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長編歴史小説

黄花太平記 第四部

2.斯波探題の反撃

 ここで、当時の中央情勢について解説する必要があろう。

 室町幕府第二代将軍足利 義詮 ( よしあきら ) は、武力によって南北朝を統一することを決意していた。

 義詮は先ず、 延文 ( えんぶん ) 四年(1359)十一月、 畠山 ( はたけやま ) 国清 ( くにきよ ) に命じて五万を越える関東の大軍を入京させ、翌年には賀名生に総攻撃をかけさせた。迎え撃った南朝方は、楠木正儀を中心にして山岳戦に持ち込んで粘ったが、その抵抗力には限界があった。正平十四年(一三六〇)三月には河内金剛寺が、五月には赤坂城が陥落し、もはや南朝の命運もこれまでかと思われた。

 だが、この南朝方の苦境を救ったのは、またしても幕府軍の内紛であった。従来、畠山国清と政治的に対立していた 仁木義長 ( にきよしなが ) が、派閥抗争のもつれから幕府を離反し、本拠地の伊勢(三重県)で南朝軍として挙兵したのである。ここに急速に勢力を盛り返した南朝軍は反撃して畠山軍を打ち破ったため、国清はほうほうの体で関東に逃げ帰る羽目に陥った。これが、後に国清失脚の原因となる。

 予期せぬ大敗に激怒した義詮は、 康安 (こうあん ) 元年(1361)、幕府内の派閥抗争をこじらせた責任者である執事の 細川清氏 (ほそかわきようじ) を幕府から追放し、次いで討伐しようとした。ところが清氏は賀名生に亡命し、逆に京都進攻を後村上天皇に進言したのである。

 「今、京都を陥落させても一時的な勝利にしかなりませぬ。お止めください」

 冷静な楠木正儀は反対したが、後村上天皇は京都占領の夢を捨てきれなかった。同年十二月、京都に進攻した細川、南朝連合軍は、各地で幕府軍を打ち破り、四度目の京都占領に成功したのである。敗れた義詮は、後光厳天皇を守って近江に逃れた。

 だが、正儀の予言どおり、この南朝の京都占領は一時の夢でしかなかった。南朝軍は、態勢を立て直した幕府軍の反撃の前に、一月も持たずに京を奪回されてしまったのである。やむなく南朝勢は河内に退却し、細川清氏は手勢とともに本領のある四国に逃れた。

 以上のように、畿内の状況は非常に不安定であった。だが、足利義詮は父(尊氏)の遺言を忘れたわけではなかった。なんとしても征西府と菊池氏の手から九州を解放しなければならない。既に義詮は、康安元年の初頭に 斯波 ( しば ) 氏経 ( うじつね ) を新たな鎮西探題に任命し、豊後に派遣していたのである。この氏経は、新田義貞を討ち取った斯波高経の嫡男で、優れた武将であった。

 しかし、斯波氏経の九州への道は遠かった。彼は、鎮西探題の名の下に播磨(兵庫県)で兵を募ったが、九州の困難な情勢を知る武士たちは、みな参戦を拒んだのである。

 「腰抜けどもめっ、例え俺一人になってもやってやるぞ」

 勇敢な氏経は、一族わずか二百騎を連れて、海路から高崎山に入城した。時に、康安元年(1361)十月である。

 だが、高崎山城で大友氏時、畠山直顕、そして少弐頼尚、同冬資たちから戦況を聴集した氏経は、情勢が想像以上に困難であることを知った。今や征西府は、着実に九州全土の民心を掌握しつつあるではないか。

 「よろしい、まず 阿蘇惟 ( あそこれ ) 村 ( むら ) を動かそう」氏経は、さっそく惟村に軍勢催促状を送った。

 阿蘇惟村は、筑後川の合戦前夜に父の惟澄を裏切って以来、阿蘇山中で北朝方の旗を掲げ続けている。しかし、菊池勢の強さに恐れをなしたのか、近ごろは軍事行動を起こさずに逼塞していた。そして彼の態度は、斯波探題の催促状の前でも不動だったのである。

 「ええい、惟村など頼りにせぬわっ。こうなれば、少弐氏が長年培って来た威信こそが頼みの綱よ」

 斯波氏経は、北九州、特に豊前の豪族たちに少弐の名前で軍勢催促を行った。実りの少ない作業ではあるが、彼は諦めなかった。その甲斐あってか、少しづつではあるが、豪族たちの心は高崎山に傾き始めた。

 そして、早苗と翠が久々の対面をした年の秋には、氏経の胸には必勝の作戦が宿りつつあったのである。

              ※                 ※

 ここは大宰府政庁の大広間である。今ここに、征西府の要人が一同に会している。

 「これ以上、斯波探題の好き勝手はさせられません。ただちに征西府軍を豊後に向けましょう。一気に敵の本拠地を覆すのです」

 豊前守護代の菊池源三郎 武尚 ( たけひさ ) の発言である。

 「そのとおり。斯波探題を倒さぬかぎり、京都回復の宿願を果たすことはできませぬ」

  左馬権頭 ( さまごんのかみ ) の五条 良遠 ( よしとお ) (頼元の次男)も、積極策を支援した。

 「・・・武光は、どう思うか」上座にあって衆議を傍聴していた懐良親王は、腕組みしたまま沈黙している菊池の惣領に発言を求めた。

 「もちろん、高崎山攻めは必要です」肥後守・菊池武光は、ようやく口を開いた。「ばってん、斯波探題もそれを覚悟のはず。おそらく、何らかの手段で対抗して参ることでしょう」

 「斯波探題の兵力など、高が知れている。それほど恐れる必要はありますまい」肥前守菊池 武安 ( たけやす ) が反論した。

 「いや、万が一に備えて、大宰府の防備を万全にした上で出陣するべきだ。・・・彦四郎( 武義 ( たけよし ) )、自信はあるか」武光は、末座に控える弟に目をやった。

  「やれと言われれば、必ずやり遂げるのが、おいの信条です。きっとやります」

 菊池彦四郎武義は、毅然とした態度で言い放った。

 「よし、お前に任せる。 城武顕 ( じょうたけあき ) や藤五郎( 武勝 ( たけかつ ) )と力を合わせ、どんなことがあろうと大宰府を守り抜くのだ」

 「ははっ」武義は、兄の言葉に平伏した。

 「宮将軍、武光はただちに高崎山へ出陣します。宮将軍は、大宰府で全九州の動静を睨んでいてください」

 四十歳になった菊池武光は、その堂々とした風貌を上座の親王に向けた。

 「よろしい。必ずや斯波氏経の野望を粉砕してくれい」親王は、力強く頷いた。

 正平十七年(1362)八月、ついに征西府軍は動いた。大宰府に集結した三万の大軍は、菊池武光の指揮の下、威風堂々と東へ向けて進発した。留守を預かるのは、菊池武義を主将とする五千である。

 「ついに来たか、菊池武光」高崎山城本丸に座する斯波氏経は、その頬を緊張させた。「よろしい、少弐親子を呼べ」彼は、近侍する小姓に命じた。

 やがて本丸に姿を現した二人の人物は、少弐本通入道頼尚と、その子で北朝方少弐家督の冬資であった。

 「ご両人、喜びなされ。大宰府を奪い返す絶好の機会が到来しましたぞ。今入った知らせによると、あの菊池武光がありったけの軍勢を引き連れてこちらに向かっているそうな。つまり、大宰府の防備はそれだけ手薄になったということじゃ。・・・高崎山の守りは、わしと大友勢だけで十分だから、そちたちは、我が子松王丸とともに大宰府を強襲し、一気に敵の本拠を覆してもらいたい」

 斯波氏経のこの楽天的な語調に、少弐頼尚は眉をしかめた。

 「探題殿は、菊池武光を甘く見ていられるな」頼尚は、吐き捨てるように言った。

 「・・・そうではない。武光の能力を高く評価しているからこそ、その留守を窺おうとしておるのだ。大宰府さえ陥落させることが出来れば、征西府の威信は大いに失墜するであろう。そうなれば、征西府に味方している豪族たちも目を覚まし、幕府による九州統治を期待することであろう。それゆえ、是非ともそなたたちに大宰府攻めをお願いしたい」

「やりましょう、父上」冬資が言った。「このまま大友氏時の居候を続けていても仕方がありませんぞ。なんとしても我らの大宰府を取り戻さなければ」

 「・・・そうじゃな」小さく頷いた頼尚は、しかしこの作戦の成功を信じることができないでいた。あの菊池武光が、大宰府を手薄にして出陣するはずは無いのだから。

 そこで頼尚は、隠居中の身であることを理由に、高崎山に残ることにした。

              ※                 ※

 九月に入ると、武光率いる征西府軍は、豊後国内の大友方諸城を陥れ、次第に高崎山へと迫っていた。ところが、高崎山は囮だったのである。

 斯波氏経の嫡男・ 松王丸 ( まつおうまる ) を総大将と仰ぐ斯波軍の別動隊は、密かに豊前北部でその編成を終えようとしていた。ただし、この軍勢を構成するのは殆ど少弐一族の手勢で、その総数は六千。また、総大将の松王丸は、まだ元服前の十一歳の子供であって、実質的な総大将は少弐冬資その人であった。

 「よしっ、行くぞっ。一気に大宰府を踏みつぶしてくれようぞ」

 六千の少弐軍は、北方から大宰府目指して進軍を開始した。その行動は、しかし民心を掌握している征西府方にただちに察知されてしまったのである。

 「そうか、これが斯波氏経の悪あがきか。」大宰府守備の菊池彦四郎武義は、不敵な笑顔を浮かべ、側の郎党に命じた。「ただちに、豊後の兄上(武光)に使者を送って急を知らせよ。我らはただちに出陣し、少弐勢を迎え撃つっ」

 懐良親王を総大将に仰ぐ五千の軍勢は、大宰府北方の 粕屋郡 ( かすやぐん ) 長者原 ( ちょうじゃばる ) にて布陣し、敵を待ち受けた。その軍勢を構成するのは、武義、武勝、城武顕を筆頭とする菊池一族に加え、宇都宮、松浦、岩野、下田、川野辺氏らの手勢であった。

 一方の斯波軍は、松王丸を筆頭に、少弐冬資、その従兄弟の頼資を中核とする少弐一族に加え、急を知って駆けつけてくれた宗像大宮司勢や松浦党の一部も合わせ、七千の軍勢に膨張して長者原に突入した。時に、九月二十一日のことである。

 菊池武義は、『鳥雲の陣』を使いこなせる菊池勢の割合が少ないため、定石どおりの鶴翼の陣型で迎え撃った。自らは懐良親王と共に中軍に位置し、左右に弟の武勝と城武顕を配し、機を見て敵を押し包もうという作戦である。

 ところが、少弐軍は予想以上に強かった。なにしろ、住み慣れた懐かしい大宰府が指呼の間にあるのだから、その血潮は否がおうにも燃え上がる。彼らは、中央突破を狙って死に物狂いで奮闘した。そのため、武義の中軍は押しまくられ、多くの死傷者を出してじりじりと後退を始めた。

 「くそ、何としても持ちこたえるのだ。おいは兄上(武光)に、何があっても大宰府を守ると約束したのだ。ここで負ける訳にはいかぬ」武義は、自ら陣頭に立って刀を振るった。しかし、彼の勇姿が辛うじて全軍の瓦解を免れさせているという危うい戦況である。

 こんな激闘の最中に、ただ一つ、静かに佇む一隊があった。征西府軍最右翼に位置する城武顕隊五百騎である。彼らは潅木の生い茂る平原に根を下ろし、楯をつき並べて槍ぶすまを構えたままで、じっと戦況を見守っているのだ。

 「お屋形さま、彦四郎どのが苦戦ですぞ。我らは、ここで遊んでおってよいのですか」

 部下たちは、怪訝な顔で武顕を見た。

 「大丈夫、味方は必ず勝つ。肥後守(武光)は必ず来てくれる。だから我らは下手に動かず、追い討ちに備えて英気を養っておれば良いのだ」本営中央に屹立し、腕組みしたまま豪語する武顕の不思議な自信に、部下たちは首をかしげるばかりであった。

 しかしその時である。優勢だった少弐勢が突如として混乱し、崩れ立ったのは。

 「なんじゃ、何があったのだ」少弐冬資が本陣で怒鳴った。

 「き、菊池武光ですっ、武光の軍勢が側面に現れましたっ。味方は総崩れっ」

 前線から駆けつけた郎党の報告を聞いて、冬資は衝撃のあまり采配を取り落とした。

 「まさか・・・・まさか・・・武光は豊後にいるはずだぞ。豊後からわずか一日のうちに救援に来たと言うのかっ」

 種を明かそう。斯波氏経の作戦を半ば予想していた武光は、大宰府と高崎山を結ぶ街道の宿駅沿いに多くの替え馬を用意しておいたのである。そして昨日、武義が寄越した郎党の口から大宰府の危機を知り、ただちに高崎山の包囲を解いて全速力で突っ走って来たのであった。

 「この時を待っていたぞ」城武顕は愛馬に飛び乗り、総攻撃を指令した。

 結局、混乱した少弐軍に止めを刺したのは、城武顕の率いる五百騎であった。無傷で疲労していない城勢は強かった。たちまち敵の本陣に突入し、縦横無尽に暴れ回ったのである。

 「怖いっ」脅える松王丸を抱きかかえ、少弐冬資は必死に逃げた。彼のすぐ後ろで、従兄弟の 頼資 ( よりすけ ) が槍隊の餌食となった。松王丸と冬資はかろうじて脱出に成功したが、少弐軍は事実上壊滅したのである。

 「えい、えい、おうっ」長者原の平原に、またしても菊池勢の凱歌が轟いた。

 「おいが戻るまで、よく頑張ったな、彦四郎」武光は、全身に負傷した勇敢な弟の傍らに駆けつけると、その背を優しく叩いた。

 「いいえ兄上、今度の戦の殊勲者は、城武顕どのでごわす。最初は怠けているのかと思い、怒りがこみ上げましたが、あれは兄上の救援を確信して、密かに敵の退路に回り込み敵本陣を一気に覆す作戦だったと知って、目から鱗が落ちる思いですわい」武義は、照れ臭そうに笑った。

 「そうか、部下の立派な戦果を気遣えるほどに一人前になったんだなあ、彦四郎」武光は、白い歯を見せて微笑んだ。

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