歴史小説家 三浦伸昭の歴史ぱびりよん

世界史・日本史の隠れた巨人たちを鮮やかに蘇らせる!歴史小説家 三浦伸昭公式ホームページ

長編歴史小説

千年帝国の魔王

第一章 孤高の少年

 

  リンツの家具屋の息子、アウグストは、生まれながらの才能を生かして作曲家になる決意をした。

 真面目で純粋なこの少年は、親の仕事を手伝いながら音楽学校に通って切磋琢磨し、優秀な成績を修めていたのだが、心の底から音楽が好きだったので、一人で過ごす余暇をオペラ通いに費やす日々を送っていた。

そんな彼が、ある不思議な少年に出会ったのは、1905年の秋もふけた土曜の夜のことだった。

 当時、オーストリアで流行していたのは、ワーグナー作曲のオペラである。いつものように一人で桟敷に腰掛けたアウグストは、隣席の同年輩の風変わりな少年にひどく心を魅かれ、肝心の演目が耳目に入らなくなった。

 その少年はといえば、痩せて小柄。劇に心身ともにひたりきって、場面ごとに腕を振り上げ、足を踏みならし、嘆声を放つ有様は、横で見ていて息苦しさを覚えるほどであった。

 「よっぽど好きなんだなあ。この人も作曲家の勉強をしているんだろうか」

 音楽が好きな人に悪い人はいない。おまけに僕の大好きなワーグナーの崇拝者だもんな。そう考えたアウグストは、その少年の大げさな動作を邪魔に思うどころか、むしろ好ましいものに感じていた。

 劇が終わり、満席の客たちが幸せそうな笑みを浮かべて帰り支度を始めたころ、意外なことに、先に声をかけてきたのは、その風変わりな少年の方だった。よく見ると、こざっぱりした清潔なシャツを身に纏い、髪も丁寧になでつけている。

 「君は、ワーグナーが大好きなんだね」手を差しのべてきた痩せた少年の声は、意外と太くて力強かった。「僕以上に好きな人に出会えるなんて、嬉しいな」

 そう言われるところを見ると、自分も知らず知らず大げさな感興を示していたのだろうか。いや、この人は、本人があんなに劇に没入していたというのに、こちらの表情をそれとなく観察していたということか。

 「は、初めまして。僕はクビチェク。アウグスト・クビチェクだ」内気な彼は、少年の鋭い不思議な光を放つ瞳を見つめながら、その手を遠慮がちに握り返した。

 「アウグスト君か。それならグストルと呼ぶよ」

 一瞬とまどったアウグストに向かって、少年は静かに名乗りを上げた。

 「僕はアドルフ。アドルフ・ヒトラーだ」

 

 2

 

    若い二人は、たちまち意気投合した。

いつも連れだってオペラに出かけ、美術や音楽の話題に花を咲かせたのだが、アドルフの舌は恐ろしく辛口で、劇の細かい演出批判を執拗に繰り返すのだった。だけどその批判は、年不相応に冷静で、事物の本質を見る鋭い感受性に溢れている。

 気さくさと気むずかしさを同居させたこの奇妙な少年は、最初はなかなか自分のことを語ろうとしなかったのだが、少しずつ語るところによれば、年はアウグストと同じ十五歳。しかし、気むずかしげな仕草が、年不相応に大人びて見せている。生まれは田舎町のブラウナウだが、その町の役人だった父親を早くに亡くし、今はリンツで母と妹と三人で暮らしているという。アウグストが驚いたことには、アドルフは学校にも通わず、仕事もしていないのだった。

中学までは優等生だったのに、高校に入ってからは好きな歴史と体育以外は徹底的にサボり、また肺病にかかったこともあって中退したのだという。

 「僕の夢は」アドルフは言った。「偉大な画家になることだ。枠にはめられた学校教育や金儲けのための仕事なんて、僕にはふさわしくないんだ」

 この若さで人生を悟りきったようなことを言う。そのくせ、母親に甘えて生きている。しかも、恋人どころか、アウグスト以外に友達がいないらしい。それでも話は上手だし、話題もいつだって魅力的だ。頭の回転も記憶力も抜群にいい。その気になれば勉強も出来るだろうに、芸術以外の進路にはまったく関心がない。

 偉大な画家になりたいと言うだけあって、絵は確かに上手だ。アドルフは、よく公園に水彩画の写生に出かけた。特に上手なのは、風景画、とりわけ建築物だ。でも、誰に教わったわけでもない完全な自己流なので、デッサンに独特の癖がある。

 絵画以外にも豊富な趣味の持ち主で、読書はもちろん、詩作までこなす。建築物のデッサンで一日つぶすこともあれば、グストルに影響されたのか、作曲に打ち込んだりもした。でも、決して長続きしない。ある程度上達すると、たちまち飽きて投げ出してしまうのだった。

 一方、アウグストといえば、人の言うことを良く聞く従順な良い子なので、自分とは正反対の個性を持つ魅力的な親友と、その独自の生き様に、心から尊敬の気持ちを抱いた。彼は、後に七千万ドイツ人を心服させる男の、最初の信奉者になったというわけである。

 そしてグストルは、すぐに気づいた。この友人の最も際だった特徴は、他者を必要としないその孤独にあるのだった。

 人生は、程度の差はあれ、他者からの愛情と信頼を得て、初めて充実するものである。普通の人は、家族や友人から与えられる愛情や信頼を噛みしめて、ようやく安心を獲得できるのである。ところがアドルフは、このような形の安心をほとんど必要としなかった。というのは、彼はこの世界のあらゆる物事に、自分流の理由付けをすることで安心を得る人間であって、他人の愛情や信頼に重きを置いていなかった。逆に言えば、彼の人生は、いつでも何かの理由付けを必要とした。理屈に合わないことは大嫌いで、人生や社会にはしばしば不条理が存在することを決して信じようとしなかった。世界は全て、自分一人で理解可能でなければならない。また、自分ならそれが出来ると信じ切ってもいた。

 だから彼は、親も先生もあまり信用しなかった。彼が信じた物は、様々な書物や音楽、絵画であり、彼が心を開いた人は、自分自身と共通の趣味をもつアウグストだけだった。

 アドルフは、良き聴き手であるグストルに向かって、しばしば国家や社会や人生について弁舌をぶった。外国の文化や異性についても好んで語った。しかし、その知識はすべて書物から得た物であって、意外と現実の諸事に疎いところもあった。

 例えば、女性に関しては恐ろしく未熟で奥手だった。

 「僕は恋をした」アドルフは、ある日親友に熱っぽく語った。「僕は、彼女のために生きる。彼女は、僕の全てだ。彼女がそれを望むなら、空だって飛んでやる」

 相手の女性とは、繁華街でグストルもよく見かける、ちまたで評判の美少女だという。

 意外な告白に驚いたグストルは、心から祝福した。「僕に協力できることがあったら、何でも言ってくれ」

 「それなら」アドルフは、グストルの手を握って言った。「彼女をさらって逃げるとき、協力してくれ。いつも彼女に付きまとう母親を、なんとかして引き離してくれ」

 「か、駆け落ちか。すごいなあ」

 グストルの感嘆は、しかし数日後には消えて無くなった。アドルフが、その美少女に自己紹介すらしていないことが分かったからである。

 「ちょっと待てよ、アディー。向こうが君のことを知らないって、いったいどういうことだ」

 「愛さえあれば、言葉に出さなくても、いつか通じ合えるさ」アドルフは、痩せた青白い頬に夢見がちな笑みを浮かべて言い放った。

 彼の、ステファニィ・ヤンステン嬢に対する賞賛の言葉と想いのたけは、全て彼の脳味噌が作り出した想像の産物だった。そして、その想いは、結局彼女には伝わらなかったのである。

 奥手なのか、恋に恋していたというのか。結局、アドルフは、自分自身の世界の住人なのだった。

 アドルフ・ヒトラーは、こんな少年だった。

 

 

  グストルは、オペラが無い夜は、しばしば親友の家に遊びに出かけた。

 アドルフの家は、リンツ中心街フンボルトシュトラーセの粗末な石造りの建物の三階にある借家だった。

 アドルフの母はクララという名の、ふっくらとした体型の小柄で優しい未亡人だった。最近、乳癌の手術を受けたとのことだが、今は元気そうだ。グストルが来ると、大喜びでケーキを焼いてくれる。職には就いておらず、夫の残した遺産をやりくりして、二人の子供を養っているのだった。二人の子供が可愛くてならず、その成長を大いに楽しみにしている。

 「親戚やあの子の姉夫婦はうるさく言うけれど」クララはしばしば言った。「アドルフはきっと凄い人物になるわ。他の子とは違うもの」

 「ええ、本当に」グストルは、ケーキを頬張りながら大きく頷いた。

 アドルフの妹のパウラは、十歳くらいで、お母さんによく似た少女だった。無口で、滅多に笑顔を見せないが、兄がいないところではグストルと時々言葉を交わした。

 「グストルさんは、アドルフ兄さんのどこが好きなの」少女は、あるときこんなことを聞いてきた。

 「どこがって、いろいろあるけど、面白いし優しいからだよ。パウラちゃんは、そう思わないのかい」

 「兄さんのことは好きだけど」親友の妹は、そう言って小首をかしげた。「でも、すごく変わってるわ。何を考えてるのか分からないもの」

 パウラの苛立ちももっともだった。確かに、アドルフには、家庭人としての自覚が決定的に欠けていた。移り気な趣味で母親に無心ばかりしているが、そのくせ病身の母親やパウラの面倒を見ている様子は、まるでない。目の前に置かれているグランド・ピアノだって、買ってもらったばかりなのにもう埃を被っている始末だ。

 そんなある日、アドルフはまたもやとんでもない無心を始めた。

 「リンツの街はもう飽きちゃった。ウイーンの美術アカデミーに入りたいんだけど」

 「ウイーン・・いくら欲しいんだい」

 「七百クローネあれば十分だよ」

 当時としては大金だが、優しい母親は溜め息一つついただけで銀行から引き出してきた。

 「見ていてくれ、グストル。僕は、絶対にルーベンスのような偉大な業績を成し遂げて見せる」ウイーン行きの汽車のプラットホームで、アドルフはいつもの大言壮語を放った。

   たかが美術学校の入試で大げさな、とは思ったが、グストルは親友の痩せた肩を二度叩いて激励した。

 ところが、それっきりアドルフからの音信は途絶えてしまった。手紙はおろか、絵はがきすら来ない。

 「あの子の身に、何かあったのかしら」クララは、最近再び痛み出した胸に手をあててつぶやいた。

 「僕、行って見てきます」

 グストルは、音楽学校に休暇願を提出すると、その足でウイーン行きの汽車に飛び乗った。

 彼の親友は、シュトンパーガッセ街の借家にちゃんといた。健康状態には問題なさそうだが、精神的に打ちのめされていた。

 「やあグストル、よく来たね」出迎えたアドルフは、ぶっきらぼうに唇を歪めて見せた。

 「手紙も出さないでどうしたんだよ。お母さんもパウラちゃんも心配してるんだぞ」

 「これ、見てみろよ」アドルフが放って寄越した紙片には、デッサン不合格、と書かれてあった。

 「試験なんて、時の運じゃあないか」グストルは、平静な口調で言った。「美術アカデミーなら、また来年受ければいい」

 「そうとも」アドルフは拳を振り上げた。「合格するまでは家族にあわす顔がない」

 それから、アドルフ得意の弁舌が始まった。アカデミーの官僚の石頭どもめ、本当の価値が分からぬ俗物どもめ。俺の能力が絵画よりも建築に向いているなどと、よくも言えたものだ。云々。

 グストルは、内心ではアカデミーの先生方の見識に賛同していた。アドルフの事物の本質を捉える精緻な才能は、画家というより建築家向きであるように、前から思っていたからである。

 ところが、アドルフの不退転の決意は、ある凶報によって破られた。

 母が倒れたのだ。

 「ああ、お母さん」

   ただでさえ青白い顔色を真っ白にした少年は、母親がいかに大切な存在であるか、今更のように気づかされた。とるものも取りあえず帰省したアドルフは、やつれ果てた母の病床にあって、献身的な看護をした。これには、グストルも驚いた。

 妹の学校の通信簿を片手に説教する兄の剣幕に、小さなパウラもびっくり仰天だった。この兄が、妹のことに関心を示したのは、これが初めてではなかったか。

 そんな息子の姿を、やせ衰えた病床のクララは誇らしげに見つめていた。

 アドルフは、良い子になろうと懸命に努力した。食事に洗濯、渉外から妹の世話、なんでもやった。へとへとになるまで働いた。

 「グストルさん」借家の粗末なベッドに横たわるクララは、ある時そっと息子の親友の手を握った。「アドルフには、あなたしかいないのよ。これからも、ずっとずっと仲良くしてあげてちょうだいね」

 「もちろんです。もちろんですとも」心優しい少年は、潤む目頭を押さえながら、力強く答えた。

 クララ・ヒトラーが息を引き取ったのは、その翌日のことだった。もうすぐクリスマスを迎えようとする早朝のことだった。

 彼女の自慢の一人息子は、病床で母親の死に顔を静かに見守っていた。椅子に腰掛けたその両膝の上には、母の最後の姿を映したスケッチブックが載っていた。

 異母姉のアンゲラが、かかりつけの医師を連れて病室に入ってきたときも、彼の視線は、母の安らかな横顔から決して外れようとはしなかった。

 「アドルフ君」ユダヤ人のブロッホ先生は、厳粛な表情を浮かべながら、優しく少年の肩に手を置いた。「死は、時として救いにもなるのだよ」

 アドルフは、しかし眉一つ動かさずに、ただスケッチブックを強く掴んで見せた。

 ところが、死亡診断書を書き終えて辞去しようとした医師は、それまで微動だにしなかった少年が、自分に向かって駆け寄ってくるのに気づいた。

 「先生、先生」アドルフは、蒼白な頬を震わせ、両目に涙を一杯に浮かべて言った。「今まで、本当にありがとうございました。このご恩は、決して決して忘れません」

   アドルフの頭に手を置いて大きく頷いた医師は、こんなにまで悲しみを露わにした遺族に深い感銘を受けた。

 末期癌から愛する母を救うことが出来なかったトラウマは、アドルフ・ヒトラーの後半生に大きな陰影を残すことになる。自分に出来ないことなど無いと思い込んでいる孤独な少年にとって、このような理不尽な喪失は、決して許される事ではなかったのだ。

 

  しかし、時間は悲しみを和らげる魔法の力を持っている。自殺の可能性が案じられるほどだったアドルフの悲しみも、春先の雪のように少しずつ溶けて流れていった。

 そして、形見分けも終わり、パウラを姉夫婦の家に預けた孤児は、晴れて天涯孤独の自由を満喫できる身となったのである。自由と孤独は、反対の概念である。自由を望む者は、必ず孤独でなければならない。そして、アドルフは、もともと自由を欲する孤独な子供なのであった。

 「グストル、ウイーンはいいぞ。僕と一緒にあそこで勉強しないか」

 お人好しのグストルは、アドルフの提案に賛成し、懸命に両親を説き伏せ、ウイーンの音楽アカデミーを受験することを了承させた。

 そして、芸術の都で共同生活を始めた二人の仲に初めて亀裂を生じせしめたのは、他ならぬ試験の結果であった。グストルは優秀な成績でパスしたというのに、アドルフは二度目の試験もしくじったのだ。

 「僕の親友は、どうやら頭がいいらしいな」皮肉混じりのアドルフの言葉に、内気なグストルはもじもじするばかりだった。

 この当時、欧州各国の美術アカデミーのレベルは非常に高く、あのシャガールですら不合格しているほどである。だから、アドルフの才能に欠陥があるという判断は、酷に過ぎる。たまたま運が悪かったのだろう。しかし、プライドの高いアドルフには、この屈辱は耐えられなかった。成功者であるグストルに対する妬みは、両者を隔てる隙間風となった。

 また、年金生活者であるアドルフは、財政的な問題にもさらされつつあった。これ以上、グストルと生活していくことは、彼に金銭面で迷惑をかけることになるだろう。

 そんな親友の胸の内を知らずに一人帰省したグストルは、楽しい休暇を終えて戻ったウイーンの借家にパートナーがいなくなっているのを知って、大いに驚いた。

 「ヒトラーさんなら、引っ越しましたよ」

 「それで大屋さん、転居先の住所は」

 「いや、聞いていませんよ」

 アンゲラもパウラも知らないという。アドルフは、ウイーンの街に消え去ったのだ。

 「アディー、何も言わずに出ていくなんてひどいじゃないか、あんまりだよ」

 打ちひしがれて一人立ちつくすグストルは、やがて後年、意外な形でかつての親友と再会を果たすことになるのである。

 

ページ上部へ