歴史小説家 三浦伸昭の歴史ぱびりよん

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長編歴史小説

ボヘミア物語

第九章 異端かそれとも真実か

 

   コンスタンツ市内に入り込んだジシュカの一行は、大泥棒の調査に少し時間がかかりそうだったので、市中の安宿に上がりこみ、時期を待つことにした。

 「今度は、手荒にやらねばならん」ジシュカは言った。「お前たち、『殺すなかれ』とか、奇麗事ばかり言うんじゃねえぞ」

 「分かっているよ。だけど、殺しは手伝わないぜ」イジーが頬を膨らせた。

 「ふん、誰もお前らなんか頼ってねえ。だいたい、殺しどころか何の役にも立たねえじゃねえか」

 図星を指されて、3人は肩を落とした。確かに、この道中で彼らがしたことは、お喋りだけだった。自分たちが、戦争屋はともかく、泥棒にさえ劣ると思うのはたいへんな苦痛だ。

 「なあに、これからさ。そうだろう」ジシュカは、彼らの気持ちを思いやってそう言った。

 その数日後、驚くべき知らせを大泥棒がもたらした。

 「たいへんでげす、イエロニーム師が教会に捕まったでげす」

 「なんだって」一同は絶句した。「あれから再び、追手がかかったというのか」

 「そ、それが、自分からこの街に戻って、公会議に出頭したというのでげす」

 「・・・何ということだ」ジシュカは、拳で床を叩いた。

 だが、学生たちにはイエロニームの気持ちが良く分かった。真面目な彼は、やはり教会の召喚状を無視することができなかったのだ。また、恩師と同じ苦痛を味わうことで、少しでもフスの心の支えになりたいと思ったのだろう。

 「とにかく、フス師の救出が先だ。トチェンプロッツ、まだ分からねえのか」

 「へえ、大体は分かりました。東側の塔の一室ですがな。ただ、それ以上のことは」

 「事は一刻を争う。教会は、イエロニーム師の命を盾にして、フス師を脅迫するかもしれねえからな」ジシュカは、一同を見渡した。「今夜、決行だ」

 全員が、いっせいに、強く大きくうなずいた。

 その夜、7つの影が、街はずれに建つゴットリーベン城の東塔の麓に集まった。

 「賄賂が効きそうな警備兵はいねえか」先頭に立ったジシュカが、大泥棒を振り返る。

 トチェンプロッツは、黙って頭を横に振った。

 「ならば、窓の位置から推定するほか無いな」ジシュカは、塔の壁面を見上げた。石材を積み上げた5層の黒い建物には、各階に一つの小さな窓が、みな同じ方向に向いている。「外壁は、かなり厚そうだ。下弦の月を見るためには、3階以上の高さがないと無理だろう。・・・トチェンプロッツ、よじ登って手がかりを造れ」

 「でも旦那、窓から話すだけじゃ、救出はできまへんで」

 「そう焦るな、師から直接、城内の構造や警備の状況が聞けるかもしれぬ。作戦を練るのはそれからだ」

 「了解ですがな」大泥棒はため息をつくと、背中にしょって来たズタ袋から道具を取り出した。壁の隙間に金属の爪を入れられる形状の手袋だ。彼は、それを両手に嵌めると、同じ袋から取り出したロープの束を肩に負って、壁面に猛然と挑戦を開始した。

 「さすがだなあ」学生たちは絶句した。

 大泥棒は、するすると器用に壁面を登って行く。感心なのは、かなりの運動のはずなのに、音をほとんど立てないところだ。貧相で間抜けなところもあるけれど、やはり敵にまわしたくない人物だ。

 あっという間に3階の窓に取り付いたトチェンプロッツは、用心深く窓を覗き込み、そしてロープの端を鉄格子に結わえ付け、もう一方の端を地上に投げ落とした。そして、ジシュカに目線を投げ、登ってくるように合図した。

 ジシュカは大きくうなずくと、両手でロープを掴んで、これまた器用に壁を登っていった。学生たちは、それを呆然と見つめるのみである。

 3階の窓の中には、フスがいた。

 「やはり君か、ヤン・ジシュカ」月明かりの中に浮かぶ師の様子は、少しやつれてはいるが、まだまだ元気そうに見える。

 「お久しぶりですね、先生。お元気そうで安心しました。私が来たからには、もう大丈夫ですぞ」ジシュカは、窓に嵌る鉄格子を掴んで左右に揺さぶったが、やはりビクともしない。

 「ジシュカ、いずれにせよ、ここからは出られないよ」フスは落ち着いた声で言った。

 「確かに、この格子は少々頑丈ですね。だけど、この窓は人が出られない狭さではない・・・トチェンプロッツ、何か道具を貸せ」

 「ジシュカ」フスは優しい声で言った。「私は、ここから出る気が無いと言ったのだ」

 「どうしてです」隻眼の武人は眉を顰めた。

 「公開討論の日程が決まったのだ。私はそこで、我々チェコ人の運動が、教会改革運動であって、異端ではないことを説明しようと考えている」

 「・・・ここはカトリック勢力の温床です。先生の正義と善意が、果たして通用するでしょうか」

 「かなり難しいだろうね」フスは苦笑した。「だけど、誰かがやらねばならないことだ。教会の問題は、チェコだけの話ではない。全ヨーロッパ、ひいては全世界の問題なのだ。私がこの国際会議に召還されたのは、神の意思に違いない。これは、全世界に『真実』を守ることの大切さを示すため、神が与えてくれた唯一の機会なのだよ。これを捨てて逃げることはできない」

 「先生は、殺されるかもしれません」ジシュカは、感情を抑えて低い声で言った。「ジェリフスキーは、心からそれを心配しています」

 「それが神の思し召しとあらば、仕方ないことだ。・・・ジェリフスキーか。彼にもよろしく伝えてくれ。私は、人生の全てを懸けて『真実』のために働きたいのだ」

 「・・・・・」ジシュカはうつむいた。師がそれほどの覚悟では、これ以上の説得は無駄だろう。

 「下に、何人か来ているのかね」フスは、首をかしげた。気配を感じ取ったのだ。

 「私の相棒のほか、プラハ大学の学生たちが」

 「ああ、分かるよ。顔も名前も思い出せる。私のために、はるばるここまで来てくれたのだね」

 「お会いになりますか」

 「ぜひ、会いたい」

 ジシュカは、素早くロープを伝って地表に降りた。大泥棒は、その間、3階の窓脇の側壁に張り付いたまま、周囲に鋭く注意を巡らせている。

 「お前たち」ジシュカは、低い声で学生たちに言った。「先生は、ここから出ずに公会議と戦うと仰っている。俺では説得できなかった。先生は、お前たちと話したいらしいから、何とかして、ここから逃げるよう説得してみろ。それが無理なら、せめて別れを惜しむが良い」

 3人は互いの顔を見交わすと、大きくうなずいたイジーが、ロープに手をかけた。

 そのとき、大泥棒がミミズクの鳴き声をあげた。衛兵出現の合図だ。ジシュカの2人の部下は、腰の剣を抜くと、背後の木立に向き直った。

 木立から呑気な表情で出て来た2人の衛兵は、音も立てずに忍び寄ったジシュカの部下に背後から喉を裂かれ、絶命して倒れ伏した。あまりに事態の進展が早いので、壁際の3人の学生は、ただ呆然と立ち尽くしていた。

 その後ろに音も無く降り立った大泥棒が、軽くペトルの肩を叩いた。

 「さあ、すぐに逃げないと」

 「なんだと」イジーが低い声で叫んだ。「まだ先生に」

 「もう、そんな余裕はあらへん。ことは一刻を争いますで」

 先の木立では、ジシュカと2人の部下が、こちらを鋭く見やって手招きしていた。

 イジーは塔に向き直り、3階の窓に向かって叫んだ。

 「先生、お元気でっ」

 牢内のフスは、懐かしい声に胸を一杯にし、ただただうなずいていた。

 3人は、後ろ髪を引かれつつ木立を走った。

 城の衛兵たちが異常に気づいたとき、一行は既にコンスタンツを遠く離れた街道にいた。

 「先生の真心が、公会議を動かしてくれることを信じよう」ジシュカは、悄然としている学生たちに優しく声をかけた。

 しかし、事態はそのようには進展しなかったのである。

 

 フスは、公開討論に臨んだ。

 1415年6月5日、異端問題の第一回公判。

 しかし彼は、せっかくのこの機会に、得意の弁術を発揮できなかった。司祭たちの出す質問に、簡単な言葉で答える権利しか与えられなかったのである。そして、司祭たちの質問は、フスの過去の言説や著書の内容を、悪意に基づいて曲解したものだった。

 教会勢力は、フスを精神的に追い詰めて、彼の主張や著作を、彼自身の口から否定させようと企んでいた。フスが「転べ」ば、プラハやチェコの異端も自動的に屈服するだろうと、安易に考えたのである。そのため彼らは、フスの主張や著作の内容を真剣に検討しようとはしなかった。教会側に都合の良い箇所を抜粋し、これを異端の証拠にしようとしたのである。

 第二回公判は6月7日。このときは、皇帝ジギスムントや、フスの警護役の騎士たちも同席した。しかし、やはりツナイムらカトリック派修道士の、一方的な誹謗中傷に終始した。

 「この男は」ツナイムは、自由を奪われた宿敵を指差した。「聖体の存在を否定したアンチ・キリストなり」

 「それは違う」フスは、怒りを抑えながら口を開いた。「私は、聖体を否定したことはない。聖体はパンと葡萄酒の中に宿ると信じている」

 「それだ」ツナイムは、鬼の首を取ったかのように叫んだ。「プラハでは、二重聖餐が行われているらしい。教会の定めた掟に従わぬこの行為こそ、聖体を軽んじていることの証拠ではないか」

 フスは、二重聖餐については初耳だったので、大いに驚いた。彼は、そこまでの改革には乗り気でなかったのだが、プラハの宗教改革は、いつのまにか彼の手を離れて一人で歩き出してしまったのだ。

 「ヤン・フス」一段高い上座に座る枢機卿ダイイが、その陰鬱な顔を、沈思する虜囚に向けた。「君の説は、この世の道理から外れている。いたずらに教会を誹謗して、大衆の信仰を揺るがせる振る舞いは、断じて許されぬ大きな過ちである。早く、己の過ちを認めて楽になるがよいぞ」

 「道理ですと」フスの眼光が輝いた。「贖罪状も、道理に基づくと言うのですか。聖職者が民のために神に祈りを捧げることなく、民からむしろ法外な地代を取り立てていることも道理に基づくと・・」

 「地代の件については、君は一部を全体に拡大解釈している。贖罪状は、人を原罪から救うために必要なものではないか」

 「そんなことはありません。あの紙切れは、単なる喜捨です」

 満座に集う諸侯は、ざわめいた。中には、内心でフスの勇気に快哉を叫ぶ者もいたが、ここは教会の勢力下だ。うかつなことは言えない。

 「私は決して、教会の皆さんを誹謗するために論じているわけではありません。私は、私の魂の奥底から湧き出る『真実』を論じているのです」フスは、満座に訴えた。

 「そのようなことは問題ではない」ダイイは、冷たく言い放った。「君に対する訴えこそが、ここで論じられるべき問題なのだ」

 ツナイムとシュテファン・パレッチは、大きくうなずいた。

 皇帝ジギスムントは、この情勢を苦々しく感じていた。これではリンチと変わらない。でも、フスの態度にも問題がある。少しは、妥協ということを学んだらどうなのだ。皇帝は、フスが口先だけでも「転んで」くれれば、それで良かった。欧州の中心部に異端が跋扈しているという風評さえ消せれば、それで良かったのだ。

 「ヤン・フスは、この公会議に自由な通行者として参加している」皇帝は、透き通る声をあげた。「そのための自由通行証も与えられている。しかし、朕は教会の定めた『異端者』を保護することはできないのだ」

 そして、皇帝は秀でた額をフスへと向けた。

 「これ以上深い誤りに陥らないように、早く公会議の好意にすがるがよいぞ」

 フスは、静かに礼を返した。

 「ありがとうございます、皇帝陛下」そして、満座に向かって優しい笑みを向けた。「私は、自由な参加者としてこの公会議に参加しました。決して、何かを頑なに守るためではありません。私に誤りがあるのなら、ぜひ、この場で教えていただきたいのです」

 一同は、騒然となった。この説教師は、本当に自分の正義を信じているのだ。そして、その正義を曲げるつもりが微塵もないのだ。

 第三回公判は、この翌日、6月8日に行われた。

 この日のテーマは、フスの著作『教会論』であった。

 この書物は、著者の信じる理想の教会の姿を描き、それをもって教会の現状を批判したものである。しかし、枢機卿ダイイらは、書物全体の思想を読み取ろうとはせず、一行一行をあげつらって各論を問題にするのみであった。

 「『枢機卿でさえ、キリストの弟子たちに習う生活を送らないならば、使徒のもとに連なることができない』。この文は、明らかに教会を破壊しようという悪辣な意図に基づいているぞ」

 「違います」フスは、悲しげに首を左右に振った。なぜ分からないのだ。「私は、キリストの前では、全ての人が平等だと言いたいのです。どんなに偉い肩書きを持っていても、それにふさわしい行いをしなければ、主なるキリストはお喜びにならぬと言いたいのです」

 「ふむ」ダイイは鼻を鳴らした。「こんなことも書いてある。『死の罪の中にある者は、神の前で王たる資格を持たない』」

 会場は騒然となった。この不遜な説教師は、教会のみならず王権までも非難の対象にしているのか。皇帝ジギスムントは、あからさまに不快の表情を浮かべた。

 「私は、神の前における人間の責任について述べたに過ぎません。王という言葉を用いたのは、比喩です」フスは、低い声で言った。

 「そうかな、ヤン・フス。君は、人間は神の前のみならず、俗世においても平等であるべきだと言いたいのだろう」ダイイは冷笑を浮かべた。「恐るべき危険思想だ。君は、我々の秩序を破壊しようとしておるのだ」

 フスは嘆息した。この連中には、何を言っても無駄なのだ。

 この日の終わりに、公会議はフスに4点の要求を出した。①彼がこれまで主張したことが、全て誤りであることを謙虚に表明すること。②将来、それに固執せず、教えもしないことを誓約すること。③公然、それを取り消すこと。④これらに反対なるものを告知すべきこと。

 フスは、「己の良心に反することは断じて出来ない」と言明したため、公会議の雰囲気は険悪となった。

 「ヤン・フス。公会議に従うか、それとも公開討論をさらに続けるか」ダイイは、苦虫を噛み潰したような表情で言った。

 「公開討論を要求します。私は、私が誤っていることを示してもらえば、喜んでそれに従うつもりです。しかし今のところ、私に対する訴えは、歪曲か誤解にしか過ぎません。これでは公会議に従うことなどできません」

 「プラハに混乱を起こし、大学に異端をはびこらせた張本人め」ツナイムが、傍聴席から叫んだ。「貴様の悪行は、はっきりと形になって現れているではないか」

 「悪行かどうかは、神が決めること。私は、神の裁きの前に立ちます。あなたたちも同じです」フスは、静かに目を閉じた。

 公開討論は、その後数回にわたって行われたが、議論は堂堂巡りを続けるだけだった。公会議は何が何でもフスに異端を認めさせようとし、フスは何が何でも『真実』を守り抜こうとした。

 「もはや、生きては戻れぬ」

 フスは、幽閉されたゴッドリーベン城の牢獄の窓から、東の夜空に昇る月を見た。東には、キリストの聖地がある。その手前には懐かしいプラハがある。

 「公会議に妥協するのは容易だった。しかし、この世には、絶対に譲ってはならぬ一線があるのだ。私が転べば、プラハの人々はそのことを忘れてしまうだろう。『真実』とは、現状に妥協して流されていく行為だと思ってしまうだろう。それだけは許されない。せっかく育った『真実』の芽を摘み取ることは、断じて許されぬ」

 フスは、自分の選択が完全に正しいと思っていた。しかし、忍び寄る死の恐怖が、五体に染みわたって行くのを止めることは出来ない。

 「神よ、どうか私に勇気をお与えください・・・」

 懸命に祈る説教師の鼓動を受け止めたのは、月だけだった。

 

 市内の修道院の一室では、イエロニームが監禁生活を送っていた。しかし彼は、異端審問の対象とならずに放置されていた。公会議は、フスが転ばなかった場合のスペアとして、イエロニームを利用しようと考えていたのである。

 いずれにせよ、頑固に自説を堅持するフスを前に、公会議は手をこまねいていた。

 神聖ローマ皇帝ジギスムントは、ジシュカの推察どおり、教会分裂問題で強権を振るったため、異端問題では逆に教会側の主張に妥協するしかなかったのである。

 そして、教会側は、フスを異端者として処分する方針を変えようとはしなかった。彼らにとっては、『真実』などという目に見えないものよりも、現実に自分たちが手にしている既得権益を守るほうが大切だったのである。そんな彼らが、フスを処断するための手段は、すなわち暴力であった。

 フスは、人間の善意を信じすぎたのである。

 6月末のある夜、枢機卿ダイイは、ゴットリーベン城のフスの元を訪れた。

 「ヤン・フスよ、いつまでも我を張らず、公会議の決定に従うが良いぞ」牢の扉越しに語りかける。

 「公会議の決定とは、私が異端であるという・・・・」

 「もちろんだ。いい加減に、己の過ちを認めた方が身のためだぞ」

 「私は、自分が異端である証拠を提示されたわけではありません。自分が納得できないことを認めるわけにはいきません」

 「公会議が認めたのだ。ローマ教皇庁が認めたのだ」

 「しかしそれは、『真実』ではありません」

 「何をいうのか」ダイイは、舌打ちした。「我々の決定に、無条件に従順に従うことこそ『真実』なのだ」

 「それは違います」フスは、その透徹した眼差しを、扉の小さな窓越しにダイイに向けた。「枢機卿、恐らく、あなたの考え方が正しかった時代もあったでしょう。蛮族が乱入し、ローマ帝国が壊滅の危機に瀕していたころ、教会の教えは、人々の心を支え、世界の秩序を維持する上で大きな貢献を果たしたのです。あの時代は、教会の教えこそが『真実』でした」

 「・・・今は違うというのか」

 「はい。世界は落ち着き、人々は平和の中で学問に打ち込めるようになりました。今や、『真実』は教会の特権ではありません。全ての人々の前に平等に開かれたのです。だからといって、教会が不要になったとは思いません。教会の果たすべき役割が変わったのです。これからの教会は、人々を強権で服従させ命令で縛り付ける組織ではなく、人々の成長を善導し慈しみ育てる組織にならなければならないのです。人々は、もはや何も知らない子供ではなく、自分の足でしっかりと歩く青年になったのですから」

 ゆっくりと話すフスの脳裏には、プラハの善良な人々の姿が浮かんだ。彼らはフスを信頼し、フスの話に耳を傾け、そして『真実』に向かって成長しようと懸命に努力している。彼らの信頼を裏切ることは絶対にできない。異端であることを認めることは、命に代えても許されることではないのだ。

 ヤン・フスは、この瞬間、死を決意した。

 「君は、本当に素晴らしい人物だ」ダイイは、ため息をついた。「あるいは、君の言うとおりなのかもしれぬ。だが、枢機卿の私が、それを認めることは出来ない」

 ダイイは、猫背を向けて去りかけ、そして最後にもう一度振り向いた。

 「考え直さないか。言葉だけで転べばそれで良いのだ。プラハに帰れるのだぞ」

 フスの心の中で、大きな葛藤が沸き起こった。しかし、それも一瞬のことだった。

 「私はチェコを愛しています。プラハを愛しています。だからこそ、『真実』に背くことは出来ないのです」

 ダイイは、もはや何も言わなかった。

 1415年7月6日の第15回総会で、フスとチェコ王国の信仰は、異端であることが正式に決議された。

 その日の会議は、このイベントの荘厳さを演出するために、コンスタンツの大聖堂で開催された。そこには公会議の議員はもちろん、ジギスムントを初めとする神聖ローマ帝国の重鎮が居並び、荘厳ミサと典礼を行なった。その後、異端者として戸外に待機させられていたフスが招き入れられ、判決が始められた。初めにロディ大司教が短い説教をし、次に他の司教たちがこれまでの審問の経過を明らかにし、フスを異端と認定した根拠条文260箇条が読み上げられた。

 フスは、その途中で、何度も意見を述べたり否定しようと試みたが、会議から沈黙を命じられた。最後に、神に対して訴えかけようとしたが、それも邪道として阻止されてしまった。

 判決は、次の通り。

 「フスはウイクリフの弟子でありその頑固な帰依者である。彼は、非難されるべき教説をカトリック的なりと主張し公表したが、これらは、一部は誤ったもの、一部は耳を損なう大胆不敵で扇情的なもの、一部は明らかに異端的である。それゆえ、彼の著作は全て非難され、罰せられ、公式に焼かれるべきである。また、彼自らも、長年にわたって異端の教えを公然と説いたので、真の明白な異端者、誘惑者である」

 衆目は、中央の壇に据えられた犠牲者の小さな姿に注がれた。犠牲者は、じっと目を閉じたまま判決を聞いていた。

 「しかし、もしも最後の瞬間において取り消すのなら、破門は許され、聖職者の位から退けられて終身禁錮となるだろう。さもなくば、聖職を剥奪した上で世俗権力者に引き渡され、処分されることだろう・・・」

 判決文を読み終えたロディ大司教は、フスに発言を促した。

 フスは、両目を開いてこう言った。

 「私は、断じて意見を取り消しません」

 聴衆はどよめいた。

 「私は、決して頑固に過誤の中に留まったわけではない。ただ、聖書によって教えられることを願っただけです。その証拠に、公会議は、私のラテン語の著作からも一つの過誤を見出すことが出来ず、チェコ語の著作に至っては、見ようともしなかった」

 フスは、床に跪いて祈った。そして、目を上げて言った。

 「主なるキリストよ、公会議が、私について偽証したことはご存知でしょうが、どうか彼らの魂をお赦しください」

 司教たちは露骨に眉をしかめ、そして、聴衆はせせら笑った。

 続いて、フスの聖職剥奪の儀式が始まった。その際にも、公会議は、フスに意見の取り消しをしつこく求めた。だが、フスの意思は固かった。

 「ここで変節したら、神の眼には偽りとなり、己の良心のみならず神の真理に対して罪を犯すこととなる。それどころか、かつて福音をのべた者の多くの霊を損なうのみならず、それを忠実に伝えつつある者を傷つけてしまうでしょう」

 激怒した司教たちは、「何という愚かな頑固者か」と言いつつ、聖職剥奪の儀式を行なった。こうしてフスの身柄は、世俗権力者に渡されることとなった。その際、ロディ大司教は皇帝ジギスムントに、「この者を殺さずに、長く入牢させるように」と言った。

 しかし、教会の意思は明確であった。周知のとおり、大規模な官僚組織というのは、しばしば婉曲で回りくどい手続きをする。僧衣を剥奪して世俗に引き渡すというのは、すなわち焚刑に書するためのサインである。そして、彼らはそのことを決して口にはしない。あくまでも、死刑は世俗権力の仕事であるという建前を維持するためである。「入牢させるように」と言ったのは、単なる慣習的な建前であった。

 こうしてフスを引き取った皇帝ジギスムントは、彼の身柄をルードビッヒ大公に渡し、大公はさらにコンスタンツ公に渡した。皇帝と大公は、内心ではフスが異端ではないことを知っており、従って、直接手を下したくなかったのである。責任転嫁のたらい回しは、結局、下っ端のところで止まる。コンスタンツ公は、もはや自分がこの嫌な仕事を引き受けざるを得ないと悟った。そこで、フスを引き出して火刑台に据えたのである。

 白い肌着をまとい、異端を示す紋の入った白い紙帽子をかぶらされたフスは、コンスタンツの城壁の外に立つ大きな杭に縛り付けられ、荷車2台分の積み重ねられた藁の上に立たされた。その周囲には、正しい事情を知らぬ群衆が、「異端者の処刑」を見物するために群がっている。

 フスは東向きに立たされたので、遠い聖地エルサレム、そして懐かしいプラハへと続く空を眺めることができた。その脳裏に宿るのは、偉大なる主キリストの慈悲深い姿であり、プラハ大学の同胞や市民たちであった。

 火を放つ直前になって、役人がフスの視線に気づいた。フスの体を西向きに据え直した役人は、フスを神の御許に行かせまいとしたのであろう。もちろん、異端者が神に受け入れられるはずはないのだが、この役人には、優しい目と落ち着いた態度を守り続けるこの説教師が異端者だとは、どうしても思えなかったのである。

 そのとき、ジギスムントの家臣ハッぺ・フォン・パッペンハイムが、馬を飛ばしてやって来た。彼は、馬から飛び降りると、薪の山に首まで埋められたフスの前に走り寄った。

 「どうか、どうか邪説の取り消しを」

 しかし、フスは柔和な笑顔をその若者に向けてこう言った。

 「私は、私が説いた福音の真理の中で、今、喜んで死の床につく。何も心配は要らない」

 役人の合図とともに、薪は轟々と火を放った。

 フスは、カトリックの埋葬の祈りを唱え始めた。その第三節に至って、風が煙と火を彼の顔面に吹き付けてその声を潰したが、彼はなおも首と唇を動かし続けた。やがて、その唇は動きを止めた。

 こうして、灼熱の炎は、一つの崇高な魂を焼き尽くしたのである。

 遺体と灰と処刑台の下の土は、注意深く取り去られた上で、粉々に砕かれてライン川に投じられた。死後の復活を阻止するためである。

 遺品は全て破壊された。聖遺物として利用させないためである。

 そして、フスの著作は、その全てが焚書となった。

 ほぼ時を同じくして、イングランドでは、故ウイクリフ師の遺骸が土中から掘り出され、粉々に砕かれた。フスと同じ時に、公会議で異端宣告を受けたからである。

 妄執、いや狂気と呼ぶべきであろうか。

 硬直化した教会権力にとって、宗教改革の潮流は、新たな道しるべではなく、その既得権益を破壊する悪なのである。そしてこの敵は、強大な潜在力を有するがゆえ、蕾のうちに完全に撲滅しなければならないというわけだ。

 しかし、そのような姑息な手段が、人類の進歩を止めることが出来るものか・・・。

 コンスタンツの広場に立ち昇った火煙は、人間が人間として自立するための、新たなる戦いの狼煙となったのである。

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