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長編歴史小説

黄花太平記 第三部

26.大智と武澄

 「あっ、また動いた」

 早苗は、少し大きくなったお腹を押さえて微笑んだ。もう、懐妊してから七カ月になる。

 初めて自分が妊娠したことを知ったとき、彼女は喜びよりもむしろ戸惑いを感じたものである。妙に体がだるくなり、食べたものを吐くことも多くなり、病気かと思って乳母の桔梗に相談したところ、それが懐妊の証拠だと教えられ、どんなに驚いたことか。

 夫との仲もそれほど良いわけではなく、夜の営みもおざなりで、それでも赤ちゃんができる驚きと、いつまでも子供の気分が抜けない自分が、ついに母親になる時が来たというこの二つの驚きは、早苗の心を不安にさせた。

 夫は、妊娠の事実を告げても、びっくりした顔で「そうか」と一言答えたきりである。身重な妻を顧みず、いつも北九州の戦場を転々としていて、便りひとつ寄越さない。

 それでも、早苗の気持ちはやっと整理がついて来た。自分の腹を蹴る元気な赤ちゃんの足は、彼女に現実を意識させた。うちは母になるのだ。赤ちゃんが失望しないような素敵な母にならなければいけない。もう、馬に乗るのはよそう。女友達たちとはしゃぎ回るのもよそう。桔梗に叱られずに、いつもしっかり家のことを取り仕切ろう。

 そう、うちは母親になる。あの人とうちの子は、きっと強い子になるだろう。

              ※                 ※

 だが、早苗の兄・菊池武光の心は、なんともやり切れなかった。征西府と賀名生の朝廷は、どうやら早苗を懐良親王の正妻として認知していないらしい。おいの妹は、親王の子を生むのだぞ。正統な皇族の母になるのだぞ。どうして軽く扱うのだ。肥後菊池の武士の娘が、そんなに物足りないのか。こんなにも朝廷のために尽くしているのに。

 早苗の健気な笑顔を見るたびに、武光の心は痛む。いつか必ず、妹の価値を思い知らせてやる。そのためにも、菊池一族は勝ち続けなければならない。いずれは足利幕府を滅ぼし、天下を南朝の下に統合して見せる。菊池氏が、無くてはならない武士団であることを、賀名生に分からせてやる。

 そんな武光の心配の種は、同母兄の六郎肥前守武澄の健康である。武澄は、昨年の一色討伐戦から凱旋した直後に高熱を発し、病床についてしまったのである。仲が良く、しかも有能な兄の容体の悪化は、武光を大いに悩ませていた。

 「兄上、早く元気になってくれ。兄上は、一族にとって無くてはならぬ人なのだから」

 武光は、足繁く武澄の屋敷を訪れて病床を見舞った。

 「ああ、まだ、くたばるつもりは無いよ」武澄は、茵の中から弱々しく笑いかけた。しかし、武澄は衰え行く自分の体に希望を見いだすことはできなかった。

             ※                 ※

 正平十一年は、全国的に戦の影が薄れた年であった。中央では、足利直冬を中国に追った幕府方の優位に揺るぎなかったが、九州では菊池氏の擁する征西府の優位が確立されていたからである。

 南九州での戦いは、島津氏の攻撃の前に、畠山直顕率いる日向の幕府方は次第に追い詰められていた。だが、征西府に帰順したはずの島津貞久は、不穏な動きを見せていた。貞久は、三男の氏久を征西府方で行動させながら、次男の 師久 ( もろひさ ) を幕府方に立たせて、薩摩の征西府方の豪族を攻撃させたりしたのだ。また、大友氏時も長門の一色親子と連絡を取り合い、何かを策していた。上辺はおとなしい少弐頼尚も、密かに北九州の豪族たちに密書を送ったりしている。つまり、征西府の優位は、必ずしも万全とは言えなかった。

 それでも、この年の夏は大いなる喜びが肥後菊池を満たした。征西将軍宮夫人の早苗が、無事に男の子を出産したのである。子供のころから野山で体を鍛えた早苗は、さほど苦しまずに分娩を終えることができたのだった。

 「よく頑張ったぞ、早苗」懐良親王は、さすがに顔をほころばせて喜んだ。「私も、これで父親か。なんだか複雑な気持ちだぞ」

 「この子の名前は、あなたが付けてくださいな」

 「おお、よしよし」懐良は、赤ん坊を妻の前で抱き上げて言った。「この子は、きっと勇敢な男になるだろう。菊池氏の通字にちなんで『 武良 ( たけよし ) 』と名付けよう」

 「まあ、とても素敵な名前ね」

 「ああ、名前負けしないように育ててくれよ」そう言い置くと、懐良は赤ちゃんを乳母の手に渡し、部屋を出て行った。それっきり、もう何日も姿を見せなかった。

 「あの人ときたら、仕事のことばかり。うちの前でも、決して本心を見せてはくださらない。あの人は、やっぱりうちが好きではないのかしら」真剣に悩む若い母親の姿が、そこにあった。

 そんな早苗の思惑にも拘わらず、菊池の城下の民衆の間では、宮将軍嫡男の出産が心から祝福された。隈府の町人たちは、互いに相談しあって、将軍宮夫妻のために能を奉じることを決めた。懐良は、それを喜んで受けることとし、さっそく隈府城の中庭に舞台が設けられた。これが、 松囃子 ( まつはやし ) 能 ( のう ) の始まりとされている。

 この松囃子能は、 勢利婦 ( せりふ ) 、 老松 ( おいまつ ) 、能の順番に演じられるが、その歌詞に特徴がある。

 「天下泰平、国家安穏、武運長久、息災延命、弓は袋に入れ、剣は箱に納め、我朝にて、えんぎは延喜の帝の御代とも言いつべし」これは、菊池の民衆の望む平和が、延喜(平安時代の元号)の時のような天皇独裁の社会にあることを意味する。これは、領主たる菊池氏の目標に合致しており、領主と民衆の強い結合が窺えるのである。また、

 「春の海は、東よりなびきおさまりぬ。西の海、西の海、唐船の貢物、数え尽くさじ」この歌詞は、当時の菊池の経済を象徴的に示している。倭寇と博多商人を傘下に収めた征西府の貿易活動の盛んな様子は、民衆にも強い印象を与えたのであろう。

 この能は、今日でも熊本県菊池市で秋に盛大に行われているから、興味のある読者は見に行くと良いかもしれない。

            ※                 ※

 この年の九月、一色直氏と範光の兄弟は一年ぶりに九州の土を踏んだ。征西府に最後の反撃を加えるために、豊前に上陸したのである。懸命な宣伝活動の甲斐があって、山鹿、麻生氏を中心とする三千の兵が集まった。

 「あの程度の敵なら、彦四郎(武義)で十分だろう」知らせを受けた菊池武光は、自ら出陣せずに若い弟たちに戦いを委任した。彼は、配下の武将たちの育成にも熱心だった。

 勇躍して出陣した武義と武勝の兄弟は、筑前麻生山で一色軍をとらえた。

 「ここが正念場ぞっ。者共踏ん張れっ」一色直氏は、陣頭に立って督戦した。ここで負けたら後がない。しかし、大勢は菊池軍有利と見て、まず山鹿一族が寝返った。横腹を寝返り軍に衝かれ、ついに一色軍は崩壊した。菊池兄弟の激しい追い討ちを受け、長門に帰った一色勢は満身創痍であった。

 またもや、菊池氏の凱歌が轟いた。一色兄弟は完全に打ちのめされ、戦意を喪失した。

 「もう駄目だ。範光、父を追って京に帰ろう。九州は諦めよう」

 「・・・無念です、兄上」

 二人の父・一色入道範氏は、既に昨年のうちに京に帰っていた。父に逆らって執念で復仇を図った息子たちも、ここに、父の後を追って寂しく上京することとなった。これをもって、一色探題は完全に消滅したのである。

                  ※                 ※

 相次ぐ勝ち戦に有頂天になる菊池の城下町では、現世からの解脱を訴える大智禅師の影が日に日に薄くなっていた。現世で栄光を獲得しつつある菊池氏にとって、もはや大智の教えは何の意味ももたなかった。

 そのため、病床の菊池武澄は、自分の亡き後の大智の立場が心配でならなかった。これまで大智の聖護寺が何とかやって行けたのは、すべて武澄とその一家の援助のお陰である。他の者から忘れられつつある大智の未来は、決して明るいものではない。

 意を決した武澄は、病身をおして聖護寺を訪れた。彼に付き添うのは、今や逞しく成長した嫡男の 武安 ( たけやす ) である。

 「これは、肥前どの。お呼びくだされば、こちらからお訪ねしたものを」

 恐縮して頭を下げた大智は、武澄来訪の用件を薄々察知していた。

 「おいも、もう長くありません。禅師には、かねがねお世話になりましたが、その恩返しもおぼつきません」武澄は、厳粛な面持ちで切り出した。

 「何をおっしゃいますか。恩を受けっぱなしなのは、こちらですわい」慌てて手を打ち振る大智に構わずに、武澄は続けた。

 「ひいては、ここに控える愚息・武安が、おいに成り代わりて禅師をお助けする所存。なにとぞ、よろしくお願いいたす」

 「よろしくお願いいたす」太い声で言った武安は、柔和な物腰の父に似ず、大柄で猛々しい青年であった。ただ、その瞳の中に宿る英知は、単なる猪突猛進型の人物では終わらない何かを感じさせた。

 「こちらこそ、よろしくお願いします」大智は、静かに頭を下げた。

 「ところで」武安は、本題に入った。「禅師は、こんな山奥でいつまで不自由な生活を続けなさるおつもりか」

 「ははは、山奥こそ拙僧の好むところ。出来るならば死ぬまでここで生活したいところですが」

 これを聞いた武澄は、かすかに眉をしかめたが、意を決して切り出した。

 「我ら肥前家は、今度、所領のある 石貫 ( いしぬき ) に寺を建立することに決めました。そこで、勝手ながら大智禅師に当寺の開祖となっていただきたく、お願いいたす次第」

 「・・・・・」大智は、武澄の目を見た。その目は、大智の身を慮んばかる誠意にあふれている。それで大智は全てを理解した。武澄は、自分の死後、大智を庇いきれなくなることを心配し、息子たちの目の届く石貫に彼を移そうと考えたのである。だが、菊池本家との関係の冷却を強く感じていた大智は、すでにこの日の来ることを予想していたので、それほど動揺しなかった。

 「分かりました」大智は再び頭を下げた「ありがたくお受けします」

 「かたじけない」武澄は、肩の力を抜いた。これで、自分の最後の仕事は済んだ。

 それから間もなくの正平十二年(1357)七月、菊池肥前守武澄は、家族に見守られながらその波乱の生涯を閉じた。享年は四十二。

 有能な武澄の死は、菊池一族を始め、征西府の首脳にとって大きな打撃であった。また、いつも謙虚で人柄も良かった武澄の死は、多くの友人や縁者に心からの悲しみをもって受け入れられた。

 だが、武澄の死をもっとも悲しんだのは大智であろう。彼は、武澄の逝去を悼み、次のような詩吟を残している。

 『 吹毛 ( すいもう ) の剣を一揮すれば、百千の魔軍 戈 ( ほこ ) を倒して帰降す、死中能く生き、 無文印 ( むもんいん ) を 拈提 ( ねんてい ) すれば、十方世界、海晏く河清し、活中に能く死す(以下中略)、何が故ぞ、太平の元、是れ将軍の致すを、許さず将軍の太平を見るを』

 大智は、前半で武澄の武勇を称え、後半で彼の活躍のお陰で九州の平和の基礎が築かれたというのに、彼は平和の完成を見ることができないことを嘆いているのである。

 武澄の遺体を火葬にし、手厚く葬った大智とその弟子たちは、さっそく石貫への移住の準備をした。二十年に亙って住み慣れた聖護寺を去る彼らの心境は複雑である。武重のころはあれほど栄えた聖護寺の地位は、いまやすっかり没落した形である。

 「一抹の軽煙遠近の山、展べて淡墨の画図と成して看る、目前の分外に幽意を清くし、是れ道人にあらずんば、倶に語ること難し・・・」

 かつて自ら詠じた「 鳳儀 ( ほうぎ ) 山居 ( さんきょ ) 八首 ( はちしゅ ) 」の巻頭の詩を口ずさむ大智の心境は、いかなるものであったろうか。

 ここに聖護寺は閉じられ、大智と彼を慕う僧侶や尼たちは、石貫の広福寺に移住した。大智六十五歳のことであった。

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