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長編歴史小説

昭烈三国志

6.出奔

 

 幽州刺史の劉虞は、人望の厚い名君であった。

 彼は漢王朝の連枝であるが、租税を軽減し、治安を強化するなど民政に尽力したので、多くの民が彼に心を寄せていたのである。

 劉備たちが到着したときも、仁君は多忙にもかかわらず直接引見してくれた。

 「良く来てくれました」丸い顔を人懐こい笑顔で一杯にして、刺史は上座から語った。「貴君の勇名は、かねてより聞いていますよ」

 「ありがたいお言葉」劉備は、平伏したまま応えた。「これなる臣、劉備。刺史さまの下で武勲を立て、必ずや宗賊を討滅し、社稷の安寧をはかりたいと願わんばかり」

 「心強い言葉です」劉虞は、大きく頷いた。「伝聞によれば、貴君は盧植どのの私塾におられたとか。盧植どのは、先ごろ北中郎将に任命され、左中郎将の皇甫嵩どの、右中郎将の朱儁どのとともに、黄賊討伐の総大将になられたそうですよ。貴君の噂を戦場で知れば、さぞかしお喜びになられるでしょう」

 盧植の任用は初耳だったので、劉備は思わず顔を上げた。

 劉虞は、上座から歩み寄って劉備を立たせ、優しい眼で見つめてその手を取った。そして、その大きな背中を静かに撫でた。

 劉備は、後年になっても、この時の幽州刺史の情けを忘れることができなかった。劉虞は、彼にとって理想の為政者として在り続ける。

 その翌日から、劉備たちは校尉の鄒靖の幕下に入り、黄巾賊との戦いに参加したのだが、すでに四年前から山賊や無頼漢たちとの抗争に明け暮れている劉備たちの戦力は、戦慣れしていない大多数の官軍兵士よりも優秀だった。

 初陣は、敵将・程遠志の立て篭もる砦への急襲であった。鄒靖軍総勢二千のうち、劉備の直卒は三百である。志願して先陣を請け負った彼らは、最初の野戦で敵将・程遠志を討ち取った。張飛の豪腕から繰り出される鉄棒の一撃が、敵将の兜と脳漿を飛散させたのである。黄巾軍は、その実態が農民の寄せ集めだったため、指揮官を失えばたちまち烏合の衆となった。劉備たちは追撃の手を緩めず、その勢いで砦を乗り取ったのである。

 劉備は、雌雄一対と名づけた二刀流で、自ら陣頭に立って敵と斬り結んだ。家族を殺された恨みのこもった剣は、しばしば黄巾軍の宗教的情熱を凌駕し、彼らの抵抗を撃砕したのだ。義弟の関羽と張飛も、それぞれ青龍刀と棒術で義兄の両脇を守った。簡雍は、残りの無頼漢たちをうまく纏め、戦局に応じて臨機に兵を投入した。

 こうして、連戦連勝を重ねる劉備たちの武名は、河北に轟いたのである。

 劉備の義兄、公孫瓉は、しかし黄巾賊討伐どころではなかった。中華の混乱を見て侵入を始めた烏丸族との交戦に忙殺されていたのである。しかし、彼の率いる白馬軍団は、常に優勢に戦いを進めたので、「白馬長史」公孫瓉の威名は漠北にまで轟いたのである。

 二人の愛弟子が獅子奮迅の活躍をしているころ、盧植の率いる正規軍も健闘を重ねていた。鉅鹿を基地とする黄巾軍主力を痛破し、張角率いるこの敵を広宗に追い出し、さらに広宗城の包囲に成功したのである。清流の士大夫として名高い盧植は、軍司令官としても優秀だったのだ。

 盧植の同僚、皇甫嵩と朱儁も戦局を有利に進め、八月には河南の大部分を平定し、波才や張曼成といった敵の勇将を討ち取ったのである。

 やはり、準備不足で挙兵した農民軍は弱かった。官軍の態勢が整わぬ緒戦こそ強かったが、長期戦になれば、やはり戦争のプロに適わなかったのだ。黄巾軍にとって誤算だったのは、時が経つにつれ、地方の農民や侠客の多くが、官軍支援に回ったことであろう。劉備たちが予見したように、新興宗教の反乱は、全国規模の衆望を集めるには至らなかったのである。

 むしろ、黄巾軍を早期壊滅から救ったのは、漢帝国のお家の事情であった。

 七月、北中郎将の盧植は、敵前で解任された。彼は、広宗城総攻撃の準備中に、朝廷の視察を受けたのだが、特使の左豊が要求する賄賂を渡さなかったため、あらぬ讒言を受けて職を解かれたのだ。彼の後任、東中郎将・董卓は、騎馬戦の名手だったが、城攻めは苦手で敵の本拠を攻め倦んだため、十月まで広宗は持ちこたえた。

 こうして大賢良師は、城内で天寿をまっとうすることができたのである。

 皇甫嵩の増援を得て官軍が広宗を攻め落としたとき、敵の総帥張角は、既に墓の中にいた。皇甫嵩は墓を暴き、張角の死体をさらしものにし、同時に、降伏した幹部は全て処刑した。十一月には、地公将軍・張宝率いる十万が下曲陽で全滅し、こうして河北と河南の黄巾軍主力は消滅したのである。

 しかし、太平道信者の大多数は、青州と并州と豫州に逃れて雌伏した。彼らの勢力は強く、戦意もまた高かった。しかし、中央政府は張角の死をもって反乱は終結したとの公式見解を出して、お茶を濁したのである。

 そして戦後も、事態の抜本的改善は図られなかった。民衆の困窮に対しては、何の手当てもなされなかった。それどころか、皇帝は洛陽に大規模な宮殿を造営するため、かえって税を重くして民の怨嗟を誘ったのである。

 

 ともかく戦は終わった。軍隊の戦時編成は解かれ、義勇軍も解散となった。

 劉備玄徳は、戦功によって冀州中山郡安喜県の尉(県令の補佐役)に任命された。

 百人程度の義勇兵の隊長に対する手当てとしては、妥当だったと言えなくもない。だが、本人は不満だった。

 「俺は、こんな小役人になるために、命を削ったわけじゃねえ」

 彼の脳裏には、応援してくれた張世平や蘇双(彼らは戦後、行方不明となっていた)、亡骸すら残らなかった母や元起に徳然を始めとする故郷の恩人たち、そして乱世の英雄となるよう励ましてくれた盧植先生、いや何よりも、自分を信じて命をかけてくれた仲間たちの姿が浮かんだ。彼らに報いるには、この恩賞はあまりにも少なすぎる。

 「こんなことなら、机に座って儒の勉学をしているほうがましだった。こんなはずじゃあなかった」

 命懸けの奮闘の成果より、儒学の成績が評価されるこの世相が納得できなかったのだ。

 恩師の盧植が、冤罪に陥って檻車で洛陽に送還されたとの噂も、彼の心を暗くした。

 「すぐに釈放されたとはいえ、あれほどの愛国者を宦官の讒言で獄に繋ぐとは、この国の偉い連中はイカれてる。高祖さまなら、そんな愚かな選択はなされなかっただろう。今の皇帝は、偉大な先祖の名を汚す者だ。いっそのこと、俺が取って代わってやろうか」

 酒におぼれて眼を赤くしている劉備の部屋に、簡雍が入ってきた。

 「劉さん、たいへんだ。郡から督郵(監査官)が来るらしい」

 「何しに来るんだ」

 「決まっているだろう。劉さんが、きちんと仕事してるか見に来るんだよ」

 このころ政府は、国家が財政難に陥っている理由を、義勇兵に恩賞を与えすぎたためだと考えて、働きの悪いものを次々に免職処分にする政策を展開していたのである。

 「勝手にさせとけ。俺は知らん」劉備は、そう呟くと机に突っ伏した。

 ところが督郵は、官舎に到着しても仕事をしようとしなかった。県令に命じて酒と美女を用意させると、ひたすら宴会に明け暮れていた。

 劉備は、表向きは剛毅に見せていても、実際は不安な気持ちでいたので、こんな督郵の態度が気味悪かった。会いに行かなければリストラされるのではないのか。焦った彼は、何度も県庁舎に足を運んで督郵に面会を求めたが、その度に断られた。今、忙しいというのだ。

 「別に、いいじゃないですか。首になったって」関羽は、笑顔で言う。

 「そうとも、また用心棒を始めようぜ。給金だって、今よりずっとましだろう」張飛も虎髯を捻る。

 二人の言葉で、劉備は吹っ切れた。

 「それもそうだ」強く頷く。「また、一から出直そう」

 こうして劉備は、県尉の印綬を持って庁舎に出かけた。県令と督郵の前で辞職を申し出るつもりだったのだ。

 しかし、県令も督郵も、劉備に会おうとしなかった。従者いわく、会議中とのこと。

 「会議中でも構わぬ。通らせてもらうぞ」

 固い決意の劉備は、止めに入る従者たちを跳ね除けながら庁舎の奥へと進んだ。楽曲に混じって嬌声が聞こえてくる。これが会議なのか。扉を押し開けた彼の前に展開していたのは、まさしく酒池肉林の世界だった。広間の真中に寝そべる県令と督郵は、身に一枚の布もまとっていない。その周囲に侍る女たち、楽曲を奏でる女たちも柔肌を惜しみなくさらしている。空になった酒肴の器がそこかしこに散らばり、酒の臭いが鼻腔を強く打つ。

 寝そべった二人も、扉の前に立つ男も、しばし呆然としていた。やがて響く女たちの悲鳴に、県令は我に返った。

 「き、きさま、無礼者」前を隠しながら叫ぶ痩せた県令の声は、鳥のさえずりのようにやかましい。「督郵どの、こいつが、成り上がりものの県尉・劉備です」

 「いい度胸だ」督郵は、でっぷり太った大男だった。開き直って、胡座を組む。「何か土産でも持ってきたのか」

 「土産といいますと」氷のような冷たい声で、劉備は聞き返す。

 「千金といいたいところだが、無茶は言わん。酒と女でいい」

 無言でこちらを睨む劉備に、督郵は生あくびで応えた。

 「なんだ、お前。手ぶらなのか。税の取立てを怠けているという噂は、本当のようだな。ならば、今日から出仕には及ばん。どこへなりとも去るが良いぞ」

 「仕事はきちんとしています」劉備は、納得できずに叫んだ。「病人や怪我人からの取立てを待ってあげているだけです。だいたい、税が重過ぎます。そうは思いませんか」

 「お上に対する暴言か」督郵はせせら笑った。「民は、我々によって生かされているのだ。ちょっとくらい税が重くても、そんなのは当たり前だ」

 「なんだと・・・・」

 劉備の脳裏には、皸だらけの手をした母とともに、市場で筵を売っていた少年時代が思い出された。どんなに頑張っても、上がりの殆どが税金として持っていかれた。威張り腐る役人たちは、やっとの思いで稼いだ金を、自分の楽しみのために奪い取ったのだ。俺の少年時代は、こいつらのために踏み潰されたのだ。

 彼の心に燻っていた暗い怒りの炎は、燃え上がる恰好の口実を与えられた。

 体が勝手に動き、意志の力で止めることができない。いつのまにか、督郵の首根っこを掴んで屋外に引きずり出していた。止めに入った役人どもは、片端から殴り飛ばされて地面にのたうっている。県令は、鳥のような悲鳴をあげながら、遠くで何か叫んでいる。

 「俺は犯罪者になるのだな」心の一部で冷静に考えていた。「まあ、それも良かろう。こんな腐った世界で正直に生きるほうがどうかしている」

 督郵の腕を右手で掴んで、その大きな裸体を地面に引きずったまま歩き、いつのまにか県境にまで来ていた。自由な左手を見ると、いつのまにか鞭を握っている。後ろを振り返ると、服を着た県令や役人たちをはじめ、野次馬の群集が遠巻きにしてぞろぞろ付いてきている。関羽と張飛の姿もあった。二人は、三頭の馬を引いている。

 「止めるなよ」劉備は、義弟たちを鋭く見た。

 二人は、無言で頷く。以心伝心で、長兄の心持ちを察したのだ。

 県境の道標が刻まれている大きな柳の木に、怯える督郵の体は縛り付けられた。

 「搾取された人民の恨み、思い知れ」

 劉備の鞭は唸りを上げて、肥満体に吸い込まれていく。きれぎれの悲鳴と哀願の声は、しかし怒りに燃える暴力者の耳には入らない。

 野次馬たちは大喜びだ。

 「もっと、やれい」「世直しだ」

 熱心に声援を送る人々は、止めに入ろうとする県令や警備兵たちを押さえつけ、身動きできなくした。かろうじて群集を突破した兵も、待ち構えていた関羽と張飛に殴り倒された。

 二百丈は打たれたか。全身みみず腫れで、息も絶え絶えの督郵の首に、劉備は県尉の印綬を架けた。

 「あばよ」

 涙でくしゃくしゃの横面に唾を吐きかけた劉備は、関羽の連れてきた馬に乗って、義弟たちとともに県境を越えた。

 「お、おのれ。おのれ」残された県令は、民衆に押さえつけられたまま地団駄踏んでうめき、惨めに緊縛された督郵は、少女のようにすすり泣いたが、これらの声は大勢の歓呼に掻き消された。

 この事件で、侠客としての劉備の名はさらに高まったのである。

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