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長編歴史小説

黄花太平記 第四部

17.菊池十八外城の攻防

 今川了俊の菊池攻略作戦が、託麻原の原野に散ったその翌月、戦勝に沸き立つ菊池隈府城に、一人の人物が現れた。

 波多水軍の頭領、波多勇である。

 このころ、松浦党は再び南北に分裂していた。そして勇は、南朝派の急先鋒として征西府方の一族の中枢に復帰し、 八代海 ( やつしろかい ) を利用して菊池氏との連絡を強めていた。そして今回も、食糧や生活物資を満載した海賊船団を宇土港に横付けし、そのついでに菊池を訪れたのであった。

 征西府首脳との会談を終えた勇は、久しぶりに早苗の元を訪れ、昔話に耽った。

 「そうですか、懐良の宮は、いまだに矢部におわすのですか・・・」

 「ええ、神仏に心を棒げ、もう二度と俗世にはかかわらない覚悟なのですわ」

 「早苗どのは、寂しくはないのですか・・・」

 「ええ、それは・・・・・でも、うちには可愛い子供たちがついていてくれますから」

 二人が初めて出会ってから、もう三十年の月日が流れようとしている。波多勇は、早苗の初恋の相手だった。結婚当初、夫との仲がうまく行かなかった時分は、どんなにか勇の面影を懐かしんだことだろう。しかし、歳月の流れは静かに積もり、二人の髪に白い花を咲かせていた。今や二人は、古い友人同士、優しく見つめあっていた。

 「早苗どの、言いにくいことですが」勇は、かすかに目を伏せた。「俺が菊池を訪れるのも、今度が最後となるかも知れませぬ・・・」

 「どうしてですの・・・」早苗は、勇の目をのぞき込んだ。

 「九州探題の今川入道が、我ら海賊が、海を用いて菊池を援助していることに気づいたらしいのです。北九州で水軍を組織し、八代の海を封鎖してしまうつもりらしいのです。そうなったら多勢に無勢、とても突破はなりませぬ・・・」

 「それじゃあ、これでお別れなのですね・・・」

 「・・・・・」

 「勇さん、今まで本当に有り難う。うちと、菊池一族のみんなは、一生あなたのことを忘れないわ」

 「いいえ、礼を言うのはこちらです。征西府には、長い間、本当にいい夢を見させていただきました・・・・・それに」勇は、鋭く早苗を見た。「俺は、ずっとあなたのことが好きだったから」

 「ようやっと言ってくれましたね」早苗は、いたずらっぽく笑った。「三十年前にそう言って、うちを武光兄上のところからさらってくれたなら、きっと、うちも冒険三昧の人生を送れたでしょうに」

 「あのころのように、お転婆でいたかったのですか」

 「きっとそうね。この年になっても馬を乗り回して遊んでいたかもしれないわ」

 二人は、大きく口を開けて笑った。

 これが、二人の今生の別れとなることを知りながら。

             ※                 ※

 天授五年(1379)六月末、今川了俊は、再び博多に大軍を集結させた。その標的は、むろん肥後菊池である。

 博多の本営にて、了俊は仲秋に語った。

 「我が軍の二度までの敗因は、明らかに敵を軽んじたことに帰する。じゃが、今のわしには分かる。菊池一族が、わしの生涯最大の強敵だということを。そして、今のわしなら誓える。この今川了俊の武将生命の全てを、この一戦に注ぎ尽くすことを」

 五万を越える大軍は、未曾有の覚悟の元に、肥後へと進発したのである。

 しかし、各地で蜂起する征西府方のゲリラを排除しつつ、今川軍先鋒が肥後に入った時は、既に八月の下旬となっていた。

 「まあ良い、じっくり構えて十八外城を包囲するのだ。決して無理な戦はせず、兵糧攻めにしろ。何年かかっても構わぬ。菊池を占領するまでは、決して家へ帰ろうと思うな」

 そう訓示した今川了俊は、年が明けた天授六年(1380)から本格的な包囲作戦に取り掛かった。既に肥後全土を海上から封鎖し、陸上の糧道も完全に掌握した了俊は、どんなに非情な作戦も恐れなかった。

 菊池氏を慕う近在の住人たちが、夜の闇に紛れてゲリラ化し、今川軍の糧道を襲う事件が頻発すると、

 「見せしめのために、手近な村を一つ丸ごと焼き払ってしまえっ」

 迷う事なく部下に命ずる、厳しい僧形の大将の姿がそこにあった。

 一方の征西府軍は、この幕府軍を万全の態勢で迎え撃った。

 十八外城の重要拠点には菊池一族の精鋭が入って防備が固められ、総大将の良成親王と菊池武朝は、隈府城で少弐 貞頼 ( さだより ) (昨年病死した頼澄の子)や阿蘇 惟政 ( これまさ ) (惟武の子)とともに予備として待機し、不測の事態に備えた。さらに名和顕興は、本拠の八代を拠点に、宇土道光や川尻広覚らと協調し、今川軍を南方から牽制する態勢を整えた。

               ※                 ※

 ここで、菊池十八外城の概要について解説しておこう。

 菊池一族は、武光家督の時、菊池郡を一個の巨大な要塞とする計策を練った。すなわち、本城を深川から隈府に移し、その四方の要地に多くの城塞を配置し、それらを互いに連携させることによって、菊池一郡全体の防衛力を格段に強化したのである。

 まず、西の山鹿や玉名方面から来襲する敵に対しては、水島城と板井城が 打越 ( うちごえ ) 、 馬渡 ( まわたり ) 、正光寺、 増永 ( ますなが ) の諸城と連携して防御線となり、亀尾、古池、木野、深川(菊池陣)城がその後衛となる。また、南の合志方面から来襲する敵に対しては、亀尾、古池城が備え、深川、戸崎城がその後衛となる。また、東の阿蘇から迫る敵に対しては、 市成 ( いちなり ) 城が防御線を張り、その後衛として 元居 ( もとい ) 、 五社尾 ( ごしゃのお ) 城が機能する。また、北の間道から迫る敵に対しては、五社尾城が 染土 ( そめつち ) 城、 葛原 ( くずはら ) 城とともに防御線を形成する構えなのである。

 ただし、右の研究は、菊池氏崇拝が盛んになった江戸中期以降のものであるから、戦国時代の城閣を、当時のものと混同して評価した可能性もあるので、その実態は未だ謎に包まれていると考えたほうがよいだろう。そもそも、十八外城という呼称自体が、この当時に既に存在したか否か定かではないのである。

 いずれにせよ、菊池一郡が強力な要塞地帯を形成していたことだけは間違いない。そして今、室町幕府の大軍は、南北朝の戦乱に終止符を打つために、この要塞地帯に真っ向から戦いを挑んだのであった。

               ※                 ※

 今川軍主力は、難戦の末に十八外城の西の台地、板井原を占拠し、木野武貞兄弟が守る板井城に肉迫した。しかし、板井城は堅固であった。その城郭自体は小さいが、赤星城や深川城や 河内 ( かだい ) 城といった近在の繋ぎの城が有機的に連携し、今川軍の側面を巧みに脅かしたため、了俊の軍勢は総攻撃の態勢になかなか入れなかったのである。

 「これが十八外城か・・・焦らずに、一つ一つ潰して行くしかないな・・・」

 今川了俊は、決して余裕を失わなかった。菊池郡全体の地形を入念に調べ、どの城から順番に落とすのが効率的かを丹念に研究した。その結果、天授六年の今川軍の攻略目標は、板井と水島の二城と決まった。中国、九州の各地から集められた幕府の大軍は、兵糧攻めを厳しく続けながら、じりじりと二城の城門に肉迫していったのである。

 この両城の抵抗がついに潰えたのは、その年の九月のことであった。板井の木野武貞らは無事に後方の木野城に撤退したが、水島の菊池肥前守 武照 ( たけてる ) (武安の子)は壮烈に戦った末に戦死した。

 第一関門を突破した幕府の大軍は、一気に東進して木野城に迫った。また、阿蘇山中からは、阿蘇惟村勢も市成城に迫った。しかし十八外城は、この年一杯を頑強に持ちこたえたのである。今川軍は、この一年間でやっと二城を手中に収めただけだった。

 「焦るな、そろそろ菊池の兵糧も底をつく。来年の頭が勝負だ」

 今川了俊は、遅れがちではあっても着実に進展する戦局に満足げであった。

 一方の征西府軍は、幕府軍の完全な布陣に動きを封じられていた。

 「今川入道め、一向に隙を見せようとしないわ。雑多な軍勢を、長期にわたって上手にまとめておる。奴らが内紛を起こす気配は、まるで見られないな・・・」

 隈府城の菊池武朝は、あまりに慎重すぎる敵の戦略を前に、打つ手を失っていた。

 「このままでは、糧食が尽きる・・・」

 「武朝、希望を失ってはいかぬぞ。島津の援軍が来てくれるまで、あと少しの辛抱ではないか」良成親王は、弱音をこぼす菊池惣領を、鋭く窘めた。

 良成が言ったことは、必ずしも幻想ではない。これに先立つ二年前、託麻原合戦で大打撃を受けた薩摩の島津伊久は、今度の菊池攻めへの参加を拒否し、了俊と完全に断交していたのである。ここに勝機がある。もしも伊久が、叔父の氏久と手を組んで共に味方について戦ってくれるなら、一気に戦局が覆せるかもしれないのだ。

             ※                 ※

 天授七年(1381)二月、南北朝は、ほぼ同時に改元を行った。 すなわち、この年は北朝の 永徳 ( えいとく ) 元年、同時に南朝の 弘和 ( こうわ ) 元年と改まった。

 この年、今川軍の包囲の輪はますます厳しく締まり、征西府軍の士気は徐々にではあるが、確実に低下の一途をたどっていた。

 前にも述べたが、この時代の戦闘員は農民も兼ねていたから、彼らを長期にわたって戦場に動員することは、農産力の激減を招く。それを承知で五万の大軍を二年に亙って肥後に拘束する今川了俊の闘志と力量は、まさに端倪すべからざるものであった。

 四月二十六日、木野城はついに落城し、その支城である 吾平 ( あがひら ) 、河内の両城も相次いで陥落した。そして、五月初旬には高瀬氏の守る深川城も落ち、今川軍は、ついに菊池の本城、すなわち隈府城に肉迫したのである。

 この情勢に、菊池武朝は、良成親王と女子供を隈府の東方の染土城に避難させた。いざというとき、彼らが肥後南部に安全に逃げられるように配慮したのである。

 夫との別れ際、麻衣子は武朝の耳に唇を寄せた。

 「なにっ、やや子(赤ちゃん)が出来たと申すか」

 麻衣子は、頬を赤く染めながら頷いた。

 「そうか、こんなに苦しい戦の最中でも、新しい命は宿っていくものなんだなあ・・」

 武朝は、感慨深げに天を仰いだ。殺伐とした彼の心に、久しぶりに安らぎが生まれた。

 その数日後、武朝は、近在の村長たちを城に呼んでこれまでの苦労を労い、厚い感謝の言葉をかけた。菊池氏の善政を慕う農民たちは、ここ数年の労苦にも負けず、ひたすら領主を信じて困苦に耐えて来たのである。彼らは、時には危険を冒して今川軍の糧道を襲ったり、包囲下の十八外城に糧食を届けてくれたりしたのだ。

 「皆の衆、今まで苦労をかけてすまなかった。勝敗が明らかになるまで、まだまだ時がかかるが、これからも挫けずに頑張ってもらいたい。この武朝、心からお願いする」

 静かに頭を下げる若き領主の姿に、村長たちは当惑し、口々に言った。

 「やめてくだせえお屋形。わしらがお屋形に尽くすのは当然のことにごわす」

 「んだ、んだ。日ごろのご恩を返すのはこんなときしかありやせん」

 「わしらは、何がなんでも、最後までお屋形のために働きますだ」

 「・・・かたじけない、皆の衆、武朝は忘れぬ・・・」武朝は胸を打たれた。彼の心の中に、新たな闘志が燃え上がった。

 しかし六月に入って、隈府城の攻防は最後の段階に入った。

 十七日、真っ黒に日焼けした今川の将兵たちは、ギラギラとその眼を血走らせながら、隈府城の置かれた守山を完全に包囲したのである。守山は、菊池平野の東端に位置する小山である。今日、隈府城の本丸跡には菊池神社が置かれ、その境内の歴史博物館は、当時の模様を今に伝えている。

 菊池勢の抵抗は激しかった。力攻めを繰り返す今川軍は、何度も撃退され、莫大な死傷者を出したのである。

 今川、大内、大友、毛利、吉川、長井、宇都宮、宗像、阿蘇、田原、松浦、龍造寺、深堀、少岱、合志、相良ら、圧倒的な幕府軍は、今更引き下がるわけにはいかなかった。あの菊池氏を、ついにここまで追い込んだのである。どんなに損害が嵩もうとも、今ここで戦い抜くしかない。

 「者共、ひるむなっ、あと一息ぞっ」

 疲労で表情を歪めた今川了俊は、埃まみれの頭を、そびえ立つ隈府城の城壁に向けながら叫んだ。彼が跨がる愛馬の足元には、城兵の矢玉に倒れた無数の郎党の遺体が転がっている。

 だが、五日間にも及ぶ昼夜を分かたぬ激戦の状況は、徐々に攻撃側有利に傾いた。

 「やはり、両島津は動かないか・・・」

 菊池武朝は、本丸の上座で項垂れた。彼の周囲では、一族の宿老たちが暗い顔をしてため息をついている。無傷の者は、もはや一人もいなかった。

 この頃、彼らが頼みとする島津氏久と伊久は、菊池氏を救援しうる態勢ではなかった。なぜなら、島津氏の守護権力に古くから反抗する南九州の豪族たち(国人)が、今川の旗の下に集い会い、『一揆』を結成して島津氏の足元を脅かしたためである。島津氏の弱点をえぐったこの今川探題の施策は、実に的確であった。島津氏は、領国外に兵を送る余力を完全に失ってしまったのである。そしてこの一揆は、戦国時代に至るまで島津氏を悩ませ続け、その国内統一を大幅に遅らせることとなる。

 六月二十三日、ついに隈府城の抵抗は潰えた。

 城側の糧食と矢玉が尽き果てたのである。

 「まだ、負けたわけではない。いつか必ず、おいは帰ってくる」

 固い決意を胸に秘め、菊池武朝は一族の主力を引き連れて城を脱出し、夜の闇に紛れて行方をくらました。

 その翌日、良成親王が籠もる染土城も抵抗を諦めた。親王主従や菊池の家族たちは、武朝の後を追って城を逃げ去ったが、少弐貞頼は、もはやこれ以上の抵抗を無意味と判断し、幕府軍に投降したのである。

 幕府軍の万歳のどよめきが、澄み渡った青空に轟いた。凱歌の声は、菊池の田園に充満した。

 「ついに勝ったぞ・・・」今川了俊は、隈府城の本丸から荒れ果てた平野を見渡しながら、感慨深げに言った。「ついに、ついに十八外城を制した。長い三年間だった・・・」

 「しかし」傍らに控える今川仲秋が言った。「菊池武朝と良成親王らは、風を巻いて逃げ去りました。奴らの闘志は、まだまだ侮れません」

 「なあに、奴らにはもはや逃げ場はない。阿蘇大宮司(惟村)が我が同志であるかぎり、建武の戦のように阿蘇方面に逃れることは出来ぬ。それに、南肥後最大の豪族である相良前頼が我が味方ゆえ、奴らは南に逃げることもできぬ。かくして、もはや征西府は粉砕された。何を恐れることがあろうか」

 そう語る今川了俊の唇は、感激のあまりかすかに震えていた。応安五年(1372)に九州の土を踏んでから十年目、永徳元年(1381)にして、了俊はやっと、その任務を一段落させることができたのである。

 そして、南朝最後の砦であった菊池郡は、実に四十年ぶりに敵手に落ちた。もはや、征西府の、そして南朝の栄光は夢のまた夢と思われた。

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