歴史小説家 三浦伸昭の歴史ぱびりよん

世界史・日本史の隠れた巨人たちを鮮やかに蘇らせる!歴史小説家 三浦伸昭公式ホームページ

長編歴史小説

黄花太平記 第四部

22.応永の乱

 足利義満は、大内義弘の勢力を恐れていた。なんとしても、口実を設けて大内氏を取り潰さなければならぬと思い定めていた。

 大内義弘は、応永五年の秋に菊池少弐征伐から本国に帰還して以来、積極的に政務に励んでいた。博多と堺を実質的に牛耳る彼は、既に朝鮮との交易によって巨万の財を築き上げ、山口の町並みを『小京都』と呼ばれるまでに整備している。義弘は、今では大友氏に代わって九州探題を陰で操る人物でもあった。

 「大内めの存在は、我が幕府にとって有害無益じゃ」

 足利義満は、義弘を挑発して謀反に踏み切らせようと企んだ。明徳の乱における、山名氏の二の舞いを踏ませようとしたのである。

 応永五年冬、朝鮮の使節・ 朴郭之 (ぼくかくし ) を護衛して上京してきた義弘は、義満の口から突然、土木工事の命令を受けた。

 「北山の別荘の庭を改修したい。義弘、そちに引き受けてもらいたい」

 有名な金閣を持つ 鹿苑寺 ( ろくおんじ ) は、この 北山第 ( きたやまだい ) の一角にある。

 「その前に、九州平定の恩賞をいただきとうござるな。恩賞なきままに、命を懸けて戦ってくれた我が兵たちに、庭いじりをさせるわけにはいきませぬ」

 「庭いじりだと・・・」義満の垂れた両目は、大きく吊り上った。「恩賞なしでは、わしの命が聞けぬというのか」

 「御意」義弘は、昂然と僧形の権力者を睨み付けた。

 幕府と大内氏との対立は、ここに明白となった。義満は義弘の帰郷後、大内氏から和泉と紀伊の守護職を取り上げるとの噂を、意図的に世上に流布させたのである。

 「くされ坊主め、この俺を挑発しているのか。なあに、こちらの準備は万端だ。一気に京を覆してくれるぞ」

 応永六年(1399)十月、五千の兵を招集した大内義弘は、三田尻港から海路泉州堺に入った。ただちに堺の市街を城壁で囲み、要塞化する。持久戦の構えである。同時に、自陣営に南朝の宮がおわすことを宣伝し、旧南朝派の人々の歓心を買った。こうして、たちまち、堺に楠木、北畠氏の残党が駆けつけて来たのである。また、京の周辺では近江の 京極 ( きょうごく ) 満秀 ( みつひで ) や美濃の 土岐 ( とき ) 詮直 ( あきなお ) 、丹波の 山名 ( やまな ) 時清 ( とききよ ) など、幕政に不満を持つ豪族が次々に蜂起した。

 思ったよりも大規模な反乱に驚いた義満は、一応、大内氏と親しい僧侶の 絶海 ( ぜっかい ) 中津 ( ちゅうしん ) を和平の使者として堺に派遣したが、既に戦意固まる義弘は、これを一蹴したのである。

 足利義満は、京都に三万の大軍を集めて大内軍を待ち受けた。だが、一向に腰を上げようとしない堺の反乱軍の様子に首をかしげた。

 実は、大内義弘は援軍の到着を待っていたのである。関東公方・ 足利満兼 ( あしかがみつかね ) と今川了俊の軍勢の到着を待って、東西から京都に攻め入る作戦なのであった。

 ここで、関東公方について解説しよう。

 関東公方とは、東国の武家を統率するために幕府が設けた関東管領の俗称である。この職は、初代将軍尊氏の三男・ 基氏 (もとうじ ) の子孫が世襲することになっていたので、管領と呼ばずに公方(将軍の別称)と呼ばれたのである。ところが、歴代の関東公方たちは、自分たちにも将軍位の継承権があるものと思い込んでおり、将軍位を独占し続ける京の将軍家と政治的に対立していたのである。

 大内義弘はここに目をつけ、遠江の今川了俊を通じて一年前から説得を開始し、ついに三代公方の足利満兼を謀反の同志に抱き込むことに成功したのである。

 一方、あの今川了俊も、今では全面的に義弘に味方することに決めていた。自分を讒言した義弘は憎いが、自分の長年の忠義を無にした義満はもっと憎いからである。

 「そうか、九州では菊池どのや少弐どのも立つか・・・義弘は、うまく南朝の皇族を旗印に出来たと見える。これなら勝てるぞ・・・」

 その了俊は、頻繁に鎌倉に書状を送り、関東公方の出兵を強く要請した。足利満兼は、謀反に同心したにも拘わらず、口実を設けて一向に軍を出そうとしなかったからである。

 一方、九州の空の下では、菊池武朝が緊張の面持ちで堺の戦況を窺っていた。あの大友親世は、大内軍が優勢ならば菊池の味方につくと約束してくれた。武朝は、幕府軍の敗報とともに大友が同心するのを待って、少弐貞頼とともに博多の探題屋形を攻撃する手筈を整えていたのである。

 「 澄安 ( すみやす ) 、 貞雄 ( さだかつ ) 、宮様を頼むぞ・・・」武朝は、胸の中で、十八外城で戦死した肥前守武照の二人の忘れ形見の名を呼んだ。彼らは今、堺の空の下で幕府の大軍と睨み合っているはずである。武朝は、肥前家(武澄の子孫)の軍勢二百を、顕良親王を護衛するため、大内軍中に送り込んでいたのである。

 そんな武朝のもとを、ある日突然早苗が訪れた。

 「顕良は、大内さまの軍中にいるのね・・・」

 「・・・・・・」

 「隠したって分かるわ。おはんらは、まだ夢から覚めていないのね」

 「・・・これが、最後の機会なのでごわす。今をおいて、幕府を倒す時はないのでごわす。それに、大叔母上の贔屓の今川どのも、今では我らの同志ですばい。何も心配いりもあはん。我らは、必ず勝ちます」

 「ばってん・・・悪い場合には、顕良も、遠江にいる綾香も、そして肥後の民の命も危険にさらされるということではないかえ。うちは、もう年じゃ。せめてこれ以上悲しい思いには会わせてほしくないよ」

 「大丈夫・・・大伯母上を悲しませはしません」笑顔で早苗を送り出した武朝は、内心ではせっかくの自信にケチをつけられて腹だたしかった。年寄りの繰り言は、もうたくさんだと思った。

              ※                 ※

 幕府軍による堺総攻撃が始まったのは、十一月二十九日の早朝であった。

 「関東公方が来るまでの辛抱だ。みんな踏ん張れ」大内義弘の檄が飛ぶ。

 堺は、西を海、東を泥田地帯に固められた要害の地形である。それに加えて、義弘は時間をかけて堺市全体を厚い城壁で取り囲み、城楼四十八、箭櫓(弓矢を射るための矢倉)千七百で完全武装していた。それに加えて、昔から南朝贔屓だった堺の住人は、ことごとく義弘を支持し、また、瀬戸内海の海賊衆も多く来援して堺西方海上を守ったのである。

 その結果、北方より押しかけた幕府の大軍は散々に打ち破られ、大損害を出して撃退されたのである。守備側では、大内一族に加え、楠木 正秀 ( まさひで ) (病没した正儀の子)や菊池貞雄ら、南朝残党軍の奮闘も目覚ましかった。

 そのため、義満自ら陣頭指揮を執る幕府軍は、堺を遠巻きにし、作戦を兵糧攻めに切り替えた。折から雨天が続き、軍事活動が阻害されたためでもある。

 しかし、瀬戸内海の制海権を掌握している大内軍は、兵糧の欠乏とは無縁であった。周防本国には、義弘の弟・ 盛見 ( もりはる ) が多数の軍勢とともに健在であり、海を通じて兄をしっかり支援していたからである。

 しかし、籠城も一カ月を過ぎるころ、大内義弘の焦りは頂点に達しようとしていた。守っているだけでは戦には勝てない。かと言って、圧倒的な幕府の大軍に独力で挑むのは、蟷螂の斧以外の何者でもない。

 そして、頼みの綱の関東公方の援軍は、一向に現れようとしなかった。

 「関東公方はどうしたのだ・・・」義弘は、はるか東の曇り空を切なげに見た。

 実は、義弘が待ち望む足利満兼は、存外と小心者であった。彼は、今川了俊に蜂起の意志を伝えたものの、本音は日和見主義で、大内軍の戦況いかんで挙兵するつもりであった。そして、大内軍の優勢を見て、いったんは武蔵府中まで一万の兵とともに出陣したのだが、執事の 上杉 ( うえすぎ ) 憲定 ( のりさだ ) の諌言にあって突如として変心し、鎌倉に引き上げてしまったのである。

 いったい、関東公方といっても、その実体は東国の豪族たちの 神輿 ( みこし ) に過ぎず、その実権は執事の上杉氏に握られていた。それゆえ、執事の反対にあっては、幕府への謀反など思いもよらないことなのである。

 大内義弘と今川了俊は、その点で関東公方の実力を過大評価していた。長く西国で暮らしていた彼らが、東国の事情にうとかったのは仕方ないのだが、そんな東国に頼って挙兵したのが、彼らの不幸であり、誤りでもあった。

 そして、運命の十二月二十一日がやって来る。

 晴天続きで乾燥しきった堺の様子を見て、今や五万の幕府軍を率いる足利義満は、新兵器を用いて総攻撃をかける決意をした。

 「今日は風が強い。絶好の『 左義長 ( さぎちょう ) 』日よりよ。堺を焼き払うのだっ」

 左義長とは、青竹の節をくりぬいたものに火薬を詰めた、一種の爆弾である。義満は一カ月の包囲の合間に、この新兵器を大量に用意させていたのである。

 堺の町は、突然の火攻めに鳴動した。折からの強風を受けて激しく炎上した。大内義弘自慢の城楼や箭櫓も、火には弱かった。たちまち発火し、崩れ落ちては炭になる。大混乱の大内軍に、満を持した幕府の大軍が襲い掛かったのである。

 「こうなったら、最後の死に花を咲かせるのみぞ」義弘は、自ら愛馬を駆って敵中に突入し、阿修羅のように暴れ回った。炎の照り返しの中で、凄まじい白兵戦が展開される。

           ※                 ※

 地獄のような業火は、堺市街にまで及んだ。逃げ場を求めて走り回る人々の群れで、通りは大混雑。炎の鳴動と人々の悲鳴は、強風をさらに煽り立てるかのようであった。

 市街の中心にある安徳寺も、戦災を免れることは出来なかった。ここには、既に八十歳になる 妙梅尼 ( みょうばいに ) が健在であった。夫の菊池頼隆討ち死にの衝撃で発狂し、記憶を失った彼女は、父の梅富屋庄吾郎の斡旋の元で、この寺で生活していたのである。

 寺男の担ぐ輿に乗り、住職とともに避難しようとした彼女は、市中の阿鼻叫喚の混乱と、軍隊の奏でる喚声、強風の雄叫び、迫り来る炎の響きによって激しく心を揺さぶられた。

「ああ・・・・・」思わず輿から転がり落ちた彼女は、寺男たちに助け上げられながらも、前方の街路を塞ぐ炎に心を奪われ、激しく全身を震わせた。

 「あなた・・・三郎さま・・・頼隆さま・・・・」

 そう。彼女は、実に六十年ぶりに、心の奥底に埋もれていた大切な宝物を掘り起こしたのである。記憶を取り戻した彼女の両頬を、一筋の涙が優しく潤していった。

                ※                 ※

 応永六年(1399)十二月二十一日正午、いわゆる応永の乱は終結した。

 総大将の大内義弘は、炎の中で壮絶に討ち死にした。享年四十歳である。同陣の彼の弟・ 弘茂 ( ひろしげ ) は、残兵を率いて降伏した。楠木、北畠らは、風を巻いて遁走した。京極、土岐らの地方反乱軍も、戦意を失って幕府に帰順したのである。

 「義弘が連れていたという南朝の宮はどこじゃ。なんとしても捜し出せ」

 足利義満は、男山に置かれた本陣で怒鳴った。

 「それが、まったく行方が分かりません。おそらく、菊池の敗残兵とともに海路落ち延びたものと思われますが・・・」細川 満元 ( みつもと ) が、恐縮して答えた。

 「九州か・・・いずれは菊池も少弐も潰してやるが、まずは大内と今川を何とかしてからだ」義満は、唇を固く噛み締めた。

 問題の今川了俊は、大内軍壊滅の知らせを受けると直ちに降参した。足利義満は、最初は了俊を許さず、孤島に流罪にしようと考えていたが、関東管領執事の上杉憲定や了俊の甥の 泰範 ( やすのり ) (駿河守護)らが懸命に嘆願してくれたために罪を許され、遠江での謹慎処分となった。了俊は、関東公方の遠征軍と東海道で合流する手筈で軍勢を招集していたのだったが、実際には挙兵までには至らなかった。そのため、罪は比較的軽かったのである。

 しかし、大内氏は反乱の首謀者であるから、ただでは済まなかった。六国の領土のうち四国を没収され、わずかに周防と長門の二国の領有を認められたのである。しかし、義弘の遺志を継ぐ弟の盛見は、義満に大内家督を任された弘茂を討ち果たし、独自の路線で勢力拡大に邁進することになる。そして、関東公方との冷たい対立を解消できない幕府は、この盛見を打倒する軍事的余力を持っていなかった。結局、幕府は盛見の大内家督を認め、これを懐柔せざるを得なかったのである。

 この大内盛見の活動は、間接的に菊池少弐氏を幕府の圧力から保護する形となり、かくして西国は、幕府の権威が及ばぬ地方として、戦国時代を迎えることになるのである。

ページ上部へ