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長編歴史小説

黄花太平記 第四部

20.今川了俊の失脚

 明徳三年(1392)閏十月をもって、半世紀に及ぶ南北朝の争いは、ついに終わりを告げた。天皇は一人、朝廷は一つ、元号も一つ、三種の神器も一組。この当たり前の状態が訪れるまで、どれほどの歳月と幾多の血潮が必要とされたことか。しかしようやく、人々が安心して正業に励むことができる世の中が訪れたのである。

 しかし、九州探題・今川了俊の戦いはまだまだ続いた。彼は、九州における幕府権力を確立するため、この際徹底的に、御三家(少弐、大友、島津)と呼ばれる大豪族を叩いておこうと目論んだのである。

 ただし、御三家といっても、弱体化した少弐氏は探題の忠実な与力となっているし、大友氏も表面上は探題にひれ伏している。ゆえに今川了俊の標的は、南北合体後も未だに独立自存の構えをとっている島津氏に外ならなかった。

 明徳五年(1394)正月、了俊の指図を受けた相良前頼は、都城に島津方の 北郷 ( きたごう ) 氏を攻めたが、返り討ちにあって前頼以下、弟三人も討ち死にするという大打撃を受けている。

 跡を継いだ相良 頼茂 ( よりしげ ) も、かえって島津軍に攻められ、苦境に陥った。

 業を煮やした了俊は、菊池武朝に出陣を要請したが、武朝は軍備不十分を口実にして、婉曲にこれを拒否した。

 「もはや南北朝の戦は終わったのだ。例え大恩ある今川探題の依頼であっても、菊池一族は大義のない戦はしない」武朝は、妻の麻衣子と嫡子の 兼朝 ( かねとも ) には本音を語った。

 やむを得ず了俊は、京の将軍義満に援軍を要請し、援軍到着までは島津に対する積極攻勢を延期することにしたのである。

 このころ、朝鮮半島では高麗王朝が滅亡し、倭寇討伐に名を上げた 李成桂 (りせい けい ) を始祖とする李氏朝鮮王朝が勃興していた。今川了俊は、この新王朝との外交を積極的に進め、倭寇の禁圧に尽力したため、かつてはあれほどの勢いだった倭寇も、このごろはすっかりおとなしくなっていた。その結果、博多は貿易港としてますます賑わったのである。

 しかし今川了俊は、その絶大な権勢を利用して私利私欲に走るようなことはなかった。彼は、あくまでも将軍の代官としての本分を尽くしたのである。彼は、つまらぬ野心を燃やすには教養人でありすぎたし、また七十歳の高齢でもあった。

 そんなある日、博多の九州探題邸を、一人の武将が訪ねて来た。わずか数名の供を連れ、人目をはばかる様子であった。

 不意の客を奥へと招きいれた了俊は、懐かしい面影に心を躍らせた。

 「大内義弘どの。久しいですのう。菊池攻め以来であろうか」

 「ほんにお久しぶりです、探題どの。お元気そうでなにより」

 「京での大内どのの活躍は、博多でもすっかり語り草ですぞ。山名の反乱軍を苦もなく打ち破り、南北京の統一にも尽力なされたとか。近ごろは、新たに領土となった和泉の商人たちを保護して大いに治績を上げておるとか。堺に店を持つ博多商人たちも、ほんに大喜びじゃ」

 「いいえ、探題どののご活躍には、比べるべくもありません」

 この二人は、義弘がまだ孫太郎と呼ばれる少年だったころからの付き合いである。義弘はかつて、父と仲たがいしてまでも、苦戦する了俊を救援して九州に渡り、菊池氏と戦った。また、了俊は義弘を大いに可愛がり、歌や茶道の嗜みを伝授してあげたものである。

 二人はしばし、昔語りをしながら差し向かいで杯を傾けた。

 「そういえば探題どのは、亡き細川頼之どのと親友の間柄でしたなあ」義弘が、酒で鼻を赤くした鼻をこすりながら言った。

 「うん、あれは当代の人物じゃった。惜しい男を亡くした・・・」今川了俊は、悲しげに目を伏せた。

 幕府の名政治家・細川頼之は、明徳の乱の直後、明徳二年(1391)三月に、念願の南北朝合体を見る事なく六十四歳で病没していた。

 「頼之どの亡き後、幕府は変わりました」義弘は、身を乗り出した。「あの 斯波 ( しば ) 義将 ( よしまさ ) が管領職に復帰し、将軍の威を借りて好き放題にやっております」

 「義将どのは、あれで優れた武将と聞いておる。確かに細川一門とは仲が悪いようだが、幕政にとっては大事あるまい」

 「わたしは、探題どのの身が心配なのです」義弘の眼は、やにわに真剣味を増して来た。「義将めは、彼の兄・氏経に果たせなかった九州平定を実現させた探題どのを妬んでいるのみならず、探題どのを細川党と見なしておりますぞ・・・」

 「そんなことか」了俊は、笑顔で応えた。「義将がどんなにわしを嫌っても、将軍はわしの忠義をよくご存じじゃ。今すぐどうこうということもあるまい」

 「甘すぎます、探題どの。山名一族や、土岐一族の運命を知っているでしょう。将軍は機会を見て、幕権を脅かす有力な豪族を取り潰そうとしておるのじゃ。我が大内家も、探題どのも、決してその例外ではないっ」

 「・・・義弘どのの言うとおりとして、それで義弘どのはどうなさるのじゃ」

 「謀反を起こすのです」

 一瞬、座は静まった。冷たい空気が、見つめ合う二人の視線に揺れ動かされた。

 「殺られる前に、殺るのです。わたしと探題どのが手を組めば、我が娘婿の大友はもちろん、少弐も菊池も起ちます。北畠や楠木といった南朝の残党も起ちます。土岐や山名、関東公方といった幕政不満組も起つでしょう。そうです。今をおいて時はないのです。やりましょう、探題どの。起てば、必ず勝てます。中国と九州の兵で天下を取るのです」

 大内義弘は、必死な形相を今川了俊に向けて、熱っぽく語った。

 了俊は、ここまで真摯な義弘を見るのはこれが初めてだった。あるいは、この男の言うとおりかもしれぬ。だがしかし・・・・・・

 「わしには、できぬ」了俊は、首を大きく左右にふった。「わしは、幕府とともに生き、幕府とともに育った男じゃ。譬え幕府がわしに害をなすとも、それに刃向かうことはできぬ。・・・今日の話は聞かなかったことにしよう。さあ、帰っておくれ。もう会わない方がよい」

 義弘は、沈痛な表情を浮かべて天を仰いだ。

 「必ず、後悔なさいますぞ」そう言い残した彼の姿は、夜の帳の中へと消えて行った。

                 ※                 ※

 今川了俊に、幕府から京都への召還命令が出たのは、大内義弘との密談の一年後、 応永 ( おうえい ) 二年(1395)閏七月のことであった。一族郎党を全て連れて来いとの指図である。

 「おおかた、将軍の手から感状でも貰えるのであろう。・・・久しぶりに京の歌風に触れるのも悪くない」了俊は、軽い気持ちで旅の準備を整えた。

 博多から乗船する探題一行を見送るのは、菊池武朝、少弐貞頼、阿蘇惟政ら、了俊に恩を受けた旧南朝方の武士がほとんどであった。特に菊池武朝は、積極的に了俊一行の準備を手伝い、あれこれと手配りをしてあげたものである。

 見送りの人々の中には、早苗の姿もあった。

 「早苗どの、いや素覚尼どの、京の土産を楽しみに待っていなされや」

 「それよりも、京で流行している歌を教えていただけるのが楽しみですわ」

 「ははは、素覚尼どのも風流になったのう」了俊は、楽しげに笑った。

 探題一行の中には、夫とともに九州を去る綾香の姿もあった。彼女は、すでに二児の母となっている。

 「綾香や、体には気をつけるんだよ」早苗は、娘の手を取って言った。

 「母様こそ、もうお年なんだから無理しちゃ駄目よ」いたずらっぽく笑う綾香。

 「まあ、見てらっしゃい、おはんよりも元気に長生きして見せるから」

 大勢の笑顔に見送られ、今川一族を乗せた大型船は、博多港を後にした。

 「九州の太平のためにも、探題どのには早く帰ってもらいたい・・・」菊池武朝は、心からそう願っていた。

 しかし今川了俊は、二度と九州の土を踏むことはできなかったのである。

 了俊は八月下旬、無事に京に入り、将軍御所を訪れた。

 室町三代将軍足利義満は、応永元年(1394)以来、将軍位を嫡子の 義持 ( よしもち ) (当年九歳)に譲り、自らは 太政 ( だじょう ) 大臣 ( だいじん ) となったが、つい先頃出家して 道義 ( どうぎ ) と名乗った。このとき、義満の権勢に媚びる多くの公家や武士たちが、一斉に後追い出家をしたと伝えられる。しかし、義満は出家したといっても俗世を離れるつもりはなく、仏体で中央政治を切り回し続けたのであった。

 さて、この僧形の権力者と対面した了俊は、何の発言も許されぬまま、突然に九州探題職解任を言い渡され、わずかに遠江半国の守護を命じられたのである。新たな九州探題は、斯波義将と血縁関係にある 渋川 ( しぶかわ ) 満頼 ( みつより ) に決まった。

 「そんなばかな・・・何かの間違いだ・・・・」

 彼は、自分の身に起こったことが容易には信じられなかった。彼は、二十五年もの歳月を、文字どおり戦陣に費やしたのである。その間、討ち死にした家の子郎党は一千余名を数える。それほどの犠牲を払い、ひたすら幕府のために貢献した了俊は、いまや菊池武朝以下の地位に成り下がったのである。

 「大内どのの言ったとおりであった・・・」了俊は、唇を噛み締めた。「 狡兎 ( こうと ) 死して 良狗 ( りょうく ) 煮られる・・・ということか」

 了俊は、己が所詮、官僚機構の部品に過ぎなかった悲哀を味わいながら、家族や一族郎党とともに遠江への辛い旅路を歩んだのである。

 ところが、この了俊失脚の立役者は、実は大内義弘だったのである。義弘は、了俊の口から己の反意が幕府に漏れることを恐れ、逆に了俊の反意を将軍の耳に吹き込むことで、己の安全を確保しようとしたのである。将軍はこの中傷を信じ、あるいは信じたふりをして了俊解任に踏み切ったのであった。了俊こそ、いい面の皮である。

 そして大内義弘は、自分が次の九州探題に任命されることを期待していた。彼は、富沃な博多港の財力を一手に握りたかったのである。しかし、さすがにこの望みは適わなかった。将軍義満は、有能な九州探題の存在を嫌ったからである。そのため、新探題に任命された渋川 満頼 ( みつより ) は、坊っちゃん育ちの無能な人物であった。

 だが、かねてより今川探題の専制に反感を持っていた大友親世や島津伊久は、了俊失脚の確報が入ると、手紙をやり取りして喜びを表したのである。

 「これでやっと邪魔物が去った。水島以来の恨みが一気に晴れたぞ」

 「これでもう、菊池風情に偉そうな顔はさせずにすむわい」

 こうして、有力な庇護者を失った菊池一族は、再び苦難の道を歩むことになる。

 応永三年(1396)春、博多に到着した渋川探題は、大友、島津氏ら、九州の有力豪族の熱烈な歓迎を受けた。大友らにとっては、与し易い探題の着任は、自己の勢力拡張にとってこの上なく喜ばしいことである。

 しかし、今川探題の突然の解任に不満をもつ菊池武朝と少弐貞頼は、いっこうに博多に挨拶に来る気配がなかった。

 「やはり、菊池と少弐が今川入道と結んで謀反を企んだという噂は本当だったのだな」渋川満頼は御機嫌斜めである。「菊池などは、最後の最後まで南朝方のために働いた頑固者。我が幕府に靡くわけがない。こうなったら、少弐もろとも踏み潰してくれようぞ」

 ここに、渋川探題の菊池少弐追討令が、九州を覆ったのである。

 「つまらぬ男が探題になったものだ」肥後の菊池武朝は、知らせを聞いて愕然とした。「どうせ大友らが、今のうちに我が家と少弐家を弱めておこうと画策したのだろうが・・・それにまんまと乗せられるとは、なんとも愚かな探題よ」

 ここに、菊池武朝と少弐貞頼は、手に手を取って武装蜂起した。阿蘇惟政、名和顕興らも菊池方に加担したため、その勢いは探題の予想外に強くなった。

 勇躍して筑後に軍を進めた武朝は、高良山で、大宰府を発した少弐貞頼軍と合流した。今や逆賊と呼ばれる二人の武将は、軍議が開けた後、差し向かいで酒を酌み交わした。

 「わしは、大宰府を固めて大友や大内の侵攻を阻止して時間を稼ぐ。菊池どのは、その間に肥後の軍勢を纏めて博多を襲ってもらいたい」三十半ばの逞しい壮年となった貞頼は、その日焼けした精悍な顔を武朝に向けて来る。

 「うむ、渋川めに、我らを甘く見ることの恐ろしさを味わせてやるわ。挨拶参りの代わりにな」小柄な体躯ながら鋭い眼光を放つ武朝も、強く頷いて杯を干した。

 「しかし、奇妙だの」貞頼が、ぽつりと言った。

 「何がじゃ」

 「我らは、祖父の代までは互いに不倶戴天の敵と呼び合い、九州を二つに割って争っておった。それが、今はどうじゃ。一緒に九州の孤児となって、手を携えて幕府と鉾を交えておる。世の移り変わりとは、奇妙なものとは思わぬか」

 「・・・これからは、いつまでも同志じゃ」

 「そうありたいの」

 「お互いに、過去の恨みは拭い去ろう。この先、両家が争ってしまったら、たちまち幕府権力の介入の前に共倒れとなるだろう。我らは、共に九州の生え抜きじゃ。訳の分からぬ幕府になど負けてはならぬ」

 「ほんに、そのとおりじゃ」

 二人の武将は、手を堅く握り合って笑顔を交わした。

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