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長編歴史小説

昭烈三国志

12.平原の相

 

 大敗を喫した公孫瓉は、しかし野望を捨てたわけではなかった。

 南皮に戻った彼は、外交を用いて袁紹を包囲しようと考えたのだ。

 まず、南陽の袁術に使いを出して、正式に同盟を締結した。次に、并州の張燕と提携し、西から冀州を窺わせる。さらに、徐州牧の陶謙との連帯に成功した。最後に、青州に腹心の田楷を派遣し、この地の実効支配を目論んだ。ここに袁紹の勢力は、文字通り四方から包囲される形勢となったのである。

 「兄貴もやるなあ」劉備は、公孫瓉と酒を酌み交わしながら感想を述べた。「張燕どのの一味は、西から冀州に攻め込んで袁紹を苦しめているみたいですぞ」

 「うむ、今度は東から一石投じたい」師兄は、上機嫌である。「玄徳、お前、青州平原郡の相(郡長官)になってはくれまいか。刺史の田楷だけでは力不足なのだ」

 「そうだな」劉備は杯を干す。「盧植先生も、先ごろ亡くなられた。冀州に遠慮する必要もない」

 「頼んだぞ、玄徳」

 「ついては、頼みがある」

 「何でも言ってみろ」

 「烏丸騎兵一千と、ついでに趙雲を貸してほしい」

 「ああ、お安い御用だ」

 こうして、劉備と仲間たちは、またもや新天地への旅路を辿ったのである。

 

 そのころ河南では、群雄同士の争いが激化していた。

 袁紹が、腹心の劉表を荊州に派遣し、南から袁術を襲わせようと考えたのは、昨年の暮れであった。

 劉表は、漢の連枝にあたる清流派士大夫である。賢明な彼は、庶民に変装し、袁術の警戒網を潜り抜けて襄陽に入城すると、現地豪族との政略結婚などを駆使して、一挙に荊州に大勢力を築き上げたのである。まさに一夜城の現出である。

 荊州は、長江中流域の南北に広がる穀倉地帯である。南陽の袁術は、己の抱える人口と兵力の糧食補給を、もっぱらこの地域に頼っていたので、事は深刻であった。焦った彼は、孫堅に命じて劉表を討伐させたのである。

 豫州刺史・孫堅は、この当時では最強の武将であった。迎え撃った劉表軍を連戦連破した彼の軍勢は、襄陽を指呼の間に臨む峴山に陣を敷いた。しかし、ここで悲劇が起きる。劉表軍の黄祖将軍の夜襲を受けた孫堅は、この敵を見事に撃退したものの、流れ矢に当たって命を落としたのである。時に、初平三年夏。孫軍は解散となり、袁術は窮地に立たされることになった。

 「董卓は、きっと腹を抱えて笑っていることだろう」劉備は、平原の政庁で一人ごちた。「自分の最強の敵(孫堅)が、身内争いに巻き込まれて勝手に死んでくれたんだからな」

 ところが、そうはならなかった。

 董卓も、非業にして倒れたのである。

 初平三年(一九二)四月、漢帝国の墓堀人は、長安未央殿にて暗殺された。下手人は、司徒・王允、尚書僕射・士孫瑞、そして董卓の部将・呂布であった。

 董卓の横暴は、長安に遷都してからますます激しくなった。過酷な税を取り立てて、郊外に郿城を築き上げ、天下の財宝と三十年分の食料をここに蓄えた彼は、「天下獲りにしくじっても、ここで余生を送れば十分」と公言する有様。官位もとんとん拍子で、相国、太師、尚父と、前代未聞の高官に就任してゆく。彼の一族はみな、諸侯の地位についた。董卓の側室の子で、まだ歩けない赤ん坊でさえ高官に任命され、印綬をおしゃぶり代わりにする始末。

 その一方で、過酷な租税と出鱈目な経済政策は、民衆の生活を破壊した。たまりかねて反乱を起こした人々は、たちまち馬蹄に蹂躙された。捕虜となった者たちは、大釜で煮殺されて董卓の胃袋に収まったという。恐るべき董卓。もはや一人の政治家というより、一個の怪物である。長安の人々は、密告を恐れて口を利くことすらしなくなった。目配せで用を足すのである。

 漢王朝の臣下は、恐怖に震えて居すくまっていた。逆らえば、たちまち誅殺される。黄巾討伐の名将・皇甫嵩ですら、物陰に怯える毎日を送っていた。

 当時、三公の最高職である司徒は、王允であった。彼は、清流派士大夫でありながら、若い頃から反骨で知られた硬骨漢である。彼は、同志の士孫瑞と密談を重ね、董卓暗殺の謀議を巡らせた。もとより、命懸けである。いつの時代にも、このような人々は必ず存在するのだ。

 彼らは最初、袁術討伐の名目で軍隊を動員し、これを用いて董卓を討とうと企んだ。しかし、この計画は、董卓が外征に反対したために空振りに終わった。

 次に彼らは、董卓の部下の一人に目をつけた。騎都尉・呂布である。

 呂布は、もともと丁原の部下だったのだが、欲につられて主君を裏切り、董卓に鞍替えした前科を持つ。王允たちは、彼のその無節操さを当てこんだわけだが、呂布の方も深刻な事情を抱えていた。彼は、董卓の侍女と密通していたのである。これがばれたら、間違いなく殺されるだろう。また、あるとき董卓が機嫌を損じて、呂布を短戟で殴ろうとしたことがある。彼は、この事を恨みに感じていた。

 こうして、秘密同盟が結ばれた。

 献帝の病気回復を祝いに未央殿に参内した董卓は、完全武装の兵士たちに取り囲まれた。

 「息子よ、助けよ!」尚父は、声を限りに叫んだ。

 息子とは、呂布のことである。彼らは、義理の親子の契りを結んでいたのだ。しかし、野生児・呂布にとって、そのような儒教道徳は無縁のことだ。進み出た息子は、持っていた矛で義父を刺し殺したのである。

 長安は、歓喜の声で埋め尽くされた。人々は、「天が晴れた」と言い合った。

 董卓の肥満した死体は、見せしめのため市にさらされたが、その臍に蝋燭の灯心を立てたところ、点けた火が三日三晩燃えつづけたという。よほど脂ぎっていたのだろう。

 しかし、政局の混乱は収まらなかった。

 二ヵ月後、東の函谷関に駐屯していた董卓軍残党が、仇討ちと称して、大挙して西に攻め寄せてきたのである。迎え撃った徐栄将軍は戦死し、長安は陥落した。呂布は、仲間を集めて脱出したが、王允は囚われて殺害されたのであった。

 長安はこうして、董卓の元の部将である李確、郭汜らによって支配される事となった。しかし、この李確らは、董卓と同様に私利私欲に走る輩であったので、朝廷と民衆の苦境に終わりは来なかったのである。

 こうして乱世は拡大し、勢いを増していった。

 

 そのころ劉備の政治は、平原の人々に好意的に受け入れられていた。

 蓄財に興味の無い彼は、いつものように租税を安くしたし、気さくに民衆に接して悩みや訴えを聞いたので、その治績はすこぶる上がった。

 袁紹との戦いも、優勢に進めていた。袁軍の主力は、西の黒山に陣取る張燕との戦いに忙殺されていたので、東の平原に対する備えは弱かったのである。劉備の軍勢は、しばしば冀州の国境を押し破り、焼き討ちや略奪を行なった。

 これに手を焼いた袁紹は、南の同盟者に劉備討伐を依頼した。

 南の同盟者とは、曹操のことである。

 曹操はこのころ、ようやく兗州に己の地盤を確立していた。

 「孟徳どのが攻めてくるってか」劉備は唇を曲げた。「いやだなあ」

 「曹操軍は、三十万の精鋭を抱えているとの噂です」関羽が報告する。

 「いつのまに、そんなに強くなったんだ。最後に会った時は、負け戦でボロボロだったじゃねえか。兵が全滅したので、丹楊まで募兵に行くと言ってたくらいだ」

 「その後、情勢が大きく変わったそうです」

 関羽が語るところによると。

 丹楊に向かった曹操は、揚州刺史・陳温の好意で四千の兵を手に入れることができた。しかし、酸棗への帰路でこの兵たちが謀反を起こして逃げ去ったので、手元には五百人しか残らなかったという。これでは戦にならない。

 ちょうどそんな折、兗州東郡に并州の黒山賊五万が攻め寄せてきた。東郡太守・王肱は、急を知って駆けつけた鮑信と張邈の軍勢を頼りに抗戦していたが、そこに曹操が加勢したのである。戦上手の曹操は、わざと軍勢を迂回させて賊の本拠地に攻め込む構えを見せた。驚いた賊は、本拠を守るために退却に入り、そこを待ち伏せた曹、鮑、張軍に襲われて全滅したのである。曹操の作戦勝ちである。

 しかし、兗州の危機はまだまだ続いた。今度は、青州から黄巾軍百万が攻め込んできたのである。この黄巾軍は、最初は黄河を越えて冀州を攻めようと考えていたのだが、前述のように公孫瓉と劉備に撃退されて、やむなく兗州に進路を変えたのである。兗州の人々にしてみれば、とんだとばっちりだ。

 兗州牧・劉岱は、短気でそそっかしい男だった。酸棗の陣中で、同僚の橋瑁を殺害するような男であった。彼は、軍勢一万を引っさげて百万の敵中に突撃し、呆気なく戦死してしまったのである。

 空位になった兗州牧と、迫り来る黄巾軍。この危機を救えるのは曹操しかいないと考えた鮑信と張邈が、曹操を兗州牧に推挙した。新任の兗州牧は、軍勢を纏めて東に向かうと、寿張という地で黄巾と大会戦したのだが、相手は農民軍とはいえ、兵力差は百万対五万である。曹操軍は苦戦に陥り、鮑信も戦死した。あまりの激戦だったので、その死体も残らなかったという。鮑信は曹操の親友でもあったので、激情家の曹操は怒り心頭に発し、決死の覚悟で尚も戦いを継続した。

 そして、先に疲労したのは飢えた黄巾軍の方だった。なまじ人口を抱える彼らは、長期戦には耐えられないのだ。両軍の間に和平交渉が行なわれ、纏まった。なんと、両軍は合併することになったのである。条件は簡単。黄巾軍は、十分な食料と信仰の自由の保証を条件に、曹操軍に合流することになったのだ。

 もともと黄巾軍は、漢の治世に絶望した人々の抗議運動であるから、帝国が崩壊した現在、その政治目標はとっくに空中分解していた。新たな政道と生活の安定さえ得られれば、武器を捨てる心積もりだったのである。そのあたりの事情を察知して交渉を進めた曹操は、やはり只者ではなかった。

 魏武(魏の武帝=曹操)の強は、これより始まる。

 

 「なるほど」劉備は、深く頷いた。「さすがは孟徳どのとしか言いようが無い」

 「曹操は、降伏した黄巾の中から屈強な若者三十万を選び、これを青州兵と名づけて軍の主力としたそうです」関羽が続ける。

 「三十万は誇張だろうけど」劉備は首を捻った。「彼は、どうして袁紹に付いたんだろう」

 「兗州支配を固める上で、袁紹の有形無形の援助を受けたからでしょう」

 「ともあれ、袁術派は、これでますます不利になったね」

 防戦準備を進める平原。

 しかし、曹操軍の来襲は延期された。南陽の袁術の主力部隊が、北上を開始したからである。

 袁術は、荊州の劉表に糧道を抑えられ、飢餓の危機に直面していた。焦った彼は、残った兵糧を引っさげて、袁紹との頂上決戦を行なう決意を固めたのである。今なら、袁紹に勝てると踏んだのだろう。

 袁紹は、さすがに慌てた。彼は、ただでさえ強敵に包囲されている。北に公孫瓉、東に田楷と劉備、西に張燕。この上、南から袁術の大軍に攻められたらたまらない。

 袁紹は、兗州の曹操に迎撃を命じた。

 曹操は、平原侵攻のために集めた軍勢を、次々に南へと進発させたのである。

 「汚らわしい宦官の孫め」袁術は唇をゆがめた。「名門の余に勝てると思っているのか」

 初平四年(一九三)三月、袁術軍四万は、兗州陳留郡の封丘に駐屯した。そこに、黒山賊の残党と匈奴の軍勢が加勢にやって来る。気を良くした袁術は、軍を二手に分けるという失策を犯した。そこに曹操軍十万が襲い掛かり、分散した軍勢を各個撃破していったのである。大敗を喫した袁術は、残兵を纏めて逃走し、南の襄邑城に逃げ込んだ。曹操軍は、これを容赦なく取り囲む。

 「この城は落ちぬぞ」包囲軍に向かって豪語する袁術の顔は、数日にして引きつった。

 堀の堤防が決壊し、河水が城内に流れ込んできたのである。水攻めだ。

 袁術は再び敗走し、曹操は執拗に追撃した。袁術は南陽を放棄し、梁国も保持できず、遥か揚州にまで落ち延びたのである。

 しかし、名門の名声は馬鹿にできない。揚州の州都・寿春を占領した袁術は、ここで再び従前の勢力を回復したのである。何のことはない。苦労して、荊州から揚州へ引っ越したというわけだ。

 いずれにせよ、劉備の属する袁術派にとっての黒星が上がった。曹操の勢力はますます強化され、平原に対する脅威はますます大きくなったのである。

 劉備は、袁、曹連合に対抗するために、青州刺史の田楷はもとより、北海相の孔融や徐州牧の陶謙との連携を強化しようと考えた。

 管亥率いる黄巾軍二万が北海を包囲したとき、劉備は全力で出撃して孔融を救援した。北海相の孔融文挙は、孔子の直系の子孫を自認する名門士大夫である。劉備軍三千は、孔融の部将・太史茲と力を合わせ、黄巾軍の包囲網を突き崩して管亥を討ち取ったのである。

 喜んだ孔融が城門まで出迎えたところ、劉備は恐縮して会釈した。

 「文挙さまが、卑しいこの私をご存知だったとは、こんなに嬉しいことはありません」

 「何を謙遜しておられるか、劉備どの」孔融は手を打ち振ったが、まんざらでもなさそうな表情である。名門意識の強い北海相は、こういったお世辞には弱いのだ。

 劉備は、こうした孔融の性質を見抜いて、巧みにその心を掴んだのである。苦労人の平原相は、こういうことには如才ない。こうして、孔融を中心にした青州の士大夫たちは、一斉に劉備支援に回ったのであった。

 その一方で、劉備は、郡民と分け隔てなく気さくに接し、さまざまな便宜を図ってあげたので、為政者としての評判も鰻のぼりであった。

 しかし、こんな劉備を憎むものもいた。土地の侠客・劉平である。

 ここで、中国における侠客の意義について説明する。

 日本では、侠客というと社会のアウトローの印象が強い。好意的に見ても、国定忠治や清水次郎長のような人物ということになろうが、中国ではもう少し積極的な意味がある。

 中国は古くから、強力な中央集権国家が独裁支配をするというイメージが強いが、実情は、国家権力はそれほど強くないのである。むしろ末端の民生については、国家機構の埒外の民間組織、すなわち、家族や侠客といったインフォーマル組織に頼っている。中国が大家族主義で、一族の絆が強いのはそのためであって、儒教教育のせいとは言い切れない。そして、家族の相互扶助の枠にもれた人々を救済するのが、侠客の役目である。つまり、侠客や無頼漢の組織は、中国社会を維持する上で不可欠の存在なのだ。

 ヨーロッパでは、大家族主義でマフィアの勢力が強いイタリアの国情が、これに近いかもしれない。国家権力ががんじがらめに民衆を支配する日本の事情とは、わけがちがう。

 ところで侠客の組織は、しばしば、国家が腐敗し弱体化した際に革命の担い手となる。黄巾軍だって、広義に解釈すれば侠客の蜂起と位置付けられなくもない。現在の中国政府が、秘密結社の弾圧を強化しているのは、おそらく、為政者たちに自信が無いからなのであろう。

 さて、侠客の劉平は、これまで平原の影の実力者であった。それが、劉備が赴任して善政をしいてからというもの、彼の勢力は凋落の一途なのである。それも当然で、役人が民生をしっかり見てくれるなら、そもそも侠客の存在意義はなくなるのであるから。

 劉備を恨んだ劉平は、彼の抹殺を図った。

 刺客を放ったのである。

 

 犀角と呼ばれる男は、幼い頃に洪水で両親を亡くしてから、諸国を放浪する人生を送っていた。生きるためなら、何でもやった。そのうち、一流の刺客として、暗黒世界で名を知られるようになったのである。

 劉平に大金で雇われた彼は、ある朝、平原政庁の門を叩いた。雇い主にもらった上衣の襟の中には、磨きぬかれた短刀が縫いこまれている。

 「入りなさい」守衛は、笑顔で言った。「相どのは、すぐにお会いになる」

 噂どおりの無防備さだな、と呆れた犀角は、仕事の成功を半ば確信していた。

 謁見室に案内された彼は、部屋の間取りに驚いた。上座と下座の区別がないからだ。これは、どういうことだろうか。

 やがて、目的の人物が入ってきた。緑に染めた更衣を纏った大男だ。噂どおり、両手が長くて耳が大きい。

 「犀角と申します」刺客は、頭を下げた。

 「やあ」大男が言った。「私が郡相の劉備だよ。遠慮なく、その辺に座ってくれ」

 犀角が、床に敷かれた布の上に腰掛けると、劉備はその差し向かいに胡座をかいた。

 「ご飯は食べたの」

 「いいえ」

 「私もまだだから、一緒に食べよう」

 劉備が両手を打つと、若い女中が姿を見せた。食事の支度を言いつけると、劉備は客に向き直った。

 「どうしたの」優しい笑顔で、客の顔を覗き込む。こちらの身分を尋ねようともしない。

 「・・・母親が大怪我をして危篤なのです。貧しいので、満足な薬も買えません」犀角が、口からでまかせをいう。「その原因は、斉水に架かった橋なのです。手すりが壊れていて、老人が渡るのが難しいのです」

 「それは気の毒に」劉備は頷いた。「さっそく調査させて橋を直させよう。おっかさんには、薬が渡るように手配しよう」

 このお人よしの偽善者が、と内心舌打ちした犀角は、着物の襟に手をやった。彼の早業なら、一瞬で仕事は終わるだろう。

 そのとき、扉が開いて、二人の女中が食膳を二つ運んできた。見ると、どちらも同じ彩りの食器を用いた質素な粟飯だ。

 犀角は動揺した。郡長官が、庶民と同じものを食べるなど聞いたことがない。しかも、同じ食器を使うとは。

 「さあ、食べよう」劉備は、そう言うと楽しそうに箸をつけた。「これは、お袋の味なんだ。これを食べると、一緒に筵を編んだり沓を売ったりした昔が懐かしい」

 「相どのが・・・筵や沓を」

 「うん、俺のお袋は、戦乱に巻き込まれて死んだ。死に目にも会えなかったんだ。あれは本当に辛かった。そんなことが、この大陸で毎日起きていると思うと悲しい。だからせめて、あなたのお母さんは助けてあげたい」

 犀角の心は激しく動き、抑えることが出来なくなった。

 「お許しください」叫んだ刺客は、襟から短刀を取り出すと、それを劉備の前に放り出した。「私は、嘘を申しておりました。劉平に頼まれて、あなたを殺しに来たのです」

 劉備は、箸を休めて短刀と犀角の顔を交互に見た。

 「私には出来ません。侠の心を忘れない、情け深い役人は殺せません」そう言って立ち上がった刺客は、肩を震わせながら部屋を出て行った。

 劉平が逃亡したのは、その日の昼過ぎであった。

 この事件の噂は諸国に広がり、仁君・劉備の評判を知らぬものはいないほどになった。

 劉備の特長は、士大夫の教育を受けながら、侠客の魂を併せ持つことである。このような人物は、この時代、極めて異例であった。

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