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長編歴史小説

黄花太平記 第四部

9.足利幕府の切り札

 幕府の鎮西探題・渋川義行は、結局九州に入ることが出来なかった。征西府方の良成親王と河野通直が、四国北部の制海権を完全に掌握してしまったからである。

 「馬鹿らしい、俺は降りるぞ」

 職務遂行を諦めた渋川義行は、応安三年(建徳元年・1370)九月二日、探題を辞任して京都への帰路をたどった。

 その翌日、京の少弐頼尚邸を二人の人物が訪れた。

 不意の来客に少々驚いた頼尚は、しかしこの闖入者たちを丁重に座敷に招き入れた。

 「これは管領どの」頼尚は、来客の一人に丁寧に挨拶した。「お呼びくだされば、こちらから参上いたしたものを。・・・さあさあ、粗茶が来ました。お召し上がりくだされ」

 「こちらから訪れると、約束しましたからな」管領どのと呼ばれた細川頼之は、茶碗を手に取りながら静かに微笑んだ。「おお、これは見事な碗ですな。相当な名器でしょう。・・・さておき、今日は約束どおり、新任の九州の探題を伴って参りましたぞ」

 そう言われて、もう一人の来客に目をやった頼尚は、僧形の人物の知性あふれる鋭い視線に強い印象を受けた。

 「お初にお目にかかります。今川 貞世 ( さだよ ) 入道 了俊 ( りょうしゅん ) と申しまする」丁寧に会釈した人物は、年の頃四十半ば。痩身だが、外見にも直垂の中の逞しい膂力が感じられる。

 「おお、あなたが」頼尚は、思わず声を上げた。幕府要人の間で、今川了俊の名を知らぬ者はない。文化人ならばなおさらである。

 今川貞世入道了俊は、当代随一の武将であった。

 足利一族の今川 範国 ( のりくに ) の次男として生を受けた貞世は、若いころより 京極為基 ( きょうごくためもと ) や 冷泉 ( れいせん ) 為秀 ( ためひで ) 、そして 吉田 ( よしだ ) 兼好 ( けんこう ) といった一流文化人に学び、今では冷泉派の超一流の歌人として京で知らぬ者はないほどになっていた。それだけではない。彼は、若いころより父に従って多くの合戦を駆け抜け、その勇名をほしいままにし、また、超一流の戦略家として将軍義詮の傍らで幾多もの貢献をしたのである。

 また彼は、 遠江 (とう とうみ ) 守護と幕府の 引付頭人 ( ひきつけとうじん ) の大役を同時にこなしながら、吉田兼好の死後には彼の庵を足繁く訪れ、書き残された 反古 ( ほご ) に文化的価値を見いだし、あの有名な『 徒然草 ( つれづれぐさ ) 』の編纂も行ったのである。並の器量ではない。

 「新たな九州の探題とは、貴殿のことですか。了俊どの」頼尚の双眸は、了俊の眼光に釘付けとなっていた。

 「さよう」細川頼之が、代わって答えた。「昨日の渋川義行どのの辞任直後、将軍(義満)から大命が下ったのです」

 「と言うことは、随分前から根回しができていたのですな」

 「さよう、菊池武光に対抗できる人物は、了俊入道ただ一人ですからな」頼之は、そう言ってにっこりと微笑んだ。

 頼之と了俊は、古くからの友人同士であり、互いの器量を深く認めあっていた。頼之は、三年前に斯波一族を管領の座から追い払い、政界の実権を握った直後から根回しを開始し、ここにその成果を実らせたのであった。

 「なるほど、了俊どのならやれるかも知れませぬな」頼尚は、本心からそう言った。

 「いや」頼之は、首を横に振った。「かも知れない、ではなりませぬ。確実に征西府を倒さなければ、いつまで経っても太平は訪れないのです」

 「確かに、そのとおり。ところで、この老骨をわざわざお二人で訪ねてくださったのは、何ゆえですかな」

 「本通どの、お願いいたす。どうか、この私に征西府打倒の秘策をお授けくだされ」

 今川了俊は、両手をついて頭を深く下げた。その声は、想像していたよりも穏やかだった。

 「頭を上げてくだされ、了俊どの・・・」頼尚は苦笑した。「この老骨は、武光に翻弄され、なすすべもなく故国を逐われた者でござる。貴殿は、そんな者の話が聞きたいと言われるのか」

 「そのとおり」今川了俊は、姿勢を正した。「あの一色 直 ( ただ ) 氏 ( うじ ) どのも、征西府打倒の方寸は本通どのの中にあり、と申されておりました」

 「一色どのか、懐かしい名前よの。思えば、わしと一色探題の醜い抗争が、征西府の栄光を導く最大の要因だったのですな」

 「しかし、その一縷の機会を、最も巧みに利用した菊池武光の能力にも、端倪すべからざるものがあります」了俊は言った。

 「そうじゃ、武光は天才よ。奴は、従来の戦略の定石を覆したのですじゃ」

 「どのように」

 「我々の一般的な戦略は、いわゆる『点』指向じゃ。例えば、京都や大宰府、それに博多といった重要拠点の占領だけを考える。菊池一族の中でも、九郎武敏の戦い方がそれだった。ところが、武光は違う。奴の戦略は、あくまでも『面』を重視する。奴にとっては、点(重要拠点)の占領は、面の制圧後の副産物にしか過ぎぬのじゃ」

 「面というのは、すなわち拠点と拠点の間に横たわる土地のみならず、そこに住む民心をも意味するものですな」細川頼之が、身を乗り出した。

 「そのとおり。奴は、わしと一色探題が点を巡って争いあっている隙に、密かに点へと続く面を確実に掌握していたですじゃ。点にのみ心を奪われていたわしは、そのことに気づかなんだ。気づいたときには手遅れじゃった」

 「しかし、 大保原 ( おおぼばる ) での本通どのは、武光よりも多くの兵力を集めることができました」

 今川了俊が口を挟んだ。

 「げにも、あれは負けるはずの戦ではなかった。じゃが、結果は我が軍勢の壊滅に終わった。その理由は、豪族たちを始め、民衆たちの心が、既に菊池氏に傾いていたからよ。もう少しで敵を殲滅できるあのときに、わしが本陣を移しただけの理由で全軍が雪崩を打って遁走した原因は、そこにあったのですじゃ。その後二年と経たぬうちに、我が少弐一族が長年にわたって築きあげて来た地盤が根こそぎ失われたのは、そのためなのですじゃ」

 沈痛な表情で語り続ける少弐頼尚に、訪問者二人は強い印象を受けた。

 「それでは、本通どのが、もう一度大軍を率いて九州に上陸すると仮定したならば、どのように攻めますかな」了俊が切り出した。

 「菊池武光は、野戦では無敵じゃが、城攻めはそれほど得意ではない。それゆえ、わしならば先ず、北九州の数箇所に強固な城塞を構え、そこを何としても保持しますな。そして敵の疲弊を見計らい、それらの点(『城塞』)を中心に据えて、徐々に『面』の支配を行います。時の流れは、既に幕府方に有利ゆえ、『面』は確実に広がって行くことでしょう。恐るべき『鳥雲の陣』を封じ込めながら総攻撃を仕掛けるのは、その後ですじゃ」

 「なるほど」頼之と了俊は、同時に感嘆の声をあげた。

 「しかし、この戦略を実行するには、相当の準備と大兵力が必要とされましょうな」頼尚は、上目使いに頼之を見た。

 「今の幕府にならば可能です」頼之は胸を叩いた。「かたじけない、本通どの、貴殿の心づくしは、決して無駄にはしませぬ」

 「つまらぬ老人の繰り言でござる。忘れてくだされ」頼尚は、白髪首を左右に振った。

 「いや、本通どの、わしは貴殿の話を聞いて、ようやっと必勝の信念を感得いたした。本当にかたじけなし」今川了俊は、静かに頭を下げた。

 来客が去った後、少弐頼尚は息子の冬資と語り合った。

 「冬資、どうやら、そなたの待望が適いそうだ。幕府は、ついに本格的に征西府追討に乗り出すぞ。新たな九州探題は、今川了俊どのに決まった。幕府は、最後の切り札を投入したのだ」

 「それはすごい」冬資は、双眸を輝かせた。「私の参戦も適いましょうや。」

 「今の幕府は、猫の手も借りたいところだ。必ず我が少弐家にも声がかかる事だろう」

 「これでようやく、我らが宿願に着手できますな。少弐氏を、再び九州の霸者にする夢に邁進できますな」

 「やめておけ、冬資」

 「えっ、なぜです、父上」

 「今川了俊は、一色範氏などとは比較にならぬ恐ろしい男ぞ。下手に動けばたいへんなことになる」

 「どうなるというのですか」

 「一族滅亡じゃ」

 「まさか」

 「良いか、くれぐれも自重して、了俊に尻尾を掴ませるな。命取りになるぞ」

 そう言うと、頼尚は静かに目を閉じた。彼の眼の裏には、あの了俊の油断ならない眼光が未だに焼き付けられていた。

 少弐頼尚が老衰のために永眠したのは、この翌年のことであった。その享年は七十六。彼は結局、今川了俊の経略も、冬資の未来も見ることが出来ずに、故郷を遠く離れた京の土となったのである。

 頼尚の波瀾万丈の人生は、まさに菊池氏との因縁に彩られていた。元弘の戦における菊池武時との戦い、建武の戦における菊池武重や武敏との戦い、そして、正平の戦における菊池武光との戦い。その彼らとの因縁は、やがて冥府の頼尚の予期せぬ方向へと向かうことになる。

              ※                 ※

 一方、細川頼之と今川了俊は、精力的に九州遠征準備に取り組んだ。

 了俊は領国の遠江に帰り、長期の不在に備えてあれくれと手配りを行うとともに、一族郎党を集めて訓示した。

 「諸君らも知ってのとおり、この度の九州探題着任は、今川家始まって以来の大事業である。この了俊を見込んで、この大役に抜擢してくれた将軍(義満)の期待に応えるためには、諸君の死力を尽くした働きが必要とされよう。敵は確かに強大だ。じゃが、わしの胸中には必勝の算段が宿りつつある。それを信じて、各自奮闘努力してもらいたい」

 了俊を見つめる一同の視線は熱かった。彼とともに九州に向かう面々は、子息の 義範 ( よしのり ) 、 貞 ( さだ ) 兼 ( かね ) 、 満範 ( みつのり ) 、そして弟の 氏兼 ( うじかね ) 、 仲秋 ( なかあき ) を中心にした一族の殆ど全てで、その結束は極めて堅かった。

 十月二日、再び上京した了俊は、細川頼之と今後の作戦を綿密に打ち合わせた。その結果、頼之が四国及び瀬戸内海の敵を制圧している隙に、中国筋の軍勢を結集した了俊が、一気に九州に突入するという戦略が固められたのである。また、中国の軍勢招集の前提として、了俊には安芸国の守護職が与えられた。

 さらに入念な準備と根回しの末、今川勢四千が中国路へと進発したのは、この翌年、応安四年(1371)二月十九日のことであった。その軍勢の中には、少弐冬資や宇都宮 経景 ( つねかげ ) 、そして 田原 ( たばる ) 氏能 ( うじよし ) といった、かつて征西府に本領を追われた九州武士の姿が多く見られた。

  君がため暗かるまじき心には 神も御影をうつさざらめや

  勅なれば国治めにといなみ野の あさじの道も迷はざらなん

 これらは、了俊が兵庫付近で詠んだ歌である。根っからの歌人である彼は、遠征の最中にも決して風雅を忘れはしない。これらの歌は、了俊の不退転の決意を示したものではあるが、その中に若干の不安感が感得されるのが興味深い。了俊ほどの武将にしても、この任務は神頼みしたくなるほど苛酷なものだったに違いない。

 結局、了俊は京都から赤間ヶ関に至る十カ月の間に六十首もの歌を詠み、また、『道ゆきぶり』と呼ばれる紀行文を執筆している。さらに、陣中に吉田兼好の弟子であった 命松丸 ( めいしょうまる ) を伴い、文学談義に花を咲かせた。

 「命松よ、最近巷に出回っている『太平記』は読んだかね」

 「ええ、あれはなかなか評判高いですね。勇ましい戦の場面だけでなく、天狗や亡霊が暴れ回ったり、漢詩が散りばめられていたりと、実に面白いです。楠木正成さまの討ち死にの場面など、私は涙が止まりませんでしたよ」

 「そこよ、そこが問題じゃ。まるで京都の朝廷(北朝)や将軍家が悪者のように書かれておる。きっと『太平記』の著者の 小島 ( こじま ) 法師 ( ほうし ) は、吉野方びいきに違いないぞ」

 「そうですかねえ、中には後醍醐の君を非難する文章も多かったですけどね」

 「いいや、あれは偏っている。そこでわしは思うのじゃ。この遠征を終えて本国に帰った暁には、自分流の『太平記』を書いてやろうとな。題名も決まっておる。『 難太平記 ( なんたいへいき ) 』じゃ。難は、非難の難じゃ」

 「へえ、それは楽しみですね」

 「うむ、そのためにも、何としても早めに戦を終わらせねば・・・」

 あたかも物見遊山のようにゆっくりと歩を進める今川軍だったが、主将の今川了俊は決して遊んでいたわけではない。彼は、中国筋の豪族たちに惜しげもなく莫大な恩賞を約束し、次々に自軍を拡張して行った。参戦を渋る豪族に対しては粘り強く説得を行い、極端な場合には、政略結婚さえも行った。例えば、了俊は、弟の仲秋を周防の大内弘世の娘と結婚させることによって、大内氏の協力を取り付けることに成功した。

 かくして今川了俊の元には、いつしか、大内弘世と 義弘 ( よしひろ ) 親子を筆頭に、石見の 周布士心 ( すふししん ) 、備後の 山内通 ( やまのうちみち ) 忠 ( ただ ) 、安芸の 毛利 ( もうり ) 元春 ( もとはる ) 、 吉川経 ( きっかわつね ) 見 ( み ) 、 長井 ( ながい ) 貞広 ( さだひろ ) 、 熊谷 ( くまがい ) 直 ( ただ ) 氏 ( うじ ) といった堂々たる人々が結集していたのである。さらに彼は、半年以上の歳月を費やして中国や瀬戸内海の海賊たちに調略を仕掛け、従わない者は細川氏の協力の元に武力討伐し、後顧の憂いを断った。

 こうして、今や併せて六万を越える雲霞のごとき大軍は、征西府を一呑みにせんと九州に迫ったのである。

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