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長編歴史小説

黄花太平記 第四部

3.細川頼之の登場

 長者原の敗戦は、斯波探題にとって大打撃であった。必勝を期した起死回生の賭けに敗れた斯波氏経は、失意のどん底に陥った。

 一方の征西府軍は、旭日の勢いにあった。再び軍備を整えた菊池武光は、十二月に入って豊後に進攻した。斯波軍は、大友一族を中心に必死に抵抗したが、前の惣領・大友氏泰が病没するなどの不幸が重なり、その戦意は全く奮わなかったのである。

 年が明けた貞治二年(1363)、完全に包囲された高崎山城から、援軍を求める使者が頻繁に京都に飛び込んで来た。

 「氏経がこれほど苦戦するとは・・・。恐るべきは菊池武光よ」将軍義詮は、頭を抱えた。「ここは、頼之の知恵を借りるほかはなさそうじゃ」

 義詮は、急いで寵臣の 細川頼之 ( ほそかわよりゆき ) を呼び寄せた。

 頼之は、このときまだ三十を過ぎたばかりの若者であったが、延文元年(1356)、二十八歳のときに中国探題に任命されて以来、その並外れた能力を至るところで発揮していた。後に有能な政治家として幕府の基礎を固めることとなる頼之は、同時に優れた武将でもあり、既に中国で足利直冬軍を次々に連破し、四国でも南朝軍に致命的打撃を与えていた。また、貞治元年(1362)の七月には、南朝方に回った従兄弟の細川清氏を讃岐(香川県)にて撃破し、敗死させるという大殊勲を上げている。もはや、幕府の西国における安全は頼之の双肩にかかっているといっても過言ではなかった。

 「お呼びでござりまするか」ちょうど在京していた頼之は、ただちに幕府に駆けつけた。その柔和な顔の中に、叡知のきらめきが揺らめく。

 「おお、頼之、そちの知恵を借りたい。そちも氏経の苦戦のことは聞き知っておるであろう。どうやら氏経の派遣は、燃え盛る征西府に油を注ぐ結果となったようじゃ。この野火を鎮める何か良い方策は立たぬであろうか」義詮は、虚心に悩みを打ち明けた。

 「恐れるには足りませぬ」頼之は、表情を変えずに答えた。「野火は放っておけば消えるものにござりますれば、我らとしては延焼を防ぐ手立てを講ずるのが先決です。取りあえず、中国、四国筋の敵に調略を仕掛け、征西府を九州(筑紫は、ようやくこの頃九州と呼ばれるようになった)に孤立させることが肝要でありましょう」

 「具体的には、どうする」

 「既に、安芸の直冬どのは相当に弱体化しております。さすれば、直冬どのを擁立している山名や大内らの心に迷いが生じていることは必定。ここで利をもって誘えば、彼らは必ずや幕府に帰参してまいることでしょう」

 「おお」義詮は感嘆の声を上げた。「さすがは頼之よ。山名と大内が味方に付けば、少なくとも征西府の陸路による畿内進軍は阻止できることになる。さっそく実行しよう」

こうして将軍義詮は、まず 大内 ( おおうち ) 弘世 ( ひろよ ) との和平交渉を行った。

 大内氏は、朝鮮系帰化人の末裔であり、古くから周防(山口県東部)に割拠している雄族である。建武内戦においては、当時の惣領の長弘が機を見るに敏であり、かなり早期から足利尊氏方として活躍している。長弘は、尊氏によって周防の守護に任命されて忠勤を励んだ。ところが、観応年間に同族の弘世が足利直冬と手を組んで、南朝方となって長弘に反旗を翻した。そして戦上手の弘世は、叔父にあたる長弘を打ち負かし、実力で守護の地位を奪い取ったのである。だが、老獪な弘世は、直冬とともに上洛戦を戦おうとはしなかった。彼は、直冬の留守を預かるという口実で近隣の豪族を攻め潰し、着々とその勢力圏を拡大したのである。そのため、幕府方長門守護の 厚東 ( ことう ) 氏などは、大内軍の連年の侵略の前に窮地に陥っていたのである。

 さて、貞治二年(1363)の初頭、将軍義詮は、大内弘世を周防、長門、 石見 ( いわみ ) (島根県)の三国の守護職という実利をもって誘降した。領土拡張を生きがいとする弘世は、この好餌に飛びついたのである。

 「わはは、軍勢を動かす手間をかけずして、三国の守護が手に入るぞ、やれ嬉しや」

 弘世は、大喜びで幕府方に寝返ったのである。

 幕府の調略の手は、次に山陰の山名師氏にも及んだ。山名氏は、因幡(鳥取県東部)、伯耆(鳥取県西部)、丹波(京都府北西部)、丹後(京都府北部)、美作(岡山県北部)の五国の守護職を与えられ、喜んで幕府に帰服したのであった。

 だが、このことを聞き知った各地の豪族は、幕府の弱腰を嘲笑した。なんじゃい、領土が欲しいと思ったら、律義に忠誠を尽くすよりも先ず敵に回るのが手っ取り早いということかい。真面目にやってきた我らは、まったく馬鹿を見たわいな・・・。

 しかし、この大内、山名氏の誘降は、中国で苦戦中の足利直冬に致命的な打撃を与え、同時に九州の征西府勢力の伸長を抑える上で有効な戦略であった。

 ここに、高崎山で苦戦中の斯波氏経の闘志は再び燃え盛った。

 「大内軍が九州に駆けつけてくれれば、きっと戦局を逆転できるかもしれぬ」

 氏経は使者を周防に派遣し、弘世の来援を強く求めた。しかし、

 「九州で戦する気にはならぬ。なにしろ、わしが欲しいのは長門の厚東の領土なのじゃから。まあ、厚東が滅んで暇が出来たら、九州にちょっかい出す気になるかもな」

 大内弘世のにべもない返事に、斯波氏経は激怒した。おのれ弘世、自分の事しか顧みない我が儘者め。幕府の鎮西探題を何だと思っているのだ。

 今日、野猿の自然動物園として有名な高崎山は、当時、大友一族の最後の拠点であった。高崎山城は難攻不落であり、征西府軍の波状攻撃を受けてもびくともしなかったが、援軍を期待できない状況での籠城は無意味である。また、城を取り巻く菊池勢が清野作戦を決行して田圃を焼き払ったことによって、既に豊後国内の農業生産力は激減しており、とてもこれ以上戦線を維持できる状態では無くなっていた。

 五月に入って、斯波氏経はついに抗戦を断念した。

 斯波一族のみならず、少弐頼尚、同冬資、畠山直顕らは、夜の闇に紛れ、手勢とともに海路、周防の大内氏のもとに逃れて行った。

 「いつか必ず九州に帰り、菊池に一泡吹かせるぞ」少弐冬資は、遠ざかり行く豊後の暗い海岸を見つめながら、堅く心に誓ったのである。

 しかし、残された大友一族はことごとく征西府に降伏し、恭順を誓ったのである。

 大戦果をあげて大宰府に凱旋した征西府軍は、民衆の万雷の歓呼の声を浴びた。もはや、九州内に彼らの強敵はいなくなったのである。

 さて五月下旬、大宰府政庁に集まった征西府の要人は、さっそく今後の戦略方針の検討を行った。

 「いよいよ、上洛の時が来ましたな」五条頼元は、東上軍出動を積極的に主張した。「我らの全力を挙げて突き進めば、都の奪回は容易でおじゃる」

 「お待ちくだされ」例によって、菊池武光が水を差した。「中国筋の大内、山名一族が幕府に帰参した今日、陸路よりの進軍は相当な困難が予想されます。ここは先ず四国を征服し海賊衆を味方につけて、瀬戸内の海路を利用して畿内に侵入するべきと存じます。そのための準備に、もう少し時間をいただきたい」

 「肥後守は、いつもそうじゃ。いつもこの老人の希望を踏みにじる。御身は、そもそも京に上るつもりがあるのか。まことは、自分が九州の霸者としての地位を保持すれば足りると考えておるのではないか。今日こそは、はっきりと本心を聞かせてもらおう」

 五条頼元は、焦っていた。彼は二年前、信頼していた長男の 良 ( よし ) 氏 ( うじ ) を病没させてからというもの、夜ごとに自分の余命を数えては不安になっていた。なんとしても、命のあるうちに懐かしい京の土を踏みたいのである。頼元は、既に七十五歳になっていた。

 「おいは、完全な勝利が欲しいだけなのです」

 武光は、これだけ言って後は沈黙を守った。抜群の武勇を誇りながら慎重な性格である武光は、早急な東上が無謀な賭けであることを知っていた。なにしろ、本州の戦況は幕府方圧倒的有利である上に、民心も北朝の朝廷に懐いているのである。これでは、後先考えずに突撃して一時の勝利を得たとしても、敵中に孤立して全滅する可能性が高い。彼は、せめて瀬戸内海の制海権を掌握し、退路を確保した上でなければ東上は無理と判断したのである・・・。

 懐良親王は、さすがに武光の考えを理解した。

 「落ち着け頼元、我々は勝たなければならぬ。そのためにはいろいろ準備が必要なのだ。気持ちは良く分かるが、もうしばらく我慢してくれ」

 親王の一言で、京都即時突入案は却下された。しかし征西府の矛先は、いよいよ九州を越えて四国へ伸びることとなったのである。

             ※                 ※

 ところが京都では、あの細川頼之が征西府の野望を的確に推理していた。頼之は、在京の一色範氏親子の口から菊池軍の戦法を学習していたために、敵の出方をほぼ完全に想定できたのである。

 「中国筋を封じられた菊池どもは、必ずや四国の平定に動き出すはずじゃ。ここは、わしが自ら出張って彼らを迎え撃ってくれようぞ」

 彼は、将軍義詮に嘆願して四国探題に任命してもらうと、直ちに領国の阿波(徳島県)に渡って戦備を整えた。彼は、領国経営を万全にし、四国全土を細川氏の基地にするべく奔走したのである。

 征西府にとって、まさに容易ならぬ敵が登場した。その名は細川頼之。

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