歴史小説家 三浦伸昭の歴史ぱびりよん

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長編歴史小説

千年帝国の魔王

第六章 権力闘争

 

 ドイツ軍将校で大統領側近のシュライヒャー国防相は、ナチスの勢力を踏み台にして己が政権を握ることを画策していた。1931年10月14日、ヒンデンブルク大統領とヒトラーとの初めての会談は、この将軍の野心によってもたらされたと言って良い。

 ヒトラーは、緊張しきっていた。かつてタンネンベルクの原野でロシア軍を駆逐した偉大なヒンデンブルクの威厳に圧倒されたのみならず、未だに姪の死の打撃から立ち直っていなかったのである。老大統領の前で脈絡のない小演説をぶった総統は、彼を見つめる険しい老眼の前に萎縮してしまった。

 「なんだね、あれは」大統領は、会談の後で吐き捨てるように側近に言った。「せいぜい郵政大臣が務まるくらいのものだな」

 「はあ、さようで」恐縮して答えるシュライヒャーは、その内心で小躍りしていた。ナチスの党首が、その程度の人物の方が好都合なのだ。自分の手のひらの上で、十分転がすことができるだろうから。しかし、陰謀将軍の見込みは間違っていた。

 その数ヶ月後、ヒトラーは、ドイツを代表する十一人の実業家の前で、彼の生涯で最高の名演説を行った。クルップやジーメンスをはじめとする大実業家たちは心から感動し、ナチス運動のためにあらゆる財布の紐を緩める決意を固めたのである。彼らは、国家社会主義の「社会主義」の部分を、虚飾だと思いこんでいた。ヒトラー政権が誕生すれば、自分たちの資本主義経済活動は大なる発展を遂げるに違いない・・

 そして、ここで獲得した財政基盤を基に、ヒトラーはいよいよ大統領選に乗り出す決意を固めたのである。

 

 

  その夜、上機嫌のヒトラーは、親友の写真師ハインリヒ・ホフマンや、その店員エヴァ・ブラウンと、三人だけの夕食会を開いた。ヒトラーはミネラル・ウオーターで、後の二人はビールでささやかな乾杯をした後、総統は、いつものようにドイツの未来について熱く夢を語った。あの老貴族(ヒンデンブルク)に任せておいては駄目だ。貴族の時代は終わった。これからは大衆の時代なのだ。私は必ず大統領に成ってみせる。

 「だが」総統は口ごもった。「私の晴れ姿を一番に見せたかった人はもういない。あの子は死んでしまった。私のせいで死んでしまったのだ」

 最前とはうって変わって、さめざめと涙を流す偉人の姿に、ホフマンはひたすら当惑し、エヴァは同情を覚えた。

 「おかわいそうに・・」20歳を迎えたばかりのエヴァ・ブラウンにとって、ヒトラー氏は、これまでずっと良き友達でしかなかった。彼女の中に、彼に対する友達以上の感情が芽生えたのはこのときからだった。

 そして、この二人が肌を合わせるようになるのに、それほどの時間は要しなかった。23歳年上の男の胸に、彼女はかつてない安息を見いだしていた。

 「彼はあたしのもの。いつか、ゲリさんのことを忘れさせてみせるわ」

 そしてこれが、エヴァ・ブラウンの苦難の人生の始まりだった。

 

 

 厳格なカトリックの家庭に生まれたエヴァは、物心ついてすぐに修道院に送られ、16歳でそこを卒業してからも、さまざまな職場で人生勉強をしなくてはならなかった。三人姉妹の次女である彼女は、金髪碧眼でぽっちゃり。ちょっぴりおっちょこちょいだが、愛嬌のある可愛らしい少女だった。

 彼女の運命の出会いは、17歳のとき、忘れもしない1929年の秋の夜に訪れた。簿記が得意な彼女は、そのとき写真師ホフマンの店で会計係として働いていた。たまたま戸棚の写真ファイルを整理しようとして梯子に登っている時に、店長が一人のお客さんを連れて店内に入ってきたのである。

 「いけない」エヴァは赤面した。彼女のスカートは、この日は特に短かった。どうしても、下から覗かれてしまうだろう。事実、見知らぬ客の視線が強く感じられた。

 ホフマンさんは、エヴァが格闘している戸棚のわきで、お客さんとテーブルに座って難しい話をしていた。

 「わかりました、ヴォルフ(狼)さん。一週間以内に写真を500枚ですね。ただちに取りかかりましょう。おおい、エヴァや、ご苦労さん、疲れたろう、飯にしよう」

 梯子から降りたエヴァは、ヴォルフと名乗る紳士と初対面の挨拶を交わすと、簡単な食事の用意をした。それから、三人の晩餐が始まった。献立は、あり合わせのソーセージだったが、空腹だった彼女は、実においしそうにそれらを腹に詰め込んだ。

 「ソーセージがお好きなのですか」

 ちょび髭を生やした七三分けの紳士は、柔らかな口調で話しかけてきた。口の中が一杯の少女は、大きく縦に頷いて見せた。

 「いいお店を知っていますよ。良ければ、今度ご一緒にどうですか」そう言った紳士のブルーの瞳は、とても優しかった。

 「ごめんなさい」ようやく口中のものを飲み込んだエヴァは、心からそう言った。「うちの父さんはとても厳しいから、あたし、知らない男の人と食事なんて行けないんです」

 「なるほど」紳士は、悪びれずに頷いた。「それなら、もう少し親しくなってから、もう一度お誘いしましょう」

 ヴォルフさんが帰った後、店長は笑顔を浮かべ、エヴァの両肩を掴んで揺さぶった。

 「なあ、あの人が誰か分かったんだろう」

 「いいえ、誰ですの」

 「ヒトラー氏だよ、政治家のアドルフ・ヒトラー氏だ。君は、ヒトラー氏にデートを申し込まれたんだよ」

 「・・・?」

 「ヒトラー氏を知らないのか。本当に?」

 「ごめんなさい。あたし、政治はからっきしなんです」

 「そうなのか」ホフマンは肩をすくめた。「あの人は、NSDAP(ナチス党)の党首で、うちの上客なんだ。ヴォルフというのは仮の名さ。あの人は、写真や映像の宣伝力を重視しているから、党勢拡大のために、この俺の写真技術を頼りにしているんだよ。その縁で、この俺も今や幹部と言ってもいいな」

 早口にまくしたてる店長の剣幕に、エヴァはその目を白黒させるばかりだった。

 その夜、帰宅した彼女は、さっそく父親にヒトラー氏のことを訊ねてみた。

 「ヒトラーだと」学校教師のフリッツ・ブラウンは、白目を剥いた。「あいつは大法螺ふきのペテン師で、犬のように吠えたてるしか能のない三流政治家だ。エヴァ、二度とその名を口にするな。ああ、寒気がする」

 生真面目で保守的なフリッツは、ちまたで繰り広げられる共産党とナチスの乱闘騒ぎや、褐色の制服を纏った愚連隊(SA)がユダヤ商店のガラスを叩き割る光景が大嫌いだったのである。

 しかし、年頃の娘の感情は不思議な物である。エヴァ・ブラウンは、この父親の態度を目にして、かえってヒトラー氏に対する興味をかき立てられたのだった。

 そして、ヒトラーとエヴァが、人目を忍んでデートを重ねるようになるのは、それから遠からぬ日のことだった。ゲリの直接の死因となった例の手紙は、この時期に書かれたものだった。

 「あの人は、いつプロポーズしてくれるのかしら」

 世間知らずで純真な彼女は、デートが即、結婚に結びつくものと考えていた。そんな思いも手伝って、つい、友人たちに、あたかもヒトラーから求婚されたかのように言いふらしてしまったのである。

 「ばかっ」ホフマンさんは、烈火のごとく怒った。「あの人は、総選挙を控えて大変な時期なんだぞ。スキャンダルに発展し、婦人票を失ったらどうするんだ」

 「ごめんなさい」エヴァは、自分の軽率さを心から反省した。

 その甲斐あってか、ナチス党は、その時の総選挙で第二党にのしあがり、ヒトラーは、天下人への片道切符を手に入れたのであった。

 

 

 「あたしを愛していないの」

 「愛している。しかし、結婚はできない」

 「どうしてなの。あたしに悪いところがあるなら遠慮なく言ってちょうだい。きっと直すから」

 「そういう問題じゃないんだ。エヴァ、政治家は孤独で多忙な存在だ。国事のために、家庭を犠牲にしなければならないんだ。妻子よりも、国民を愛さなければならないんだ。分かるだろう、みすみす家族を不幸にするわけにはいかないよ」

 「あたしなら耐えられるわ」

 「政治に口を挟まれても困るし」

 「あたしが、政治に興味ないことは知っているでしょう」

 「・・もう、よそう。今日は疲れた・・」

 ヒトラーはそう言い残すと、衣類を纏って部屋から出ていった。貸しアパートの一室に残されたエヴァは、いつものように悲しかった。いつまでこんな生活が続くのだろう。両親がこんな娘の有様を知ったら、どう思うことだろう・・

 このころヒトラーは、念願のドイツ市民権獲得に成功し、大統領選に打って出て、再選を狙うヒンデンブルクを大いに苦しめていた。僅差で敗れたものの、潔く民主的な選挙戦の様相は、多くの国民の共感を呼び込んだ。

 「ヒトラーか、思ったよりもまともな奴かもしれないな」娘の悲しみを未だ知らないフリッツ・ブラウンは、次の総選挙でのナチスへの投票について真剣に思案していた・・・。

 

 

 陰謀将軍シュライヒャーは、ヒンデンブルクの再選を目の当たりにし、ドイツ国民の望みが、ヒンデンブルクを中心とする超党派内閣の成立、ひいては帝政復活にあるのだと推察した。

 「ならば、この私がお膳立てをせねばなるまいて」

 彼は手始めに、中央党のブリューニング首相失脚工作に着手した。多数派工作は成功し、ブリューニングは、無念の涙を呑みながら首相官邸を去っていった。

 このころの共和国は、本来の議会制民主主義の機能を喪失し、大統領とその側近のエゴに左右される中途半端な政体に堕していた。それに加えて、歴代内閣による経済政策の失敗は、国民生活を危機的なレベルにまで転落させていた。しかし、陰謀将軍の脳裏にあるのは国民生活の向上策ではなく、自己の栄達のみであった。

 「新しい首相は・・無能なあいつだ」

 ほくそ笑むシュライヒャーが白羽の矢を立てたのは、競馬の名手として名高い貴族、フランツ・フォン・パーペン氏だった。

 「私は首相の器ではありません」

 パーペンは、大統領の前で言い募ったが、老紳士は後に退かなかった。

 「国家が危機に瀕しているとき、私が与える言葉はただ一つ。服従せよ、だ」

 仕方なく頷くパーペン。

 政党の基盤を持たない彼は、軍部の力と大統領の権威を背景に、独裁政治を敢行しようとした。手始めに、プロイセン州の反対派閣僚を一斉に更迭した。しかし、独裁の前提としては、議会を彼個人に従属させねばならない。そして、試練は無慈悲に唐突に訪れた。

 国家の第二政党党首であるヒトラーが、パーペン内閣を支持せず、共産党が提議した内閣不信任動議に賛同したのだ。これは国会の解散と総選挙の実施を意味するので、潤沢な資金力を持つナチスの思うつぼであった。

 「おのれヒトラー。事前の根回しで、パーペン支持を約束したはずなのに・・」シュライヒャーは歯がみして悔しがったが、後の祭りである。

 この当時、ドイツ国内は600万人を超える失業者で溢れ、暴動やデモで大混乱になっていた。人々は明日への希望を失い、現体制に絶望しきっていた。明日のパンさえ約束してくれるなら、どんな政府でも喜んで受け入れる気持ちになっていたのである。

 ヒトラーとゲッベルスは、水を得た魚のように総選挙に臨んだ。小型飛行機をチャーターして飛び回り、一日最低三回のペースで講演会を行った。

 「さあ、立ち上がろう。私と肩を組んで、手を取り合って、ドイツ人に生まれたことを子孫に誇れるような社会を築き上げよう」

 ヒトラーの演説は、もはや神業の域に達していた。金持ちも貧乏人も、大学教授も乞食も、彼の言葉に酔いしれ興奮し、涙を流しながら互いに抱き合った。しかし、ヒトラーは満足しなかった。講演会の後で、必ず側近たちと会談し、演説の反省点について活発に議論した。

 「うむ、ここは良かった。ここは削った方が良かったな。拳の振り上げ方に、工夫がいるな」

 巧妙な事に、この選挙の間、ヒトラーは反ユダヤ主義について口を閉ざした。論点を反共と反ベルサイユに絞り込み、経済改革について大胆に語ったのである。その結果、人種問題についてリベラルな見解を持つ中産階級は、喜んでナチスに一票を投じた。

 「エヴァ、父さんは、お前の友達を支持することに決めたよ」フリッツは、笑顔で娘に語りかけた。

 「ありがとう、父さん」エヴァは、複雑な心境を隠しつつ、父に白い歯を見せた。恋人の成功は嬉しいが、彼が成功すればするほど、遠い存在になっていくようで、とても寂しかったのである。

 7月31日、開票の結果、NSDAPは圧倒的勝利を納め、ついにドイツ共和国の第一党にのし上がった。全投票数の37.3%と230議席を得て、ライバルの社会民主党や共産党を、50万票以上の大差をつけて打ち破ったのである。ここにナチスは、同盟政党である中央党の得票数と合わせれば、議席の過半数を獲得できる態勢となった。

 「よしっ」ヒトラーは叫んだ。「大統領に、首相の座を要求するぞ」

 しかし、ヒンデンブルクは承諾しなかった。ヒトラーを信頼していなかったからである。彼は、パーペン内閣の続投を望み、ヒトラーを説得してその野心を封じ込めようとした。

 「ヒトラー君、我々はかつて戦友だった。これからも戦友でいようじゃないか」

 総統は、老紳士の威厳の前に屈服を余儀なくされた。

 そしてパーペンは、この機会を逃さなかった。新聞を操作し、ヒトラーが大統領に叱責された旨の中傷記事を書かせたのである。

 「やりやがったな」ヒトラーは激怒した。

 「プッチ(一揆)だ。それしかない」レームをはじめとするSA幹部たちは、口々に言った。「300万人のSAは、総統のために命を捨てますぞ」

 「待て」ヒトラーは、蒼白な頬を震わせて叫んだ。「プッチは時期尚早だ。熱くなってはいかん。冷静になれ」

 ヒトラーは、あくまでも選挙に勝って天下を取るつもりだった。そして、パーペンの支持率が低迷しているかぎり、いくらでもチャンスは巡ってくるはずなのだ。

  そして9月、国会で共産党が、またもやパーペン不信任議案を投げつけ、ナチスがそれを支持したため、パーペン内閣は倒れた。

 再び総選挙が始まった。

 

 

 1932年という年は、大統領選を含めて三度の総選挙が行われた異常な年であった。それだけ、ドイツ国内の政治、経済状況が行き詰まっていたのだと言えよう。

 そして、11月の総選挙では、さしものナチスも資金繰りに困るようになっていた。

 「これが最後の総選挙になるやもしれん」ヒトラーは唇を強く噛んだ。「負けるわけにはいかん」

 しかし、貧困にあえぐ国民は、数度の選挙に疲れ切り、宣伝局長ゲッベルスらの奮闘にもかかわらず、政治集会や講演会は盛り上がりに欠ける内容となった。おまけに、選挙期間中に実施された共産党系のストライキに、シュトラッサーやゲッベルスといったナチス内部の社会主義者たちが共闘の姿勢を示すという珍事も発生した。これは、反共を売り物にするナチスのポリシーを裏切る結果となったので、中産階級の得票が大幅に減じることが予想された。ヒトラーも、これにはさすがに頭を抱えた。ナチスは、この段階に及んで一枚岩になっていなかったのだ。

 その上、さらなる悲報が、ヒトラーに追い打ちをかけたのである。

 「エヴァが、拳銃自殺を図っただと」ナチス党首は跳ね上がった。「どうしてだ。何があったのだ」

 「分かりません」ホフマンが、所在なげに目を彷徨わせた。「自室で、父親の拳銃で胸を自ら撃ち抜いたようです。その後、本人が、医師をしている私の義弟に電話をかけて、治療を依頼してきたそうです・・・命は取り留めたようですが、動機はまったく不明です」

 「とにかく病院に行こう」

 「しかし、総選挙まで、あと五日しかありませんぞ」

 「いいから、付いてこい」

 ホフマンの義弟プラーテは、ミュンヘンで開業医をやっており、重傷のエヴァは、人目に付かぬように彼の病院に運び込まれ、個室のベッドに白衣で横たえられていた。大量に血を失ったその頬は不吉なほどに白かったが、ヒトラーの姿を一目見るや桃色に染まり、その瞳は涙で潤み輝きを増した。

 「どうして、こんなことを」

 一人で病室に入ったヒトラーは、見舞いの花束を枕元の花瓶に差しながら訊ねた。

 「あたし、あなたに棄てられたのだと思ったの」エヴァは、純白のシーツから純白の顔を覗かせた格好で答えた。

 「・・どうしてだね」

 「ヘンリエッテさん(ホフマンの長女)から、大勢の女性に囲まれたあなたの写真をたくさん見せられたわ。ミュンヘンに戻っても、逢ってくれないし・・」

 「・・私は、忙しかったんだよ。女性の写真だって、選挙用のスチールだ」

 「分かっているわ。でも・・」

 「もうすぐドイツは変わる。ユダヤ人と社会主義者は放逐され、貴族や資本家は大衆から選ばれた独裁者の前にひれ伏すことだろう。経済はもちろん、国際的威信も回復することだろう。老紳士や騎手男爵や陰謀将軍は、帝政の復活を目論んでいるようだが、そんなものは過去の遺物だ。新しいドイツは、大衆によって支配され、大衆のために存在する国家でなければならない」

 「ふふふ、あたしは難しい話は分からないわ。ごめんなさい」

 「そうだったな。まあ、それまでの辛抱ということだ。つまらない邪推はやめて、しっかりと休むことだ」

 「ええ、分かったわ」

 病室を出たヒトラーは、プラーテに密かに訊ねた。

 「狂言自殺ですか」

 「いいえ、弾道が少しそれていれば、命はありませんでした」医師は、強い口調で否定した。

 「そうか」ヒトラーは、感動の面もちで傍らのホフマンを見やった。「聞いたか。彼女は、私のために本当に死のうとしたんだぞ」

 「軽率な女です。下手をすればスキャンダルになって総統の破滅をもたらしたかもしれませんぞ」

 「いや、それは違う。彼女は、自力で君の義弟に電話を入れた。スキャンダルを避けるべく配慮してくれたということだ。私は、彼女の面倒を一生見続けなければならぬ・・・」

 五日後の開票の結果、ナチスは200万票を失った。かろうじて第一党の地位は確保したものの、政治工作で議席の過半数を獲得する道は閉ざされたのである。

 「あたしのせいだわ」

 病室のエヴァは、このとき初めて、恋人が苦しい立場にあったことを思い知らされた。そして、選挙のもっとも大事な時期を、彼女のお見舞いに費やしてくれたヒトラーの真心を思い観たのである。

 「選挙の結果は、あたしのせいだわ。でも、あたしは嬉しい。罪深いことかもしれないけれど、本当に嬉しい」

 エヴァは、上気した頬を、窓の外に広がる大空に向けた。

 

 

  総選挙におけるナチスの後退は、しかしパーペンの勝利とはならなかった。政党の基盤をもたない彼は、第一党であるナチスの支援なしでは、とても政権を維持できないからである。高名な騎手でもあるこの人物は、ついに下馬する決意を胸に抱き、ヒンデンブルクの元を訪れた。

 「パーペン君。それでは君は、あの男に政権を委ねようというのか」

 「彼は、第一党の党首です。それしかありますまい」

 「わしの聞いた噂では、あの貧相な男は、ミュンヘンでペンキ屋をやっていたそうではないか。ビスマルクの座を、ペンキ屋ごときに汚させるわけにはいかぬ」

 大統領は、カイゼル髭を震わせた。

 しかし、ヒトラーは執拗に首相の座を要求し、また、彼を支援する財界の大物たちが、連日のように大統領に請願書を送り、ヒトラー内閣の成立を求めた。財界人たちは、ナチスの没落が共産党の興隆を意味するものと捉えていたので、共産党政権の誕生を阻止するため、何が何でもナチスを支持する決意だった。

 窮した大統領と首相は、国防相のシュライヒャーを呼んで善後策を協議した。しかし、シュライヒャーの口から出た意見は、思いがけないものだった。

 「私を首相に任命してください。そうすれば、私には、ナチスを内から崩す秘策があります」

 あまりのことに、大統領と首相は言葉を失った。パーペンにとって、この国防相の発言は裏切りに等しい。怒りを抑え、パーペンは、大統領に進言した。

 「閣下、私に一ヶ月を下さい。何とか他政党を結束させ、現内閣を維持して見せます」

 「うむ」大統領は、力強く頷いた。

 無視された形となったシュライヒャーは、帰りがけにパーペンに毒舌を投げつけた。

 「僧侶よ、汝は苦難の道を選べたり」

 これは、16世紀に、宗教改革者のマルチン・ルターが、旧教側の僧侶によって投げつけられた言葉である。

 そして翌日から、シュライヒャーの熾烈な政治工作が始まった。ドイツ国防軍を擁する彼は、軍によるパーペン内閣下での治安維持活動を全て停止する旨の宣告を行ったのである。

 「これは、軍の反逆だ・・・」

 呆然となったパーペンは、大統領のもとを訪れ、陰謀将軍の更迭を進言した。しかし、

 「軍に反乱を起こされたら、ドイツはおしまいだ。ここは、シュライヒャーに運試しさせるしかあるまいて」

 大統領はそう言って、老いた目をしばたたかせ、大粒の涙を落とした。

 12月1日、シュライヒャー内閣が誕生した。そして、ヒトラー、パーペン、シュライヒャーの三つどもえの戦いが、幕を開いたのである。

 ついに念願の地位を手に入れた陰謀将軍シュライヒャーは、嘘つき将軍ではなかった。彼は、大統領に約束したとおり、ナチス党の分裂工作を猛然と開始した。その標的は、ヒトラーに継ぐ地位を持つ、ナチス組織局長のグレゴル・シュトラッサーである。

 シュトラッサーは、ヒトラーと違って純粋な社会主義者であり、しかも高潔な人格と広い見識によって、多くの衆望を集めていた。もしも彼がヒトラーを裏切れば、ナチスは間違いなく崩壊するであろう。

 新首相は、さっそくこの重要人物を自宅に招き、副首相及びプロイセン州首相の地位を約束して、懐柔しようとした。

 「確かに」シュトラッサーは答えた。「一足飛びに首相の地位を要求するアドルフのやり方は、賢明ではありません。まずは、大臣を閣内に送り込むべきでしょうな」

 「それならば、私の提案に賛成してくれるのですね」首相は詰め寄った。

 「しかし、組織局長である私が、党に黙ってそのような大事を決めることはできません。少なくとも総統に相談しなければ」

 「・・おそらく、ヒトラー氏は反対するでしょうな」

 「ええ、彼は邪悪な取り巻きに囲まれているために、判断が歪められているのです。レームは豚並みの知性しか持たないし、ゲーリングは利己主義者、ゲッベルスは二枚舌で腹黒い。みんな、ろくでなしだ。ちょうど良い機会です。私が総統の魂を救いましょう」

 この有能な組織局長が、総統に対する忠誠心を失っていないことは、シュライヒャー首相を驚かせた。

 しかし、秘密会談の内容は、たちまちヒトラーの耳に入った。情報提供者は、密かに彼と同盟を組んだパーペンだった。

 「シュトラッサーの裏切りは、これで三度目だ」ヒトラーは髪を振り乱して激怒した。「私の地位を奪おうとしたバンベルク会議。この間の選挙での共産主義ストへの荷担。そして今度の密談だ。もう許せない」

 シュトラッサーは、あわててヒトラーの元を訪れ、弁明に努めた。自分は裏切ったわけではない。ヒトラーに、まずは副首相の地位を提供しようと考えて首相と会談したのだと釈明した。しかし、ゲッベルスに焚き付けられて組織局長の裏切りを信じ込まされたヒトラーは、もはや聞く耳を持たなかった。

 「ここまでだ」シュトラッサーは、天を仰いだ。「国家社会主義の理想は、野心家たちによって歪められてしまった」

 彼は、荷物を纏めてホテルを出た。思い直したヒトラーが連絡を取ろうとしたとき、彼は既にイタリアへと旅立っていた。

 「しめた」極秘裏にこの情報を入手したシュライヒャー首相は、この好機を逃がさなかった。翌日の新聞に、シュトラッサーの「反乱」記事が堂々と掲載されたのである。

 「もう、おしまいだ」ヒトラーは絶叫した。「党は分裂する。国家社会主義は破滅する。そうなったら私の人生は終わりだ。三分で片を付けて見せるぞ。ピストルはどこだ」

 側近たちは、必死で党首を宥め、善後策を懸命に協議した。その結果、シュトラッサーの出奔は内紛の結果ではなく、単なる休暇にすぎないとの公式発表がなされた。さらに、気を取り直したヒトラーとゲッベルスは、必死に奔走して党内の動揺を鎮め、同時に組織変更を大胆に行って組織局長そのものの地位を弱め、ヒトラーに忠実なヘスをその座につけた。

 「しぶとい奴らめ」首相は臍を噛んだ。今度は、彼が反撃に耐える番である。

 

 

 当時、世情不安に喘ぐドイツでは、予言や占いが流行していた。逆境のヒトラーは、ハヌッセンという予言者に助言を求めた。

 予言者は答えた。来年1月の終わりに、ヒトラー内閣が誕生するであろうと。

 自信を得たヒトラーは、1933年の正月を、ミュンヘンで楽しく過ごすことにした。本当は、退院したエヴァと二人きりの正月にしたかったのだが、人目に付くのが怖かったので、ヘス夫妻も誘ってワーグナーを観に出かけた。それから、ホフマンを語らって報道局主任ハンフシュテングル家に遊びに行った。

 暖炉を囲んでコーヒーを啜りながら、ヒトラーはいつもの調子でオペラの批評を始めた。12歳になったエゴンは、母のヘレナと同じ長椅子に座り、アルフ叔父さんの話に聞き惚れていた。父のエルンストも、向かい側の籐椅子の上で幸せそうにくつろいでいる。

 しかし、一番幸せなのはエヴァだった。こんなに上機嫌な恋人を見るのは久しぶりだったからだ。今年はきっと何もかもうまく行くに違いない。そう思わずにはいられなかった。

 「エルンスト、久しぶりにあれをやろうよ」ヒトラーは、ウインクした。

 「よし来た」ハンフシュテングルはピアノに座ると、さっそく妙技を披露し始めた。

 ヒトラーは、それに合わせて口笛を吹き、エゴンは踊った。彼らを取り囲む笑顔、笑顔、笑顔。エヴァは、この幸せが永遠に続くことを、心から願った。

 しかし、正月の休暇が終わると、再び熾烈な政治闘争が開始された。ヒトラーとパーペンは密談を重ね、恐怖したシュライヒャーは大統領に元首相の不穏な行状を告発した。しかし、裏でパーペンと繋がるヒンデンブルクは、首相の言うことを聞こうとはしなかったのである。

 シュライヒャーへの復讐の念に固まったパーペンは、ヒトラー内閣の成立もやむなしと考えるようになり、その線で大統領と交渉を行っていた。しかし、大統領はペンキ屋(これは誤解だが)を首相にするつもりはなかった。

 「ヒトラーさん」パーペンは言った。「あと一押しです。一押しが足りません」

 「策を言え」左右を振り返るヒトラー。

 「今月15日に行われる、リッペ州の地方選挙を利用しましょう。あそこは、有権者わずか10万人ですが、ここで大勝しておけば有効な宣伝が行えます」と、ゲッベルス。

 「大統領の家族を味方に引き入れましょう。手始めに老紳士の長男を籠絡するのです」と、ゲーリング。

 「うむ」ヒトラーは、満足げに頷いた。

 そして、事態はそのように進んだ。ナチスは、リッペ州の田舎選挙に全力を投入して圧倒的勝利を掴んだ。また、ヒトラーは大統領の息子オスカルと秘密会談を行い、話術と恫喝とでこの人物を屈服させたのである。

 パーペンは、ナチスの組織力と知謀の深さに感嘆した。

 「だが、ヨアヒム」騎手貴族は、密かに側近に耳打ちした。「最後の勝利者はこの私だ。ヒトラーとその仲間たちは、私に雇われた傭兵に過ぎないのだから」

 「そうですな」頷いた側近は、ヨアヒム・フォン・リッベントロップという名の、理知的な風貌をした若い紳士だった。酒の販売商を営むこの人物は、渉外に無類の才能を発揮するため、パーペンとヒトラーの間に立って秘密交渉を取り持つ任務を負っていた。

 しかし、パーペンは気づかなかった。この有能な側近が、ヒトラーの魅力にひかれ、とっくにナチス側に付いているということを。

 さて、事態の急展開に驚き慌てたシュライヒャー首相は、大統領のもとに駆け込んだ。

 「軍を用いてクーデターを起こします。議会を解散し、選挙を停止します。それから、軍の力でナチスを倒します。許可を下さい」

 「また陰謀かね」ヒンデンブルクは、うんざりしきった口調で言った。「そのような許可は与えられない」

 「しかし」首相は食い下がった。「このままでは、あの伍長めに政権を取られてしまいますぞ」

 「それも仕方あるまい」老紳士は、目を落とした。「これから何が起こるか、わしにも分からない。しかし、わしはもう長くない。わしの決断が正しかったかどうかは、天国へ行ってから分かることだろう」

 「このような裏切りの後で」シュライヒャーは、歯噛みしながら答えた。「まだ天国へ行けるおつもりなのか」

 「裏切りだと」大統領は、閉じていた目を開けた。「先に、ブリューニングやパーペンを陥れたのは誰だったか。ペンキ屋を強くしたのは、全て貴君の仕業ではないのかね」

 打ちひしがれたシュライヒャーは、辞表を提出して官邸を離れた。

 ヒンデンブルクは、しかしまだ迷っていた。密かにパーペンを呼び出すと、組閣の意志の有無を問うた。しかし、パーペンはこう答えた。

 「ドイツを安定させられるのはナチスしかありません。そして私が副首相になれば、奴らを裏で操り、その暴走を制止できます」

 「そうか、頼むぞ・・」老紳士は重々しく呟いた。

 大統領の内意を受けたヒトラーは、しかしこの餌に易々とは飛びつかなかった。

 「パーペン氏が寄越してきた閣僚名簿を見ろ。奴のシンパの名前ばかりだ。大統領は、やはりこの私を信頼していないのだな」

 「総統、策があります」ゲッベルスが歩み寄った。「この名簿を承認する見返りに、組閣後の総選挙を要求するのです。その選挙に大勝できれば、閣僚の首など後からいくらでも・・」

 「よし、それだ」ヒトラーは、大きく頷いた。

 大統領とパーペンは、ヒトラーの総選挙要求を簡単に受け入れた。彼らはシュライヒャー率いる軍の反乱の可能性に怯え、そちらに気を取られていたので、ヒトラーの底意に気づかなかったのである。底意に気づいた国家人民党首のフーゲンベルクは、懸命に反対したが、パーペンは耳を貸そうとしなかった。

 時に1933年1月30日、新たな歴史の扉が、音を立てて開いた。

 高校を中退し、ウイーンで浮浪者をしていたこともある伍長上がりの小男は、今や大統領の前で、厳粛な誓いを行っていた。

 「政治を安定させ、経済危機を克服し、憎しみで引き裂かれたドイツを統一して見せます。そしてもう二度と、大統領の心を煩わせはしません」

 「うむ」老紳士は、静かに頷いた。「では、諸君に幸あれ」

 アドルフ・ヒトラーは、パーペン、フーゲンベルクら閣僚たちを従えて、一礼とともに官邸を退出した。外は雪である。黒のタキシードに身を包んだ彼らの姿は、銀白の中で街灯に照らし出され、光り輝いて見えた。

 ホテルに帰ったヒトラーは、双眼に涙を一杯に浮かべ、側近やホテルの従業員や客たち全員と握手して回った。

 「やったぞ、やったぞ」

 そのころエヴァ・ブラウンは、ミュンヘンのホフマン写真館で徹夜仕事に追われていた。翌日の新聞発表に備えて、ヒトラーの写真を大量に印刷する必要があったからだが、彼女はその事情を知らなかった。明け方になってへとへとになって帰宅した彼女は、さっそく寝床に飛び込んだが、ほどなくして姉のイルゼに呼び起こされた。

 「ラジオを聞きなさい。たいへんなことになったのよ」

 「いいから、今は寝かせて」そう言って寝床にしがみつくエヴァだった。

 それゆえ、彼女がそのことを知ったのは、夕方になってからだった。

 「あたしの勝ちよ」小躍りして喜んだエヴァは、姉に向かって手のひらを差しだした。

 「何のまねよ」

 「だって姉さん、賭けをしたじゃない。ヒトラーさんが首相になったら20マルク払うって」

 「呆れた、それが未来の首相夫人のセリフなの。もっと大人になりなさいな」イルゼは肩をすくめて笑い、20マルクは払わずじまいだった。

 その夜、ベルリンは文字通り真っ赤に燃え上がった。SA、SS、ナチス党員のみならず、一般市民たちも大挙して街へと繰り出し、手に手に松明を掲げて行進を始めたのである。彼らは、歌を歌い足を踏みならし、歓声を上げた。また、その有様は、実況中継で全国にラジオ放送された。全て、宣伝局長ゲッベルスの手腕によるものである。

 ヒトラーは、ヒンデンブルクやパーペンとともに首相官邸のバルコニーに立ち、官邸を取り囲む炎の渦と歓声に答えて手を振った。

 「ジーク・ハイル(勝利に幸あれ)」の大合唱に包まれて、ヒトラーは感極まっていた。

 「まるで、夢を見ているようだ」新しい首相は、感動で胸を一杯にした。

 その傍らでは、大統領が楽しそうに体を揺らしている。パーペン副首相も、髭をしごきながら満足そうにしている。

 「エヴァは、今頃どうしているだろう。ラジオの前で喜んでいてくれているだろうか」43歳の首相は、彼方の恋人に思いを馳せた。「彼女と親しくなってから、私の運は急速に開けた。私にとって、あの純真な女性は、幸運の女神かもしれないな・・」

 ここに、ヒトラー内閣が誕生した。ドイツ国民は、期待と不安を胸に抱き、若き首相の痩せた青白き顔を振り仰ぐのだった。

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