歴史小説家 三浦伸昭の歴史ぱびりよん

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長編歴史小説

千年帝国の魔王

第二章 戦場の勇士

 

 時に1914年夏、戦争という名の狂気の嵐が、欧州全土を切り裂いた。新興国家ドイツは、オーストリアやトルコとともに同盟国を結成し、フランス、ロシアといった超大国と対決せざるを得なくなったのだ。

 ドイツ参謀本部のシュリーフェン将軍は、一世一代の大戦略を提言した。すなわち、東部ロシア国境をがら空きにして、ドイツ全軍を西部フランスに一極集中し、まずこれを全力で叩きつぶそうと言うのだ。動員の進んでいないロシア軍の、初動の鈍さを見込んでの大博打である。この作戦は成功し、兵力で勝るドイツ軍は、フランス軍を圧倒し、パリへと迫った。勝利はもはや、指呼の間にあった。

 「ドイツに生まれて良かったぜ」

 リッツ一等兵は、遙かにマルヌ川を望む高台の陣営で、誰に聞かせるともなく言った。

 「この川さえ渡れば、パリまで遮るものはない。パリジェンヌのお味が楽しみだぜ」

 「我々は」隣で手帳に風景画を描いていた痩せた一等兵が、リッツの軽口に答えた。「正義を守るという崇高な使命のために戦っているのだ。個人の快楽の話を持ち出すんじゃない」

 「ふん、お前ならそう言うと思ったよ。ヒトラー一等兵」リッツは肩を竦めて見せた。「オーストリア人のくせに、ドイツ人よりもお堅いからなあ、お前って奴は」

 「へえ、そうなんですか」リッツの後ろで銃の手入れをしていたリンデマン二等兵が、持ち前の好奇心を発揮し始めた。「オーストリア人なのに、どうしてドイツ軍の中でフランス野郎と戦っているんですか。なんか変じゃないですか」

 「詮索好きな奴だな」ヒトラー一等兵は、だが、その日は上機嫌だった。「多民族国家オーストリアは、もう駄目だ。どうせ戦うのなら、ドイツ民族の共同体であるドイツ帝国のために死にたかったからだ。説明はこれで十分だろう」

 「かっこつけやがって。オーストリアの徴兵検査では、栄養失調ではねられたんだろうが」リッツが口を挟んだ。

 「へえ、栄養失調ですかあ。苦労したんですねえ」肩をすくめるリンデマン。

 「まあな」苦笑したヒトラーの脳裏には、ウイーン時代の悲惨な思い出が走馬燈のように蘇っていた。

 

 

 グストルと別れ、一人で当てもなく彷徨った大都会で、アドルフ・ヒトラーは、ついに無一文と成り果てた。それでも、芸術家になるという夢は捨てきれず、肉体労働や犯罪行為に手を染める気にはなれなかった。

 そんな彼に残された道は、教会の浮浪者養護施設の世話になることだけだった。何をする気力もなく、シラミだらけの毛布にくるまったヒトラーは、いつしか、食べることと寝ることしか興味のないルンペンに成り下がっていた。

 そんな彼を救ったのは、商才あふれるユダヤ人青年ハーニッシュだった。教会の施設でヒトラーと出会ったこの青年は、無気力なルンペンの中に光る才能を見いだし、手を組んで一儲けするように持ちかけた。すなわち、ヒトラーに絵はがきを描かせ、自分がそれをプロデュースしようというのだ。

 「売れっこ無いよ」

 「やってみなきゃ、わかるまい」

 嫌がるヒトラーを説き伏せたハーニッシュの目論見は当たり、この二人組はたちまち成功を収めた。

 こうして奈落の底から這い上がったヒトラーは、しかしいつまでもこんな生活に安住しているつもりは無かった。政治論議に興味を持ち、ドイツ民族主義に目覚め始めたヒトラーにとって、多民族国家の芸術の街ウイーンは、住み易い場所ではなくなっていた。また、当時は軍隊が嫌いだった彼は、オーストリア政府による徴兵制度に反対だったので、義務から逃れたかった。そこで、ハーニッシュとの金銭面でのトラブルをきっかけに、ヒトラーは故国オーストリアを離れ、新生ドイツ帝国のバイエルン王国の都ミュンヘンで、新たな活路を開く事にしたのである。

 ところで、民族主義というのは、日本人には馴染みの薄い言葉かもしれないが、人種の坩堝である欧州、特に当時のオーストリアにおいては日常的な概念であった。オーストリアの主要民族は、ヒトラーのようなドイツ人(ゲルマン民族)であり、公用語はドイツ語である。だが、チェコ人などのスラブ民族やハンガリー人の数も多く、さらに帝政ロシアの弾圧から逃れたユダヤ人の流入が相次いだため、ドイツ人の生活が大きく圧迫されていた。そのため、ドイツ系民族の間で、他民族に対する蔑視と排斥運動が盛んであり、多感な若者(しかも貧乏)であるヒトラーは、この運動の洗礼を大いに受けたというわけである。

 ただ、当時のヒトラーにとって民族主義は、インテリの用いるレトリックのような曖昧な概念であって、具体的なものではなかった。だから彼は、政治サロンでは異民族排撃を論じたものの、私生活ではユダヤ人の友人と付き合ったりしていた。態度が矛盾するようだが、彼にとって政治とは、私生活から切り放された理念に他ならないのだ。総統になってからもその態度は変わらず、当時のユダヤ系の知人を保護している。

 さて、ミュンヘンでの新生活は、当初は順調だった。絵は売れたし、カフェに集うボヘミアン(その中に、レーニンもいたらしい)たちと戦わす政治論議も楽しかった。だが、ここの美術アカデミーも彼を受け入れてくれなかった。彼は相変わらず孤独で、何も失うものなどなかった。そんな彼が生活に飽きたころ、この未曾有の大戦争が勃発したのである。

 「これが、俺の人生の転機かもしれぬ」

 周囲の世相の興奮に煽られて現地のバイエルン第16歩兵連隊に従軍志願した彼は、今こうしてフランス北部の戦火の中にいた。この時、彼は25歳だった。

 

 

 マルヌ川の大会戦は、凄惨な様相を呈した。ドイツ軍のベルギー領侵犯を口実に、イギリス軍がフランスの応援に駆けつけたからである。イギリスという国は、古来、ヨーロッパ大陸の政治的分裂に付け込んで勢力を伸ばしてきたから、独仏の勢力均衡が崩れることを恐れていた。そこで、劣勢のフランスに肩入れし、欧州の均衡を保つことにしたのである。

 戦友の屍の山に尻込みする仲間たちを後目にし、ヒトラー一等兵は、砲弾と銃弾が嵐のように吹きすさぶ中、常に先頭に立って敵陣に突入した。

 いつしか、彼は一人になっていた。戦友たちは、一人残らず死ぬか負傷して後送されていた。連隊長は戦死し、後任の中佐も重傷を負って倒れ伏した。無傷で敵陣に乗り込めたのは、自分含め数名のみ。占領したばかりのイギリス陣地に立ちつくすヒトラーは、後続軍が到着するまで、その場に腰を下ろして待つことにした。

 硝煙が晴れやらぬ戦場は、どこもかしこも真っ黒だった。

 顔にこびりついた泥を軍服の袖でこそぎ落としたアドルフは、塹壕の片隅に動く小さな白い姿を認めた。

 犬だ。

 やせ衰えた子犬が、瓦礫の下から這い出そうとしている。

 駆け寄って救い出したアドルフは、その白いテリアを両手で抱き上げた。

 マルヌ会戦はドイツ軍の敗北となり、西部戦線は膠着状態に陥った。両軍は、塹壕に立てこもり、いつ果てるともしれない睨み合いに耐えなければならなかった。

 厭戦気分が広がる中、アドルフは一人、元気だった。背嚢にしまい込んだショーペンハウエルの乱読に飽きると、風刺漫画の創作に熱中した。いや、何よりもアドルフの心を慰めたのは、戦場で拾った白いテリア犬であったろう。

 「こいつは、俺の宝物だ」

 フクスル(子狐)と名付けられたその賢い犬は、新しいご主人が教える芸を、やすやすと覚えていった。

 アドルフとフクスルの奇妙なコンビは、連隊のみんなの人気者だった。アドルフは、平時には面白い語り手であり、有能な絵描きであったが、戦場においては、恐れを知らぬ勇敢な斥候だった。

 しかし、酒も煙草もいっさいやらず、猥談にも決して参加しない。ただ、話題が政治や芸術に及ぶと、口角泡をとばして大論陣を張るのが常だった。

 軍隊は、彼にとって居心地が良かった。必要なだけ孤独でいられたし、また、必要なだけ仲間に囲まれても居られたからである。

 

 

 「戦争が長引くのは、ユダヤ人の陰謀だって噂だな」

 「そうとも、俺たちが泥水すすって苦しんでいる間に、銃後のユダヤと資本家どもは武器で儲けてぬくぬくしてやがるのさ」

 「アメリカのウオール街のユダヤどもも、それに荷担していやがるんだぜ」

 人間の心理というのは不思議な物で、理不尽な状況が長く続くと、その責任を特定の誰かに押しつけてしまいたくなる。そして、いつの時代でも、裕福な少数民族ユダヤ人は、こうした非難の対象にされやすい存在なのだ。

 「アドルフ、お前はどう思うんだ。こういう話題は好きだろうが」

 リッツ一等兵の矛先は、愛犬を膝に載せてくつろいでいる戦友に向けられた。

 「分からないな」

 それだけ答えると、アドルフの注意は再びフクスルの毛並みの手入れに向けられた。顔を近づけると、忠実なテリアは、彼の伸びた口ひげをペロペロとなめ回した。

 彼の脳裏には、母を治療してくれたブロッホ先生や、ウイーンの恩人ハーニッシュの姿が浮かんだ。少なくとも、あの人たちは悪くない。でも、一部のユダヤ資本家が、よからぬ企みを抱いている可能性は否定できない。複雑な心境であった。

その当時、ヒトラーの部隊は、西部戦線を転々としていた。

 東部戦線では、ドイツ軍がロシア軍に対して優勢で、快進撃を続けているが、こちらの戦線では相変わらずの塹壕戦だ。その一方で、英仏による経済封鎖は効果的であり、ドイツ国内は物資の欠乏にあえいでいた。

 「苦しいのは敵も同じだ。最後の勝利は、必ず我々の物だ。意志の力こそが肝要だ」

 弱気になりがちな戦友たちを、アドルフはいつも得意の弁舌で慰めた。彼自身驚いたことに、その弁舌は素晴らしい効果を発揮した。彼に激励された兵士たちは、たちまち目の輝きを取り戻し、勝利への希望をその胸に抱くのである。

 「お前、話が上手だから、画家が駄目なら政治家になるといいよ」リッツが、煙草をくゆらしながら言った。

 「画家が本業で、政治家はついでにやるさ。政治が趣味の画家っていうのもいいだろ」アドルフは、笑顔で言い返した。

 アドルフは、驚くほどに淡泊な生活ぶりだった。故国からの仕送りも少なく、いつも粗食なのに、文句一つ言わなかった。自分が食を抜いても、フクスルが飢えることは決して許さなかった。

 思いこみの激しいアドルフにとって、この戦争は聖戦であり、ドイツ民族に与えられた崇高な使命であり、試練であった。だから、そのための苦難は当然のことだった。自分自身の欲望の充足や命の危険など、取るに足らないことだった。そのためアドルフは、しばしば向こう見ずなまでに大胆であった。

 イープルの戦いでは、単身敵陣に潜入し、機密情報を奪おうと目論んだ。

 敵味方の砲弾が断続的に降り注ぐ中、この悪運の強い痩せた兵士は、硝煙で煤けた灌木沿いに這い進んだ。敵陣の天幕はすぐそこだ。見ろ、通信兵が一人いるだけだ。

 ライフルの銃架でそのイギリス兵を殴り倒すと、アドルフは用心深く天幕の内部を見回した。野戦机の上に、薄汚れた英字の封筒が散乱している。ひとまとめに掴んで飛び出したアドルフは、しかし、天幕のすぐ外で、小太りで厳めしいイギリス士官と鉢合わせになってしまった。

 「君は、勇敢な男だ」葉巻をくわえたその士官は、丸腰ではあったが、悠然とドイツ語でこう呟いた。「勇気に免じてその書類はくれてやる。とっとと行くが良い」

 不思議と、殺意は湧かなかった。アドルフは、突きつけたライフルの銃口をそらすと、その厳めしい人物から目を背け、一目散に駆け出した。

 「偉い奴だ。あんなのが俺たちの敵なのか」

 無事に帰り着いたアドルフは、あの士官の堂々とした態度に、尊敬の念を抱いた。そして、後年になってから、あのとき殺しておかなかったことを後悔するようになる。

 なぜなら、その士官の名を、ウインストン・チャーチルと言ったからである。

 

 

 アドルフが入手した機密は大したものではなかったが、その勇気を称賛されて、伍長への昇進が決まった。

 「お前は偉いよ」相棒のリッツは肩をすくめて見せた。「俺は、死ぬのが怖いから、お前みたいに頑張れないよ。と、失礼、伍長殿」

 アドルフの命知らずの活躍は、尚も続いた。ある小戦闘では、一人で四人のフランス兵を捕虜にした。

 「一体、どうやったのだ」上官のヴェーデマン中尉は、目を丸くして驚いた。

 「塹壕の中に敵が四人伏せているのが見えたので、聞こえるように大声で点呼を唱えました。こちらが大勢だと思わせたかったのです。案の定、彼らは騙されて、呆気なく降参しました」

 この軍功で、アドルフは下級兵士としては異例の一級鉄十字賞を授与された。

 「お前のおかげさ」

 アドルフは、フクスルを抱きしめた。自分の度外れた幸運は、この忠実な愛犬がもたらしてくれるものに思えたのだ。

 ソンムの戦いが始まった。攻撃をしかけたイギリス軍は、たった一日で2万人を失い、それでも突撃をやめようとしなかった。三ヶ月の死闘の後、戦死者は両軍合わせて61万人に達した。硝煙と腐臭が辺りを覆い尽くす。この世の地獄だ。

 バイエルン第16連隊は、包囲され、孤立無援となった。

 ヒトラー伍長は、塹壕の中で震えていた。初めて、戦場を恐ろしいと感じていた。数ヤード先には、戦友だったリッツの死体が転がっているが、埋葬すらできない。少しでも顔を出したら狙撃兵にやられるからだ。食べる物は、ネズミの干し肉だけだ。それでも彼が正気を失わなかったのは、忠実な愛犬がいつでもそばにいてくれたからだ。

 ヒトラーは、狂気の淵の中で考えた。人間の命などは、運命の摂理(神というべきか?)の元では小さなものだ。どんなに優れた人物でも、無慈悲にすさぶ鉄の嵐の前では、ただの肉塊に過ぎないのだ。あの快活なリッツでさえ、今や単なる物体だ。だが、俺は乗り越えなければならない。せっかく人間として生を受けたのだ。この試練を克服し、超越できる者こそ、ニーチェの言う超人なのだ。そして俺は、必ずこの関門をくぐり抜けて見せる。運命を操って見せる。

ヒトラーは、双眼を震わせながら忠実な愛犬を抱きしめた。

 イギリス軍の撤退の後、損耗しつくしたこの連隊は友軍に救出され、アルザスに後送されることとなった。

 ある停車駅で、鉄道員が、芸をするフクスルに惚れ込んだ。

 「ヒトラー伍長、こいつを200マルクで俺に売ってくれないかなあ」

 「ふざけるな」やつれ果てた頬を震わせ、アドルフは怒鳴った。「彼は、俺の親友だ。20万マルクでもお断りだ」

 ところが、この誠実な飼い主が居眠りしている間に、フクスルの姿は見えなくなっていた。ヒトラーは、汽車から降りる頃になって、初めて異常が起きたことを知った。

 「ちくしょう。よくも俺の友達を奪いおったな」

 絶叫し、髪を振り乱し、拳を振り上げるアドルフだったが、軍務に服する以上、愛犬のために後戻りは出来ないのだった。

ヒトラーは、フクスルの事を終生忘れることができなかった。

犬は、ヒトラーにとってひとときも手放せない友人となる。

 

 

 1918年3月、ドイツ軍はついにロシアを降した。東部戦線の闘いに決着が付いたのだ。そしていよいよ、全力を挙げてイギリス、フランスを叩く時が来た。名将と言われたルーテンドルフ大将のもと、全ドイツ軍は一丸となってパリを目指した。見ろ、あれがエッフェル塔だ。

 しかし、鷲の紋章がパリを闊歩することはなかった。参戦してきたアメリカ軍が、彼らの進撃を阻んだのだ。西部戦線は再び膠着状態となり、そしてドイツの戦時経済は破綻した。敵前逃亡する兵士が相次ぎ、銃後では、左翼労働者によるストライキが嵐のように荒れ狂った。

 「勝てる戦争じゃあないか」ヒトラー伍長は髪を振り乱して叫んだ。「本国の軟弱者どもは、何も分かっていないんだ」

 「ドイツは、もう終わりですよ」新兵のシュミットは、うんざりした表情で言い放った。「僕の家では、猫のステーキが今年一番のごちそうなんですよ。もう、戦争どころじゃない」

 「それがどうしたと言うのだ。正義のための戦争なんだ。それくらいの試練は、当たり前じゃないか」

 「伍長、あんたは狂ってる。現実が見えてないんだ」

 「なんだと」

 ヒトラーは、拳を振り上げて掴みかかった。その瞳には涙が滲んでいた。

 その時であった。

 イギリス軍の放ったイペリット・ガス弾が陣地を直撃したのだ。

 みんな喉をかきむしり、地面を這いずって死の恐怖から逃れようとした。アドルフはかろうじて窒息死を免れたが、目が見えない自分を発見した。

 「くそっ、見えない。見えない。何も見えない。これじゃあ絵が描けないっ」

 のたうち回りながら悲鳴をあげるアドルフは、駆けつけた看護兵たちに助け起こされ、内地行きの汽車に担ぎ込まれた。

 そして、苦痛に呻くヒトラーが、最悪の悲報を耳にしたのは、ポンメルンの病院のベッドでのことだった。

 1918年11月。ドイツ皇帝ウィルヘルム二世は退位し、第一次世界大戦とドイツ帝国は、その幕を閉じた。ヒトラーがその勝利を信じた正義の帝国は、力つき、連合国の軍門に下ったのである。

 包帯につつまれた眼球を涙でぬらし、ヒトラーは声に出さずに絶叫した。何故だ。

 この男の想念は、怒りと悲しみと疑問とで、真っ黒に埋め尽くされた。

 ドイツ軍は、戦場では大きな敗北を喫していなかったので、ヒトラーと同じ疑問と怒りを覚えた前線兵士は大勢いた。

 ただ、ヒトラーの場合は極端だった。なぜなら彼は、人生を安心して生きていくために、この世の全てに首尾一貫した説明を必要とする人間だったからである。そして、勝利を確信していた偉大なドイツの敗北は、彼を混乱させ、同時に新たな世界観と人生観の構築を余儀なくさせたのである。

 「ドイツは、負けるはずはなかった」

 彼は、しかし、この見解に固執した。皇帝の拙劣な外交政策や無謀な戦線拡大の愚については、少しも思い及ばなかった。

 「何者かの陰謀が働いたのに違いない。元凶は、アメリカの資本主義者か、ストライキを組織したコミュニストどもなのか、それとも、みんなが言うように、ユダヤ人どもなのか」

 毒ガスによる皮膚の痛みにさいなまれながら、この若き思想家の乱れた思考は、とめどもなく流れていく。

 ウオール街を支配するのは誰だ。左翼の労働者運動コミュニズムを提起したマルクスは何者だったか。銃後で安逸をむさぼっていたのは誰だったか。

 すべての謎を解くキーワードがある。

 ユダヤ。

 狂気の淵にある思念の中で、パズルの最後の欠片が埋まった。

 見えない目を懸命に見開き、この恐るべき青年は、心の底で叫んだ。

 俺は誓う。奴らの魔手からこの世界を守ってみせる。ドイツを生まれ変わらせて見せる。それこそが、この俺の使命なのだ。

 今、薄汚い野戦病院の片隅で、一人の青年と人類の命運が音を立てて動き出そうとしていた。 

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