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長編歴史小説

黄花太平記 第三部

29.血に染まる筑後川

 だが、征西府軍が陣頭に掲げた起請文の効果はあった。盟主の不義を改めて思い起こされた少弐方の豪族たちの戦意が、目に見えて低下したからである。

 こうしている間にも、大保原で対峙する両軍に続々と各地の豪族が参加して行き、いつしか少弐軍は六万、征西府軍は四万の大軍へと膨張していた。

 あの波多勇も、九州の風雲を知って海からやって来た。彼の率いる海の荒くれたちは、最初は船に乗って戦えないことをぼやいていたが、懐良親王の部隊に参加することに決まって喜んでいた。

 運命の八月六日、ついに菊池武光は決断を下した。勝敗は五分五分だが、もはや迷っている段階ではない。長期対陣で味方の疲労が高まる前に、なんとしても決着をつけねばならないのだ。

 「次郎、お前に重大な任務を与える」嫡男を密かに本営に呼び出した武光は、極秘の作戦を授けた。「お前は、手勢一千を率いて東方を迂回し、少弐軍の背後に回れ。そして、味方主力の総攻撃の喚声とともに、敵の背後を襲うのだ」

 「分かりました、父上」武政は、その大きな目を父に注いだ。彼は、父が何故嫡男の自分にこの任務を与えたのか良く知っていた。この任務があまりにも危険すぎるので、とても他人には任せられないからなのだ。味方と切り離されて敵の後ろに回るということは、一歩間違えば皆殺しにあうことを意味する。だが、誰かがやらねばならないのだ。武政は、父のつらい心を察し、笑顔でこの任務を受諾したのである。

 武政はさっそく手勢を纏めると、密かに本陣を後にした。遥か東に回り込み、少弐軍の背後に広がる草原地帯に身を潜めた。

 その夜、雲に隠れた弦月の下では、草原に身を伏せた菊池武政隊が、干し飯を口にしながら戦機の到来を今か今かと待ち受けていた。ところが、慎重な少弐頼尚は、陣の背後に斥候を出すことを忘れていなかった。食事のために不用意に動き回った武政隊は、たちまちこの敵に発見されてしまった。

 「しまった、見つかった」武政は、すかさず立ち上がり、馬の鞍つぼに身を置いた。「こうなったら、味方主力の攻撃まで待てぬ。行くぞ、者共っ」

 大喚声とともに、少弐軍の真後ろに突入した武政隊。これが、中世九州最大の激戦の幕開けだった。

 「なんとっ、真後ろから夜襲とは・・・」少弐頼尚は、あわてて寝所から跳び起きると武具を身に纏った。味方は大混乱であった。わずか一千の敵の前に、六万の大軍は統制を失い、各所で同士討ちを起こしている。

 「次郎がやったぞっ。遅れるな、者共っ」菊池武光の号令一下、征西府軍の正面攻撃も開始された。ずぶ濡れになりながら、宝満川の土手に沿って湿地帯を突破する。湿地ゆえに『鳥雲の陣』は使えないけど、味方の士気は高かった。

 少弐軍の第一陣の少弐直資は、混乱する部隊を必死に纏め直し、突撃してくる菊池武明(与一武隆の次男)隊に立ち向かった。凄まじい激闘が展開される。だが、敵の動揺に付け込んだ菊池勢の方が押し気味であった。

 秋の空が白み始めるころ、両軍は二里(八キロ)にも及ぶ、かなり広い戦線に亙って激突していた。菊池武光も少弐頼尚も、小高い丘に置かれた本陣で、ギラギラする目を光らせて戦況を分析している。

 菊池武光は、少しずつ混乱から立ち直っていく少弐陣を、苦々しげに見つめた。

 「さすがは頼尚だ。針摺原の時のようには容易く崩れぬ」

 その双眸は、いつしか敵陣の奥深くに注がれていた。武光とて人である。敵中深くに孤立した嫡男が心配でならなかったのだ。

 一方の少弐頼尚は、全線に亙って後退気味の味方に舌打ちしていた。

 「直資に伝えよ。敵を押し返さない限り、親子の縁はこれまでとな」

 この厳しい父の訓示を受け、少弐直資は焦りを感じた。彼はすっかり疲弊した手勢とともに、菊池武明の旗本目指して躍りかかった。だが・・・・。

 刀を振りかざして突入する直資の額に、一筋の矢が立った。もんどり打って落馬した彼は、即死であった。

 「我は、宇都宮 隆房 ( たかふさ ) なりっ、少弐御曹司直資を討ち取ったりっ」菊池陣中から大音生がこだまする。

 ここに、大将を失った少弐第一陣は崩れた。勢いにのる武明隊は、さらに敵陣深く突入する。その後から菊池武信や赤星武貫が続く。彼らは、敵中深くで苦戦する武政を救おうと必死であったのだ。

 「直資・・・」少弐頼尚の老体は、本陣の床几の上で揺らいだ。信頼していた嫡男を失った彼の衝撃は大きかった。「反撃じゃっ、いつまでも敵に名を成さしめるなっ」

 そのころ菊池武政は、乗馬を失い、全身傷だらけになりながら、血刀を振り回して奮戦していた。彼の周囲は、わずかな郎党を除けば全て敵の海である。

 「ここまでか、潔く散るぞ」ついに討ち死にの覚悟を決めた武政の前で、突然敵が崩れ立った。逃げ散る敵の中から現れたのは、心に描いた並び鷹羽、菊池の旗だった。

 「無事か、武政どの」馬から飛び降りた菊池武明が、優しく武政を抱きとめた。「ここは我らに任せて、武政どのは後方へ」

 「いや、おいはまだ戦える」

 「その傷で何を言う。おはんはよく戦った。お陰で味方は優勢じゃ。さあ、ここはゆっくりと休んで、自分の戦果を噛み締めてくだされ」

 だがその時、少弐方の総反撃が開始された。後方に控えていた少弐の外様部隊が、一斉に動き出したのである。そのため、武政救出のために深入りしすぎた武明隊は、敵中に孤立してしまった。

 「おいが殿軍を引き受けた。一時後退するぞっ」菊池武明は、襲い掛かる敵を次々に斬り倒しながら退却を始めた。しかし、その側面を直資隊の残党が巧みに衝いた。

 「御曹司の仇じゃっ」決死の形相の直資残党の攻撃は凄まじく、武明隊は大打撃を受けた。菊池武明を始め、加勢に現れた赤星武貫らが相次いで討ち死にした。

 こうして征西府軍は、陽光がまぶしく大地を染める時分には、すっかり守勢に回っていた。やはり、少弐軍の腰は強かった。緒戦の混乱からすっかり立ち直っている。とは言え、菊池勢の食いつきも見事だった。優勢を回復したとはいえ、あれほど完璧だった少弐の陣型はすっかり乱れている。まだまだ勝機はある。武光は、汗でじっとり湿った手を強く握り締めた。

 八月七日の正午の太陽の下で、凄惨な白兵戦は続いた。正面からの叩き合いは、双方に甚大な死傷者を出した。血は川となって流れ、宝満川に注ぎ込み、筑後川の本流を黒く濁らせた。

 兵士のみならず、将校の戦死者も驚くべき数に上った。征西府方では、既に菊池武明と赤星武貫を筆頭に、結城 親明 ( ちかあき ) 、加藤宗高、 見参岡 ( けさおか ) 三河守、岩松 盛依 ( もりより ) らが帰らぬ人となっていた。対する少弐方では、少弐直資を筆頭に、少弐頼泰、饗庭重高、宗 宗邦 ( むねくに ) 、佐志将監、 山井 ( やまのい ) 惟則 ( これのり ) らが動かぬ死体と化している。

 「敵の側面を奇襲した新田勢が撃退されました」

 「武政どのと武信どのが、敵勢に囲まれましてござりますっ」

 次々に飛び込んで来る使者の報告は、武光本陣の東方一里で、親衛隊に守られて待機している懐良親王にとって不吉なものばかりであった。このままでは、じり貧になる。

 「ここは、余自らが出陣し、全軍の士気を鼓舞するしかないっ」

 そう思い詰めた親王は、鎧兜を身に纏うと馬上の人となった。

 「征西府直属隊は、我に続け。一気に頼尚の本陣を衝くのだっ」

 灼熱の太陽の下、征西将軍宮本隊四千は動いた。すさまじい勢いで少弐軍の中央に飛び込んで行く。前衛にいた饗庭宣尚は懸命に防戦したが、さすがの宣尚も、朝からの激戦に疲労した手勢をもってしては、その実力を発揮できなかった。

 敵兵の重囲に陥りながら、宣尚は迫り来る錦の御旗を睨みつけた。

 「来たっ、あれは征西将軍宮の旗じゃ。宮を討ち取れば、戦は終わる。お屋形っ、宮将軍一人を狙うのですっ。宮さえ討てば味方は勝ちですっ」はるか後方の本陣に向かって絶叫した宣尚のいかつい胸は、次の瞬間、繰り出された敵兵の槍に刺し貫かれていた。しかし、絶命した彼の目は、最後まで錦の御旗に注がれていた。

 饗庭宣尚の最後の言葉は、少弐頼尚の心に届いていた。

 「ついに宮将軍が動いたぞ。狙うは征西将軍宮の首のみでよい。一気に蹴りをつけるのじゃっ」

 頼尚の指令一下、少弐の大軍は懐良隊目指して殺到した。たちまち、親王の周囲は敵兵で一杯になった。鎧姿も凛々しい親王は、葦毛の馬を縦横無尽に操って、襲い来る敵を次々に打ち倒した。親王を守る公家武将たちも、自らの体を楯にして親王を守った。

 「なんてことだ、無茶な」菊池武光は、自らの本陣から親王隊の突撃を見て驚愕していた。武光の腹積もりでは、親王隊は最後まで動かさず、万一味方が敗走することとなっても、宮の安全だけは確保するはずだったのだ。

 「宮将軍の勇気を考慮に入れなかったおいが愚かだった。あの御気性なら、味方の危機の中に自分だけ平穏でいられるはずもなかったのだ」

 武光は、ただちに本陣直属の馬廻衆五千を集めると、自らも白馬に跨がり、訓示した。

 「なんとしても、宮将軍をお救いするのだっ。皆の者、おいに続け」

 ここに、ついに菊池武光率いる征西府軍最強部隊が戦場に投入された。総大将を先頭に、丘を駆け降り、当たるべからざる勢いで敵陣に突入する。しかし、

 「いかん、宮将軍がっ」

 菊池武光の双眸は、恐怖のために打ち震えた。彼の視界の彼方で、見慣れた親王の愛馬が敵の渦に取り巻かれているではないか。しかも、親王を守るべき公家武将たちの姿も、今や残り少なくなっている。ほとんど討ち取られてしまったらしい。

 武光の視界の中で、親王は敵の一撃を受けて落馬した。

 かろうじて立ち上がった親王は、なおも太刀を手放さず、襲い来る敵を睨みつけた。その鎧には、既に幾筋もの矢が突き立っている。激しい出血に意識が遠くなりながら、親王の姿はあくまでも雄々しかった。

 「くそっ、邪魔だっ」武光は、立ち塞がる敵兵を次々に殪しながら親王目指して突進した。だが、とても間に合わない。今や親王は四方を敵兵に囲まれている。

 そのときである。親王の危難を知った新田一族を中心とする宮方一千が、敵の側面を突き抜けて乱入してきたのは。まさに倒れようとする親王に駆け寄った宇都宮隆房は、自らの背を楯にして親王を抱きかかえ、味方の待つ後方へと歩んだ。だが、追いすがる敵も執拗だった。

 「俺はもう駄目だっ、宮を頼むっ」膾のように切り刻まれた隆房は、駆けつけた波多勇に親王の体を託すと、そのまま絶命して倒れ伏した。

 だが、新田残党の必死の奮戦で血の渦がすさぶ中、波多勇とその郎党は、気絶した親王を馬上に支え、からくも後方離脱に成功したのであった。

 「これで早苗どのの涙を見ずに済む」ある民家に落ち着いて、ほっと一息ついた勇は、しかし親王の衣服を脱がせてみて驚いた。すごい重症である。これでは、生きているのも不思議なくらいだ。

 「宮は、宮は、もう駄目かも知れぬっ」勇は、天を仰いで蒼白な唇を震わせた。

             ※                 ※

 「宮将軍は、宮将軍は・・・」菊池武光は、焦燥にくれていた。宮が後方に運ばれたのは見届けたが、あれだけ斬られていては、とても命の保証はできない。

 「死んだのか、いや、これから死ぬのか・・・」武光は、唇をきつく噛み締めた。「八幡大菩薩、どうか、宮をお助けくだされ。宮が死んでしまったら、これまでの我らの苦労は無に帰すのです・・・」

 だが、ここで武光は我に帰った。悩んでいても、親王の容体は変わらない。親王が死ぬなら、自分も死のう。親王が生きるなら、自分も生きよう。ここが一族の運命の分かれ目なのだ。嘆いている場合ではないのだ。

 「馬廻衆は、おいに続け。一気に、少弐頼尚の本陣を突くっ」

 武光は、自ら先頭に立ち、朱塗りの槍を振り回しながら敵陣に飛び込んで行った。その後ろから、残兵をまとめた城武顕や八郎武豊ら、一族の生き残りが続く。懐良親王一人に殺到していた少弐の陣型は、今や大きく乱れていた。ここに勝機がある。頼尚本陣までの道程は、比較的に平坦であった。

 「どうせ、一度は失う命ぞ。命の捨て場はここにある。者共、狂えや狂え。叫べや叫べ、今日は死ぬ日ぞ」血槍を振りかざして絶叫する武光の姿に、征西府軍は沸き立った。

 だが、本陣を守る少弐兵は、実に強かった。死を恐れず必死に立ち向かってくる。さすがは鍛え抜かれた精鋭だ。

 折れた槍を無造作に投げ捨てた武光は、腰から太刀を引き抜いておめいた。

 「雑魚は、どけいっ。おいに頼尚の首を渡せっ」

 武光の振りかざす名刀延寿国久の前に、立ち塞がる敵の騎馬武者は次々に斬って落とされる。大将の阿修羅のごとき働きに、馬廻衆の士気もいやがおうにも高まった。

 武光の二枚重ねの鎧は、いつしか矢で針鼠のようになり、その兜は脱げ落ち、髷は切れ、真っ黒な蓬髪が馬上でたなびく有り様だった。しかし、全身の苦痛をものともせず、武光は前へ前へと進み続けた。愛馬が倒れれば、敵の馬を奪って尚も突き進む。

 「来たな、菊池武光、あっぱれな武者振りよ」少弐頼尚は、本陣の床几の上から、こちらに迫り来る並び鷹羽の旗を凝視していた。

 「だが、ここまでだ。わしには、最後の切り札がある。・・・武藤、本軍を率いて武光の息の根を止めるのじゃ」

 「心得た」本陣に待機していた少弐武藤は、その大きな体を起こした。しゃぶっていた鷄の骨を吐き出すと、自慢の白馬に飛び乗る。

 「続けや、者共。武光の首を討つぞ」

 ついに、少弐軍の本営も動き出した。武藤の率いる五千は、疲労の極致にある武光勢に容赦無く襲い掛かった。たちまち押し戻される武光勢。

 陣頭で奮闘する少弐武藤は、乱戦の中に菊池武光の姿を見つけた。彼は、馬腹を蹴ると、立ち塞がる敵兵を打ち倒しながら敵の大将に肉薄した。

 「我こそは、少弐武藤なりっ、菊池肥後守とお見受けいたす。いざ、尋常に勝負っ」

 「推参なりっ」全身血と泥にまみれた武光は、それでも刃毀れだらけの延寿国久を振りかざし、武藤に挑みかかった。

 馬を寄せあって激しく切り結ぶ二人に、思わず戦の手を休めた周囲の視線が集中した。

 武光と武藤は、その持てる技量の限りを尽くして戦っていた。やがて激しく組み合った両者は、ともにもんどり打って転倒した。先に立ち上がったのは武藤。片膝をついた武光に、上段の一撃を食らわせた。かろうじて太刀で受けた武光であったが、その刀は武藤の怪力の前に遥か彼方に吹っ飛ばされていた。

 「ここまでだ、武光」丸腰の敵に馬乗りになった武藤は、その太刀を宿敵の首筋に当てた。もはや、勝利の確信は彼のものだった。

 だが、武光の眼光は、この期に及んでも輝きを失っていなかった。涼やかに武藤の五感を揺さぶる、不思議な心の波はいったい・・・。

 「・・・なぜだ」

 武藤は、その異様なまでに熱を帯びた視線に射すくめられ、思わず腕の力を緩めてしまった。武光は、その瞬間を見逃さなかった。すかさず相手の腰から小刀を引き抜くと、それを持ち主の喉笛に突き立てたのである。

 もの言わずに絶命した武藤の巨体を撥ね除けると、武光は大音生で呼ばわった。

 「菊池肥後守武光っ、少弐武藤を討ち取ったり」

 ここに、少弐親衛隊は崩れた。象徴的な指導者を失って、その士気は崩壊した。

 「ば、ばかな。武藤が討たれただと、ありえぬ」本陣で戦況を見つめていた少弐頼尚は、呆然と立ち尽くした。その双眸には、再び馬上の人となってこちらに向かって来る肥後の名将の姿がくっきりと焼き付けられていた。「鬼じゃ、菊池武光は鬼じゃ」

 「お屋形、本陣を移しましょう。ここは危険です」

 郎党たちが、いつのまにか必死な形相で頼尚の周りを固めていた。菊池勢が突入してくるのは、もはや時間の問題。

 「う、うむ」頼尚は蒼白な顔で頷いた。「かくなる上は、 花立山 ( はなだてやま ) の砦に本陣を移そう」

  だが、大保原北方の花立山に向かって移動を始めた本陣を見て、少弐方の軍勢は動揺した。

 「見ろ、本陣の旗が後ろに退がって行くぞ」

 「きっと、御大将(頼尚)に何かあったんじゃ」

 「負けたのか、おいたちは」

 「逃げよう、もう駄目だ」

 ここに、味方の敗北と誤認して、我先にと戦場から離脱する豪族たちが続出した。局部的な退却は、やがて全面的な壊走へと転じたのである。

 「なぜじゃ、なぜ止まらぬ」

 頼尚は、もはや統制を失った大軍を制御する方策を持たなかった。

 「追い討ちじゃ」泥まみれの菊池武光は叫んだ。征西府軍の猛追撃が開始された。あれほど強かった少弐軍は、もはや軍隊の形を止めぬ烏合の衆である。

 沈む夕日が、恐ろしい戦場を真っ赤に染め上げるころ、中世九州最大の合戦は、征西府軍の大勝利に決定されていた。

 征西府軍は、花立山の線まで追いすがり、そこで追撃を止めた。味方の疲労と死傷もかなりのものだったため、無理は避けたのである。

 宝満川の支流に現れた泥まみれの菊池武光主従は、小川のせせらぎに喉を鳴らした。武光は、すっかり破損した太刀を流れに差し入れ、優しく刀身の血脂を洗い、冷たい清水で顔を洗った。付近の住民は、そんな武光の様子を驚嘆の目で遠くから見守っていた。超人的な活躍をしたこの英雄を、長く記憶に止めたく思った。この小川は、そのときの住民たちによって 大刀洗川 ( たちあらいがわ ) と名付けられた。これが、今日の福岡県三井郡大刀洗町の名の由来である。

              ※                 ※

 この正平十四年八月の決戦は、九州の政治情勢を南朝優位に決定付けた重要な一戦であった。『太平記』が「 大原 ( おおばる ) 合戦」と呼んでいるこの戦いを、今日の多くの史家は「筑後川の戦い」あるいは「大保原の戦い」、また「 宝満川 ( ほうまんかわ ) の戦い」と呼ぶようである。少弐方の戦死は三千六百、征西府方の戦死は一千八百と伝えられる。いずれも、この時代の合戦にしては多すぎる死傷数である。それほどの激戦だったということである。

 この戦における菊池武光の奮闘は、江戸末期から盛んに称賛され、明治政府によって、筑後川の古戦場に武光の銅像が立てられる運びとなった。この銅像は、戦前の皇国崇拝に大いに利用されたのである。

 終戦も間近い昭和二十年三月二十七日、米軍の戦闘機隊が大刀洗飛行場を空襲した際、流れ弾の二十ミリ機銃弾が十数発、武光の銅像の馬腹をえぐった。戦前の陳腐な皇国史観に反感を持っていたに違いない冥府の武光は、きっとこの皮肉に苦笑したことであろう。

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