歴史小説家 三浦伸昭の歴史ぱびりよん

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長編歴史小説

ボヘミア物語

第六章 怪人修道士は語る

 

   「私の名を知っているのか」初老の男は、含み笑いを浮かべた。「さすがはプラハ大学のホープだ。・・・おおかた、フス師から聞いたのだろうね」

  修道士は、扉の脇の椅子を3人の客人に勧めた。

 「確か、あなたはベロウンの修道士だとか」イジーは、埃を払いながら手前の椅子に腰掛けた。

 「正確には、プルゼニ近郊の、プレモントレ派の修道士だった。今は違うがね」

 「それが、どうしてこんな薄暗いところに」

 「私はプラハ大学には縁がないし、教授たちから良く思われていないので、こうやって情報収集をしているのだ」

 「まさか、ドイツ人の泥棒を斥候に使って、ですか」ペトルが切り出した。

 「ほほう」ジェリフスキーは、含み笑いを浮かべた。「なるほど、トチェンプロッツの後を追けて来たのだね。彼は、腕は立つけど、ときどき注意力が散漫になるなあ」

 「あの泥棒は、旧市街でしばしば悪事を働いています」トマーシュも口を出した。「止めるように言い聞かせてください。そして、盗んだ財貨を持ち主に返してください」

 「持ち主だって」ジェリフスキーは、大げさに両手を広げた。「旧市街の財貨は、もともと権力者が、貧しい庶民から搾取して得たものだ。返せというのなら、チェコ全土の庶民に返すべきだろう」

 「じゃあ、そうしなよ」イジーが、強い口調で言った。「あんたが盗ませた財貨を、雨のようにチェコ全土にばら撒きな。そうしたら、俺たちはもう何も言わない」

 修道士は、上目遣いにバンカラな学生を見やった。「君たちは、プラハ市から俸給でも貰っているのかね。フス師は、そんなことをしろとは教えていなかったはずだが。・・・まあいい。盗んだ財貨を返せ、か。いずれは、そうするよ。いずれは、そうなるよ。私が、そうした社会を作るから。世界を変えるから」

 「え、何言ってるんだ」イジーはうめいた。どうも、一筋縄ではいかない怪人だ。

 「私はね」ジェリフスキーは顎の前で両手を組み、切れ長の眼を光らせた。「フス師も大学教授たちも、手ぬるいと考えているのだ」

 3人は色めきたった。尊敬する師匠たちを侮辱するとは許せない。だが、初老の怪人は、彼らの様子に構わず話し続けた。

 「あの偉い先生方は、大勢の聴衆を前に教会批判をする。立派な本を著しもする。だが、その狙いはどこにあるのか。彼らは、本心では教会を改革したいと考えているのだ。教会さえ昔のような清貧な姿を取り戻せば、みんなが幸せになれると考えているのだ」

 修道士は、いきなり椅子から立ち上がり、激しく拳を振るった。

 「だが、それは違う。そんなのは一時凌ぎにしかならぬ。教会は、いずれまた腐敗するだろう。なぜなら、教会は『権力』だからだ。我々が否定するのは教会の姿勢ではなく、その権力でなければならない。人々が本当の意味で幸せをつかむためには、この世の全ての権力を否定し、これを撲滅しなければならないのだ」

 「なんだって」ぺトルは、あまりのことに呆然となった。全ての権力を否定するというのは、いったい・・・。

 怪人は、その両手を大きく広げた。

 「皇帝も教皇も王も司祭も騎士も貴族も、存在そのものが悪なのだ。身分差別は、それ自体が罪深い。この世には、庶民のみがいれば良い。みんなが平等に生きれば良いのだ。為政者や指導者が必要なときは、みんなが選挙で決めれば良いのだ」

 3人は、大いに混乱した。この世の秩序とけじめを完全に否定するこの思想は、明らかに非現実的な世迷言だ。しかし、甘美な味わいのある魅力的な言葉でもあった。

 ジェリフスキーは、再び座に着いた。「目を白黒させているね。特権で守られている大学の先生方には、とてもここまで考えが及ぶまい。だけどね、教会を本当にどうにかしようと思うなら、これくらいの気持ちで挑まなければ駄目だ。小手先の改革について議論するくらいなら、全てをいったん破壊して更地にしてしまったほうが早いし建設的なのだ。君たちだって、先生方が歯がゆく思えることもあるだろう」

 まさに図星であった。3人はうなだれた。

 「まあ、じっくりと考えたまえ。そして、この私の言葉を覚えておくが良い。フス師の言う『真実』を、最初に現世に実現させるのは、この私なのだ」

 3人は、暗い顔で沈思しながら建物の外に出た。

 眼前にはヴルタヴァの流れが夕日に照らされ、物言わず横たわっている。波間には、白い水鳥の群れが漂っている

 最初に重い口を開けたのはトマーシュだった。

 「まんまと丸め込まれたね。結局、あのオヤジが泥棒の黒幕だったんだ」

 「うむ、言っていることが途方もなさ過ぎて、うまくその場で判断が出来なかったけど」ペトルがうめいた。

 「泥棒を使って集めた金を軍資金にして・・・」と、トマーシュ。

 「国王に対して謀反を起こそうとしてるんじゃないのか、あいつは」イジーは、そう言い終えると大笑した。「とんでもない誇大妄想の破戒ペテン師だ。いかれてやがるぜ」

 「あれが、泥棒の『真実』だったというわけか。完全に意表をつかれたね」

 「ジシュカ隊長に報告して、取り押さえてもらおうよ」

 怪物説教師の呪縛から解けた3人は、深緑に飾られた河岸地帯を並んで歩き、やがてウ・クリムの前に出た。

 「王宮に行く前に、一杯やってくか」

 「バチは当たるまい」

 首を突き合わせて店先で相談していると、旧市街方面から、隊伍の足音が石畳を伝わってやってきた。ふと目をやると、隊列の先頭には噂のジシュカの姿があった。

 3人が口を開くより前に、ジシュカの渋い声が降ってきた。

 「お前たち、ユダヤ人と遊んでいるってか」

 「え、ああ」

 「教区教会が大騒ぎしているぞ。『ウイクリフ派は、イエスの仇ユダヤと結託している。これぞ、異端の証拠だ』とな」

 「なんだって」3人は仰天した。ヤコブとの付き合いが、たいへんな事態に発展しそうだ。「あれは私的な事情による付き合いで、信仰とは関係ないのに」

 「そんなこと、俺に言っても始まらないぞ」ジシュカは、片方しか無い目を光らせた。「文句なら、旧市街の参事会に言え」

 3人は、取るものもとりあえず旧市街に向かった。ジシュカとその仲間たちは、ウ・クリムの扉を開けた。戸外で日向ぼっこをしていた老犬ダーシャは、不思議そうな目で去り行く若者たちの後ろ姿を追うのだった。

 3人が、狭い複雑な街路を抜けて旧市街広場に達すると、市庁舎の掲示板には、激烈な語調で、ユダヤ人とつるむ自由学芸部を攻撃する趣旨の羊皮紙が貼られていた。道行く人々は、不快気にこの檄文を眺める。

 「ふざけるな」

 3人は羊皮紙を剥がしたかったのだが、掲示板の前では、参事会の警備兵が長槍を横たえて鋭く目を光らせている。

 「どうしよう」「とりあえず、先生方に謝ろう」

 3人は、今度は大学講堂へと向かった。

 意外なことに、講堂に集う先生方は怒っていなかった。学生たちから事情を聞くと、そうだろうと強くうなずいた。

 「気にすることはないさ。そのような悪質なプロパガンダを真に受ける市民はいないよ」イエロニームは、笑顔で語った。「私はね、ユダヤ人を悪く言うのには反対の立場なんだ」

 「そうとも」ヤコウベクも大きくうなずいた。「キリスト教徒もユダヤ教徒も、同じく聖書を愛する民じゃないか。聖書を重んじるという点では、ローマ教会なんかより、ユダヤ人の方が遥かに立派だと思うよ」

 「リトアニアやモスクワなど、東の国々を視察旅行した印象では」イエロニームが言った。「ローマ教会は、東方教会(ギリシャ正教)を悪く言うけど、あれは根も葉もないデマゴーグだ。東方教会の信者たちは、実際には、みな清貧で行いのよい立派な人々ばかりだった。ローマ教会は、自分たちの穢れた過ちを糊塗するために、わざと他の宗派を攻撃するのだ。そんな寝言に、いちいち取り合っていてはいけない。もうみんな、それに気づいて良いころだ」

 3人の学生は、安心と感動の面持ちで師を振り仰いだ。そして、ペトルが進み出た。

 「イエロニーム先生、お願いがあります」

 「なんだね」

 「ユダヤ人の友達を、先生の講演会に招待したいのですが」

 一座は、一瞬静まり返った。しかし、返ってきたのは喜びの声だった。

 「いいとも、どんどん呼びたまえ」先生方は、笑顔でうなずいたのである。

 

 フスが地方に去った後、ウイクリフ派の拠点となる宗教施設は、旧市街広場に面した『税関前の聖母マリア教会』(ティーン教会)に変わっていた。フスの最良の同士であるイエロニームが、ここの説教師だったからである。この教会は、二本の大きな尖塔を持つ荘厳な美しい建物で、現代でも当時とほぼ同じ姿を我々に見せてくれる。

 イエロニームは、月に一度はここで講演会を開いたのだが、その平易で懇切なチェコ語の説教は、多くの庶民の心を掴んで離さなかった。

 あるときから、聴衆の中にユダヤ人の姿が見られるようになった。この当時のユダヤ人は、ユダヤ人地区を出るときは、必ず青い帽子かリボンを着用しなければならなかったので、その存在は誰の目からも隠しようがなかった。しかし、最初はとまどっていたチェコ人の聴衆たちも、次第に異教徒と一緒に説教を聴く空気に慣れていった。

 「いやあ、素晴らしい」青い帽子のヤコブは、心からそう言った。「聖書の理想に立ち返るのは、とても大切なことだ。君たちの信じる教えは素晴らしいよ」

 「いつかは、あたしたちの教えと皆さんの教えが分かりあえる、きっとそんな日が来ます」青いリボンを肩に垂らしたクララも、夢見がちな瞳を浮かべるのだった。

 講演が終わったあと、3人の学生と2人のユダヤの若者は、広場の片隅で楽しい歓談の時を過ごしていた。

 「でも」イジーが首を左右に振った。「ドイツ人に言わせれば、俺たちの信仰は異端なんだとさ。俺たちは、真面目に聖書を読むだけなんだぜ。教会の典礼を無視したから異端だなんて、狂ってると思わないか」

 「君たちユダヤ人が羨ましい」ぺトルは、心から言った。「ユダヤの民は、祖国を失い、互いに遠く離れて暮らしていても、つねに一つの『真実』のもとに結束しているもんな」

 「それは、俺たちが少数民族だからさ」ヤコブは、笑顔で答えた。「いくつもの『真実』を互いに競わせる余裕がないだけだよ」

 「じゃあ、もしも僕たちと立場が逆転したら」トマーシュが不安げに呟いた。「僕たちをゲットーに押し込めて、差別するのかい」

 「きっとそうなるわ」クララが、形の良い唇を両手で押さえて笑いをこらえた。「でも、トマーシュさんは大事にしてあげる。優しい人だから」

 医学生は、真っ赤になった顔を隠すために、急いで後ろを向いた。

 だが、ウイクリフ派は、今やチェコという名のゲットーに押し込められ、世界から隔離されつつあった。行き場を無くした『異端者』たちは、イギリスからもフランスからもドイツからも、続々とチェコに逃げ込んでいたのである。クララの冗談は、今や悲しむべき現実であった。

 ところで、例の大泥棒と怪人修道士はどうなっただろう。学生たちの通報を受けたジシュカらが踏み込んだとき、とっくに彼方に逃げ去っていたのである。それっきり、音沙汰がない。

 「これで良かったのだ」ぺトルは、時々そう思う。ジェリフスキーの特異な思想は、城の牢獄で腐らせるには惜しいと思う。

 

 1413年の秋、郊外のカレルシュタイン城からプラハ旧市街の王宮に戻った国王ヴァーツラフは、相変わらず昼間から飲んだくれて、しかも不機嫌だった。

 その原因は、神聖ローマ皇帝からたびたび送られてくる書状であった。

 神聖ローマ帝国は、今日のドイツ全土に跨る大国である。ただ、その実態は、ブランデンブルク、ザクセン、ヘッセン、バイエルン、プファルツ、ハンザ同盟などの小国家の連合体に過ぎない。そしてチェコ王国は、国際的には、この連邦国家の一領邦に位置付けられていた。ということは、神聖ローマ皇帝の意向を無視することは出来ない。しかし。

 「お、弟のくせに、弟のくせに」王は、読み終えたばかりの書状を王妃に投げ渡した。「読んでみろ、この無礼な手紙を」

 ジョフィエ王妃は、夫の異母弟にあたる皇帝ジギスムントの精悍な容姿を想起しながら、その書状を読んだ。

 「・・・ボヘミアの地は、今や憎むべき異端の巣窟となっている。このような情勢を放置しているのは、ボヘミア王の怠慢に他ならない。然るべき処置を取ることを皇帝は命令する」

 王妃は、手紙の隅から、赤い顔をふらふらさせている夫を盗み見た。まさに、手紙に書いてあるとおりじゃないの。神聖ローマ皇帝の座を、精力的な弟に乗っ取られたのも、酔っ払いの自業自得というものだ。王の怒りは、嫉妬と同義だ。

 「わしは、怠慢ではないぞ」王は、それでも精一杯胸を張った。「既に、何度も会議を召集して、教会とウイクリフテンを和解させようとしたのだ。それなのに奴らは、『異端だ』、『違う、証拠を見せろ』と言い合うばかりで、少しも話が前へ進まないのだ」

 「ウイクリフテンは、そもそも異端ではありませんわ」王妃は、優しく言った。

 「そうとも」王は呟き、やがてその目を輝かせた。「よろしい、生意気な弟よ、然るべき解決を与えてやろうではないか」

 この年の12月、王は、大学総長クリスティアンの家で公開討論会を開催した。

 ローマ教会派の神学部とウイクリフ派の自由学芸部は、相変わらず激しい舌戦を繰り広げ、互いに一歩も譲ろうとしない。

 ところが、最終日に王がくだした裁定は、実に意外なものであった。

 「相手を誹謗中傷するしか能のない神学部は、プラハの文化にそぐわない。そこで、教授ツナイム、同シュテファン・パレッチを国外追放処分とする」

 会場はどよめいた。これは、カトリック勢力の全面的な敗北を意味するからだ。

 これは、神聖ローマ皇帝が望まない形での「解決」であった。ボヘミア国王のこの振る舞いは、明らかに有能な弟に対する腹いせであったろう。

 しかし、ウイクリフ派は、ここに予期せぬ完全勝利を掌中に収めたのである。

 ティーン教会の鐘は勝利を祝って鳴り響き、ウイクリフ教説を信じる人々は、旧市街広場に集まって大いに喜び騒いだ。

 ぺトル、イジー、トマーシュは、互いに肩を抱き合い喜びを分かち合った。そのままウ・クリムに直行し、親父の心づくしのピルゼンビールを傾けて、左官たちと飲み比べたのである。

 「これでフス先生も帰ってくるわね」マリエは、酒場を埋め尽くす喧騒を眺めながら、幸せで胸が一杯になっていた。

 「これで俺も生き返る」いつの間にか隣に立っていたジシュカが、錫のジョッキに片目をやりながら、意味深な言葉を述べた。

 「だって、隊長は生きているじゃないの」マリエは、口に手をあてて、ころころと笑った。

 「たとえ話だ。・・・フス師が俺を、地獄の淵から生き返らせるのだ」

 「えっ」マリエは、思わず隻眼の傭兵隊長の顔を覗き込んだ。もっと話が聞きたかったのだが、そこへ左官のヴィリームが割って入った。

 「マリエちゃん、良かったら俺と踊ってくれないか」その眼差しは真剣そのものだ。

 マリエはジシュカに視線を投げたが、傭兵隊長は掌中の錫のジョッキを眺めながら思案にふけっている。

 「うん、いいよ」マリエは、純朴な左官に手を差し伸べた。

 満面の笑顔のヴィリームは、マリエを抱いて酒場の中央に進み出た。そのまま、南ボヘミアの民族舞踏のステップを踏む。

 「いいのかい、イジー」トマーシュが、すかさず茶々を入れた。

 「おやおや」イジーは苦笑した。「ヴィリームさんたら、ありゃあ踊りというより千鳥足だな。まあいい、今日は大目に見てやる」

 「あはは、偉そうに」ぺトルは、イジーの耳を引っ張った。「そうだ、トマーシュ、クララさんを呼んできてやろうか」

 「ふ、ふざけるなよ」真面目な医学生は、冷やかされるとすぐに頬を膨らます。「彼女は、ヤコブとしか踊らないさ」

 「そうかな、これからは全てが良い方向に行くんだ。なんだってあり得るさ」ぺトルは、痩せた友の肩を強く叩いた。

 酒場の中央では、荒くれたちが大喝采で、髭面の左官と酒場娘の急ごしらえのカップルと千鳥足のような踊りを讃え、そしてティーン教会の鐘の音は、いつ果てるともなく鳴り響くのであった。

 

 しかし、屈辱に沈み、怒りに燃える人々もいた。

 暗い夜道を落ち延びていく神学者たちは、何度もプラハの街を飾る百塔を振り返った。

 「これで終わったと思うな」

 「必ず、必ず目にものを見せてくれるぞ」

 彼らの冷たい視線は、しかしプラハ全市を彩る明るさにとっては、まるで無縁のことのように思われた。

 ただ、この時ばかりは。

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