歴史小説家 三浦伸昭の歴史ぱびりよん

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長編歴史小説

千年帝国の魔王

第四章 ビアホール決起

 

 諸外国に侮られ、しかもインフレを解消できないベルリンの社会民主党政権は、今やドイツ国民全体の怨嗟の的になっていた。左右両派の武装蜂起は、もはや時間の問題だ。

 「非常事態だ。やむをえない」

 エーベルト大統領は、1923年9月26日、非常事態宣言を発令した。行政権は、これより軍に委譲するものとする。ドイツ国内は、騒然となった。

 ミュンヘンを州都とするバイエルンは、これを契機にベルリン政府からの独立を目論んだ。もともとバイエルンは、1871年まで、独立の王国だったのである。有名な狂王ルードヴィヒの奢侈によって財政が破綻し、ビスマルク率いるプロイセンに併合されてからわずかに半世紀。独立の機運は十分にあった。

 バイエルン政府は、元首相のカールを総督に任命し、独裁権を与えた。カールは、軍司令ロッソウ、警察長官ザイサーとともに三頭政治を行い、ベルリン政府と対決する姿勢を見せたのである。

 「ベルリン進撃のチャンスだ」

 アドルフ・ヒトラーは、勇躍した。

 「今こそ、バイエルンの全力をあげて、ベルリン政権を打倒するときだ」

 彼の脳裏に宿っていたのは、尊敬するイタリア統帥ベニト・ムソリーニの姿だった。彼のように地方から旗揚げし、武力で天下を握ってみたい。

 ところが、新生バイエルン政府は、ヒトラーの勢力を頼りにしていたものの、その意見には一顧もくれなかった。彼らは、ベルリンと完全に決別し、むしろオーストリアと連合し、新国家を創設する計画だったのである。

 「奴らは、解っていない」ヒトラーは叫んだ。「ドイツをユダヤ人や共産主義者から解き放ち、ベルサイユ体制を振り払うためには、ドイツ民族全体による統一国家こそが必要なのだ。分離してしまっては、何にもならない」

 「プッチ(一揆)をやりましょう」

 すかさずそう答えたのは、側近の一人、ショイプナー・リヒターであった。ロシア人の血を引くこの亡命者は、中肉中背で、上品に口ひげを整えている。彼の望みは、ドイツの力を借りて社会主義ソ連を打倒することであった。そのためには、彼が見込んだヒトラーに、何が何でもドイツの実権を握ってもらわなければならないのだ。

 ヒトラーも、リヒターを頼りにしていた。社交界で顔が広いリヒターは、ナチスの勢力拡大に大いに役立つのである。特に、先の大戦の英雄ルーテンドルフ将軍とのコネクションは、実に心強いものがある。

 「ルーテンドルフ将軍の名声を利用して、カールら三人を逮捕し説得するのです。それからベルリンへの進軍。これしか勝機はありません」

 「うむ」ヒトラーの青白い顔は、ますます白味を増していた。

 やがて、事態は急展開を迎えた。

 総督カールらバイエルン三巨頭が、11月11日、ビュルガーブロイケラーという酒場で「愛国的大集会」なる演説会をぶちあげることとなったのだ。ヒトラーにも声がかけられたが、

 「恐らく罠だ。奴らは、その集会でバイエルンの独立と、王政復古を宣言するのに違いない」ヒトラーは、最近短く刈り込んだ口ひげをひねりながら呻いた。

 「逆に考えれば」リヒターは身を乗り出した。「彼らが勝ち誇っているその時こそチャンスです」

 「うむ、その日はちょうど、ドイツ降伏五周年の日だ。歴史的蜂起にはふさわしい。しかも日曜日だから、警察も軍も手薄になる。絶好の機会だ」ヒトラーは大きく頷いた。「リヒター君、ルーテンドルフ将軍への根回しは頼むよ」

 「ええ、お任せ下さい」

 

 

 11月11日の夕刻、ビュルガーブロイケラーは酔客で一杯だった。演壇上のカールは、ドイツ帝国の復活と社会主義打倒を満座に訴えていたが、一本調子の話し方は、辺り一面に退屈ムードをみなぎらせていた。

 控え室では、トレンチコートに身を包んだアドルフ・ヒトラーが、一杯10億マルクのビールジョッキを片手にし、半開きのドア越しに大広間の演壇を睨み付けていた。傍らに控えるハンフシュテングルは、控え室の大時計の針を心配そうに見つめていた。

 ちょうど8時30分。ヒトラーのボディーガードを勤めるレスラーあがりのグラーフが、クロークルームから駆け込んできた。

 「ゲーリング大尉が到着されました」

 耳元でささやくグラーフに、ヒトラーは鋭い一瞥をくれた。

 「よし、行くぞ」

 トレンチコートを脱ぎ捨て、黒のモーニング姿になったヒトラーは、隠し持ったブローニング・ピストルを引き抜くと、グラーフとハンフシュテングルを引き連れて大広間に突進した。

 時を同じくして、正面玄関から、十名の武装した突撃隊を率いるゲーリングが、警官隊を蹴散らしながら乗り込んできた。

 大混乱となった大広間の中で、ヒトラーは椅子の一つに飛び乗ると、天井めがけて拳銃を発射した。

 「静まれ、この建物は、我が突撃隊によって完全に包囲されている。これより、国家社会主義革命が開始されるのだ」

 尚も騒然とする群衆の中で、ヒトラーはその額の冷や汗を拭いながら、演壇上で身構えるカールと、その左右に寄り添うザイサーとロッソウ、その副官たちに歩み寄った。

 「別室に来て下さい。話したいことがあるのです」

 ザイサーの副官は、あわててピストルを取りだそうとしたが、ヒトラーに機先を制され、銃の台じりで殴り倒された。

 「抵抗は無駄だ。既に、前警察長官のペーナー氏と、ルーテンドルフ将軍は、こちらの味方なのだ」

 「なんだって」

  愕然とする三巨頭は、ヒトラーに銃で脅されながら、隣室に消えた。

  巨漢のゲーリング大尉は、大戦中に授与された勲章を胸でジャラジャラさせながら、彼らに代わって演壇に登り、群衆に語りかけて宥めた。まあ、ビールでもやりたまえ・・・。

 一方、狭い個室に拉致監禁されても、三巨頭は頑なだった。ヒトラーとグラーフが拳銃で脅しつけても、堂々とした態度を崩そうとしなかった。さすがは、貴族出身者たちである。

 「ヒトラー君、こんなことをしても無駄だ。民意に反する武装蜂起は、必ず失敗する」

 「そうとも、だいたい、ルーテンドルフ将軍もペーナーもこの場にいないではないか。嘘で固めた謀反など、その場限りだぞ」

 「諦めたまえ。今我々に投降すれば、悪いようにはしないよ」

 口々に言う三人に向かって、ヒトラーは昂然と胸を張って見せた。

 「ルーテンドルフ将軍は、こちらに向かっているところです。それに、民意ならば問題ありません。こちらに付けて見せましょう。グラーフ、後は頼むよ」

 そう言い残すと、ヒトラーは再び大広間に向かった。大広間では、群衆がいきり立っており、演壇上のゲーリングは途方にくれていた。

 「ヘルマン、後は任せろ」

 ゲーリングを下がらせたヒトラーは、騒然とする群衆に向かって得意の弁舌を試みた。

 「革命は、今ここに成就した。既に三巨頭はこちらの味方になった。そして、ルーテンドルフ将軍率いる新生バイエルン軍は、明日にでもベルリンに向けて進軍を開始する予定である。ここにベルリンの軟弱政府は倒壊し、ドイツは、新たな未来に向けて走り出すであろう」

 驚いたことに、ヒトラーが話し出したとたん、群衆は借りてきた猫のように大人しくなった。そして、やがて満場一致で彼に声援を送り始めたのだ。

 「私は断言する。新しいドイツの夜明けが来るか、我々の屍が転がるかのどちらかしかない。歴史は、今夜創られるのだ」

 満座の聴衆は、ヒトラーの言葉を信じ、ヒトラーに従う決意をした。それは、あたかも魔法のような光景だった。

 

 

 ショイプナー・リヒターが、ルーテンドルフ将軍を案内しながら酒場に入ってきたのは、ヒトラーの魔法が功を奏したその時だった。

 「リヒター君」古風な軍服を纏った老将軍は、長くのばしたカイゼル髭をひねった。「少し話が違うのではないか。既に事態がここまで進んでいるとは聞いておらぬ・・・」

 「ドイツのためなのです。将軍」リヒターは、うやうやしく答えた。

 突撃隊員たちのハイル(万歳)の中、玄関先に走り寄ったヒトラーは、将軍の手を押し頂かんばかりにし、三巨頭のいる個室に案内した。

 そして、老将軍の登場は、彼を崇拝する三巨頭に衝撃を与えた。

 「我々に協力してくれ。そして握手しようじゃないか」

 将軍の威厳あふれる一言が決め手となった。カール、ザイサー、ロッソウは、新生バイエルンに忠誠を誓い、ヒトラーらとともにベルリンに進軍する約束をしたのである。

 老将軍と三巨頭は、並んで大広間の演壇に立ち、群衆に挨拶し、満場が拍手で彩られた。そして、どこからともなく大合唱が湧き起こった。

 ドイッチュランド、ユーバー、アレス・・(世界一のドイツよ)

 このとき、待機していたレーム大尉の突撃隊二千は、革命成功の報告を受けて行動を開始した。目標は、バイエルンの国防軍司令部の占領である。レームと彼の片腕ヒムラーは、そつなく任務をこなした。同じ頃、ペーナー前警察長官は、現職の部下たちを味方につけて、警察署を占領した。ロスバッハ中尉率いる義勇兵団は、カールの官邸を接収に向かった。

 時を同じくして、エッサーとハンフシュテングルは、市内を巡回し、情報収集に当たった。ただ、冷静なハンフシュテングルは、万一の場合に備えて、愛する妻子を郊外の別荘に避難させることを忘れなかった。

 そして、ビュルガーブロイケラーでは、着々とあがる成果を前に、ヒトラーが有頂天になっていた。冷や汗まみれだった青白い頬は、いつしかビールのせいか赤みを帯びて輝いていた。

 「リヒター君、ありがとう。君が将軍を説得してくれたお陰だよ」

 ロシア亡命者の両手を取って、この希代の雄弁家は何度も礼を言った。

 「そうかこの人は」と、リヒターは思った。「本当は人一倍小心で、恐怖に敏感なのだ。何かと理論武装したがるのもそのためだし、ユダヤ人や社会主義者を叩くのだって、本人が心底から恐怖しているためなのだ。この人の驚異的な弁舌力の源泉もそこにある。自らの恐怖を力にし、大衆の恐怖を刺激する。それが、あのような理屈を越えた力を生み出しているのだ。しかし、この人は英雄となりうるのだろうか。私の祖国を、マルキシズムから奪い返すことができるのだろうか」

 ちょうどその時、エッサーから連絡が入った。市中で、我が反乱軍がミュンヘン工兵隊と交戦中というのだ。

 「私でなくては収まるまい」ヒトラーは、現地に赴き調停に当たる決意をした。「リヒター君、一緒に来てくれ」

 「しかし、ここはどうしますか」

 「ルーテンドルフ将軍に任せよう」

 

 

 調停は、失敗に終わった。ヒトラーとリヒターは工兵隊宿舎の門前で追い返され、得意の魔法を使う余地さえ与えられなかったのだ。これは、貴重な時間の無駄であった。

 すごすごと酒場に引き返した二人を待っていたのは、衝撃的な事実だった。ルーテンドルフ将軍が、例の三巨頭を放免してしまったというのだ。

 「なぜ、そんなことを」ヒトラーの真っ赤な頬は、再び青白くなった。「奴らは、きっと裏切るつもりです」

 「ありえない」威風堂々の老将軍は、悪びれずに言い放った。「彼らは、私の前で誓ったのだ。そして、ドイツ軍人の誓いは絶対である」

 だが、反撃が始まった。

 ロッソウは、接収を免れた電話交換台を通して、プッチ打倒とドイツ国防軍の集結を呼びかけた。そして、三巨頭の健在を伝え、拳銃を突きつけられて交わしたルーテンドルフとの誓いは無効であると宣言した。

 カールは、占領されかかっていた官邸に駆け戻ると、ロスバッハ中尉の反乱軍を撃退した。

 そして、ザイサーは警察署に戻り、ペーナーとその協力者を逮捕した。

 これらの情勢を受けて、首都ベルリンでも、ゼークト将軍が断固たる態度で事態の収拾に乗り出していた・・・。

 空が白み始めるころ、反乱の前途は絶望的になっていた。

 「わしは、ドイツ将校の誓いを、二度と信用せんぞ」ルーテンドルフ将軍が、いまいましげにつぶやいた。

 「撤退しましょう」側近のクリーベル大佐が言った。「オーストリア国境まで退却し、ゲリラになるのです」

 「ううむ、それでは我々の運動が、大衆から切り放されてしまうぞ」ヒトラーが渋い顔をしたとき、知らせが入った。

 「国防軍と州警察の総攻撃です。レーム大尉の突撃隊が、占領中の国防軍司令部で包囲されてしまいました」

 「なんだと」ヒトラーは跳ね上がった。レームは、先の大戦以来の知己である。

 「ようし、進軍じゃ」ルーテンドルフ将軍が言った。「市中を行進し、世論に我々の正義を訴えながら、レームを救出するのじゃ」

 リヒターは思った。愚策だ。クリーベルとゲーリングも、そう思ったことは間違いなかった。だが、ヒトラーは大きく溜め息をついて頷いた。

 「分かりました。やりましょう」

 大衆を集めて行進し、世論がナチス側にあることを思い知らせれば、軍も警察も手を引いてくれるかもしれない。危険な賭だが、それしかないだろう。

 リヒターは、すかさずヒトラーに歩み寄り、小声で謝った。ここまで事態が追いつめられたのは、ルーテンドルフ将軍の器量を見誤ったからだ。老人は、結局過去の遺物に過ぎなかったのだ。リヒターは、自責の念を感じていた。

 だがヒトラーは、軽くこの同志の肩を叩いただけだった。彼は小心であったが、逆境に追いつめられると却って闘志を燃やす人物だった。このときも、既に死の覚悟を固め、腹をくくっていた。

 やはりこの人は英雄の資質を持っている。リヒターは思った。国防軍に向かっての行進は無謀であるが、俺はこの人を守らなければならない。たとえこの身が倒れても・・

 

 

 総勢2千名を越える隊列は、正午の陽光の中、「栄光輝くドイツ」を合唱しながら、レームの待つマリエンプラーツに向けて進み続けた。隊列には突撃隊や義勇兵のみならず、彼らを支持する民衆が大勢参加していた。

 ルーテンドルフ、ヒトラー、リヒターの三人は、先頭を進む鼓笛隊の真後ろに並び、そのすぐ後ろにグラーフやゲーリングが続いた。

 軍服の上にハンティングジャケットを纏ったルーテンドルフは堂々と、トレンチコートのヒトラーは頼りなげに、将軍廟前の州警察の哨戒線に向き合った。

 8列までしか通れないこの狭い街路にて、どちらが先に砲火を開いたのか、今となっては定かでない。

 「撃つな、ルーテンドルフ将軍だぞ」

 グラーフは叫んだが、州警察の一斉射撃を止めるには遅すぎた。

 最初の一撃は、どうやらヒトラーを狙撃するためのものだった。

 彼の忠実なボディガード、グラーフは、その使命をまっとうした。主人の前に立ちはだかった巨漢は、蜂の巣のようになって即死したのである。そして、もう一人。

 ショイプナー・リヒターは、左胸に鈍痛を感じると、右横に立つヒトラーのコートの袖を掴み、引きずり落ちる形で一緒に舗道に倒れた。次の瞬間、第二射が、さっきまでヒトラーの体があった空間を撃ち抜いたのである。

 「俺は、自分の未来を救ったのだ」リヒターは、薄れゆく最後の意識の中でつぶやいた。

 ゲーリングも重傷を負って倒れ伏し、犠牲者は二十名近くにのぼり、隊列は大混乱となった。誰かが、ルーテンドルフもヒトラーも死んだと叫んだ時、隊列は逃げ散る烏合の衆と化した。

 だが、老将軍は無傷だった。同志たちの無数の屍を乗り越えて、彼はただ一人、哨戒線を突破したのである。しかし、将軍を待っていたのは屈辱だった。警官に取り巻かれた老人は、逮捕の宣告を受け、身柄を拘束されたのだった。

 頑強に抵抗していたレーム隊は、この知らせを聞いて意気消沈して軍に降伏した。別行動中だったエッサー、ホフマン、シュトラッサー兄弟、ハンフシュテングルらは、やむなくオーストリアに逃げ出した。

 これが、いわゆるミュンヘン・プッチの顛末である。

 しかし、硝煙さめやらぬ市内に遺されたのは、ヒトラーに酔わされた市民のナチスに対する根強い声援なのだった。

 

 

 ミュンヘン郊外のウフィングにあるハンフシュテングル家の別荘では、彼の妻ヘレナと一子エゴンが、心配そうにラジオに耳を傾けていた。

 「あの人は、大丈夫かしら」

 その時、玄関のチャイムが鳴った。夫と思って出迎えたヘレナの前に立っていたのは、意外なことに、意気消沈したアドルフ・ヒトラーと、その二人の従者だった。

 「まあ」

 「すみません奥さん、しばらく休ませて下さい」ヒトラーは、つぶやくように言った。

 アドルフ・ヒトラーは、将軍廟の大混乱の中で、突撃隊衛生医のシュルツに助け起こされ、彼の用意した車で脱出した。最初はビアホールに戻ろうとしたのだが、あちこちで機銃掃射を受け、退路を失ってオーストリア国境へ向かったのである。

 銃創こそ無かったものの、リヒターに引きずり倒された時に脱臼した左肩の治療を受ける事ができずに、オーストリアへ向かう車中で苦痛に呻いた。

 「将軍は無事だろうか。ゲーリングは・・レームは・・うう、グラーフとリヒターには気の毒なことをした・・」

 追われる者のつらさ。情報も取れず、背後を気にしながら、ひたすら逃げ続ける。

 やがて、ウフィングを通りかかった一行は、ここに同志の別荘があることを思いだし、急遽立ち寄ることにしたのであった。

 「アルフおじさんだ、アルフおじさんだ」

 無邪気なエゴンは、居間に招き入れられたヒトラーの姿に喜んだが、さすがのヒトラーも、今はこの三歳の子供の相手をする余裕はなかった。運転手に車を隠しに行かせた後、シュルツはヒトラーの脱臼の治療に取りかかり、何とか外れた肩を元に戻すことが出来た。

 「奥さん、きっとエルンストは無事ですよ。きっと、今頃こちらに向かっています」左肩の包帯姿も痛々しいヒトラーは、弱々しい笑みを浮かべてヘレナを慰めた。

 「そうだといいけれど」

 長身でブルネットの夫人は、その美しい眉を歪め小さく笑顔を作って見せた。その艶やかな仕草は、今や政治生命の危機に直面しているヒトラーにかすかな勇気を与えた。

 しかし、その二日後、エルンストの代わりに現れたのは警官だった。電話に出たヘレナは、今からそちらに家宅捜査に向かうと、警察から宣告されたのだ。

 「ここまでか」

 ヒトラーは、知らせを受けると天を仰いだ。居間から二階に駆け上がった彼は、掛けておいたコートから自由が利く右手で拳銃を取り出すと、無造作にこめかみに押し当てた。

 「何をなさるの」間一髪、飛び込んできたヘレナが、彼の手から拳銃をたたき落とした。

 「生き恥をさらすよりも、死を選びたい」

 ヒトラーは、潤む目で夫人を見た。孤独な彼は、この令夫人に甘えたかったのだ。

 「そんなこと」ヘレナは言った。「あなたが一人で死んでしまったら、残された者はどうなるの。あたしの夫やその仲間たちはもちろん、悪政に喘ぐドイツの無数の国民たちは、唯一の燭光を失って途方にくれてしまうでしょう。それに、あなたを庇って死んでいった人たちも浮かばれなくなるわ」

 「そうだ」ヒトラーは、項垂れていた顔を憤然と上げた。「私は、リヒターたちの遺志を受け継がなければならない。闘いはこれからなのだ」

 やがて訪れた警察隊に連行され、ヒトラーはミュンヘンの西、ランツベルク刑務所に送られていった。国家社会主義は終焉を迎えたと、誰もが確信した瞬間であった。

 

 

 裁判が始まった。

 第一回公判は、1924年2月26日に行われた。刑務所からミュンヘン市内の旧歩兵学校講堂に呼び出されたルーテンドルフとヒトラーは、正反対の態度で裁判に臨んだ。

 ルーテンドルフは、終始一貫、自己の無罪を主張した。

 「わしは、浮浪者上がりの伍長に騙されたのだ」この元将軍は、ヒトラーを指さしながら叫んだ。「諸悪の根源は、この男にある。裁くなら、この男のみを裁くべきだ」

 しかし、これに対するヒトラーの態度は周囲の予想を裏切った。

 「そのとおり」彼は言った。「全ての責任は、この私にある。他の紳士諸君は、協力者に過ぎない。裁かれるのは、私だけで十分だ。しかし」

 この小柄な囚人は、昂然と胸を張って傍聴席に向けて叫んだ。

 「私は犯罪者ではない。後悔もしていない。後悔があるとすれば、あのとき同志たちとともに死ななかったことだ。私の目的は、このドイツに栄光を取り戻し、かつてのように世界の列強に加えることにある。今度の決起も、そんな愛国心の発露だったのだ。その私を、犯罪者扱いすることは、誰にも許さないぞ」

 得意の雄弁と、真心の籠もった真摯な表情は、傍聴者たちのみならず、裁判長や主席検事をも感動させずにはおかなかった。皮肉なことに、ひたすら自己弁護に努めるルーテンドルフは、彼の非難する伍長の引き立て役となってしまったのだ。

 大衆も、ヒトラーに好意的だった。

 ヒトラーが逮捕された五日後、ベルリン政府はインフレを抜本的に解消するため、いわゆるデノミネーションを実施した。すなわち、一兆マルクを一レンテンマルクとし、レンテンマルク券のみの発行と流通を義務付けたのである。これによってインフレは解消されたが、逆にデフレとなってしまったため、国民生活はすぐには好転しなかった。そのため、世論はもちろん、判事や検事たちも、比較的寛容な態度でヒトラーたちに接したのである。

 だがヒトラーも、最初からこんなに意気軒昂としていたわけではない。収監された当初は、心痛のあまり食事もできず、二週間近く断食状態だった。彼を立ち直らせたのは、信頼する同志たち、ローゼンベルク、ハンフシュテングル、ドレクスラーらがオーストリアに健在で、ナチス運動を盛り立てていることが分かったからであり、重傷を負ったゲーリングが亡命先のスウェーデンで命を取り留めたことであり、優しいヘレナからの手紙に励まされたことであった。

 さて、法廷でのヒトラーの潔い態度が知れ渡ると、彼のシンパは急速に増えた。ある婦人などは、ヒトラーの使った湯で入浴したいと申し出て、刑務所を困らせたほどである。

 そして、裁判の最大の山場は、3月14日に訪れた。

 この日は、被告が証人に質問することが法律で認められており、ヒトラーは例のバイエルン三巨頭と正面きって対決することとなったのである。

 「見ていてくれ、リヒター、グラーフ」

 密かに胸中で念じたヒトラーは、最初から攻勢に出た。

 「あなた方の不誠実さえなければ、ドイツは救われていた」

 証人席のロッソウは、顔をしかめた。

 「おまえは、ロマンチストと殺人者が、頭の中に同居している狂人だ。誰が、狂人などに従うものか」

 「しかし、あなた方は一度、その狂人の前でプッチに同意したではないか。忠誠の誓いすらした。ドイツ軍人の誓いとは、その程度のものなのか」

 「オーストリア人の浮浪者上がりの伍長に、バイエルン貴族の血を引く我々が与える誓いなど無い」

 「それが本音か」ヒトラーは、鋭い一瞥をくれた。「あなた方は、時勢というものが分かっていないのだ。これからは大衆の時代だ。大衆が社会の担い手となるのだ。大衆の中から現れた偉人が、大衆の支持のもとに国を動かすのだ。そして、今のドイツを立て直すためには、民主主義では駄目だ。独裁でなければならない」

 「お前は、とんでもない野心家だ」ロッソウは、はげ上がった頭を振り立てて叫んだ。「伍長あがりの分際で、このドイツの独裁者になろうというのか」

 「野心ではない。それは摂理なのだ。歴史の当然の要求なのだ。私が独裁者になるかどうかは問題ではない。私は、ただの太鼓叩きでも構わないのだ。偉大な独裁者は、運命に導かれてその地位に就くことだろう」

 「だが、お前は囚人だ。プッチは失敗したのだぞ。太鼓すら叩けまい」

 「失敗ではない。これは前進だ。なぜなら、我々を攻撃したのは軍隊ではなく、幸いなことに警官だったからだ。我々の運動と軍隊は、いつかきっと和解できるだろう。そのとき、我々の骨から我々の墓から、我々を裁く唯一の法廷の声が鳴り響くことだろう。なぜなら、紳士諸君、我々に裁きをくだすのは諸君ではなく、永遠の歴史という名の法廷だからである」

 満座は感動し、静まり返った。三巨頭もその口を閉じた。

 「いやはや、大した人物だ・・」裁判長は、思わず嘆声を上げた。

 

 

 4月1日、くだされた判決は、人々を驚かせた。ナチス党は解散を宣告されたが、実刑を受けたのは、ヒトラー、ペーナー、ヴェーヴァー(ナチスに協力した右翼政党の党首)、そしてクリーベル大佐のみであり、いずれも五年間の禁固刑であった。

 プッチの名目上の指揮官だったルーテンドルフ将軍は、政策的配慮によって無罪とされた。そして、この判決に不満を持ったのは、不思議なことに、あれほど自己の無罪を主張した老将軍のみであった。「自分一人助かるなど、軍人として不名誉である」老将軍は息巻いたが、今更誰も相手にしなかった。

 外国の新聞は、これらの奇妙な判決について書き立てた。ドイツでは、国家反逆罪は重罪ではないらしい・・・と。

 ヒトラーらの罪が軽くなった理由は、彼らの行為は過激で無謀ではあったが、ベルリンと対決するというバイエルン政府、つまりカールたちの方針には矛盾しなかったためである。それゆえ、ヒトラーたちを重罪にするなら、カールたちも何らかの罪を負わなければならなくなってしまう。それは避けたかったのである。

 カールら三巨頭は、こうして一応は勝利者となった。しかし、ほとんどの民衆は、彼らが一度はプッチに賛成したのに、途中で裏切ったという印象を抱いていた。それゆえ、彼らの勢威は日を追うごとに低下し、結局、バイエルンはベルリン政権と和解し、中央に組み込まれることになるのである。

 敗北者であるヒトラーは、しかしこの敗北で最も声望を高めた者となった。裁判での見事な陳述に加え、ルーテンドルフの無罪によって、世直しプッチの指導者はヒトラー一人という印象が世間に流布されたからである。

 一人獄中に帰ったヒトラーは、日記にこう書き記した。

 「我が闘争は、これより始まる」

 プッチの失敗は、この男の闘志を鍛え、より強くしたのだ。挫折を味わっても、それをバネにしてより大きくなるのは、この人物の最も素晴らしい美質である。

 ハンフシュテングルやローゼンベルクは、ナチスの地下活動を続けてくれるだろう。私は、この牢獄から、彼らの力を借りて世間を見ることが出来るし、自己修養もできる。

 本当の国家社会主義革命は、これからだ。アドルフ・ヒトラーは顔を上げ、そして激しく武者震いした。

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