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長編歴史小説

黄花太平記 第四部

21.足利義満の謀略

 応永三年(1396)夏、九州からの早馬が頻繁に京に駆け込んで来た。

 道義入道義満は、早馬から状況を聴取すると、急いで在府中の大内義弘を召し出した。

 「お呼びでございましょうか」現れた大内義弘は、三十半ばの働き盛り。足利一門衆を除けば、義満の最も信頼する武将であるとの評判の主でもある。

 「渋川の小伜が、少弐菊池の反乱に手こずっておる」義満は、吐き捨てるように言った。「大友親世がついていながら、連戦連敗とのことじゃ。ここは、そなたに行ってもらうほかあるまい・・・」

 「かしこまりました。必ずや九州の賊軍を平らげてご覧にいれます」

 義弘は、さっそく配下の精鋭とともに本国・周防に下って行った。

 「ここで渋川探題に恩を売っておけば、博多の権益を得る上で極めて有利となろう」

 五千の軍勢を引っ提げて九州に渡った義弘は、別動隊に大宰府の敵を押さえさせ、その隙に肥後へ乱入。菊池勢三千と激しく渡り合った。

 「さすがは義弘じゃ。探題や大友の軍勢とは比較にならぬ。ここは十八外城で防ぐしかあるまい・・・」劣勢となった菊池勢は、嶮岨な地形を利用して持久策を取り、長躯遠征の大内勢の疲労を待った。

 その間、大宰府では、少弐貞頼が大内軍別動隊に奇襲を仕掛け、義弘の弟・ 満弘 ( みつひろ ) を討ち取るという大戦果を上げた。

 「おのれ、よくも弟を・・・」怒りに燃える義弘。

 そんま彼の耳に、ある日おかしな噂が入った。

 京の義満の密使が、しばしば大宰府と菊池を訪れているというのだ。なんでも、大内義弘の首を討てば、少弐菊池のこれまでの罪を許し、かえって過分な恩賞を与えると説いているらしい。

 「ばかな噂よ。我が軍を動揺させようとする少弐菊池の見え透いた謀略だ・・・」

 部下の前ではそう笑い飛ばした義弘ではあるが、一抹の不安を拭い切れなかった。彼は、大大名取り潰しを推し進める義満の政策を身近に知っているだけに、まんざらあり得ない噂でもないと思えてしまうのだ。

 悩んだ義弘は、数日後、隈府城に向けて和平交渉の使者を送った。菊池武朝が名目上降参してくれさえすれば、大内方は直ちに軍を引き上げるという条件である。

 菊池武朝は、少弐貞頼らと相談の上、その条件を飲むことにした。精強な大内軍との長期対陣は、彼らにとっても深刻な脅威だったからである。

 和睦が成立した日、菊池武朝は水島原に駐屯する大内義弘を訪れた。

 「やあ、しばらくだな。武朝どの」義弘は、昂然と出迎えた。

 「義弘どのも、元気そうじゃの。肥後の山奥まで、わざわざご苦労であったの」

 「人ごとのように言うな。お前たちが無用の反乱を起こさなければ、わしは今頃京でくつろいでいられたのだからなあ」

 「やはり誤解があるようじゃ。我らは、もともと謀反など企ててはおらぬ」

 「どういうことだ」義弘は、首をかしげた。

 「我らは、渋川探題によって、一方的に謀反を糾弾されたのじゃ。最初は、大友親世のつまらぬ陰謀だと思ったが、どうやら根はもっと深いらしい」

 そう語った武朝は、懐から小さく折り畳まれた薄い紙片を取り出した。

 「これを、ご覧あれ」

 渡された紙片にしばらく目を通していた義弘は、やがてその頬を激しく震わせた。

 「やはり、噂は本当だったのか・・・」

 その紙片には、大内追討令及び義満の花押が明らかに記されてあったのだ。義満は、渋川満頼に因果を言い含め、菊池少弐を謀反に立ち上がらざるを得ない状況を造り出し、そして、大内と彼らを相い争わせることによって、邪魔物どもの共倒れを狙ったのである。

 「我が弟を討ち死にさせた原因は、あの京のくそ坊主にあるというわけか」

 義弘は、しばらく沈思した。数十年に及ぶ我が一族の忠誠に対する幕府の答えがこれなのか・・・。彼はやがて、傍らに控える側近の 平井 ( ひらい ) 道助 ( みちすけ ) に向かって言い放った。

 「俺は決めたぞ。幕府を倒す。あのくそ坊主の首を、弟の墓前に備えてやる」

 「・・・・・」無口な道助は、主人の目をしっかと見つめたまま、重々しく頷いた。

 「武朝どの、力を貸してくれ。力を合わせて、無道な幕府に鉄槌を下そうではないか」義弘は、降参したばかりの敵将に向かって声を高めた。

 「もちろんじゃ。大内どのは、もともとは南朝方で、我が一族の同志であった。かくなる上は、日本全国の南朝の遺臣と連絡を取り、東西南北から京を襲うのが最良の策よ」

 「うむ、遠江で蟄居している今川了俊どのも、きっと我らに力を貸してくれるであろう。美濃の土岐一族、鎌倉の関東公方、みんな俺に同心してくれるはずだ。俺は、これら幕臣と連絡を取るから、武朝どのは南朝の遺臣たちを説得してくれぬか」

 「ばってん、南朝の遺臣を仲間に入れるには、ある人物を擁立する必要がある」

 「その人物とは・・・」

 「菊池で暮らしている、故・懐良宮の孫に当たられる、 顕良 ( あきよし ) 親王ぞ。かの人物を旗印とすれば、南朝の遺徳を慕う武士たちは、一斉に大内どのに与力して参るに相違ない」

 顕良親王は、今では僧籍に入った伊倉宮武良親王の一人息子で、当年十五歳である。

 「なるほど、征西将軍宮の孫をな・・・それは名案じゃ。よしっ、その線で頼み申すぞ、肥後どの・・・」

 こうして大内義弘は、暗い密謀を胸に抱いて、凱旋軍として博多に帰って行った。

 一方、大内軍を見送った武朝は、その足で正観寺に馬を飛ばした。ここには、彼の祖父にあたる武光の墓がある。武朝は、祖父の墓前に膝まずき、必勝の覚悟を綿々と語った。

 「じいさま、お喜びくだされ。いよいよ南朝再興の機会が巡って参りました。あの大内義弘を敵に回した幕府めは、自ら墓穴を掘ったのでごわす。そして、この挙兵が成功した暁には、顕良宮の天皇即位は間違いありませぬ。征西府と南朝の旗は、こうして京に復活するのですばい」

 菊池武朝は、征西府の復活を諦めたわけではなかったのだ。良成親王の無策の挙兵には参加しなかったが、南北朝合体後も、彼なりに最良と信じる機会を待って雌伏していたのである。

 それから数日後、隈府城内で出家の準備中であった顕良親王が、忽然と姿を消した。武朝が、本人やその父と密談した上で、密かに周防山口へと送り出したのである。ただし、心配するといけないので、早苗には内緒にしておいた。

 「いったい、顕良はどうしたのだろうね・・・」広福寺の早苗は、正観寺に住まう我が子武良を訪ねては首をかしげた。

 「出家がいやになって、逃げ出したのではありますまいか」内心では南朝再興を夢見る武良は、素知らぬ顔で嘯いた。

 「それだといいのだけれど。また戦に巻き込まれるようなことになったら、うちは亡き夫に申し訳が立たないよ・・・」

 「・・・・・・」武良は、思わず冷や汗をかいていた。

 素覚尼として読経に明け暮れる早苗の楽しみは、孫たちの健やかな成長にあった。阿蘇氏に嫁いだ次女の佳奈子は孫たちを連れてよく遊びに来てくれるが、今や遠江に住む長女の綾香は、月に一度便りを寄越すのみで、なんとも心細い。その上、初孫の顕良が行方不明と来ては、早苗も寂しくてならぬのだ。

 そんな彼女をさらに悲しませる知らせが、やがて肥前松浦から届けられた。

 あの波多勇が病没したというのだ。

 幕命に逆らって倭寇を続けていた波多勇は、先年の李氏朝鮮との海戦で二人の息子を同時に失い、失意の余り松浦の屋敷で燻っているうちに、流行り病に罹ってその六十八年の生涯を終えたのだという。

 「あんなに逞しい人が、うちより先に亡くなるなんて・・・」早苗は、海で死ねなかった海の男の死を、心から悼んだ。

 「うちも、もう六十四。そろそろ、死に方を考えておかなくちゃいけないねえ」

 「ははは、そう言っているうちは大丈夫。早苗は、きっと百まで生きるよ」生き残った唯一の兄である藤五郎武勝は、くよくよする早苗を笑顔で窘めたものである。その武勝も、応永六年(1399)の初頭に病没した。六十七歳であった。

 肥後菊池も、今では世代交代が進み、南北朝の戦を知らない子供達がすくすくと成長し、惣領・武朝の片腕として政務に軍務に敏腕を発揮していた。幕府との間は未だにしっくり行かないものの、菊池一族は少弐氏との協調のもとに、往年の勢いを確実に取り戻して行ったのである。

 「これで大内どのが兵を挙げても、直ちに呼応して九州を押さえることができる」四十歳になった菊池武朝は、胸中に息吹く自信を強く抱き締めていた。

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