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長編歴史小説

黄花太平記 第三部

20.悲劇の兄弟

 日本中に一時的な小康状態が訪れていた観応二年(1351)、京ではその小康状態が崩れつつあった。

 一見、同じ鞘に収まったかに思われた足利尊氏と直義の兄弟は、しかし平和な京で冷たい睨み合いを続けていた。無理もない。信頼していた執事(高師直)を騙し討ちにされ、弟に屈服を強要された尊氏の心底には、怒りが渦巻いていたのである。それに加えて、尊氏は弟の復古思想に反対であった。足利直義は、鎌倉時代初期の政治経済や荘園制度を理想としているが、尊氏の目からは、これはあまりにも非現実的であった。婆娑羅の師直は確かに乱暴すぎたが、その革新的思想は実は尊氏の意にかなっていたのである。

 かくして、師直と直義の争いは、そのまま尊氏と直義の争いに移行した。取り巻きたちも、またそれを煽った。京にもたらされた平和は、半年と続かなかったのである。

 直義の最大の誤算は、尊氏から将軍の地位を剥奪しなかったことである。師直討伐戦で直義に味方した武将は、直義の人徳に魅かれたというよりは、師直が憎いばかりに直義方となったに過ぎない。そして師直亡き今、将軍尊氏と直義との比較では、前者の方が遥かに魅力的である。こうして、直義の同志は次々と尊氏方に寝返った。

 そして、均衡する勢力図に蹴りをつけたのは、細川顕氏の背信であった。第一の直義党と思われた顕氏は、尊氏の説得に負けて直義から離反したのだ。

 京の情勢は風雲急を告げた。八月、吉野方に意を通じた播磨の 赤松 ( あかまつ ) 則祐 ( のりすけ ) (円心の子で、赤松氏の惣領)討伐を口実に、尊氏と義詮は大軍を連れて京を離れた。ところが、尊氏親子は都の郊外に駐屯したままで動こうとしない。いつのまにか、都の周辺には尊氏方の武将が軍勢を率いて集まって来た。直義を脅かせて、京から追い払う策略であった。

 「きっと奴らは、我らを攻撃するつもりです。ただちに私の所領のある北陸に逃げて戦力を整えるべきです」越中(富山県)守護の桃井直常が、直義に進言した。

 「うむ、こうなったら兄上と全面対決だ。あまり気は進まぬが・・・」直義は、直常の言葉に従うことにした。尊氏の仕掛けた罠に嵌まった形である。

 手勢を引き連れて京都を脱出した直義は、越前の斯波、越中の桃井らの戦力を糾合し、尊氏の大軍に戦いを挑んだ。しかし、直義はもともと戦争が上手でない上に、兵の数でも劣っているのでは勝てるはずもない。九月に近江の 八相山 ( はっそうやま ) で敗れた直義は、結局、北陸路から遠路鎌倉に逃れ、そこで兵力を募ることにした。

 「待っていろ、兄上。直義は負けぬ。大宰府の直冬と連絡を取って、都を挟み撃ちにしてくれるわ」

 直義の東走を知った尊氏は、意外な局面の展開に焦慮した。

 「直義め、謝れば許すのに、東国へ走るとはな。西の直冬、南の吉野方に加えて東の直義か。京は三方を敵に囲まれている。この苦境を打開するには、方法は一つしかない」

 思い詰めた尊氏は、こともあろうに穴生に降伏を申し込む使者を送った。一つでも敵を減らすと同時に、直義追討の大義名分を得るための作戦である。普通ではとても受け入れられないと判断した尊氏は、降伏の条件として北朝の朝廷の廃止を提唱した。北朝の皇族も公家も全て無くし、三種の神器も返還するというのだから無茶苦茶である。

 足利尊氏は、もともと後醍醐天皇や南朝方に個人的な敵意は持っていない。とは言え、実の弟を倒すために仇敵である南朝に降参するとは、我々は足利尊氏のこの決断を笑うべきであろうか、それとも哀れむべきであろうか。

 穴生では、例によって議論百出したが、やはり北畠親房がこれを抑えた。彼は、一旦尊氏の降参を受け入れておいて、土壇場でこれを裏切ることによって、足利一族滅亡を企画したのである。

 だが、降参を認められた上に、後村上天皇から直義追討の綸旨まで貰った尊氏は、十一月、大軍を引き連れて鎌倉へと出陣した。後を守るのは、嫡子の足利義詮である。

           ※                 ※

 足利兄弟の直接対決は、またもや九州の勢力図を激動させた。

 武家方(一色)と佐殿方(直冬)の間には戦端が開かれ、一色探題は宮方(征西府)に帰順を申し入れた。肥後菊池は、たちまち慌ただしさを増した。

 「やれやれ、今度は一色と結んで少弐と戦うのかよ」

 「仕方なかろう、穴生は尊氏と結んで直義、直冬の親子を討つことに決めたのだから」

 「どうなってんだ、まったく。どっちが本当の味方かはっきりさせて欲しいよな」

 兄弟たちの愚痴もぼやきもどこ吹く風、菊池武光は、即座に一色直氏の降参を受け入れ、肥後国内の少弐方の討伐に掛かった。援軍を期待できない合志、川尻、少岱、詫間と言った少弐方の豪族は、あるいは敗れてどこかへ落ち延び、あるいは征西府に降伏を申し入れた。

 肥後国内に敵対勢力の無くなった征西府は、ついに五千の大軍で北上を開始した。目指すは筑後の少弐方の拠点、溝口城である。

 大宰府に兵力を集めるのに忙しい少弐頼尚は、筑後のことに構っていられなかった。かくして、溝口城は菊池勢の猛攻の前に九月中に陥落した。

 「よしっ、これで筑後全土は征西府のものだ」汗まみれの兵士たちの万雷の歓呼に応え、武光は叫んだ。「これより北上し、一色直氏とともに大宰府を討つ」

 一色範氏と直氏、そして範光は、征西府軍に合流すべく博多から南下を開始した。その兵力は約五千。もちろん、足利直冬と少弐頼尚が、指をくわえて見ているはずもない。ただちに大宰府を進発して一色軍を迎え撃った。その兵力七千。

 九月二十九日、筑前の 月隈 ( つきのくま ) 、 金隈 ( かねのくま ) の平原で両者の決戦が戦われ、その結果は一色方の敗北となった。

 退路を絶たれた一色軍に救いの手を伸ばしたのは、なんと大友氏泰であった。一色親子は豊後の日田に逃れ、そこでようやく軍勢を立て直すことができたのである。

 「大友が一色に味方しただとっ。なぜだ氏泰っ」思わず叫んだ頼尚は、やがて大友背信の理由に思い当たった。

 九州御三家と呼ばれる少弐、大友、島津氏は、自分たちの上に君臨する鎮西探題を追放することを共通の目的としていた。しかし、今や憎い探題は、少弐氏の擁する足利直冬その人なのだ。探題排撃を目的とする大友氏が、少弐と手を切るのはむしろ当然であろう。

 「すると、島津も・・・」頼尚の恐れは現実化した。薩摩の島津貞久は、ついに少弐 方を離反し、直冬方の畠山直顕と戦争状態に入ったのである。これは、先年畠山に奪われた日向守護職を取り戻すための戦いでもあった。征西府の三条泰季と島津 氏久 ( うじひさ ) (貞久三男)の連合軍は、九州南部の各地で少弐方を撃破した。

 一色軍を月隈に打ち破って凱歌を上げたはずの少弐氏は、しかし、いつの間にか九州全土で孤立していたのである・・・。

 さて、一色軍と合流できなかった菊池武光麾下の征西府軍は、筑後北部の掃討戦を戦った後、意気揚々と菊池に凱旋した。常に戦力温存を重視する武光は、勢いに乗る少弐軍と単独で戦う危険を避けたのである。

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 十一月十五日、足利直義は鎌倉に入った。上杉氏を始め、多くの豪族が彼の元に馳せ参じた。しかし、鎌倉には以前から尊氏の次男・ 基氏 ( もとうじ ) (当時は元服前で、 光王丸 ( みつおうまる ) と呼ばれていた)が、管領として入府していて、叔父を強く諌めた。

 「叔父上、兄弟の醜い争いはお止めください。敵を利するばかりですぞ」

 「その言葉は、お前の父に向かって言うのだな。戦を始めたのは、お前の父だ」

 結局、聞く耳を持たない叔父の語調に身の危険を感じた基氏は、その夜のうちに房総半島に身を隠してしまった。

 「邪魔者は去った。これより、京に攻めのぼるぞ」直義は、拳を強く振り上げた。

 直義の軍勢数万は、東海道を西へ西へと押し出した。そして、東海道を遠征してきた兄の軍勢と接触したのは、真っ白な富士山を臨む駿河だった。

 十二月十七日、真冬の寒気を二人の兄弟の激闘が熱くした。 薩捶山 ( さつたやま ) の合戦。合わせて十万に近い軍勢の血潮が、 吹上浜 ( ふきあげがはま ) を真っ赤に染めあげる。

 夕日が落ちるころには、運命の決戦は尊氏方の勝利に決定された。

 敗れて東へと逃げる直義軍は、しかし箱根で退路を奪われた。尊氏に味方する武蔵、下野、上野の豪族たちが、西上を始めた直義の後を追って大挙して進軍中であったのだが、それが、ここで追いついたのである。尊氏に勝つつもりでいた直義は、背後に迫る彼らの動きを無視しており、それが命取りとなったのである。やむを得ず伊豆に逃げ込んだ直義は、ついに尊氏の捕虜となった。虜囚として鎌倉に連行された彼の心中は、いかなるものであったろうか。

 直義は捕らえられた。しかし、直義派の豪族たちはまだ健在である。桃井直常を中心とした彼らは、敗残兵をまとめて鎌倉へと進撃を開始した。もちろん、盟主の直義を奪い返すためである。そして驚くべきことに、彼らの中には南朝方の軍勢の姿もあった。越後の新田義興と義宗の兄弟、そして北条時行、信濃の宗良親王、奥州の北畠顕信。

 「北畠親房卿は、わしを裏切ったのか・・・」暫し呆然とする尊氏。「神仏は、何故に俺にここまで辛く当たるのか。弟を、息子を、朝廷をも敵に回す男に、これ以上何を望むのか」

 絶望と怒りに震える尊氏は、しかし決断を下さねばならなかった。敵の旗頭である弟の命を縮めるという辛い決断を。

 北朝の観応三年、同時に南朝の正平七年(1352)の二月末。まだ肌寒い鎌倉政庁の一室に座る一人の男が、悲しみに満身を震わせていた。その膝には、もの言わぬ骸の頭が抱きかかえられている。

 男の頭髪は真っ白で、額に刻まれた皺には苦悩の色が滲み出ている。その両眼からは、二筋の涙がとめど無く流れ落ちた。

 「許せ、直義。兄を許せ」男の喉から、かすれたような声が漏れる。「死なせるつもりは無かった。今は争っているが、いつかはお前が改心してくれると信じていたのだ。なのに、お前に忠義を尽くす武将たちや、親房卿がそれを許さなかったのだ。本当だぞ」

 男の膝に横たわる毒殺された骸は、静かに眠り続けている。その四十七歳の死に顔は、現世の苦しみから解放された喜びに、かすかに微笑んでいるかにも見えた。

 子供のころからの刎頚の友で、苦しい戦乱を共に手を携えて乗り切って来た兄弟の、これが悲しき末路であった・・・。

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 足利直義の死は、直義派残党の士気を著しく低下させた。桃井直常ら強行派の叱咤にも拘わらず、多くの豪族たちは次々に鉾を収め、各々の所領に帰って行った。

 だが、南朝方の戦意は固かった。特に父・義貞の仇討ちに燃える新田兄弟の奮闘は凄まじく、迎撃に出た尊氏の大軍を武蔵の 小手指河原 ( こてさしがわら ) に打ち破り、尊氏を自決寸前にまで追い詰めた。

 尊氏は、からくも石浜(台東区)まで逃れることができたが、鎌倉は、その隙に新田兄弟に占領されてしまった。

 尊氏の苦境は、これに止まらない。南朝方の攻勢は、畿内でも始まった。

 新田兄弟の鎌倉入りと同時に、京都にも南朝の軍勢が襲い掛かっていたのである。楠木正儀、北畠顕能、千種 顕経 ( あきつね ) らの猛攻に、戦下手の足利義詮はひとたまりも無かった。時に閏二月二十日、義詮は都落ちして、近江の佐々木道誉の元に身を寄せた。

 こうして、実に十五年ぶりに京に南朝の旗が翻った。鎌倉と京都の同時占領。足利幕府存亡の危機である。北朝の朝廷と元号は廃止させられ、三種の神器は北畠顕能に没収された。これが、歴史上『正平の一統』と呼ばれる事件である。

 ところが、この南朝の優位は三カ月と続かなかった。

 石浜で敗軍を再編成した足利尊氏は、死力を振りしぼって新田兄弟に挑み、ついにこれを 人見原 ( ひとみがはら ) に撃破したのである。新田義宗は北方に逃れて宗良親王軍と合流し、再び尊氏に戦いを仕掛けたが、これも閏二月下旬に小手指河原で敗北した。彼らは、散り散りになって各自の本拠へと逃げ帰った。

 弟と別行動をとった新田義興は、北条時行とともに鎌倉周辺に籠城して粘ったが、善戦空しく、三月にはついに敗北し逃走した。このとき北条時行は捕虜となり、見せしめのために鎌倉で首を切られた。時行は、ついに父祖の仇を討つことができなかったのである。

 この尊氏の逆転勝利の報は、畿内の戦況も一転させた。南朝方だった赤松氏が、まず足利方に寝返り、戦力を立て直した近江の義詮と結んで京を挟撃したのである。とても支え切れないと見た南朝軍は、三月十五日には都を放棄し、男山に集結した。

 「やったぞ、これで父上に顔向けできる」

 京を回復して有頂天になった足利義詮の笑顔は、やがて無残に崩れた。帝( 崇光 ( すこう ) 天皇)がいない。光厳上皇も、光明上皇もいない。公家百官もいない。三種の神器もない。

 「しまった、奴らが連れ去ったんだ。なんとかして奪い返さないと、父上に申し訳が立たぬわ」慌てた義詮は、自ら大軍を率いて男山を包囲し、火を吹くように攻め立てた。

            ※                 ※

 一方、南軍が京都と鎌倉を同時に占領したとの報は、肥後菊池を熱狂させた。特に五条頼元などは涙で顔をくちゃくちゃにし、「ついに我らの世の中になった」と、万歳を叫ぶ有り様であった。

 「畿内の味方もやるもんだなあ」木野武茂は、しきりに感心した。「足利兄弟の仲間割れに付け込んだ結果と言っても、これだけ鮮やかに決められるとは思わなかったな」

 「お屋形は、これで戦に蹴りがつくとお考えか」城武顕が、武光に真剣な眼差しを向けてきた。

 「いや」武光は首を横に振った。「楽観は禁物だ。なにしろ、足利尊氏はまだ健在だからな。奴が生きている限り、行く末は分からぬ」

 やがて、武光の予見は的中した。鎌倉と京都は共に足利方に奪回され、男山の味方が窮地にあるとの知らせがもたらされたのである。やがて、男山の本営から援軍要請の使者が菊池に駆け込んで来た。

 「なんだって」知らせを聞いた懐良親王は愕然とした。「男山に、帝がおられるというのは真のことなのか」

 「真にございますっ。帝(後村上)は、京都の味方の優位をお信じなされて、去年のうちに穴生を起って男山に鳳簾をお移しになっていたのです」使者は叫んだ。

 「ばかな・・・、帝が男山におわすなど、初耳じゃぞ」五条頼元の白髪は逆立った。

 「男山は、包囲されていると言ったなっ」傍らに控えていた菊池武光も絶句した。「帝が、朝廷が、敵に包囲されているということなのかっ」

 「そのとおりですっ、早く早く救援をっ」使者は、興奮のあまり床に突っ伏した。

 「大変なことになった」親王は、天を仰いで目を閉じた。

 「宮っ、肥後守っ、何をぼやぼやしてるのですっ。急いで出陣の支度をっ。社禝の危機ですぞ」頼元は、頭髪を引っ掻き回して叫んだ。日頃の冷静さは失われていた。

 「静まれ、頼元」親王は、重々しく言った。「分かっているだろう。今の征西府には、大軍を連れて上洛する力はまだ無いのだ」

 「それでは、宮は帝を見捨てるのかっ」頼元の潤んだ目は、親王を鋭く射た。

 「不注意に男山に進出した帝が悪い。自力で切り抜けてもらうしかない」宮は、きっぱりと言い放った。

 気まずい沈黙が周囲を支配した。しかし、武光は内心ほっとしていた。宮将軍が冷静に発言してくれたお陰で、万座の動揺は思ったほどではない。無理して畿内に派兵する危険も避けられそうだ。

 「きっと、聖運が帝を守ってくれるでしょう」今の武光には、それだけ言うのが精一杯だった。

            ※                 ※

 男山の戦は、三月十五日から五月十一日までの、五十日以上の長期戦となった。南朝軍も善戦したが、例によって裏切者が現れてその防衛線は破られた。後村上天皇は、自ら鎧兜を身につけて敵中突破を計ったが、穴生にたどり着いた時、その鎧の袖に敵の矢が二筋も立っていたという。この退却戦で、四条隆資をはじめ、後醍醐帝以来の忠実な廷臣が多く戦死した。だが、捕虜にした北朝の朝廷や三種の神器は、事前に根こそぎ穴生に運び込むことに成功していた。この戦果を祝って南朝は、穴生を賀名生と改称した。

 「どうしたらよいのじゃ」足利義詮は途方に暮れた。「朝廷が無くなってしまったら、我らは単なる逆賊ではないか・・・。なんてことだ」

 義詮は必死になって、南軍が見逃した持明院統の皇族の所在を探した。そして、皇族は居た。光厳上皇の第三皇子の 弥仁 ( いやひと ) 親王が、幸運にも京に残っていたのである。

 「よしよし、これで大丈夫だ」そっと胸を撫で下ろす義詮。

 「安心するのは早過ぎます」佐々木道誉が発言した。「皇族が天皇に即位するためには二つの条件が必要です。一つは、三種の神器の前での即位式、もう一つは、上皇か先帝の宣命です。今の我らには、そのどちらも欠けていることをお忘れなく」

 「なんてこった」義詮は、またもや頭を抱えてしまった。「皇族が見つかったのに、天皇には出来ないのかよ。どうしたらいいんじゃ」

 困った義詮は、関東で残敵討伐に追われている父に手紙で相談した。息子の悩みを知って、さすがの尊氏も頭を悩ませた。だが、この危難を打開しないことには、自分たちの長年の苦労は水泡に帰す。

 結局、尊氏の秘策によって北朝の命脈は保たれた。八月十七日、義詮は、弥仁親王の後見人( 広義門院 ( こうぎもんいん ) 藤原 ( ふじわら ) 寧子 ( ねいし ) )を説得して無理に院政を開かせ、院宣によって宣命に代えたのである。また、神器の不在については、かつて安徳天皇が平家に連れられて神器とともに壇の浦に落ちたとき、後鳥羽天皇が神器無しで即位したという前例を持ち出して、強引に押し切った。なんともいい加減な話だが、南北朝時代というのは、無茶が平然とまかり通った時代なのである。

 ここに、北朝の 後光厳 ( ごこうごん ) 天皇が即位した。北朝元号が復活し、 文和 ( ぶんな ) 元年とされた。

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