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長編歴史小説

昭烈三国志

10.逃避行

 

 劉備たちは、ともかく新任地に赴任した。

 劉備は、前の仕事で培ったノウハウを生かし、民生に力を注いだので、大いに治績が上がった。そのため済南国相の推挙を受けて、ほどなく県令に昇進したのである。

 「よしよし」新任の高唐県令は、勇み立った。「これで、思い通りにこの県を統治できるぞ。笑顔が絶えない素晴らしい地に変えてみせるぞ」

 しかし、この熱意は、冷水を浴びせられる運命にあった。

 漢帝国の混乱を見澄まして、青州に雌伏していた黄巾党が動き始めたのである。

 物見の報告を聞いて政庁を飛び出した劉備は、義弟たちとともに、県境の丘の上まで馬を飛ばした。

 「こ、これは・・・」

 一面の人の海だった。地平の果てまで、黄色い頭巾を被った人で埋まっている。そこかしこで燃える炎は、略奪を受けて焼き討ちされた家なのだろう。そして黄色い洪水は、間違いなくこちらに近づいている。

 「どうする」張飛が、口をあんぐりと開けて問うた。

 「どうしようもないだろう」関羽が、口調だけは冷静に保ちながら、不安げな眼を彷徨わせた。

 「急いで帰ろう。住民を避難させよう。それから逃げよう」劉備は、ようやく口を開いた。

 「ど、どこへ?」

 「どこでもいい。黄巾が来ないところへだ」

 住民を広場に集めた三兄弟は、彼らを導いて北へ逃げることにした。高唐のすぐ北には黄河が広がる。黄巾が、わざわざ黄河を渡って追ってくるとは思えなかったからだ。

 家財道具を纏めた住民たちの歩みは遅かった。親は小さな子の手を引き、壮年は老人の手を引いて行く。農家の者は、牛や馬まで引き連れて行こうとした。その総勢、三千人。

 「追いつかれねえかなあ」殿に立つ張飛が、南の空を見つめる。

 「当分、大丈夫そうだ。黄ネズミども、足が遅いようだ」関羽が呟く。

 「地平を埋め尽くす人数だ。おそらく戦闘員だけじゃなく、その家族もいるんだろう。足が遅いわけだよ」劉備の分析は冷静だ。

 「まさしく、ネズミの大移動だな」簡雍も感想を漏らす。

 地を這うような歩みの一行は、やがて黄河の渡しに辿り着いた。ここまで来れば大丈夫かと思いきや、南の丘の上を、大軍がこちらに行進して来るのが見えた。

 「奴ら、どうして追って来るんだよ」

 「たまたま、奴らの進路に当たっちまったって事だろう」

 「ああっ、相変わらず運が悪いよ、俺たちゃあ」

 パニックに陥る群集を宥めながら、劉備たちは渡し舟へと彼らを導いた。黄巾軍の先鋒が河べりに姿を現したのは、最後の船が渡し場を離れた直後だった。

 「ザマを見ろ、奴らが使える船は、もう残ってないぞ」張飛は、赤い舌を出した。

 「安心するのは早いみたいだ」関羽は、河沿いの潅木を指さした。

 いつのまにか、黄色い頭巾の若者たちが斧を振りながら作業をしている。筏を作ろうとしているに違いない。

 「マジかよ、奴ら、河を渡るつもりなのかよ。なんでだ」張飛は、大きな右手でその髯面を覆った。

 「想像するに、食料が無くなったので、肥沃な河北地方に移住しようとしてるんじゃあるまいか」劉備が、またもや冷静な感想を言う。

 「それじゃあ、まるっきりネズミですな」簡雍が、肩を竦めた。

 「よし、河を渡ったら、なるべく貧しい地方へ進路を取ろう。そうすれば、もはや黄巾は追ってこないだろう」劉備は、とりあえず胸を張る。

 「でもよう、そしたら、俺たちの連れている人たちは、これからどうやって食っていくんだ」張飛が、珍しく高い見識を示した。

 「・・・ううん、そこまでは考えなかったな」

 そうこうしているうちに、ようやく劉備たちを乗せた最後の船が河を渡り切った。先発した群集は、みな対岸で待っている。あたかも、親を慕う子のような有様だ。

 「ここは冀州の勃海郡だ。太守は誰だっけ」劉備が左右を見る。

 「ちょっと前までは袁紹だったが、今は分かりません」と、関羽。

 「最近は、役職がコロコロ代わるからな。もしかして、強い軍隊を持った人格者が太守を務めている可能性もある。郡の政庁のある南皮まで行けば、保護してもらえるかもしれぬ。南皮を目指そう」

 ようやく方針が決まったものの、隊伍を整えるのにひどく時間がかかる。たちまち、夜のとばりが降りてきた。

 「出発は無理だ。夜営しよう」

 元の県令のお達しで、疲労困憊した群集は、筵を敷いて横になる。

 恐怖で寝付けない人々の溜息を聞きながら、劉備は木のたもとに寝転んで、星空を見上げていた。

 「こんな生活が、英雄のすることなのだろうか。盧植先生の言われた、乱世の英雄の仕事なのだろうか」考えても、答えは見つからなかった。

 翌朝、熟睡していた劉備は、群集のどよめきで目を覚ました。

 「どうした」通りかかった老人に尋ねる。

 「あ、あれを」老人は、震える指で河面を指した。

 驚いた。対岸が見えないくらい広い黄河を、筏が埋めている。いや、良く見ると流木が混じっているから大したことはないか・・・。などと言っている場合ではない。思いのほか早く、黄巾の大軍が攻めてきたのだ。

 「徹夜で筏を組んだのかなあ。よっぽど急いでるんだね。ハラペコが一刻を争うのかな」簡雍は、軽口を言いながらも、群集整理のための仕事は休んでいない。

 だが、群集の一部は既にパニックに陥り、我れ先にと北へ走り出していた。

 「水際で迎え撃つぞ」劉備は、覚悟を決めた。「少しでも時間を稼ぐんだ」

 「味方の兵士は五十三人。一刻は持たねえかな」張飛は、溜息をついた。

 「一人でも多くの民を救うのだ。それが侠の道ぞ」関羽が唇を噛み締める。

 「ああ、分かっているよ、兄貴」張飛は、蛇棒を頭上で振り回した。

 だが、天は彼らを見捨てなかった。

 北へ逃げた群衆から、大歓声が上がった。驚いて振り向いた劉備たちの目に映ったのは、砂埃を盛大に上げながら近づく騎馬部隊だった。

 北方から救援の軍勢が現れたのである。急を知って駆けつけた勃海郡の兵だろう。後方には歩兵の大軍も見える。

 「ここは、お任せあれ」先頭に立つ若い武将が、声を限りに劉備に叫ぶ。

 「おお、助かりましたぞ」劉備も大声で応える。

 黄巾の先鋒は、ようやく上陸を終えて筏を繋留しているところだった。彼らは、隊伍を整える余裕もなく、北方の騎馬部隊の突入を受けたのである。

 「我こそは」騎馬部隊を率いる武将が叫んだ。「常山の趙雲、字は子龍なり。我と思う者はかかってまいられい」

 黄巾の屈強な戦士三人が、長刀を振りかざして迎え撃ったが、たちまち趙雲と名乗る若者の繰り出す戟の餌食となって倒れ付した。

 「おお、あいつ強いぞ」

 「凄い戟さばきだな」

 「俺たちも負けるな」

 劉、関、張も、それぞれ得物を頭上に掲げて河べりへと走った。豪傑たちの活躍で、黄色い人の群れは、たちまち呼吸しない黄色い物体へと化していく。

 陣形を立てるまもなく襲撃された黄巾軍は、圧倒的に劣勢だったが、何しろ数が多い。倒しても倒しても、後から後から上陸してくる。数刻の激闘の後、味方の弓矢は打ち尽くされ、兵は疲労困憊した。

 「もういいよ」劉備は、趙雲の馬の轡を取った。「お陰で、うちの民は、みんな無事に逃げられた。ここは引き上げよう」

 「そうですな」趙雲は、馬上で白い歯を見せた。「そろそろ本隊も到着するころですし」

 「本隊?まだ仲間がいるの」

 「この軍勢は、勃海太守・公孫範どのの主力です。これから、中郎将兼遼西太守・公孫瓉どのの軍勢と合流する予定なのです」

 「なんだって」劉備は飛び上がった。「伯珪どのが来ているのか」

 「うちの殿をご存知なのですか」趙雲の大きな眼が、さらに大きくなった。

 その夕刻、南皮郊外で、劉備は懐かしい姿と巡り合った。

 「玄徳」

 「伯珪兄貴」

 二つの影は、陣幕の中で抱擁を交わした。

 「久しぶりだなあ、玄徳。噂は聞いていたけれど。その大きな耳、懐かしいなあ」

 「兄貴こそ、すっかり日焼けしてますます強そうだ。それにしても、どうして兄貴の軍勢が冀州の南まで出張してきたんだ。持ち場が違うじゃないか。烏丸は、こっちには攻めてこないよ」

 「烏丸とは和睦中だ。今は、それどころじゃない。お前、何も知らないんだな」

 「ああ、田舎に引っ込んでたからな」

 その夜、南皮城内で盛大な酒宴が開かれた。劉備が連れてきた高唐の民は、無事に城内に収容されて生色を取り戻していたので、劉備たちは心置きなく酔うことができたのである。

 劉備は公孫瓉と杯を交わし、一瞥以来の四方山を語り合った。また、公孫瓉は、反董連合軍解散後の複雑な政治情勢についても教えてくれたのである。

 それによると。

 連合軍の盟主・袁紹は、冀州牧・韓馥と共謀し、新たな皇帝を擁立しようと企んだ。白羽の矢が立ったのは、仁徳者として有名な幽州牧・劉虞である。しかしこの計画は、有力諸侯の反対を受けた。反対派の代表は、袁紹の腹違いの弟・袁術である。袁術は、あくまでも董卓によって長安に拉致された献帝・劉協の救出を主張したのである。一見すると、堂々たる正論にも思える。だが、実情はもっと複雑であった。

 袁術公路は、もともと兄の袁紹が嫌いであった。袁術は、身分や家柄を何よりも重んじる人物だった。そして袁紹の生母の身分は、袁術の母よりも低かった。それゆえ、卑しい兄が、自分を差し置いて名門・袁家の嫡流と見なされ、また同盟軍の盟主となったことが気に入らなかったのである。

 袁家は、四代にわたって五人の三公(中央政府の最高政務官)を輩出した、漢王朝きっての名門である。その正嫡が、袁紹と袁術の二人であった。当然、乱世においても人望はこの二人に集中する。もしもこの二人が手を取り合えば、この戦乱にもっと早く終止符が打てたことだろう。しかし、事実は互いに党派を組んで対立したのである。

 ところで、袁紹の計画は、皇帝候補・劉虞の拒否によって挫折した。人格者の劉虞は、そのような大逆非道を犯すくらいなら、万里の長城を越えて蛮族に成り下がるとまで主張したのである。

 こうなると、袁紹と韓馥の仲も悪くなる。もともと、勃海太守に過ぎない袁紹は、漢の制度上は冀州牧・韓馥の配下に当たる。韓馥は傲慢な人物であったから、臣下の袁紹に指図されることが気に入らなかった。袁紹も、己の勢力拡大には、韓馥が邪魔だと考えていた。これまでは、たまたま利害が一致したから協力関係にあったのだ。

 先に動いたのは袁紹だった。彼は、幽州の公孫瓉を誘い、冀州の分割を持ちかけたのである。韓馥は、驚き恐れた。そして袁紹は、そんな彼を脅迫した。今、この私に地位を引き渡せば、命だけは助かるだろうと。韓馥は、この脅迫に屈し、袁紹は冀州牧の地位を手に入れたのである。これが、袁紹の覇業の事始めであった。時に、初平二年(一九一)七月の出来事であった。

 さて、まんまと出汁に使われた公孫瓉は、袁紹に不信感を抱いた。彼は、冀州北部に二万の兵で侵入し、袁紹の出方を伺った。だが袁紹は、この段階では彼と争いたくなかったので、懐柔策を講じた。たまたま冀州で、公孫瓉の甥(公孫範)が役人をしていたので、彼を勃海太守に任命し、さっそく任地に派遣したのである。公孫瓉は、この処置を大いに喜び、甥に合流するため南皮にやってきたという次第。ここに公孫瓉の勢力は、幽州東部、冀州北部と東部、そして劉備の亡命を受け入れたことで、青州北部にまで及ぶこととなったのである。

 「本初も、案外と気前がよい」公孫瓉は、杯を干す。

 「韓馥どのは、その後どうなされた」劉備も、負けじと飲む。

 「張邈のところに居候になったが、先ごろ急死したらしいよ」

 「きっと、袁紹に暗殺されたのだ」

 「・・・そうかなあ」

 「油断は大敵です、兄貴」

 「ふふふ、お前、大人になったなあ」公孫瓉は、義弟の頭を嬉しそうに掴んだ。

 さて、その翌日、黄河の北岸に陣取る黄巾軍との決戦の火蓋が切られた。

 昨日と違い、整然と隊伍を整えた黄色い大軍は、底知れぬ戦力を擁しているかに思われた。その数は、少なく見積もっても十万はいるだろう。対する公孫瓉軍は、わずかに三万である。

 二日酔い気味の劉備は、朝から水をガブガブと飲んで気合を入れた。関羽と張飛も、眠そうな目をこすっている。

 「こんなことなら、伯珪兄貴の言葉に甘えて、後方待機してるべきだったかな」

 「兄者、そんなに飲んでばかりじゃ、戦場で垂れ流すぞ」関羽が口を尖らせる。

 「ふふん、ネズミどもに引っかけてくれるわ。いい厄よけになるだろう」

 「酒くさいネズミになるんじゃないの」簡雍が軽口を叩く。

 その直後、白馬に乗った公孫瓉の号令とともに、戦いは始まった。

 黄巾軍は、数こそ多いが、みな腹を減らした歩卒である。対する公孫瓉軍は、二日酔いではあっても、歴戦の勇者を集めた騎馬隊が主力である。特に、戦い半ばで投入された『白馬義従』は強力だった。白馬のみで構成された一千騎が、猛烈極まりない突撃で、敵の中央に楔を打ち込んだのだ。

 こうして、わずか数刻の戦いの後、黄巾の抵抗は崩れた。生き残りは筏に乗って黄河南岸へと逃れたが、遺棄死体三万、捕虜五万という惨憺たる敗北である。

 公孫瓉軍の凱歌が、晴れた青空に響き渡った。

 「やれやれ、きっとまた今夜も酒宴だぜ」劉備は、血で汚れた雌雄一対を、黄河のせせらぎで洗いながらぼやいた。「もう飲めねえ」

 「しかし、兄者の師兄は強いですな」関羽は、河岸に寝そべりながら言った。「今の中華で、これだけ強力な騎馬隊を持っている豪族は、ざらにはいませんぞ」

 「これなら、董卓にも勝てるんじゃないか」張飛が、胸の汗を拭きながら応える。「このまま長安まで進むってえのはどうだ。袁紹だって支援してくれるんだろう」

 「うん、それはいい。伯珪兄貴に進言してみるよ」劉備は微笑んだ。「お前、最近まともな発言が多くなったなあ」

 「ちぇ、やっぱり俺は、そういう風にしか見られないのか」張飛は、はにかみながら河面に唾を吐いた。

 しかし、この夢はご破算になった。

 その夜、早馬が凶報をもたらしたのである。

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