の豪族や畿内の新興武士たちの権益を尊重する一方で、既存の権威を否定する立場にあった。そして、この既存の権威の中には、朝廷や公家のみならず、足利一門の名家も含まれていた。ゆえに、昔から尊氏の下で活躍していた足利一族の武将たちの間では、師直一派に対する不満が高まる一方であった。

 「師直の奴めっ、もともとは我が家の執事の家柄で、我々の前に這いつくばっていたくせによ」

 「まったくだ、源氏の血筋を引く我らをないがしろにし、よそ者やら非人やらの肩を持ちやがって。実に気に入らぬ」

 「将軍(尊氏)は、なぜ師直の我が儘を放っておくのじゃっ。まだしも、副将軍(直義)の方が頼りになるわっ」

 こうして、 上杉重能 (うえすぎしげよし) や 畠山直宗 ( はたけやまなおむね ) (いずれも足利一族)、それに僧・ 妙吉 ( みょうきつ ) といった不満組は、いつのまにか足利直義の周りに集まり、不穏な動きを見せ始めた。

 既存の権威を尊重する保守派の直義は、やはり革新派の師直一派の動向を苦々しく見つめていた。また、謹厳実直な性格の直義は、婆娑羅の師直とは人間的にも反りが合わなかったのである。

 北朝の貞和五年(1349)閏六月、直義派はついに行動を起こした。師直を三条坊門の直義邸に招き、暗殺しようと図ったのである。だが、この陰謀は密告者によって師直方に漏洩し、実現できなかった。

 「まあよい、こうなったら師直の政治力を奪うまでのこと」

 朝廷の受けが良い直義は、天皇に強く訴えて師直の罷免を要請したのだ。師直が貴族の娘や妻を夜ごとの慰み者にしているとの噂に内心怒りを覚えていた光明天皇は、直義のこの訴えを快く受け入れた。ここに、師直罷免の勅命が下った。

 驚いたのは将軍・尊氏である。彼は、信頼していた弟が、自分に一言の相談も無くこの暴挙に出たことを嘆いた。しかし、勅命が出た以上仕方がない。彼は、師直を幕府の要職から解任し、その執事職を取り上げざるを得なかった。かくして、高師直とその一族は、京にある 今出川 ( いまでがわ ) の屋敷に蟄居する羽目に追い込まれたのである。

 「ざまを見ろ、師直めらっ。いい気味だわい」

 直義派の武将たちは、手を打って喜んだ。だが、これこそ北朝方の大分裂、 観応 ( かんおう ) の 擾乱 ( じょうらん ) の幕開けだったのである。

 足利直義は、しかし自分の行動が室町幕府に大きな悲劇をもたらす事になろうとは、夢にも思わなかった。久しぶりに政治の実権を握った喜びに満足していた。

 「そうだ、これまで不遇だった直冬を、中国探題に任命してやろう」

 直義は、養子の足利直冬に探題職を与え、備後に駐屯させた。この直冬が、やがて九州に風雲を巻き起こすことになる。

          ※                 ※

 ここで、足利直冬について語る必要があろう。

 直冬は、将軍・尊氏の庶子であり、年齢的には、世継ぎの 義詮 ( よしあきら ) (千寿王)よりも上であった。ところが、父の尊氏は、この直冬を自分の子として認知しようとしなかった。その理由については諸説あるが、どうやら直冬の母が身分の低い 白拍子 ( しろびょうし ) だったことにあるらしい。

   いったい尊氏という人は女性に対しては潔癖で、北条 登子 ( のりこ ) と結婚して以来、即室をもったという話は一つも聞いたことがない。それほど潔癖な尊氏としては、結婚前の若気の至りが原因で生まれた子供を認知したくないのも当然である。ここに、直冬の悲劇があった。

 直冬は、将軍の子として生まれながら、父と引き離され、身分を隠され、不遇な少年時代を送った。やっと成人したら、今度は寺に入れられ、僧侶となるべく修行させられた。この間、越前の前と呼ばれる彼の母は、二度と尊氏の愛を受けることなく、孤独に病死してしまった。

 そんな直冬を救ったのは、叔父に当たる足利直義であった。直義は、どうしたわけか子宝に恵まれず、せっかく生まれた男の子もすぐに病死してしまったりする。そこで彼は兄に頼みこみ、寺から直冬を引き取り養子に迎えたのである。直冬は、この養父の恩を生涯忘れなかった。逆に、自分とその母を不幸に追いやった実父を憎んだ。

 心に陰を宿しながらも、直冬は良く働いた。四条畷合戦の直後に蜂起した紀伊の南朝軍を苦もなく打ち破り、その武勇を轟かせた。それにも拘わらず、高師直権勢下の京では、直義派と見なされた彼の地位は低かった。そして今、師直の失脚によって、ついに直冬は日の目を見ることができたのである。

 心に養父への深い感謝を抱きつつ、足利直冬は、数千の軍勢を引き連れて中国路を西へ西へと揺られて行った。

         ※                 ※

 しかし、足利直義の天下は長く続かなかった。高師直の反撃が始まったのである。

 貞和五年の九月、師直率いる数万の軍勢が、三条坊門の直義の屋敷に襲い掛かったのだ。数カ月かけて根回ししたのであろう、大軍の行動は実に速やかであった。その中には、河内で楠木正儀と睨み合っているはずの高師泰軍の姿もあった。

 油断していた直義方の動きは鈍かった。慌てて軍勢を招集したが、準備不足のゆえに、集まったのはわずか数百騎に過ぎなかった。

 「おのれっ、師直っ」直義は、拳を屋敷の床柱に叩きつけた。

 「この人数では、とても支え切れませんぞ」と、鎧姿の上杉重能が言った。

 「畜生っ、こうなったら潔く討ち死にしてやるっ」と、短気な畠山直宗が叫ぶ。

 「それよりも、将軍の屋敷へ逃れましょう。いかに師直が婆娑羅とて、主君の屋敷までは襲えますまい」僧・妙吉が提案した。

 「うむ、無念ではあるが、ここで死んではなんにもならん。兄上のところへ逃げよう」直義は冷静に決断を下した。

 こうして、師直の大軍が殺到したとき、すでに直義邸はもぬけの殻であった。だが、師直は少しも動じなかった。

 「なにっ、不逞の直義めは、高倉の将軍屋敷に入ったと申すか。ふん、そんなことでこの師直から逃げられると思うなよ」不敵に笑った師直は、迷う事なく将軍屋敷を数万の軍勢で取り囲んだ。まさに婆娑羅の真骨頂である。圧倒的な軍勢は、「直義と上杉、畠山の身柄を引き渡さぬまで包囲は解かぬ」と屋敷に向かって呼ばわった。

 「どうする、兄上」蒼白な唇を震わせる直義は、傍らに屹立する尊氏を見た。

 「仕方あるまい。お前はやり過ぎた。頭を丸めて師直に謝るしかないな」尊氏は、意外にも突き放したように答えた。

 「なにっ」直義は目を剥いた。「兄上は、下賎な執事に館を囲まれて、脅迫されて、悔しくないのか。忠実な弟よりも、反逆した執事の肩を持つのかっ」

 「直義、お前には分からないのか。もう時代は変わったのだ。今は婆娑羅の世の中だ。朝廷も公家も執事も無い。力だけが全てなのだ。そして今、その力は師直にある。将軍のわしと言えども、その力には逆らえぬ。あきらめてくれ」

 「そうか、口では奇麗事を言っているけど、結局、兄上は師直の味方なのだな」がっくりと肩を落とす直義。兄弟愛は、政治的見解の相違の前に無残に崩れたのである。

 足利直義は引退し、頭を丸めて 慧源 ( えげん ) 入道となり、細川顕氏の屋敷に蟄居させられた。上杉、畠山は越前に流罪にされ、後に暗殺された。僧・妙吉は逃亡して行方をくらました。そして、直義が携わっていた政務については、鎌倉から尊氏の嫡子・義詮が上洛し引き継いだ。そしてもちろん、高師直とその一族は政治の最前線に帰り咲いた。

 この知らせに驚いたのは、備後の鞆に駐屯していた足利直冬である。

 「父上が失脚だとっ。おのれ師直め、もう許せんっ」怒りに震える直冬は、さっそく師直討伐のために軍勢を招集した。

 直冬は、なんといっても尊氏の実子である。尊氏が認知しなくても、そのことは既に公然の秘密である。その声望は馬鹿にできない。焦った師直は、尊氏を説得した。

 「将軍、無事に義詮どのに跡を継がせたいのなら、競争者である直冬どのを、力の弱い今のうちに葬るべきです。ただちに討伐軍を向けましょう」

 「・・・・・直冬は、実の息子だ。気が進まぬ」尊氏は目を伏せた。

 「こっちが気が進まなくとも、向こうから攻めて来ますぞ。そうなったら京は焼け野原ですぞ。さあ、決断をっ」

 「そうだな・・・・・よし、分かった」

 こうして、師直の大軍は西に向かって進発した。今の直冬には、とてもこれを抑える力はない。

 「こうなったら、将軍(尊氏)を見習って筑紫に落ち延びて力を養うしかありません」

 側近たちの勧めに、直冬は強く頷いた。

 「うむ、覚えていろ、師直、それに将軍っ。俺は必ず帰って来るぞっ」

 こうして、足利直冬とその一党は、鞆から乗船し、九州へと漕ぎ出した。

 「そうか、直冬は筑紫に向かったか」

 知らせを受けた尊氏の心理は複雑であった。実子の首を見なくて済んだ喜びと、ただでさえ複雑な九州情勢が、更に混迷するであろうことへの不安感に挟まれて。

 貞和五年九月末、足利直冬は一色探題の勢力が強固な北九州を避けて、肥後の川尻港に上陸した。彼を迎えたのは、在地豪族の 川尻 ( かわじり ) 幸俊 ( ゆきとし ) であった。幸俊は、同じ肥後国内の菊池氏が懐良親王を迎えて沸き立っているのに反感を抱いており、直冬を抱き込むことによって彼らに対抗しようと考えたのだ。

 「筑紫のことは、この幸俊に万事お任せください」胸を叩いて豪語する幸俊。

 「うむ、頼りにするぞ」直冬は鷹揚に頷いて見せたが、内心、いつまでもこんな田舎に燻っているつもりはなかった。もっと頼りになる勢力と結託し、九州の大軍を引き連れて帰京することが目的であった。

 直冬はさっそく、尊氏の代官、すなわち当面の敵である一色探題の状況分析を始めた。

 「ふむ、一色直氏の軍勢は、主に惣領家を中心としておるな。ならば、各氏の庶子家は不満を感じているはずだ。俺は、彼らを抱き込もう」直冬は思案した。

 この時代の一般の豪族は、家督を継いだ惣領家と、それ以外の庶子家とに別れていた。惣領と庶子は必ずしも仲が良いとは限らず、庶子が惣領から家督を奪い取るために反逆する例が実に多かった。そして直冬は、ここに目を付けたのである。庶子たちを懐柔し、惣領への反逆の口実を与えたのだ。ここに、直冬の下に数千の軍勢が集まった。あの菊池一族の中からも、惣領の武光に反感を持つ庶子が連絡を付けて来た。

 「勝手にさせておけ」内通者に関する情報を受けた武光は、意外と平然としていた。「直冬とは、いずれ手を組むこともあるやもしれぬ。内通者たちを、その時の橋渡しとして利用できるというものだ」

 武光としては、足利直冬と一色直氏が争い合って消耗してくれれば、漁夫の利を得ることができる。そのため、彼はひたすら情勢を静観する立場を取った。直冬が近くの川尻にいるというのに、兵を出そうとはしなかった。

             ※                 ※

 そのころ大宰府では、少弐頼尚が情勢の急展開に考えを巡らせていた。

 「副将軍(直義)と執事殿(師直)の争いは、頭の痛い問題だ。じゃが、 兵衛 ( ひょうえ ) 佐 ( のすけ ) 殿(直冬)の筑紫下向は、思わぬ好機かもしれぬ。わしはこれまで、将軍に反逆することなく、鎮西探題を筑紫から追い払う方法を模索しておった。それが、 佐 ( すけ ) 殿 ( どの ) を大宰府に迎え入れれば可能となる。なぜなら、佐殿は将軍の実子であるから、佐殿の味方をすることは将軍に刃向かうことにならないだろう。また、佐殿は一色探題と対立しておるから、佐殿と組むことによって、一色を武力討伐する口実ができるからだ」

 しばし煩悶した末に、ついに頼尚は一族の主な者を集めて重大な決断を伝えた。

 「我が少弐家は、将軍の御子息である兵衛佐殿に助力して、鎮西探題を討滅することに決する。異議のある者は申し出て見よ」

 「父上」頼尚の次男・ 冬資 ( ふゆすけ ) が発言した。「肥後の吉野方は放っておくのですか。奴らが息を吹き返してしまいますぞ」

 「うむ」頼尚の懸念もそこにあった。一色軍と戦って勝てる自信はある。だが、そこで思わぬ損害を出すと、菊池武光を中心とする征西府が思わぬ脅威に成長してしまう恐れがあるのだ。「冬資の申すこともっともである。だが、我が家が筑紫に君臨し、往年の栄華を取り戻すためには、探題との衝突はいつかは避けられぬ宿命だ。そして、直冬殿という大義名分が舞い込んだ今をおいてその機会は無いのだ。・・・これは確かに危険な賭けだ。じゃが、賭けるだけの価値がある、そうは思わぬか、みんな」

 「そうじゃ、一色は邪魔じゃ」

 「この間も、京の将軍の差し金で肥前守護職を我らから奪い取った憎い奴じゃ」

 「もう我慢ならぬわ」

 衆議は頼尚を支持した。ここに、少弐氏の運命の決断が下されたのである。

 強力な後援者を必要としていた直冬は、少弐氏の誘いに飛びついた。

 「そうか、あの少弐が俺を迎えてくれるか」直冬の脳裏には、かつて命からがら九州に逃れながら、少弐氏の後援で勢力を回復した実父・尊氏の姿が浮かんだことだろう。

 北朝の観応元年、同時に南朝の正平五年(1350)三月、足利直冬は数千の兵力に守られて大宰府に入った。

 「少弐頼尚にござります。これより筑紫びらきの先兵を努めさせていただきます」

 「余が足利直冬である。頼りにするぞ、頼尚」

 対面した両雄は、互いに好印象を受けた。直冬にとっては、知性あふれる頼尚の人品は頼りがいのあるものであったし、頼尚にとっては、直冬の堂々とした風貌や、さすがは武家の棟梁の子と思わせる気品は、一族の命運を賭けるに足りるものであった。

 「足利直冬どの、まさに貴公子じゃ・・・。きっと、娘の翠も気に入ることであろう」

 少弐頼尚は、自分の決断の正しさを噛みしめていた。

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