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長編歴史小説

黄花太平記 第四部

8.明国皇帝の使者

 征西府軍の退却を知った京の幕府では、細川頼之が久しぶりに生色を取り戻していた。なにしろ、今の幕府にとって最も恐るべき敵の襲来が回避されたのだから当然であろう。

 「だが、奴らの主力は健在だ。また、いつ東上を再開するやも知れぬ。我が幕府でも、征西府討滅の準備を急がなければならないな・・・」

 貞治七年(1368)を応安元年と改元した北朝は、南朝の内部分裂を尻目に、将軍交替後の新規巻直しの成果を着々と実らせつつあった。

 室町幕府管領・細川頼之は、次々に斬新な政策を打ち出して、衰えつつあった幕府の権威を回復させることに成功した。具体的には、朝廷に働きかけて将軍足利義満の昇進を図ってその威信を高めるとともに、乱れつつあった土地の所有関係を厳格に定め(応安の大法)行政機関としての幕政の信頼度を飛躍的に増進させたのである。

 しかし、この頼之の中央での獅子奮迅の活躍は、彼の領国である四国の軍備を相対的に手薄にした。正平二十三年(1368)の夏、征西府や海賊衆の支援を受けた河野通直は、ついに伊予本土に対する積極攻勢に移ったのである。失地回復を志す彼の気迫は凄まじく、向かうところ敵なしの観があった。通直は、その年の末には伊予国府を制圧し、名実ともに伊予国司の地位を手に入れたのである。

 「さすがは、通直じゃ。この勢いならば、四国全域の掌握も遠い話ではない。四国が手に入れば、淡路づたいに京を攻めることもできるぞ」

 東上の夢を追う懐良親王は、この河野勢の大戦果にご満悦であった。

 ところが、親王が東ばかりに気を取られている間に、海を隔てた西の大陸では歴史上の大事件が起きていたのである。

 1368年七月、ついに中国大陸の統一が成った。

 河南を統一した軍閥の首領・朱元璋は、全力で北伐を敢行し、ついに恨み重なるモンゴル族を北方の草原の彼方に駆逐したのであった。そして、この漢民族によって成立した新国家は、その名を『 明 ( みん ) 』と号した。1368年は、すなわち明の 洪武 ( こうぶ ) 元年であり、朱元璋は明の洪武帝に即位したのである。

 しかしこの新国家は、成立当初から二重の外圧に苦しめられていた。すなわち、 北虜 ( ほくりょ ) と 南倭 ( なんわ ) である。洪武帝は、この二つの外圧から、なんとしても国を守らなければならない。

 北虜とは、モンゴル族のことである。元は滅亡したものの、北方に撤退した彼らの武力は未だに健在であり、虎視眈々と中原を狙っている。

 そして南倭とは、言うまでもなく日本、特に中国沿岸を荒らしまわる倭寇のことである。この当時の倭寇は、中国にとって、国家規模での脅威に成長していたのである。

 洪武帝は考えた。北虜は我ら漢民族の仇敵であって、彼らとの妥協は絶対に許されない。だが、南倭(日本)はどうか。別に恨みがあるわけではないし、外交交渉ですんなり解決できる問題なのではあるまいか。

 明の洪武二年、同時に南朝の正平二十四年(1369)二月、明国の特使 楊載 ( ようざい ) は、こうした背景を背負って南京を出発した。その目的地は、博多である。

             ※                 ※

 河野氏が四国で頑張っているとはいえ、念願の東上に失敗した征西府の威信の失墜は覆うべくもなかった。いったい、征西府に服属している豪族の多くは、南朝の公家一統の理想に共鳴したわけではなく、菊池武光の武力を恐れて服従しているに過ぎない。そして東上の失敗によって武光の無敵神話が崩れた今となっては、九州の中で幕府に款を通ずる者が続出するのも無理はなかった。ここに、征西府は斜陽の時を迎えたのである。

 それゆえ、懐良親王は焦っていた。なんとしても失われた威信を回復させねばならない。

 明の特使が博多の港に降り立ったのは、ちょうどそんな時であった。公用で博多に滞在していた親王は、取りも直さず宿舎で接見を行うことにした。

 だが、特使の楊載は、日本が南北朝の内乱期にあたり、二人の天皇が並び立ってせめぎあっていることを知らなかった。梅富屋を始めとする商人たちや、征西府の外交官僚である饗庭 道哲 ( みちてつ ) の口から予備知識を仕入れてはいたものの、事態の深刻さを正確に把握した訳ではなかった。天皇が二人いるのなら、そのどちらかの代官に国書を渡せば用は足りるものと、単純に考えていたのである。

 通訳の口を通じ、ようやく特使来朝の意図を把握した親王は考えた。

 「明国皇帝は、我らに倭寇を禁圧してほしいようだが、それは無理な相談だ。海賊たちが我らにもたらす富は、再度の東上の財源として必要不可欠なのだから」

 そこで親王は、洪武帝の国書に目を通し、その横柄な語句に腹を立てることにした。

 この時代の中国は、世界の中心としての誇りに固まっており、周辺諸国に対する国書は、相手を臣下と見なす無礼な字句に満ちていた。親王は、それを口実に明の特使を追い払うことにしたのである。

 「この国書にある、臣国日本とは何のことぞ。我が国は、明に服属した覚えはない。このような国書を帝に渡すことは、断じてできぬわっ。命があるうちに母国に帰るが身のためぞ」

 親王の憤怒の形相を見て、楊載は事が一筋縄ではいかないことを知った。懐良が天皇に取り次いでくれないなら勝手に上京するまでとも考えたが、地理に不案内の外国人が戦乱の最中の瀬戸内海を突破するのは至難の業である。

 明の使節団は、結局、国書を渡せないままに祖国に帰ることとした。もう一度情勢の再検討を行った上で、出直すことにしたのである。

              ※                 ※

 このころ、肥後守・菊池武光は、領国に帰って領内整備に明け暮れていた。彼の最大の懸念は、幕府側の反撃であった。畿内の味方が頼りにならない現在、室町幕府はその気になれば大遠征軍を組織して、九州攻略を狙うことも可能なのである。そのときに備え、肥後国内の農産力を高めると同時に、軍事拠点を整備しなければならない。

 そんな武光は、懐良親王が異国の使者をすげなく追い返したと知って衝撃を受けた。

 「なんということを。東の逆賊でさえ持て余しているというのに、万が一、西の強国までも敵に回したなら、宮は一体どう対処なされるおつもりなのか。元寇の時のように大陸からの進攻を招いたならば、今の征西府は一たまりもないぞ」

 武光は菊池 隈府 ( わいふ ) 城から、親王に外交政策の転換を求めるよう、意見書を書き送った。

 しかし、親王は武光の意見に従う気になれなかった。

 「余の威信を高めるために、外国に対しては毅然とした態度に出るべきだ。そして、余の威信の向上は、征西府の繁栄に繋がる。武光は、所詮は武将だから、その辺りのことが分かっておらぬのだろう」

 武光の書状を前に冷笑を浮かべた親王だったが、しかし、その表情は、その翌日に畿内からもたらされた驚くべき凶報によって蒼白となった。

 あの楠木正儀が、北朝方に寝返ったというのである。

 南朝の大黒柱・正儀は、かなり以前から南北朝の対立に疑問を感じており、講和派の急先鋒として北朝との和平交渉を推進していた。しかし、長慶天皇の即位によるタカ派の勢力回復によって、その政治的威信は大いに失墜したのである。そして幕府管領・細川頼之はこの正儀のつらい立場を知ると、さっそく誘降を開始し、ついに応安二年(1369)正月、ついに正儀をその軍門に下したのであった。

 「まさか・・・とても信じられん。あの楠木一族が敵に頭を下げるなんて・・・」

 隈府城でその確報を聞いた菊池武光は、呆然と空を仰いで立ち尽くした。楠木一族は、正成以来、南朝の象徴とも言うべき地位にいた。その象徴が落ちたというのである。

 「中央の味方は、そこまで追い詰められていたということか・・・」

 大宰府に集まった征西府首脳は、互いの暗い表情を見交わした。

 「もう、余には何も信じられぬ」腕組みして項垂れた懐良親王は、自分の、そして畿内の味方のあまりもの不甲斐なさに、絶望的な心理に陥っていた。

 「そうだ、今年は父帝(後醍醐天皇)の三十三回忌だ。父帝は、今ごろ冥府にて不甲斐ない余に憤っておられよう。その御霊を慰めてさしあげねばならぬ・・・」

 そう思い立った親王は、その日から書斎にこもって 妙法 ( みょうほう ) 蓮華経 ( れんげきょう ) を書写し、出来上がると阿蘇大社と岩清水八幡宮に奉納した。また、兄の後村上天皇の冥福を祈って、宇佐八幡宮に右心経を収めた。

 これ以降、懐良親王は現世から目を背け、信仰の念を強める傾向となる。

 中央では、しかし楠木正儀が苦戦に陥っていた。

 予期せぬ裏切りに怒り狂った南朝軍に河内から追い落とされ、京都に逃れた正儀を迎えたのは、北朝の廷臣たちの白い目であった。なにしろ名将の正儀は、過去に多くの北朝方の武将を討ち取っているので、その縁者たちから受ける恨みも人一倍強かったのである。

 そのため、幕府管領の細川頼之が懸命に叱咤しても、幕府軍の戦意は低かった。楠木のために命を懸けるのはまっぴらだ、と誰もが考えたからである。

 かくして、畿内の戦況は却って南朝方が有利となった。楠木正儀の誘降は、かえって裏目に出たのである。頼之の必死の活躍で畿内に平穏が訪れたのは、なんと、それから半年後のことであった。

            ※                 ※

 じり貧の南朝は、この翌年に改元を行った。長く続いた正平は二十五年で終わり、 建徳 ( けんとく ) 元年(1370)と改まった。

 「我ら征西府が大宰府入りしてから、もう十年になるのか」菊池武政は、感慨深げに呟いた。

 「もう、そんなになりましたか」答えたのは、武政の差し向かいに座る、征西府の外交担当官、饗庭道哲である。

 ここは、博多の 承天寺 ( しょうてんじ ) の 釣寂庵 ( じょうじゃくあん ) 、すなわち征西府の海外政策の基地である。貿易の振興を図ったり、留学僧のために便宜を図ったり、倭寇と謀議を交わすのも、皆ここの主、道哲の重要な任務なのであった。

 菊池武光の嫡男である武政は、父の密命を受けて道哲のもとを訪れたのであった。

 「そういえば、四国の戦はどうですか。何か、進展はありましたかな」柔和な笑顔を向ける道哲は、落ち着いた風貌をした四十男である。

 「ええ、河野通直どのの奮戦は著しく、ついに土佐(高知県)の占領にも成功したとのこと。その知らせを受けて、大宰府に待機していた良成親王も、ついに伊予に向けて出発いたしましたぞ。こうなったら、四国全土の制圧も時間の問題でしょう」胸を張って答えた武政は、既に三十歳になっていた。

 「それは良かことですな。四国平定によって瀬戸内海の敵を一掃できれば、再度の東上での勝ち目も高くなりましょう」

 「ついては、道哲どのにお願いがありもうす」武政は、膝を乗り出した。「征西府の東上を成功させるためには、さらに二つの条件が必要です。一つは、失墜した威信の回復、もう一つは、西方の安全の確保。道哲どのには、この二つを推し進めていただきたい」

 「と申されても」道哲は、当惑顔をかしげた。「おいに、何ができましょうや」

 「明国との交渉ですよ」武政は、眼を輝かせながら語った。「これまでの外交方針を変えて、明に朝貢を約束するのです。明の皇帝は、きっと宮将軍を日本の主権者とみなし、友好関係の樹立を願うことでしょう。さすれば、東上の二つの要件がことごとく満たされることになりましょう」

 「なるほど、妙案ですなあ」道哲は手を打って喜んだ。「じゃどん、宮将軍は明国に好意を抱いておらぬようじゃ。難航するでしょう」

 「そこを説得するのが、貴君の役目です」武政は、近ごろ太り始めた腹を叩いて言った。「今や、征西府の命運は、道哲どのの双肩にかかっておるのじゃ」

 「・・・・分かり申した。できるだけの手を尽くしましょう」道哲は、静かに頷いた。

 この対談の成果が活かされる最初の機会は、それからすぐにやって来た。

 その年の三月、赤間ヶ関(下関)を巡視していた厚東氏の戦船が、関門海峡を東に抜けようとする異国の大型船を発見したのである。ただちに捕らえられたその船には、明の使節団が乗っていた。彼らは、九州を避けて直接、京都に向かうところだったのである。

 ただちに博多港に回航させられた使節団は、饗庭道哲によって承天寺に連れ込まれ、あわてて博多に駆けつけた懐良親王による取り調べを受けた。

 「お前たちは、余を差し置いて幕府と交渉するつもりだったのか」親王は柳眉を逆立てた。「さては幕府と結んで、かつての蒙古のように、この九州に攻め込むつもりだったのだな」

 「そんなつもりはありません」特使の 趙秩 ( ちょうちつ ) は、通訳を介して必死に釈明した。「我々は、祖国の沿岸を荒らす倭寇どもを取り締まっていただきたい一心なのです」

 「それならば、九州の王者である余に言えば済むことではないか。なにゆえ、京都まで行こうとしたのか」

 「前回の我が国からの使者が、博多で一人残らず斬り捨てられたためです」

 「なに・・・」親王は目を剥いた。彼には全く憶えのないことである。

 親王は考えた。先年渡来した楊載率いる明使節団なら、無事に本国に帰したはずだ。帰路に海難事故で全滅したこと、あるいは、偏狭の噂の高い洪武帝が極秘のうちに処刑したことが、余の仕業として彼らに伝えられたのだろうか。とすれば、明との対決はもはや避けられない。それならば、こちらから毅然とした態度を示すにこしたことはない。

 「理由は如何にせよ、余を無視した 科 ( とが ) は大きいと思え。者共、こやつたちを刑場に引き出して斬り捨てよ」

 懐良は、冷然と言い放った。彼は、北朝と結託したという理由のもとに、この使者たちを斬ることによって、自分の威信の向上を図ろうと考えたのである。

 こうして足早に会見室を退去した親王は、しかし渡り廊下で饗庭道哲に遮られた。

 「異国の使いを斬り捨てるのは、むしろ逆効果ですぞ。ここは、むしろ彼らを丁重にもてなし、明国との友好を強めるべきではありませぬか」

 「何を言う。彼らは、密かに幕府と手を組もうとしたのだぞ。しかも、前回の使者が余に斬られたと信じておるようじゃ。ここは彼らを斬って、こちらの強い意志を海外に示すべきではないか」親王は、憤然として答えた。

 「そんなことをしたら、明を本当に敵に回してしまいますぞ」

 「なんの、例え異国が攻めて来たとしても、こちらは神国。元寇の折りのように、また神風が吹いて撃退してくれるわ」

 「ならば、幕府軍が、明と同時に攻め寄せて来るとしたらどうでしょう。そうなったら、あの肥後守(武光)も、自信が無いと語っておりましたぞ」

 「なんと・・・・・」

 「宮将軍」

 「しかし・・・明国の目的は、余に倭寇を禁圧させることにある。じゃが、征西府は倭寇を切り離すわけにはいかぬ」

 「そこはそれ。表向きだけ倭寇禁圧を約束すれば済むことではありませんか」

 「う、うむ」

 懐良は、しばし沈思した。

 「・・・よし、分かった。道哲よ、共に手を尽くそう」

 こうして、親王の早馬が刑場に飛んだ。いましも首を撥ねられようとした趙秩たちは、命拾いしただけでなく、豪勢な宿舎に案内されて歓待を受けた。

 やがて宿舎を訪れた親王は、さっきとは打って変わって優しい笑顔で言った。

 「貴公らが侵略の尖兵だと考えたのは、こちらの手落ちでした。せっかくの友好の使節に対し失礼千万を働き、申し訳ありませぬ。我らは、これから一丸となって倭寇弾圧に乗り出す所存。どうか、洪武帝にも、よしなにお伝えください」

 趙秩は、最初は親王の態度の急変に半信半疑だったが、やがてその険しい眉を開いた。

 「貴殿の誠意は、必ずや天子にお伝えいたそう」

 親王は、日本側からも友好の使者を送ることとし、僧の 祖来 ( そらい ) という者を抜擢し、彼に明に臣従を誓う国書を預けた。それと同時に、倭寇がこれまでに被虜人として連れ帰った中国人七十余人を各地で放免させて、これを趙秩に連れ帰らせることにした。

 大成果をおさめて、晴れやかに母国に帰った趙秩一行は、洪武帝によって厚く賞された。洪武帝は、何よりも、被虜人たちを取り戻せたことに満足した。この事実は、九州の王者たる懐良親王が、倭寇に対して重大な影響力を行使できることを意味する。

 ここに洪武帝は、懐良親王を『日本国王』に奉ずることを決意した。

 それから半年後、懐良の使者として明に渡っていた僧祖来は、明僧の 祖闡 ( そせん ) と 克 ( こく ) 勤 ( ごん ) を伴って博多に帰国した。そして、祖闡らが親王に手交した国書は、明国政府の公式文書であり、その中には懐良を日本国王に奉ずる旨が明記されてあった。

 「日本国王か」親王は苦笑した。

 この当時、大陸の君主によって国王に奉じられたということは、国際的に日本全国の最高主権者として認められた事を意味する。本州で二人の天皇が睨み合っている隙に、九州の懐良親王が国王になってしまったのだ。まさに、歴史の不思議さというべきだろう。

 親王は、明僧二人を手厚くもてなして、祖来を通訳に介し、明国の国情を聞き込んだ。

 「そうか、賎民出身の洪武帝は、側近や武官たちに対しては峻烈だが、民衆には優しく臨んでいるのか。高官は恐怖し、民衆は喜ぶ。ここに、皇帝の絶対権力は維持される。これは、まさに亡き父帝(後醍醐天皇)の理想のままではないか・・・」

 沈思した親王は、しかし知っていた。洪武帝のような恐怖政治は、日本では決して許容されないことを。自分は、あくまでも九州の豪族たちや海賊たちの御神輿でなければならないことを。

 ところで、懐良親王が日本国王に任じられたことは、征西府要人たちにとって、実に久しぶりの吉事であった。日を置かずして、盛大に祝宴が執り行われたことは、言うまでもない。

 大宰府に帰っていた菊池武光は、宴席で喜色を隠し切れないでいた。親王の威信は前にも増して高まり、菊池氏を中心とする征西府の基盤も強化されたからである。

 「これなら、幕府の遠征軍が大挙襲来しても支え切れるぞ」

 白髪頭を撫でながら、静かに杯を干す武光は、しかし知らなかった。

 室町幕府の九州探題として、今まさに恐るべき男が登場しようとしていることを。

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