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長編歴史小説

黄花太平記 第二部

16.尊氏、官軍となる

 しかし、菊池勢には勝利の余韻に浸るゆとりは無かった。新田、北畠勢とともに、男山で頑張る足利方の武田信武を攻囲に向かわねばならなかったのだ。

 しかし、これを追い落とすのに要した一週間で、足利尊氏が息を吹き返してしまった。

 一時は乗馬を捨て、歩卒に混じって山道を逃れた足利兄弟は、一族の上杉氏の所領のある丹波篠山で一族宗徒と合流できたのである。その軍勢はたちまち数千となったが、このままでは降伏者を加えて強大になった官軍とは互角に戦えない。尊氏は全軍で南下し、播磨の赤松円心を頼った。

  敗残の足利勢を暖かく迎えた円心は、尊氏を力強く励ました。

 「勝敗は兵家の常です。これしきのことで挫けてはなりませぬ」

  「だがな、円心どの。我らは賊軍だ。逆賊の汚名を被って永らえた者など、歴史上存在しないであろう。我らも、あの平家や木曽義仲と同じ運命を辿るのではあるまいか」

 存外弱気な尊氏に、円心は鼻白んだ。

  「将軍、あなたは正しいことをなさっているのです。帝の悪政に苦しんでいる人々を救うために、敢えて苦難の道を選んだのではありませんか。きっと、神仏も将軍の心を分かってくれます」

 「・・・我が軍は、官軍の倍近くあった。それがこの惨めな負け振りよ。神仏に見捨てられたとしか思えぬのだ。・・・何度戦っても同じであろう。わしが逆賊であるかぎり」

  「それなら、こちらも官軍になれば良いではありませんか」

 「・・・どういうことだ」うつむいていた尊氏は、怪訝な顔を円心に向けた。

  「都におわす光厳こうごん 上皇は、後醍醐の君に無理やり譲位させられ、帝を恨んでいるとの専らの噂。それで上皇の院宣いんぜん を手に入れることができれば、我が軍も錦の御旗を仰ぐ官軍ということになりましょう」

 「おおっ、それだっ」尊氏は、思わず手を打った。

 目の前の暗雲が晴れ、希望の光が久しぶりに姿を見せた。 尊氏は、さっそく密使を都へと走らせた。

 尊氏は、院宣が来るまでは何としても播磨の防衛線を維持する決意を固めたのである。

※                 ※

 ここで、皇統問題について解説する必要があろう。

  この時代、天皇の血脈は二つに別れて対立していた。大覚寺統だいかくじとう と持明院統じみょういんとう である。

  かつて両者は、どちらが天皇位を継承するかを争っていたが、これを見かねた鎌倉幕府が両統から交替で天皇に就くことに合意を取り付けて一旦解決したのである。

 だが、自尊心の高い大覚寺統の後醍醐天皇はこれに反発した。他人の子を皇太子にしなければならないのは気に入らなかったというわけ。実を言うと、天皇の倒幕計画は、この皇統問題の武力解決の意味も込められていたのである。しかし、天皇の計画は持明院統の密告のために発覚し、破れかぶれに蜂起した天皇は、隠岐に島流しの憂き目にあった。そして、この時皇位を継いだのが、持明院統の光厳天皇であった。これは持明院統の会心の勝利であった。

 ところが、それからわずか二年で鎌倉幕府は滅亡し、後醍醐天皇は都に帰り、光厳天皇の位を剥奪して復位した。

 以後の経過については、読者のご存じのとおりである。持明院統の無念は言うまでもない。

  足利尊氏は、この情勢を利用しようと考えたのだ。つまり、これまでの官軍と賊軍の戦いを、大覚寺統と持明院統、すなわち皇室同士の争いに転化しようと考えたのだ。

 南北朝の暗黒の歴史の萌芽は、こうして蒔かれようとしていた。

※                 ※

 足利尊氏は、籠城を勧める赤松円心の誘いを断り、積極攻勢をとることに決めた。天下の将軍が城に籠もったとの噂が、味方の士気に与える悪影響を心配したのである。

 それに、続々と駆けつけて来る中国筋の豪族の援軍に、気を良くした結果でもあった。特に、周防の大内長弘と長門の厚東ことう 武実たけざね の来援は頼もしかった。

 こうして、再び二万を越える大軍の大将となった足利尊氏は、弟の率いる主力を、京奪奪回のために摂津の打出浜うちでがはま にまで進出させてきた。これを迎え撃ったのは、楠木正成の数千の兵であった。時に二月十日。

  「楠木め、今度はどんな謀略を企んでいるのだ」陣頭で指揮する足利直義は、警戒して力攻めを避けた。しかし、これこそ正成の思う壷だったのである。

 「左馬頭、出てきよらへんな。この正成が、官軍主力が駆けつけるまでの繋ぎの兵と言うことが分からへんのんか」正成は覇気の乏しい足利軍を嘲笑した。

 新田義貞、北畠顕家、菊池武重ら、官軍の主力が参陣したのは、この翌日であった。豊島てしま 河原かわら で大会戦となる。新田勢では、伊予から来援した土居道増、得能道綱の新手の活躍が目立った。

 「土居どのや得能どのに負けるな。今度こそ逆賊尊氏の首を取れっ」菊池武重の号令一下、千本槍隊も獅子奮迅の大活躍。

  「いかん、いったん退けい」

 支え切れずに播磨方面へと逃げる足利勢。 後陣の尊氏が合流して督戦したが、逃げ腰の味方の戦局を立て直すことは困難だった。

  「そういえば、楠木は何処だ。今日は菊水の旗を見ていないが・・・」 戦埃の中で首をかしげた足利兄弟は、やがて恐るべきことに気づいた。

 「いかんっ、後方はガラ開きだ。楠木め、まさか背後を」

 この予感は的中した。前日のうちに新田、北畠勢から離脱していた楠木隊は、密かに播磨の山地に潜伏して戦機を待っていたのだ。そして今、尊氏の本隊が摂津へと進撃した瞬間をねらって、一気にその背後に押し出したのである。

  「そ、そんなばかなっ」潰走する全軍の中で、足利尊氏は絶句した。

 これは完膚無きまでの大敗北であった。もはや態勢の挽回は不可能であった。

 やがて、敵の重囲を辛うじて突破して兵庫の魚御堂うおみどう に集まった足利一族は、泥まみれの顔を見交わして慨嘆していた。こうしている間にも、官軍は迫って来る。

 「ここまでだ。首をはねられるのを待つより、潔く腹を切ろうぞ」総大将の尊氏が、ぽつりと言った。「やはり、逆賊には勝利は無いことが分かった」

  「何を言う、兄上」「将軍、諦めるのは早すぎますぞ」直義や高師直が、口々に将軍を励ました。

 しかし、尊氏の顔は沈んだままである。

  「将軍、ここは運試しで、筑紫にまで落ちのびてはいかがでしょう」発言したのは、大内長弘であった。「大宰府では、少弐一族が将軍のために兵を募っております。彼らの力を借りれば、再起は可能ですぞ」

  「そうじゃ、我が島津一族も将軍の味方ですたい。大友氏泰も同じ気持ちのはず。筑紫の御三家が力を合わせれば、新田も北畠も敵ではなかと」島津貞久も大内に同意した。

  「よい考えです。将軍が筑紫に行っている間に、光厳院との連絡も取れるでしょう。・・・・なあに、例え官軍が追って来たとしても、この円心の目の黒いうちは、決して播磨から先へは行かせませんぞ」円心も胸をはる。

  尊氏は、豪族たちの発言を聞いてやっと愁眉を開いた。

 「よしっ、筑紫に行こう。筑紫で、再び京に攻めのぼる力を養おう」

 二月十二日、足利勢は猛攻を仕掛ける官軍を振り切りながら、大内や厚東氏の軍船に乗って瀬戸内海へと漕ぎ出した。

 だが、戦いながらの脱出は困難を極め、多くの兵が陸に取り残された。なんとか船端まで泳ぎついた者も、定員一杯の場合は容赦なく海に突き落とされたり、手首を切り落とされたといわれる。

 この時、兵庫で官軍の得た捕虜は一万に達した。その中には、佐々木道誉や宇都宮公綱の姿もあった。彼らは、これまで持っていた足利の二両引きの旗の真ん中を墨で黒く塗り潰し、新田の大中黒の旗に仕立て直して降参したという。

  この大勝利に、新田義貞も北畠顕家も手を打って喜んだ。菊池武重も、はるか彼方を無様に逃げ行く足利の船団を、拳を振り上げて罵倒した。

  「どこへ行くのだ逆賊。蒙古にでも亡命するつもりかっ。がっははは」 だが楠木正成は、一人で深刻な表情であった。

  「いかぬ。尊氏を取り逃がしたっ。奴の首を取らないかぎり、戦はまだまだ続くぞ」

※               ※

 都の後醍醐天皇は、兵庫での大勝利の知らせにご満悦であった。

 天皇は自信が強い人柄で、状況を甘く見過ぎる傾向があったが、この時もそうだった。兵庫の全軍を都に呼び戻し、祝宴を執り行うことにしたのである。

  「見てみい、あの大将はんを」 「あれが新田義貞はんや、足利尊氏を都から追い落としたお人やで」 「降参人を一万人も連れてるとさ。凄いもんや」

 京童たちは拍手喝采で、凱旋して来た官軍を迎えた。彼らの称賛は新田義貞に集まり、義貞こそ足利を打ち滅ぼした名将であると褒めたたえ、例の降参人の笠印に手を打って笑い、五条の辻に落書を貼り出した。

 二筋の中の白みを塗り隠し にたにた(新田新田)しげな笠印かな

 新田義貞は得意の絶頂であった。ついに足利に勝った。源氏の頭領の威信は、とうとう新田氏に戻って来たのである。この喜びをいつまでも噛みしめていたかった。

 北畠顕家も喜びの絶頂にあった。苦労して、遥か陸奥から東海道を驀進してきた甲斐があったというものだ。なによりも、敬愛する帝をお守りできたことが、ただひたすらに嬉しかった。

 花山院亭に仮御所を定めた後醍醐天皇は、さっそくこの二人を召し、自ら労いの言葉をかけると、昇進のことを取り計らった。

 この結果、新田義貞は左近衛さこのえの 中将ちゅうじょう に、北畠顕家は鎮守府大将軍となり、他の官軍側の豪族たちにも多くの所領が与えられた。

 その所領の出所は、もちろん足利氏の荘園である。天皇にとっては、もはや尊氏など死んだも同然の存在であったのだ。

※                 ※

 しかし、足利尊氏は不死鳥のように息を吹き返そうとしていた。

  彼は、播磨の室津むろつ の港にいったん上陸すると、陸路を逃げて来た一族たちと合流し、彼らを押さえとして各地に配備し、再び船の人となった。

 官軍が京で浮かれているとは知らない尊氏は、幻の追手を恐れ、中国道の防備のために兵を次々に配備したので、その手勢は減る一方であった。

 こうして、艱難の末に備後鞆の津(広島県)までたどり着いた尊氏は、二月十四日、ついに待望の物を手に入れることができた。 光厳上皇の院宣である。

  密かに京に潜入した尊氏の使者は、苦難の末に光厳院との接触に成功し、ついに上皇の 使者、三宝院さんぼういん 賢俊けんしゅん とともに備後に到着したのであった。

 「おおおっ、有り難い。新田義貞以下の凶徒を討伐せよとの詔じゃ。これで我らは官軍じゃ。官軍じゃ官軍じゃあ官軍官軍じゃあ」狂ったように踊り騒ぐ尊氏。

 もちろん足利直義も大いに喜んだが、浮かれ騒ぐだけの兄たちを尻目に、さっそく足利幕府の基本政策を作成し発表した。その内容は、後醍醐天皇が行った政策を全て無効とし、鎌倉幕府滅亡前の法律関係を復活させるというもの。院宣が、この綱領に現実性を裏付けたことは言うまでもない。

 この結果、建武政権に不満を持つ武士たちの心は、はっきりと尊氏に傾いたのである。

 しかしこの政策は、建武政権によって栄進した武士たちを追い詰めることになる。彼らは、自らの既得権益を守るために、足利幕府を終生の敵とする立場に追いやられたのである。

 これ以後、新田、楠木、名和氏はもちろん、菊池一族も皆、後醍醐天皇の建武政権を守るために死ぬまで戦う運命となるのだ。

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