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長編歴史小説

千年帝国の魔王

第十三章 ポーランド

 

 今や、ドイツにとって最後の失地は、リトアニア領メーメルと、ポーランド領ダンチヒのみである。ヒトラーは、どちらも威圧外交で入手しようと考えていた。

 まず3月23日、圧力に屈したリトアニアは、メーメル地方をドイツに割譲した。ヒトラーは、戦艦「ドイツ国」に乗ってメーメル港に入り、ドイツ系市民たちの熱狂的歓迎を受けたのである。

 しかし、ポーランドの態度は相違した。

 ドイツは、1934年にポーランドと軍事同盟を結んでおり、敵意は持っていなかった。それだからこそ、チェコ分割に彼を誘ったのである。そのため、ドイツのポーランドに対する要求は、ドイツ人が大多数を占めるダンチヒ自由市の割譲と、ポーランド国内の反共政策の強化を要請するのみという、比較的寛大なものだった。

 しかしこの新興国は、断固たる決意でこの要請を拒否し、国境に軍勢を集結させたのである。

 ポーランドは、チェコやリトアニアと同様、第一次大戦後に誕生した新興国である。

 この国家は、中世ヤゲロー王朝のころは東欧随一の大国で、ロシアすら脅かす強国であった。しかしその後の衰微著しく、プロイセン(ドイツの前身)、ロシア、オーストリアに分割占領されること三度に及んだ。ようやく、第一次大戦後に失地回復できたというわけだが、その領土のほとんどは、戦前のロシア(ソ連)領とドイツ領の多くを含有していたので、当然のことながら両国の怨みをかっていた。

 1920年、ソ連赤軍は大挙してポーランドに攻め寄せた。しかし、名将ピウスツキを中心に結束したポーランド軍はこれを果敢に迎え撃ち、見事撃退に成功したのである。この成功体験の影響は大きく、ポーランドは、ドイツの侵略軍も赤軍同様に撃破できるものと信じていた。実際、ポーランド軍の戦力は強大であり、戦闘正面における規模の上ではドイツ軍に匹敵すると予想された。

 それゆえ、ダンチヒは第二のズデーテンラントとなった。再び、戦争の危機が欧州を覆ったのである。

 3月31日、チェンバレン英首相は、疲れ切った表情で議会に登壇し、重要な演説を行った。

 「我が政府は、ポーランドに対する侵略行為に対し、断固として抵抗する。フランス政府も同様の意向である」

 イギリスの議場は、拍手の波に埋め尽くされた。

 ほどなく、イギリス、フランス、ポーランドの三国同盟が発表された。西側諸国は宥和政策を棄て、ドイツの侵略に立ち向かう決意を固めたのである。

 「おのれ」ヒトラーは激怒した。「奴らを、ぐつぐつのシチューにしてやるっ」

 しかし、彼はまだ楽観していた。いざ事が起きた場合に、英仏が軍事介入してくる可能性はゼロだと考えていた。

 「腰抜けの民主主義国家に何ができる」ヒトラーは、左右の側近に語った。「チェンバレン老人は、議会の突き上げを受けてああ言うしかなかったのさ」

 外相リッベントロップは、総統の考えが甘いことを知っていた。しかし彼は、英独間の戦争がいずれは避けられないものと考えていたので、総統に強く諫言しようとしなかったのである。

 一方、西側との和平を重視するゲーリングは、独自の外交ルートで和解の道を模索しようとしていた。

 しかし、東方植民地政策を目指すヒトラーにとって、ポーランド問題は避けては通れない道すじであった。将来、ソ連を攻撃する場合に、ポーランドは必須の基地になるのである。ヒトラーは、当初はポーランドの独立まで否定する気はなかった。イタリア同様、緊密な同盟国になって、ソ連攻撃に協力してくれることを望んでいたのである。そのため、彼の領土要求は、ダンチヒ市に限られていた。

 ダンチヒ(現在はグダニスク)は、ポーランド唯一の海港都市である。バルト海へと抜ける狭い回廊の先端に、不安定な形で存在していた。そして、このポーランド回廊は、ドイツの領土を東西に二分していたので、ドイツ本部から東プロイセン州に移動するにはポーランド領を横断しなければならないという、極めて不自然な在り方であった。当然、ポーランド回廊とダンチヒに住むのは、そのほとんどがドイツ系住民であり、失地回復政策を掲げるヒトラーにとって、ここの回復は重要な懸案事項だったのである。

 しかし、性急な軍事力行使は危険である。十中八九有り得ないとは思うが、万が一英仏が攻めてきたら、とてもポーランドどころではないからだ。英仏の介入を避けるためには、彼らの準備が整わないうちに、電光石火でポーランドを倒さなければならない。そのためには、強力なパートナーが必要となる。

 「あの男は、どう考えているのだろう」

 ヒトラーは、その焦慮の眼差しを東の大国に向けた。

 

 

 ソ連書記長ヨシフ・スターリンは、ヒトラーと良く似た経歴の持ち主である。グルジア地方の貧しい農民から身を起こし、革命の動乱の中で頭角を現し、さまざまな苦難を乗り切ってレーニンの後継者の地位を手に入れた。目的のためには手段を選ばぬ現実主義と合理主義、そして冷酷さも、ヒトラーと共通の特徴である。

 奇妙なことだが、二人の似たもの同士は、互いに尊敬の気持ちを抱いていた。イデオロギー上の相克さえなければ、両者は良きパートナーになれたかもしれない。しかし、ヒトラーにとって反共は永遠の目標であって、共産主義の親玉スターリンは、不倶戴天の敵なのであった。

 そのスターリンは、当初は英仏と協調してナチスドイツを封じ込める政策を採っていた。ソ連は、防共協定を結ぶドイツと日本とに挟まれていたので、この苦境を打開するには西側諸国との協調が必要だと考えていたのである。

 しかし、ミュンヘン会談の顛末は、彼を不安にさせた。ソ連はストレーザ戦線でチェコと同盟関係にあったのに、チェコを解体する重要な会談に誘われもしなかった。このことは何を意味するのか。

 「西側の連中は、ドイツを嗾けて我が国を襲わせようとしているのだ。だから、ドイツや日本を甘やかしているのだ」猜疑心の強い書記長はそう考えたのだが、それも無理はなかった。

 当時、ソ連は満州国境で日本と宣戦布告無き戦争を戦っていたのだが、西側は調停しようとしない。また、英仏がソ連に派遣してくる外交使節は、国際的に無名な三流の人物ばかりである。これでは、スターリンならずとも西側諸国の底意を疑いたくなる。

 しかもソ連は、ドイツと戦争したくない深刻な事情を抱えていた。スターリンが、トハチェフスキーら軍部のベテラン将校を一網打尽に粛正するという事件が起きて間もないため、赤軍の戦闘力が大幅に低下していたのである。日本だけでも持て余しているのに、ドイツ軍に乱入されてはひとたまりもない。

 「時間稼ぎをしなければならぬ・・」

 スターリンは口ひげを捻りながら沈思したが、その最良の方策とは、ドイツとの同盟に他ならなかったのである。

 

 

 ヒトラーは合理的な政治家であったから、西側諸国との戦争の可能性を完全に無視するような政策を採ることは出来なかった。そして万が一、英仏との戦争が起きた場合、手薄になるであろう東方の安全を確保する方策は、ソ連との同盟以外に有り得なかったのである。

 実に皮肉なことだが、ソ連との同盟は、経済的にも大きな魅力があった。ソ連は天然資源が豊富だが工業技術力が未熟である。逆にドイツは、工業技術は世界一の水準だが、天然資源に乏しい。そのため、ドイツが工作機械をソ連に輸出し、代わりに石油や穀物を輸入すれば、ドイツの長年の懸案事項であった資源の不足が一挙に解消できるのである。

 しかし、ヒトラーは大いに迷った。ソ連との同盟は、若い頃から一貫して主張してきた反共政策への裏切りであり、同時に、反共協定を結んだ日本とイタリアに対する背信を意味する。念のため、それとなく両国に打診してみたところ、予想通り猛反対を受けた。

 ヒトラーは、諦めかけた。しかし、ソ連のアプローチは積極的だった。外相を親独派のモロトフに替えたスターリンは、ドイツの国策を支持する旨の演説を行ったのである。

 だが、スターリンの食えないところは、同時に西側諸国との交渉も進めていたところにある。

 冷静に考えれば、西側諸国にとってソ連は、戦争回避の切り札であった。ソ連が英仏と共同歩調をとってくれれば、ドイツを牽制し、その侵略政策にトドメが刺せる事は明白である。しかし、チェンバレンらは乗り気でなかった。イギリス国内の根強い反共機運のせいでもあるが、彼らは、ドイツとソ連が水と油の関係にあると思い込んでいたから、積極的にソ連を味方に引き入れる必要を感じていなかったのである。敏感なソ連書記長は、そのような西側諸国の態度を十分に感得し、不快であった。

 合理主義者であるスターリンは、西側諸国との同盟よりも、ヒトラーとの同盟の方が利益になると考えるに至った。英仏とドイツが争っている間に、東欧や北欧を侵略し、ベルサイユ条約で奪われた失地回復が出来ると踏んだのである。

 思えば、ドイツとソ連は、ベルサイユ体制によって領土を奪われたという点では、傷を舐め合う同志なのであった。

 こうして、狐と熊が手を組んだ。8月23日、モスクワに飛んだドイツ外相リッベントロップは、『独ソ不可侵条約』の締結に成功したのである。この夢想外の電撃外交に、世界は驚倒した。

 日本では平沼内閣が、有名な「欧州情勢は複雑怪奇なり」の名言と共に倒壊した。ノモンハンの平原でソ連軍と戦闘中だった日本は、ドイツが防共協定を守るどころか裏切りを働いたことに激怒した。

 イタリアのムソリーニも、困惑した。彼は先頃、ドイツとの間に『鋼鉄同盟』を結んだばかりであったが、この世界史を揺るがす独ソ同盟については、事前に一言の相談も受けていなかったからである。その腹いせの意味も込めて、統帥は、戦争が起きた場合、イタリアは中立を守る旨を総統に伝えた。

 「イタリア人は、信用できぬ」

 ヒトラーは、額を押さえて呻いたが、これは身勝手な言い分である。最初に裏切りを行ったのは彼の方だったのだから。

 ヒトラーにとって、ソ連との同盟は一時の便法であって、その政策の根本的変更を意味するものではなかった。彼は、党内の幹部たちにはその旨の説明を行い、国内の動揺を抑えたのだが、日本とイタリアには説明をしなかった。説明しなくても、理解してくれるものと信じ切っていたのである。しかし、イタリアはドイツに不信感を抱き、日本は独自にソ連との平和交渉を始めた。

 成功体験の固まりのような人物は、しばしば身勝手な思いこみをする。この時期のヒトラーもそうであったのだろう。

 そんなヒトラーは、様々な手段で英仏と交渉を行い、ポーランド問題を平和的に解決しようとした。すなわち、ミュンヘン会談を再現し、無血でダンチヒをもぎ取ろうと考えたのである。ソ連との同盟も、その工作の一環であった。しかし、彼は自分があの時のヒトラーでは無いことを忘れていた。彼がチェコに加えた酷い仕打ちと裏切りは、ポーランドや英仏の許すところではなかったのだ。

 英仏は、ヒトラーの言葉を信じることが出来なかった。平和を望む彼らは、総統の言葉を信じたがっていた。しかし、ドイツの独裁者はそのような言葉を吐くことが出来なかった。いや、吐く必要を感じなかったのである。過去の成功体験に溺れる彼は、今までと同じやり方で全てがうまく行くものと思い込んでいた。しかし、今度は違った。しかし、彼にはその違いが分からなかった。

 

 

 ドイツ国防軍は、ポーランド国境に集結した。

 しかし、ポーランド政府は恐れなかった。オーストリアとチェコの二の舞を踏むつもりはなかった。少しでも妥協したら、チェコのように食われてしまうだろう。そうはいかない。ドイツがそれを望むのなら、受けて立ってやる。

 「9月1日だ」ヒトラーは、将軍たちに宣言した。「その日の午前4時30分をもって、ポーランドへ攻撃を開始する・・・。武器弾薬の備蓄が6ヶ月分しかないことは、私も承知している。だが、心配することはない。英仏は動かぬ。私の予言が外れたことが、一度でもあったか。否。この戦争は、短期の局地戦で終わるだろう」

 ヒトラーの言葉は、自分を励ますものであったかもしれない。9月1日という日付は、実に三度目の延期の結果であった。ヒトラーは、軍事機密の露呈というリスクを冒してまで、交渉の妥結を期待していたのである。

 ヒトラーはゲーリングと図り、スウェーデンの実業家ダーレルスをイギリスへの使者にして、平和への道を模索していた。この実業家は、実に良く働いた。しかし、肝心の総統の信頼性が地に落ちていては仕方ない。ダーレルスの努力は、何の成果ももたらさなかったのである。

 内心の不安感にさいなまれる総統は、暗い表情で落ち着きを欠くようになっていた。そんな彼を見かねたユニティ嬢は、祖国の義兄との連絡を密にし、敬愛する総統の心を慰めようと心をくだいた。彼女の義兄モーズレー卿は、イギリス政府の親独派急先鋒であった。彼は、イギリス閣内が混乱し、和戦いずれか決めかねている実態を妹に知らせたのである。

 「お兄さんは、きっと戦争を食い止めてくれるわ」

 8月28日の朝、満面の笑みを浮かべて官邸を訪れた彼女は、顔見知りの武官に居間に案内され、総統は就寝中なので、しばらく待つようにと言われた。総統の朝寝坊は有名だった。ひどい場合には昼過ぎになっても目覚めない。ユニティはその事を知っていたので、一人で座って待つのがばからしくなってきた。

 いたずら心を起こした彼女は、こっそりと総統の寝室に向かった。幸い護衛の武官は席を外していたので、彼女は易々と寝所に足を踏み入れる事が出来た。

 「・・・」

 彼女は、その美しい瞳を大きく見開いた。総統のベッドはカーテンで覆われている。そのことは問題ではない。ベッドの下には二足の下履きが並んでおり、その一つは明らかに女物だった。そして、その華奢な下履きには、確かに見覚えがあった。

 「信じられない・・」

 胸の動機を押さえながら居間に引き返した彼女は、今見たことを忘れようと思った。敬愛する総統が、あの「間抜けな雌牛」と、そのような関係にあるなど、あってはならない事であった。

 だが、絶望的な気持ちになったイギリスの美女は、自分とヒトラーをつなぐ唯一の絆が、もはや英独和平にしか無い事を知った。彼女は、信仰に近い気持ちで母国の中立を信じた。そのため、起床したヒトラーに向かって、イギリスの動静を実際以上に楽観的に伝えてしまったのである。

 「そうだろうとも」ヒトラーは、上機嫌で頷いた。「東欧の小国のために滅亡の道を選ぶほど、イギリス人は愚かでない」

 そして9月1日という日付は、もはや延期されることは無かった。その日の未明、ポーランド兵に変装したSS部隊は、国境線上のドイツ軍駐在所を襲撃し、詰めていた者を皆殺しにした。このとき殺された者は、全て刑務所から連行されてきた死刑囚であった。狂言である。ポーランドが先に国境侵犯したように偽装したのである。

 同時に、ドイツ海軍は海上からダンチヒ市に砲撃を開始し、陸上では国境線を押し開けたドイツ陸軍が、準備砲撃と空爆に続いて敵地に殺到していった。

 9時40分、アドルフ・ヒトラーは、ベルリンのクロール・オペラハウスの壇上にあった。彼は、軍服と同じ色の党の新しい制服を身につけていた。

 「我が国は、本日未明、ポーランド軍による攻撃を受けた。相手が誰であろうとも、毒をもって毒を制しなければならぬ。そして、ドイツの権利と安全が保障されるまで、我々は戦い続けなければならない。今私は、一人の兵士として、国民の第一人者として共に戦う。私は、再びこうして軍服を纏った。私は、勝利の日までこの軍服を脱ぐつもりはない。万が一敗れることがあれば、私はその時まで生きてはいないだろう・・」

 傍聴席にいたエヴァ・ブラウンは、この言葉を聞いて、両手に顔を埋めて激しく嗚咽した。

 「彼の身にもしものことがあったら、あたしも生きてはいないわ・・」

 議場は熱気と興奮に包まれた。しかし、世論は必ずしもそうではなかった。人々は、第一次大戦の時の恐怖を思い出し、不安げに身を震わせた。ドイツは、まるで通夜のような有様だった。

 1939年9月1日。第二次世界大戦の勃発である。しかし、世界はまだその事を知らない。この闘いが、全地球規模の惨禍に発展することを予測できた者は少なかった。

 

 

 ポーランド軍は、既に8月下旬に総動員を終えており、その準備は万端だった。彼らの作戦は、第一次世界大戦の戦訓を生かしたものだった。まずは国境に大軍を集結させ、塹壕を堅く守って敵の攻撃を破砕する。敵が疲れたころを見計らい、後方に待機させている騎兵隊を繰り出し、ドイツ領への攻撃を開始。そのころには、英仏両軍も進撃を開始するだろうから、ベルリンの占領は難事ではないと考えていたのである。

 確かに、第一次大戦まではその戦術で正解であった。あの当時は、攻撃側の技術が未熟であったから、日露戦争の旅順要塞戦を例に取るまでもなく、攻撃側が圧倒的に不利であった。守備側は、塹壕を堅く構え、機関銃を乱射していれば、突貫してくる歩兵の縦列をなぎ倒し、たちどころに数万人を殺戮出来たのである。

 しかし、ドイツ軍の戦法は、彼らの予想を大きく裏切った。

 その日の未明、塹壕を守るポーランド兵は、自分たちの頭上をドイツ軍爆撃機の大編隊が後方へと飛び去って行くのを見た。この爆撃機は、首都ワルシャワをはじめとする主要都市を破壊して通信連絡網を分断し、また飛行場を襲撃してポーランド空軍を無力化する目的を持っていた。

 その直後、再び飛来した爆撃機の大軍が、塹壕の頭上から彼らに襲いかかった。飛行場と空軍を破壊されたポーランド軍は、空からの襲撃に為すすべがなかった。堅固だった陣地は覆滅され、兵士たちに出来た事は、泥まみれの顔を互いに見交わすのみだった。

 爆弾の雨に打たれ大損害を受けた彼らに、今度は戦車の大軍が襲いかかった。時速50キロで進撃してくる鋼鉄の群は、彼らに立ち直る余裕を与えない。砲撃され、蹂躙された彼らは、もはや逃げ回ることしか出来ない。恐るべき鋼鉄の群は、陣地を突破すると、驚異的なスピードで彼らを放って後方へ抜けていった。

 戦意を喪失し、悄然としたポーランド兵の前に、ようやくドイツ歩兵の大軍が姿を現した。しかし、ポーランド兵はもはや、これを迎え撃つ能力も気力も残していなかったのである。

 前線が突破され壊滅した事を知ったポーランド騎兵部隊は、武者震いしてドイツ戦車軍団を迎え撃った。銀色のヘルメットを陽光に輝かせ、長い槍を振りかざす騎兵隊は、ポーランド人の誇りであった。しかし、彼らの勇猛さは、愛する祖国を救う力にはならなかった。雄叫びをあげて突撃した彼らは、戦車部隊に包囲され、たちまち全滅してしまったのである。

 わずか数日で、ポーランド軍は崩れたった。彼らの頼みの綱は、もはや同盟国である英仏のみであった。

 

 

 英仏両国とも、その閣議は大もめにもめた。両国とも戦備不十分であり、あえて火中の栗を拾う勇気が持てなかったのである。現実問題として、ポーランドを救援する準備など皆無であった。これではヒトラーならずとも、英仏の静観を予想したくなろうものである。しかし、議会制民主主義というのは、独裁とは訳が違う。多数決というのは、より多くの人々の民意が反映される。そして、英仏両国ともに、ヒトラーを恐れ憎む人々に事欠かなかったのである。

 9月3日、モーズレーら親独派議員の暗躍もむなしく、イギリスの議会は僅差で対独宣戦布告に踏み切った。フランスも、一日遅れでこれに続いた。

 知らせを受けたヒトラーは、鷹揚に頷いた。しかし、その目は落ち着きを失い、膝はかすかに震えていた。

 「これから、どうなるのだ・・」

 総統の、この不安げな独白を耳に留めた側近は、事態の深刻さを思いやって身震いした。総統の賭は、初めて敗れたのだ。しかも最悪の形で。

 ドイツ参謀本部は、動揺した。

 フランスとの国境は、がら空きだった。あの広い国境を守るのは、老兵ばかりの34個師団と、航空機数十機、戦車はゼロである。ドイツ参謀本部は、ヒトラーの保証した英仏の不干渉を信じ、その全力をポーランドに投入していたため、西部国境は障子紙のような防備の薄さだったのである。対するフランス軍は102個師団と大量の戦車と爆撃機を擁し、イギリス軍も既に3個師団を大陸に派遣していた。

 歴史にイフは禁物だが、このとき英仏軍が全力でドイツ国境に進撃していたら、挟み撃ちとなったドイツ軍は粉砕され、第二次大戦は起こらずに済んだであろう。

 しかし、独仏国境は静穏だった。英仏両軍とも、宣戦布告の後にようやく戦争準備をする体たらくで、とても攻撃どころではなかったのだ。もっとも、この展開はヒトラーの予想通りであったと言える。9月中旬、フランス軍総司令ガムラン元帥は、自軍がドイツ領内に進撃中であるとポーランド大使に声明したが、そのような事実はなかった。ガムランは、同盟反故の汚名を着たくないので嘘をついたのである。

 だが、英独開戦は、一人の女性の運命を大きく変えた。

 ユニティ・ミトフォードは、敬愛する総統と自分を結ぶ赤い糸が、英独和平にのみあると信じていた。ヒトラーの恋人になれない以上、英独和平の架け橋になるしか、総統に役立てることはなかった。そして、その和平が終わりを告げた以上、彼女に出来ることはただ一つしかない。

 その日の午後、25歳のユニティは、ミュンヘンの公園で、自らのこめかみを小型拳銃で撃ち抜いたのである。

 しかし、彼女は一命を取り留めた。半身不随で病院のベッドに横たわる美女を見舞った総統は、彼女を優しく慰め、その身柄をスイス経由でイギリスに送還するよう取りはからったのである。

 「私にかかわる女性は」総統は、病室を出ながら悄然とうなだれた。「どうしてこう死に急ぐのだろうか・・」

 一人の女性の痛ましい事件は、ナチスドイツの行く末を暗示しているかのようだった。

 

 

 だが、戦況はドイツ軍有利のまま進んだ。

 ポーランド軍の生き残りは首都ワルシャワに集結し、必死の防衛戦を戦っていた。彼らの唯一の希望は、英仏の救援である。英仏軍が西側からドイツに乱入してくれれば、ドイツ軍は母国を守るため、ポーランドから撤退せざるを得なくなるだろう。しかし、彼らを襲ったのは、より過酷な運命であった。

 9月17日、東部国境を開いてソ連軍が侵入して来たのである。これは、独ソ不可侵条約に付随する秘密議定書に基づく行動であった。そのことを知らない東部のポーランド軍は、ソ連軍を友軍と思って歓迎し、みすみす捕虜となってしまった。

 こうして、万策は尽きた。

 9月27日、ポーランドは降伏し、その領土はドイツとソ連に東西に分割されたのである。

 ドイツの「特殊部隊」は、ヒトラーの極秘命令を受けてポーランドに現れた。彼らに与えられた任務は、粛正である。ポーランドの知識階級や共産主義者ら約3千名は、ドイツの統治に邪魔だという理由で、容赦なく殺戮された。また、ユダヤ人は根こそぎかき集められ、ゲットーに押し込められ隔離された。また、ドイツからの移民を受け入れるため、何万もの人々が家を追われて凍死したのである。

 同様のことは、ソ連軍も実施した。彼らが処刑した知識人たちの遺体は、1943年に白ロシアのカチンの森で、ドイツ軍によって発見され非難されることになる。しかし、ドイツにはソ連の残虐行為を糾弾する資格はないであろう。

 ポーランドは、こうして消滅した。ヒトラーの任命したフランク総督に統治される植民地となったのである。

 ポーランドを一ヶ月で降した殊勲のドイツ軍は、西部国境に舞い戻り、フランス軍と睨み合った。しかし、西部戦線は依然静穏だ。

 「奴らは、戦争する気がないのだ」ヒトラーは考えた。「ポーランドが滅びた以上、奴らは戦争の理由を無くしている。和平の提案をすれば、乗ってくるかもしれぬ」

 10月6日、ヒトラーは、ラジオで英仏に対して講和条約の開催を提案した。しかし、チェンバレンとダラディエの回答は「否」だった。彼らは、もはやドイツの指導者の言葉を信用していなかったのだ。

 「そうか」総統は呻いた。「そっちがその気なら、とことんやってやる。民族の運命を賭けて、生きるか死ぬかだ」

 しかし、ドイツ軍は全面戦争を戦える状況にはなかった。弾薬の備蓄はポーランド戦で使い尽くしていた。ナチスドイツの戦争準備(四カ年計画)は、1942年を目標に設計されていたので、全ての分野において準備不足が目立っていた。また、同盟国であるはずのイタリアは、依然として傍観者の立場に徹している。普通に考えれば、とてもドイツに勝ち目はなかった。

 だが、総統には秘策があった。

 電撃戦である。

 

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