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長編歴史小説

黄花太平記 第四部

7.瀬戸内海を染める炎

 京都の細川頼之は、中国、四国筋の諸大名に書状を送り、征西府軍打倒を呼びかけた。

 真っ先に征西府の大軍と対決するのは、地勢的に見ても周防の大内氏と四国の細川氏に間違いなかった。大内弘世と細川 頼有 ( よりあり ) (頼之の弟で、四国探題代理)は、互いに書簡を交わしあって作戦計画を固めた。

 「七万の大軍と言っても、その全軍が一斉に瀬戸内を押し渡って来られるはずはない。また、征西府の主力である菊池勢には、水戦の経験が乏しい。奴らは、頭で思うほどには恐ろしい敵ではないはずだ」

 大内弘世は、情勢を冷静に判断していた。彼は、密かに奇襲部隊を周防 彦島 ( びこしま ) に集結させた。ゲリラ戦を仕掛けて、敵の大軍を奔命に疲れさせる作戦であった。

 二月二十日、鶴崎を出港した菊池武光の軍勢は、豊後 姫島沖 ( ひめじまおき ) にて、待ち受ける細川水軍と激闘を展開した。武光軍には河野通直の水軍も来援したが、戦い利非ず、武光水軍は長門方面に退却した。

 「やはり、船戦では、湊川以来の歴戦の細川水軍に一日の長がある。ここは、宮将軍の水軍と合流し、善後策を協議するべきだ」

 菊池武光は、同陣の嫡子武政や河野通直らと鳩首し、前途の困難を思いやって吐息をついた。

 その翌日、武光らの水軍は長門の串崎港に入り、厚東義武の出迎えを受けた。一時期、九州に亡命していた義武は、このころは長門を舞台に、果敢に大内軍と戦闘を繰り広げていたのである。この厚東水軍の増援を得て、菊池勢はようやく生色を取り戻した。

 一方、懐良親王率いる水軍千五百余雙は、長門国府沖に停泊していた。その意気は天を衝き、闘志は燃え盛っていたので、親王は姫島沖の敗戦の知らせを受けても、それほど情勢を深刻には考えなかった。

 「そうか、あの武光でも水戦では黒星がつくこともあるのか。よしよし、その仇は、余が直々にとってやろうぞ」

 その翌日、親王の水軍は一斉に出港し、その武威を周囲に誇示した。先鋒部隊百隻はまっしぐらに東進を開始し、一気に淡路に向かった。ここに橋頭堡を構えると同時に、京の状況を把握するためである。残る主力艦船は、再編成中の武光の水軍と合流するために、串崎の港に入った。しかしその間、細川水軍は鳴りを潜め、姿を見せなかったのである。

 「肥後守よ、怪我はないか」串崎の砦に入った親王は、出迎えの武光に優しく声をかけた。

 「お陰様で、まだまだ戦えまする」笑顔を作った武光ではあったが、彼は内心、この東上の成功に疑いを持ち始めていた。将軍の死に直面しても、幕軍の統制に乱れた様子は一向に見られないからである。

 おいも弱気になっているな。ここまで来たのだ、後には引けぬ・・・。必死に自分を叱咤する、彼らしくもない武光の姿がそこにあった。

 しかし、厚東、河野水軍を加えて二千隻に達しようかという艦隊の威容は、付近の漁師たちの度肝を冷やした。その情報は、たちまち大内弘世の元に達する。

 「今こそ、先年の門司での恨みを晴らすときだ。者共、出陣の用意じゃ」

 彦島に待機していた大内水軍五百隻は、二月二十五日の闇夜に紛れて勇躍して出撃した。各々の船には、硫黄や枯柴が山のように積まれていた。

 しかし、自らの威容に酔いしれていた征西府艦隊は、漆黒の海を縫って近づく敵船団の発見に後れを取った。征西府艦隊は、所詮は雑多な船の寄せ集めゆえ、組織的な統制が不十分だったことも災いしたのであろう。

 「敵襲っ」

 物見の絶叫が轟いたときには、既に手遅れになっていた。全速力で串崎港に突入した大内軍は、征西府方の軍船に硫黄や枯れ柴を投げ込み、次々に火を放った。慌てて逆襲して来る敵船には、素早く火矢で応酬する。

 「いかぬ、いかぬ、不意打ちされたぞっ」

 「早く火を消せっ」

 「それよりも、敵を追い払うのが先じゃっ」

 水戦に不慣れな征西府の将兵たちは、なすすべもなく騒ぎ立てるだけであった。

 「焼けっ、何もかも焼き尽くすのだっ」華麗な鎧に身を包んだ大内弘世は、戦船の舳先に立って全軍を督戦した。

 さらに、敵の混乱に乗じた大内水軍の一部は、海岸に接近して上陸し、海辺で泡を食っている征西府勢に襲い掛かった。燃える艦船の炎に照らされながら、ここかしこで激しい白兵戦の輪が広がる。

 「者共、落ち着けい、武光ここにあり、我に続けっ」軍勢を纏めようと必死に叫ぶ菊池武光の声は、しかし、炎が巻き起こす激しい風の中で消し飛ばされた。

 炎は、人間の理性を狂わせる。もはや戦ではなかった。野獣のような殺し合いがあるのみであった。

 夜明けの陽光は、征西府軍の甚大な損害を白日の下に照らし出した。大内軍は、わずかに一刻(二時間)ほど暴れた後に撤退したが、その戦果は彼らの想像以上に大きかったのである。

 「なんてことだ・・・・」

 懐良親王は砂浜に立ち尽くし、蒼白な唇を震わせた。

 湾内は、大破炎上した沈船の山と化し、その損害は全船の三分の一にも達した。しかも、海岸に横たわる死体の多くは味方将兵のものであった。親王は認めたくなかったが、ここ串崎の浜に、征西府の東上の野望は致命的な大頓挫をきたしたのである。

 菊池武光は、情勢を冷静に検討し、懐良に一時後退を進言した。

 「かくなれば、いったん大宰府に戻って、態勢を立て直しましょう」

 「・・・・・・」

 「戦船二千隻でさえ、七万の将兵を畿内に輸送するには不十分でした。その上に今回のこの損害です。現状の水運力では、全軍を堺浦に運び終えるまでに瀬戸内海を何度も往復しなければならず、その度に優勢な敵水軍の妨害を受け、最終的な損害は計り知れないものとなりましょうぞ」

 「武光よ、そんなことは余とて承知しておる。しかし、だからと言って、ここで東上を諦めては全軍に示しがつかぬではないか」

 「諦めるのではありませぬ。違う方法を考えて、一時的に延期するのです。例えば河野どのに援軍を送り、四国制圧を完成させてから東上を再開するとか」

 「・・・・のう、武光。今、高麗や唐(大陸)に跋扈している海賊(倭寇)たちを、今すぐに招集できないものだろうか。彼らは水戦に慣れておるから、きっと大内や細川の水軍を破ってくれると思うのだが」

 「じゃどん、彼らは征西府の組下(配下)ではありませぬ。しかも、現在の味方の劣勢によって現実的な恩賞を約束できない以上、とても馳せ参じては来ないでしょう」

 実際問題として、征西府と倭寇との間には主従の関係はない。両者の間には、征西府が梅富屋などの博多商人を通じて倭寇に政治的、財政的支援を与える代わりに、倭寇はその略奪によって得られる成果の一部を征西府に譲渡するという、緩い契約関係があるのに過ぎない。然るに倭寇の立場からすれば、征西府が九州の統治機関として強固でいてくれさえすればその目的達成に十分なのであるから、彼らの利益に直接関係ない東上に参加する必要性は生じないのである。ゆえに、懐良親王がどんなに倭寇を説得しようとも、彼らが危険を冒してまで征西府の大目的に協力するとは考えられないのである。

 この征西府と倭寇の微妙な関係は、後に征西府の外交政策に重要な影響を及ぼすから、覚えておいてもらいたい。

 懐良は、それでも倭寇戦力導入の夢を捨て切れず、各地の海賊の拠点に参戦を求める使者を送った。また、畿内にも使者を送り、南朝軍に呼応して軍事行動を起こすようにと要請した。

 その間、征西府の大軍は、淡路に進出した先遣隊を呼び戻し、長門国府付近に布陣したままで情勢の新展開を待つこととなったのである。

 ところが情勢の展開は、彼らにとって最も不利な形で現れた。

 同年三月十一日、南朝の後村上天皇が、摂津 住吉 ( すみよし ) の 行宮 ( あんぐう ) で崩御したのである。

             ※                 ※

 実はこのころ、畿内では南北朝の間に和平交渉が行われていた。

 かつては極端な主戦派であった後村上天皇は、時勢の移り変わりを思いやり、楠木正儀を中心とする講和派の主張に耳を傾け始めていたのだ。征西府の東上に際し、賀名生軍が冷淡だった理由はここにある。

 南朝は当時、九州の征西府を除き、軍事的に崩壊寸前の状況にあった。そのため、いつしか南朝の中に、積極的に南北朝の争いを解消し、北朝との和睦を目指そうという講和派が台頭していたのである。

 彼らは、穏健な 熈成 ( ひろなり ) 親王(後の 後亀山 ( ごかめやま ) 天皇)と結び付いていた。しかし、講和派の暗躍を快く思わぬ主戦派は、気性の激しい 寛成 ( ゆたなり ) 親王(後の 長慶 ( ちょうけい ) 天皇)を擁立してこれに対抗していたのである。

 ところが、後村上天皇の崩御は、この相克を後継者争いという形で表面化させた。ここに、ただでさえ弱体化している南朝内部に深刻な対立が現れたのである。

 最終的に凱歌を上げたのは主戦派であった。即位したのは寛成親王(長慶天皇)である。その結果、講和派の政治的地位は大いに失墜し、その心に恨みが宿る。主戦派と講和派の対立は、これを契機にますます激しさを増したのである。

          ※                 ※

 「そうか、摂津や河内の味方は、動く気がないと申すか」

 畿内の南軍に送った使者の口から、南朝の後継者争いとその後の混乱についての詳報を聞いた懐良親王は、東征の機会が去ったことをいやが応にも思い知らされた。やはり、武光が言うとおりに時期を待ち、再起を図るより外に策はない。

 「大宰府に帰ろう」親王は、つらい決断に踏み切った。

 長門国府周辺で大内勢と睨み合っていた征西府軍は、同年三月下旬には秩序正しく撤退を開始した。陸上での菊池勢の強さを知る大内勢は積極的に追撃を行わなかったので、この撤退は実に順調、かつ速やかに行われたのである。

 多くの将兵は、豊前の門司あたりで船から降りて解散したが、懐良親王や菊池武光を始めとする征西府首脳は、まっすぐ博多まで舟航した。しかし、彼らの表情は暗かった。あれほどの意気込みで挑んだ東上は、敗北の汚名を着たままで終わったからである。無敵征西府軍の神話は、ここに崩れた。

 北九州の民衆は、やはりこの結果に失望した。

 「宮様や菊池の旦那にも、できないことがあるとね」

 「ほんに、ごっつかあ」

 「じゃっどん、ご両人とも怪我が無くてなによりでしたな」

 「うん、うん」

 一方、大宰府政庁に戻った懐良親王の陰鬱な表情は、見るも痛々しかった。妻の早苗にも、これを慰める方法が分からなかった。

 しかし、菊池武光の表情はむしろ明るかった。

 「途中で遠征を断念したのは幸運だった。あのまま連戦連勝で京に突入していたら、きっと補給を断たれて全滅していたに違いないからだ。この程度の損害で済んだのは、むしろ僥倖というべきかも知れぬ。やはりここはじっくりと腰を落ち着けて、情勢の好転を待つほかはない。まずは、四国制圧から取り掛かろう」

 大宰府の屋敷に入った武光は、妻の由里子や孫の賀々丸との団欒を大いに楽しみ、いつもと変わるところがなかった。

 「ほれ、賀々丸、かかってこい。遠慮するな」

 「いくよ、爺さま・・」

 六歳の少年に成長した元気な孫と竹刀で剣術ごっこを楽しむ武光は、しかし既に四十八歳。その鬢には、白いものが混じりだしていた。

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