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長編歴史小説

黄花太平記 第三部

24.父と子の絆

 これまで肥後で逼塞していた征西府。その征西府軍が、一色探題の圧倒的大軍を針摺原にて一撃で粉砕した事実は、九州情勢に決定的な影響を及ぼした。

 おそるべき菊池勢の強さ。それに加えて、懐良親王が、針摺原で功績を立てた武士たちに公正で相応な恩賞を与えたという評判は、これまで一色探題に味方していた豪族の心を動かした。彼らは、次々に征西府に恭順の意を表明したのである。

 また、それまで武光に反感をもっていた与一武隆も、この大戦果に心を打たれた。今までの不明を武光に詫びて、征西府のために全力で働くことを誓ったのである。

 肥後菊池には、伺候してくる豪族たちが引きも切らず、懐良親王は謁見に追われて忙しい日々を送った。そんなある日、親王の元に知らせが入った。

 阿蘇大宮司惟時の病死である。

 阿蘇惟時は、昨年の暮れから病の床に伏していたが、この寒気を乗り切ることができなかったのである。惟時の勢力は、以前から北朝の旗を掲げたまま中立の立場を守っており、肥後国内の安定を乱す異分子であった。その惟時の死は、むしろ朗報と言ってよい。

 「阿蘇惟澄を阿蘇大宮司に任命する」征西府の令旨が下った。ここに、阿蘇惟澄の念願は達成された。亡き惟時には他に子は無く、阿蘇惟澄がその名跡を継ぐのは当然の成り行きであった。かくして、阿蘇大社の南北対立は自動的に解消され、阿蘇一族は全力を挙げて征西府のために尽力する立場となったのである。

「良かったなあ、惟澄どの」親友の菊池武光は、新大宮司を屋敷に招いて歓待した。

「ああ、だが不思議だよ。あれほど切望した地位が、いざ手に入るとなんだか空しくてな。それとて、征西府のお陰というより、父が死んでくれたおかげだからな。素直には喜べないな」

 「そんなものかのう。・・・さあさあ、今日は思い切り飲んでくれ」

 一族総出の宴会がひけた後、二人は水入らずで静かに杯を酌み交わした。時折、武光の妻の由里子が銚子を運んで来る外は、誰の邪魔も入らなかった。

 「おはんの家の虎夜叉は、幾つになった」惟澄が、酔って真っ赤な頬を震わせる。

 「やっと十一だ」愛する嫡男の話題に、武光の頬も笑み崩れた。

 「可愛い盛りじゃな」

 「うん、でもな、裏庭でせっせと剣の稽古をしとるのよ。もう男になる準備をしとる」

 「昔のおはんにそっくりだな。覚えているか、十郎。おいとおはんの出会いを」

 「ああ、深川の裏庭で剣の稽古をしてるところを惟澄どのに盗み見されたのが、腐れ縁の始まりじゃったな」

 「盗み見とは、人聞きの悪い」

 「いやあ、すまぬ、すまぬ。あれからもう二十年になるのか、早いのう」

 「まったくな。今や、二人ともいい親父よの」

 「そういえば、惟澄どのの息子は二人とも元気なのかい」

「ああ、元気だよ。次男坊の 常盤丸 ( ときわまる ) は、今年元服だ。菊池一族の通字にちなんで、 惟武 ( これたけ ) と名乗らせるつもりだが、どうだろう」

 「惟武か、良い名じゃな。きっと強い男に育つぞ」

 「だといいが、心配は、兄の 惟村 ( これむら ) と仲が悪いことだ。母親が違うせいか、いつもいがみ合っておる。差別して育てたつもりはないのだが、惟村は、父が弟ばかり可愛がって自分のことを疎かにしていると思い込んでいるようなのじゃ」

 「惟澄どのは、戦が忙しくて家庭を顧みる暇がなかったんだ。ある程度は仕方ない」

 「菊池一族が羨ましいよ。あんなに兄弟が多いのにみんな仲良しだ。うちの息子たちのために、仲良しの秘訣を教えてくれんかな」

 「秘訣なんて、あるわけないだろ。なんでうちの兄弟仲が円満なのか、実はおいにも良く分からんのだから」

 「そりゃそうだ、そんなのは理屈じゃないもんな」

 「もう、夜も更けた。今夜は泊まって行けよ」

 「ああ、最初からそのつもりさ」

 酔い潰れて高鼾の惟澄の傍らで、寝具に包まる武光は、一族の絆について考えをめぐらせた。確かに、菊池氏の兄弟縁者はみんな仲が良い。その理由はなんだろう。武重公が寄合衆の制度を定め、みんなが平等に政治に参加できるようにしたからか。それとも、大智禅師が一族の中心にいて、心の支えとなってくれたからか。どちらも正しい。でも、どちらも違う。それもあるけど、それだけじゃない。もっと根本に別なものがあるはずだ。

 そのとき、武光の脳裏に父・武時の姿が浮かんだ。 息浜 ( おきのはま ) を出撃し、博多の探題館に押しかける直前の父の勇姿は、今でも武光の瞼に焼き付いている。

 父は、五人の妻を平等に愛し、十五人の子供を対等に扱った。いつも豪放に見せて、そのくせ気配りを忘れなかった。大勢の子供の個性を的確に把握し、それを発揮できる機会をいつも与えてくれた。その父は、決して勝ち目の無い戦場に飛び込み、朝廷と子供達のために我と我が身を犠牲にした。そして、そのお陰で我らは、建武政府で肥後、肥前、対馬の三国司に任命されるという栄誉を担えたのである。

 そうなのだ。父なのだ。父・武時の暖かさと、その壮烈な最期の記憶があるかぎり、我ら兄弟一族は団結し、朝廷のために戦い続けることだろう・・・。

 謎を解いた。少なくとも解いたと思った武光の寝顔には、いつしか満足そうな優しい微笑みが宿っていた。

           ※                 ※

 菊池武光が父の勇姿を夢に描いているころ、皮肉にも京の都では悲しき親子の相克が演じられていた。

 時に文和二年、同時に正平八年(1353)六月、中国一の大豪族、山名師氏と大内弘世の両氏を味方につけた足利直冬は、たちまちのうちに山陰、山陽を平定し、圧倒的大軍で都に迫った。直冬は、事前にぬかりなく南朝に降参を申し入れていたので、楠木、北畠といった賀名生の南朝軍も呼応して進撃したのだ。

 都を守る足利義詮や佐々木道誉は大敗し、後光厳天皇を奉じて近江、ついには美濃の垂井にまで逃れた。かくして、再び京都は南朝方に回復されたのである。

 「ああ、今度は血を分けた息子と戦うのか・・・」鎌倉で旧直義派や南朝方豪族の鎮圧にあたっていた足利尊氏は、天を仰いで嘆息した。だが、やらねばならない。嫡男の義詮が追い詰められているのだ。

 かくして尊氏は、次男の基氏を鎌倉に残し、坂東の大軍を率いて西上した。

 七月から九月にかけて、都は恐ろしい戦場となった。親子の争いは、しかし結局、父方の勝利で蹴りがついた。直冬は山名軍に守られて山陰に逃れ、南朝軍は賀名生に撤退した。

 「尊氏め、俺は敗けたわけではないぞ」直冬は、なおも執念を捨てなかった。軍団を再編成し、第二次進攻の準備に余念がなかった。

 こうしたわけで、博多の一色直氏の救援要請に尊氏が応えられなかったとしても、それは仕方ない事だった。このころ、征西府軍の肥前侵攻が本格化し、一色探題は窮地に立たされていたというのに。

 ところで、南朝が足利一族の内部分裂に付け込んで二度までも京都を回復できたのは、ひとえに北畠親房の指導力に負うことが大きかった。その親房も寄る年波には勝てず、ついに文和三年、同時に正平九年(1354)四月に病没した。六十二歳であった。

 大打撃を受けた南朝の闘志は、しかし衰えを見せなかった。同年十二月には、勢力を回復した直冬や、旧直義派の桃井、 石塔 ( いしとう ) 、斯波、吉良氏と連合して、再び京に突入。尊氏・義詮親子を追い払い、三度目の京都回復に成功した。

 天皇を守って近江に逃れた尊氏親子は、そこでやっと体勢を立て直し、翌年の二月には反攻を開始した。直冬・南朝軍の防戦は激しく、この戦いに京都は一面焼け野原と化した。

 「俺は、なんのために戦っているのだろう」足利直冬は、一面の焦土を見て悩んだ。自分がやろうとしていることは、養父の恨みを晴らすために実父の首を撥ねること。その不毛の執念ゆえに、多くの民衆に塗炭の苦しみをなめさせているのだ。

 そんな直冬が、東寺に捧げた願文が残されている。

 『父なる人は敵陣におわしますが、父と争うのは直義に代わって忠孝の道を歩み、君側の姦を討つためなのです。決して、自分の栄耀栄華のためではありません』

 なにやら、自分に対する言い訳のように感じられる。

 主将の直冬に迷いがあったためか、南朝軍は三月の戦いに敗れ、やむなく京都を放棄して男山に結集した。

 「まだまだ戦えますぞ」

 「敵も相当に疲弊しています。そこに付け込めば一気に決着をつけられますぞ」

 進言する桃井直常や山名師氏の必死な形相に、直冬は突然に嫌悪を感じた。こいつらは、幕府に逆らって自分の領土を広げるための口実に、俺を利用しているだけなのだ。

 「いったん引き上げて、再挙の機会を待つ」直冬はきっぱりと言った。

 その日のうちに、直冬は軍勢を解散させて中国路に落ちて行った。主将に戦意が無ければ仕方ない。南朝軍もやむなく畿南に撤退した。

 そして、貴公子・足利直冬は、二度と兵を動かして京都を脅かすことは無かった。だが、この悲しき父子には、ついに分かりあえる日が来なかったのである。

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