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長編歴史小説

黄花太平記 第三部

22.直冬、九州を去る

 肥後菊池で新たな幸せが生まれつつあるころ、大宰府では、ある夫婦の破局が訪れつつあった。

 三月に足利直義毒殺の報が入ってからというもの、足利直冬の人柄は一変した。常に希望の光を宿していたその瞳は鬼のように血走り、翠に優しく愛を語ったその口は、呪いの言葉に埋め尽くされた。

 「おのれっ、足利尊氏っ。俺の母を貧窮のうちに死なせただけでは飽き足らず、俺の才能を誰よりも買ってくれた父上(直義)を苦しめて殺すとはっ。もう許せんっ。貴様とは同じ天は抱かぬぞっ」

 彼の顔付きは厳しくなり、周囲に誰も寄せ付けようとしなくなった。突然、屋敷から庭に飛び降りて樹木を滅多矢鱈に切り刻んだり、ひどい場合には、床柱に太刀で切りつけたりした。

 そんな夫の姿を見かねて、翠の眉間にも苦悩の皺が刻まれ、その両眼は真っ赤になった。夫から浴びせられる暴言にも健気に耐える翠は、新婚のころの幸福を思い出してはため息に暮れていた。

 北九州全体の戦況の不利は、そんな直冬をますます苛立たせた。

 「頼尚っ、いつになったら九州の大軍を率いて東上の途に就けるのか。今日こそ、はっきりしたことを聞かせてもらおうかっ」

 会議の場で声高に叫ぶ娘婿の見幕に、さすがの少弐頼尚もたじたじとなった。

 「今しばらく、としか申し上げられませぬ。一色、大友、島津の連合軍を撃破し、肥後の征西府を血祭りに上げるまでの辛抱にござりますれば・・・・」

 「ふんっ、そんな悠長なことを言っているうちに、父の仇の尊氏めは年老いて死んでしまうわ。それまで待てん、待てんぞっ。なんとしても、この手で尊氏の首をはねねば収まりがつかぬっ」

 「そこをなんとか・・・」平伏した頼尚の額を、脂汗が滴り落ちた。

 「俺を頼る豪族は、なにも少弐ばかりではない。周防の大内も、因幡の山名も、越中の桃井も、父上の息のかかった者たちは皆、俺の東上を心待ちにしておるのじゃ。それを知りながら大宰府なぞに落ち着いているのは、頼尚、お前が俺の義理の父親だからぞ」

 「・・・こ、光栄にござります」

 「それが分かっているのなら、もっと踏ん張るがよい。誠意をこの俺に見せてみろ」

 「・・・・・・・」

 「言っておく。あと一度でもお前が戦で敗れたなら、俺は迷わず九州を去る。山名や大内と力を合わせ、京を攻めるぞ。そうなったら少弐は用無しだっ。覚えておけっ」

 そう言い捨て、足早に会議の間を去る足利直冬。屈辱に震える頼尚は、しばらく顔を上げることも出来なかった。

 「なんて男だ」我慢していた怒りを剥き出したのは、頼尚嫡男の直資だった。「誰のお陰でここまでになれたと思っているんだ。何もかも、おいたちが全力で盛り立てたからではないか。それを、それをっ・・・。ちくしょう」

 「父上、あんな奴、即刻九州から追い出してしまいましょう。こっちから願い下げだ」次男の冬資も、怒りで真っ赤な顔を歪めている。

 「御曹司たちの申すこと、もっともです」饗庭宣尚も、憤然とした口調で言った。「なぜ、こんな思いをしてまで耐えるのですか、お屋形」

 「・・・翠のためよ」頼尚はやっと顔を上げて、集まっている一族の面々を見渡した。「佐殿は、翠の婿ぞ。佐殿に大宰府を去られたら、翠は何と言って悲しむことか。それを思ってわしは我慢したのじゃ。これからも我慢する。じゃから、お前たちも耐えてくれ、頼む」

 この時代、正妻を戦に伴うことは許されないから、直冬が九州を去るということは、すなわち直冬と翠の破局を意味する。娘想いの頼尚は、それだけは何としても避けたかったのである。そして万座も、頼尚の気持ちを知って沈黙せざるを得なかった。

 だが、頼尚の奮闘にも拘わらず、戦況は少弐方にとってますます不利になった。直冬の乱行狼藉を耳にした九州の豪族たちが、ますます直冬を見限って一色探題に味方したからである。

 この情勢に、博多に戻った一色直氏は大動員令を発した。たちまち龍造寺、深堀、千葉を中核とする軍勢が参集し、その威容は博多の街を揺るがせた。十一月中旬、博多を進発した大軍は一気に大宰府に迫った。一色軍には、これまで少弐方だった豪族たちも続々と馳せ参じ、いつしか二万を越える大軍となっていたのだ。

 「こんな大軍が手元に集まったのは、九州に来てからというもの初めてじゃ」一色範氏は、胸の高揚感を抑えることが出来なかった。これでついに、憎き少弐を圧倒できる。

 これに対し、頼尚の元に集まったのはわずかに五千の兵力であった。何度も言うが、この時代の武士には忠義という観念はない。強くて恩賞を呉れそうな方に味方するだけである。そして、いまや一色方の優勢は間違いないところ。少弐一族以外の武士は、ことごとく頼尚を裏切ったのだ。

 「翠のために、これ以上は負けられぬ」

 悲壮な決意で迎え撃った少弐軍は、しかし大宰府近郊で大敗を喫した。やはり多勢に無勢である。大宰府に肉薄した一色軍は、総攻撃の陣型を整えた。

 そんな絶体絶命の少弐氏を救ったのは、なんと菊池武光であった。

 「ここで少弐が滅亡したなら、強大化した一色が手に負えなくなる。それを防ぐためには、直冬方と協調して一色を叩くしかない」こうして北進してきた菊池軍五千は、肥前の 船隅 ( ふなくま ) に陣を張った。これを見た一色直氏は、やむなく大宰府攻撃を諦めて、その主力を船隈に向けたのである。少弐軍に、ようやく態勢を立て直す余裕が与えられた。

 「大宰府の包囲は解けたな。よし、引き上げる」武光は、小競り合いの後に全軍を転進させた。例によって、味方の損害を最小限に抑える作戦方針に従ったのである。

 「武光め、相変わらず腰抜けぞ。よろしい、一旦引き返して準備を整えよう。そして、年が明けたら一気に大宰府を攻略し、少弐一族を滅亡させるのじゃ」菊池勢を撃退した一色軍は、こうして解散し、それぞれの領国に引き上げた。しかし、その戦果は十分だった。一色探題の威勢は北九州を風靡し、逆に足利直冬は九州を諦める決意をした。

 「もはやこれまでじゃ。予告どおり、俺は山名のところへ行く。これまで世話になったな、頼尚」足利直冬は、膝まずいた少弐頼尚の肩に手を置いて語った。一時的に敵の脅威が去った大宰府政庁のある日のことである。

 「お役に立てずに、申し訳ござりませぬ」頼尚は、面を下げたまま言った。

 「気にするな・・・。翠は置いて行く。よろしく頼むぞ」

 思わず顔を上げた頼尚は、やがて深い吐息とともに項垂れた。

 文和元年、同時に正平七年(1352)十一月二十七日、足利直冬は筑前の芦屋津から大内氏の寄越した迎えの船に乗り込んだ。見送りに来た翠との別れ際、直冬は愛妻と優しく抱擁をかわして約束した。

 「父母の仇・足利尊氏の首を取ったら、必ずお前を迎えに来る。お前を、京の一番美しい屋敷の主人としてやる。楽しみに待っていろ」

 「・・・うちは、うちは屋敷なんか要りません。あなたと一緒にいられるだけで幸せなのです。きっと、きっと無事な姿でお帰り下さい。うちは、うちは、いつまでもお待ちしていますから・・・」

 涙を懸命にこらえる翠。直冬は、そんな彼女の双眸に溢れる涙を優しく指で拭ってやると、颯爽と迎えの小船に飛び乗った。

 「さらばだ、九州。しばしの別れ・・・」

 九州に風雲を巻き起こした男、足利直冬はこうして去った。後に残されたのは、涙に暮れる翠と、弱体化し一色探題の脅威に脅える少弐一族の無残な姿であった。

 

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