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長編歴史小説

黄花太平記 第四部

18.早苗と了俊

 菊池郡を手中に収めた今川了俊は、その日のうちに布告を発し、兵士たちの略奪暴行を厳しく禁じ、民の生活を安んじた。また、城下町をくまなく探訪し、道路網や潅漑整備などの菊池氏代々の業績に感心し、惜しみない賛辞の言葉をを投げた。

 「菊池一族の強さの秘密はここにある。彼らは、民との間に血よりも濃い連帯感を築き上げ、それを力とすることに成功したのだ・・・これからは、我々も彼らのやり方を見習わなければならぬ。武士と民との絆を強め、その連帯感を力とする。ただしその力は、戦にではなく、国を豊かに富ますことに向けなければならぬ・・・」

 側近に向かって平和を語る了俊は、しかし菊池武朝探索の手を緩めたわけでは無かった。彼の諜報網は、武朝と良成が、菊池南郊の 嶽 ( たけ ) に敗兵を集結させている事実をつかんでいた。

 「もはや何の脅威にもならぬとは思うが、気になるな。やはり、追討の兵を差し向けるべきであろうか・・・だが、中国筋の豪族どもはほとんど本国に引き上げてしまったし、独力であたるには危険が大きすぎる。さて、どうするべきか」

 隈府城本丸の一室で思案にふける了俊は、ある日、染土城の検分に行っていたはずの嫡子・義範の突然の訪問を受けた。

 「おお、義範か。染土の様子はどうじゃった」

 「父上、それが、彼の地にてたいへんな人物を保護いたしてござりまする」

 「誰じゃ、そのたいへんな人物というのは」

 「先の宮将軍・懐良親王の奥方でござります・・・」

 「なんじゃと」今川了俊の目は、鋭く光った。「なぜ染土に・・・逃げ遅れたとでも言うのか」

 「本人は、そう申しておりますが」

 「・・・・・ここに連れて来ておるか」

 「ええ」

 「ならば、二の丸に案内せよ。わしが直々に日本国王夫人を詮議する」

                  ※                 ※

 隈府城に連行された菊池早苗は、捕虜としての自分の立場をわきまえていないかのように振る舞った。その態度や物腰は実に堂々としており、少しも悪びれた様子がなかった。

 義範の報告によれば、彼女は、開け放たれた染土城の本丸の一室で、香を焚きしめて静かに侵入者を迎えたとのことである。つまり、彼女は自ら進んで虜囚の道を選んだのだ。そのとき城に残っていた者は、彼女の二人の娘の外には、数名の侍女のみであったという。

 正装して二の丸の客室に現れた今川了俊は、上座で毅然と構える早苗に向かい合う形で対峙した。そして彼は、この小太りで白髪の老女に深い感銘を受けた。数奇な運命を健気に生き抜いた一人の高貴な女性の姿は、彼の詩心を強くくすぐったのである。

 「探題どのが、菊池の民に優しく接してくれたことを、たいへんに嬉しく思います」質素な小袖姿の早苗は、柔和な声で語る。

 「当然のことをしたまで。民に罪はございませんからな。罪は、民を扇動した悪しき領主にこそあります」了俊は、そう言って彼女の顔をのぞき込んだ。

 「これから、どうなさいますか。その悪しき領主の首を取るまで戦を続けるおつもりなのですか」早苗は、表情を変える事なく了俊に問いかけた。

 「はたして、その必要がありますかな。今のわたしは、日本国王を僭称した人物の方により強い興味をもっておりまする」了俊は、唇を歪めた。「実は、討伐の軍勢を矢部に派遣しようかと思案中なのですよ」

 早苗の表情は、これを聞いて一瞬凍りついた。しかし、それはほんの一瞬のことで、彼女は、再び元どおりの笑顔を了俊に向けた。

 「あの人は、現世のしがらみを全て捨てて、仏を敬う毎日に明け暮れています。そのような隠者一人のために大勢の人々に苦労を強いるのは、探題どのとしては、あまり賢いなされ方ではないでしょう」

 「ふむ」

 今川了俊は、早苗の冷静な態度に偽りが無いことを知っていた。懐良親王は、今や矢部や黒木の山中で念仏を唱えて生きている。わずかな糧は、伊予の河野氏が時折送ってくれるもののみ。日本国王の権威は、有名無実だ。そんな人物を捕らえるために、猿も住まぬ山奥に派兵するのは、無駄以外の何物でもない。確かに、早苗の言うとおりなのだ。

 「奥方がそうおっしゃるのなら、軍勢は矢部に向けず、悪しき領主の方に向けましょうかの」了俊は、軽い口調で言い放った。

 「武朝にも、本当は分かっているのです」早苗は、小さく俯いた。「あの子は、ただ、先祖以来の家名を汚したくないだけなのです。武勇に秀でた、強い菊池一族の名を後世に残したいのです。ただそれだけのために、探題どのと戦い抜く覚悟なのです」

 「愚かな」了俊は、吐き捨てるように言った。「あなたの口から、武朝どのを説得していただけませぬか。九州探題の軍門に下ることは、恥ずべきことではないと。決して、菊池一族を粗略には扱いはしないと」了俊は、身を乗り出した。懐良討伐のことを言い出して早苗を脅かした彼の真意は、ここにあったのだ。

 「うちに出来る限りのことはしますわ」早苗は、大きく頷いた。

 こうして、彼女とその娘たちは、了俊によって特別の待遇を受けることとなった。城内に一室を与えられ、行動の自由が保証された。

 「兄上、あの老女を信用して大丈夫なのですか」ある時、今川仲秋が了俊に問うた。

 「あの女の真意は分かっておる。夫と一族を救うため、我が身を投げ出してきた気丈な夫人というわけだ。健気なものではないか。・・・彼女の存在は、将来予想される征西府との和平のために必要だ。ここで優遇しておいても損はあるまい」

 今川了俊は、それから暇を見ては早苗親娘のもとを訪れた。教養こそないが、利発な女たちに、京の風物について語り、歌の詠み方を教えた。早苗の二人の娘たちは、初めて接する京の文物に夢中になり、了俊おじさんの訪問を心待ちにするのだった。

 しかし早苗は、いつも笑みを浮かべたその瞳の裏で、自分より若干年長のこの九州探題の心理を冷静に窺っていた。この男の心の弱さを巧みに衝けば、流浪の我が一族は、再び強力な姿となって生まれ変わることだろう。

             ※                 ※

 その一方で、菊池武朝の苦難の旅は続いた。

 嶽の地で良成親王や家族たちと再会した武朝は、その疲労した軍勢を引っ提げて南を目指した。彼らの頼る場所は、もはや阿蘇惟政の本拠である甲佐郡以外になかったのである。

 だが、落ち目の征西府軍に予期せぬ危機が襲いかかった。菊池武朝と名和顕興の不和が表面化したのである。

 南朝の弘和二年(1382)四月、顕興に扇動された菊池一族の若手武将たちが、守山(隈府城の置かれた山とは異なる)に立て籠もり、武朝の惣領辞職を迫ったのである。

 「なんと愚かな」武朝は切歯した。「今こそ、一族団結して難事を乗り切らねばならぬというのに」

 「どうする、肥後守」良成親王と、その側近の 葉室 ( はむろ ) 親善 ( ちかよし ) が、心配そうな顔を向ける。

 「容赦はしません。一気に攻め潰し、我が実力を思い知らせてやるまで」

 武朝と親善の手勢は、直ちに守山に襲い掛かった。反乱者たちは、もともと徹底抗戦の気構えは持っていなかったので、この突然の強襲に対処できず、たちまち崩れ立ち、呆気なく武朝の軍門に降ったのである。

 武朝は、名和顕興の腹のうちをつかんでいた。顕興は、武朝に代わって征西府の指導者に成り上がりたいのだ。だが、そうはさせない。名和一族は、もともと伯耆(鳥取県)の豪族であって、中央の戦況が悪化したために肥後八代に逃げ込んで来た連中だ。言わば、我が菊池一族の居候に過ぎない。そんな連中に、母屋を明け渡すわけにはいかぬ。

 とは言え、名和一族との対立を表面化させることはできない。乏しい兵力を分散させることはできない。ここに、武朝の苦衷があった。彼は、守山事件の背後に顕興がいることを知りながら、平静を装って顕興と接するしかなかったのである。

 こうした苦難の旅の末、甲佐郡に落ち着いた征西府は、川尻の広覚入道や宇土の道光入道と連携し、菊池に陣取る今川勢と対峙する構えをとった。

                  ※                 ※

 この情勢に、今川了俊も傍観してはいられなかった。再び北九州の豪族たちに軍勢催促を行い、征西府に最後の止めを刺す準備に取り掛かったのである。

 隈府城の早苗は、二人の娘とともに殺伐な雰囲気に耐えていた。武朝は、彼女からの手紙に返事も寄越さない。しかも、弘和三年の春、そんな彼女の悲痛な心を打ちのめす知らせが矢部から届けられた。

 それは、彼女の夫、懐良親王の訃報であった。

 懐良は、先年の暮れに風邪をひいて病床に伏していたが、老齢ということもあって、この冬を乗り切ることが出来なかったのである。享年五十六歳であった。

 矢部の御所から届けられた夫の遺髪を前にして、早苗は泣き崩れた。

 懐良が妻に遺した末期の手紙には、自分の晩年が仏に導かれて幸せだったこと、早苗も寂しいだろうが、子供達を守って、自分の信じる幸せをつかむために強く生きて欲しいと記されていた。

 「・・・そうだ、悲しんでばかりはいられない。ここでうちが挫けてしまったら、一族の未来が閉ざされる・・・」早苗の脳裏には、武重や武光といった亡き兄たちの姿や、彼女の将来を最後まで案じて散った父・武時の朧ろげな印象が浮かび上がった。

 「そうだ、うちは強く生きる。天で見守る夫のためにも・・・」

 その翌日、早苗は夫の菩提を弔うために髪を下ろし、 了心素覚尼 ( りょうしんそかくに ) と名乗った。この法名中の了の字は、今川了俊から貰ったのである。

 「大智さま、早苗はようやく仏門に入りました。この上は、大智さまの境地に少しでも近づくべく努力いたします・・・」

 美しく老いた尼は、心の中で懐かしい恩師の面影に語りかけた。

               ※                 ※

 一方、懐良親王の死は、九州よりもむしろ畿内の南朝方に強い影響を与えた。

 南朝は、懐良に先立って、畿内の武の柱である北畠顕能を病没させていた。それに次いでの九州の柱の喪失は、南朝の士気を大いに低迷させたのである。

 弘和三年(1383)の末、南朝の長慶天皇は弟の 煕成 ( ひろなり ) 親王に譲位した。後亀山天皇の即位である。これは、南朝内でタカ派がハト派にその地位を明け渡したことを意味する。

 この情勢を見て、以前に北朝方に寝返っていた楠木正儀も、再び南朝に帰順した。彼は元来講和主義者であって、南北朝の不毛な対立を解消すべく尽力していた。父の正成、兄の正行とは全く異なる生き方。正儀の二度に亙る変節は、決して彼とその一族に富をもたらしはしなかったが、南北講和の橋渡しとして果たした功績は無視できないのである。

 しかし、九州の戦火は、まだまだ激しく火花を散らしていた。

 両島津の今川探題に対する反感は強かった。彼らは、今川了俊の懸命の説得にも拘わらず、決して幕府に靡こうとはしない。やがて、この島津氏の強硬な姿勢に動かされ、南九州の豪族で今川探題から離反する者が続出した。彼らとしては、遠い今川より近くの島津と結んだ方が長期的に得策と判断したのであろう。特に、南肥後の相良前頼の離反は、戦局に大きな影響を与えたのである。

 ここに征西府は、再び勢力を回復した。派遣される探題方の軍勢を、川尻と宇土の防衛線で迎え撃ち、何度となく撃退したのである。しかし、征西府内部の実質的な主導権は、もはや菊池氏ではなく、相良や川尻、名和といった肥後南部の豪族たちに握られていたのである。だが、菊池武朝は、菊池氏主導の征西府に固執し、一族の地位を守り抜こうとした。例え我が身が他家の居候に落ちぶれても、先祖の栄光を他家に奪われるのは我慢できなかったのである。

 当然、彼の頑なな態度は他の豪族たちの反感を招く。名和顕興を中心とする反武朝派は、吉野の後亀山天皇に菊池氏の非力さを訴えかけ、その地位を剥奪しようと目論んだ。

 それを察知した武朝は、南朝の元中元年(1384)七月、葉室親善とともに長文の申状をしたため、これを吉野の朝廷に提出して自己弁護に努めたのである。『武朝申状』と呼ばれるこの書状は今日も残っており、当時の歴史を振り返るうえで重要な資料となっている。武朝は、申状の中で一族の来歴を披露するとともに、元弘の戦乱以来の曾祖父武時、大伯父の武重、武敏、武士、祖父の武光、父の武政らの忠誠ぶりを克明に語っている。また、託麻原合戦を中心に、自分自身の命を投げうった奮闘ぶりを強調している。

 その結果、吉野の裁決は武朝に有利に動いた。菊池一族は、後亀山天皇によって征西府の主導者としての変わらぬ地位を認められたのである。

 「おいは、無力だ」武朝の表情は、しかし晴れなかった。「偉大な先祖たちの名を借りなければ、自分の立場すら保つことができない・・・なんと情けない・・・」

 武朝の悩みを他所に、征西府軍は良く戦った。自ら益城まで本陣を進めた今川了俊を相手に奮闘し、川尻と宇土の防衛線を五年もの間支え抜くのである。

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