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長編歴史小説

昭烈三国志

15.飢餓地獄

 

 劉備は、この年になるまで、本当の恋をしたことがなかった。

 行きずりの女と戯れることは多々あれど、それは単なる生理作用というもの。彼は、女性を人間として認識したことがなく、欲望を満たすための道具なのだと思い込んでいたのである。当然、結婚したことなどないし、したいと思ったこともなかった。そういう意味では、本人がしばしば悩むように、心の一部が欠落した人間であったかもしれない。

 そんな彼の考えが変わったのは、麋竺の屋敷に出かけてからである。

 麋竺の妹・麋鈴は、花が好きな少女だった。彼女の部屋には、野で摘んだ花々が所狭しと飾られていて、彼女は花の名を全て諳んじていたのである。

 劉備は、この少女の闊達な人柄が気に入った。

 「鈴ちゃん、俺のお嫁さんにならないか」

 一瞬、きょとんとした少女は、やがて朗らかに笑い出した。

 兄の麋竺にも、否やはなかった。

 こうして、麋鈴は麋夫人となった。

 

 「いやあ、若妻はいい」劉備は、仲間たちとの酒宴では、のろけ話のオンパレードであった。「いやっとばかりに引っ付いて、離れてくれないんだ」

 「へえ、あの鈴ちゃんがねえ」張飛は意外そうな顔で杯を干す。麋夫人は、二十歳になったばかりだったが、童顔で子供っぽい女性だったので、みんなから鈴ちゃんと呼ばれていた。

 「オボコ娘ほど、最初のうちは激しいんだ」関羽が、にやにや笑いで頷いた。

 「そうそう、今が一番楽しい時期ですよ」簡雍も相槌を打つ。

 「ふうん・・・」何となく意気の上がらぬ張飛。

 「もしかして、益徳」簡雍が、張飛の肩を突っついた。「生娘の味を知らないのか」

 「なにおう」張飛は怒気をあらわに睨みつけたので、図星を指されたことがバレバレであった。哀れみを含んだ視線が、彼に降り注ぐ。

 「まあ、待て待て」劉備は笑顔で言った。「そのうち俺が紹介してやる。やっぱり若いのがいいか」

 「ふん」張飛は鼻を鳴らした。「俺は、雲長兄貴みたいに、人妻趣味はないからね」

 関羽は、咳き込んで、口中の酒を吐き出した。彼が、呂布の部将・秦宜禄の妻に岡目ぼれなのは、公然の秘密だったのである。

 

 さて、揚州の州都・寿春に目を移すと。

 ここを本拠地とする左将軍・袁術は、着々と勢力を拡大していた。

 揚州は、たいへんに肥沃な土地柄であるにもかかわらず、袁術に対抗できる大豪族が存在しなかったので、彼は部将を州の各地に派遣して、中小豪族を次々に攻め潰していったのだ。

 袁術の部将の中で、ひときわ大きな活躍を見せたのは孫策であった。あの孫堅の遺児である彼は、まだ二十歳の青年であったが、父の家臣団と部曲(勢力基盤)を受け継ぎ、獅子奮迅の戦ぶりを見せていた。袁術は、そんな彼を江東に派遣したのである。

 孫策は、数年のうちに江東地方を平定してしまった。

 もともと孫家は江東の出身であり、この地の人々の間に信望が高かった。また、それ以上に、この地方の特殊事情が彼に味方したのである。

 長江の南は、当時は漢民族の新興開拓地域であって、異民族との争いが絶えなかった。そのため、この地の人々は、自衛上、大豪族を中核とした戦闘部曲を各地で形成して割拠していたのである。ゆえに、漢帝国が江南に派遣した役人たちは、これらの民間部曲の上に乗った飾り物のような存在であって、その実力は弱かった。

 この事情を知悉する孫策は、強力な民間豪族に事前にわたりを付けて、敵に回った役人たちの足元を掘り崩す作戦を用いて連戦連勝したのであった。孫策が特に頼りにした部曲は、周氏の勢力だった。周氏を束ねる周瑜は、孫策の義兄弟となって彼の覇業を助けてくれた。この二人の友情が、後の孫呉政権の礎となるのである。

 いずれにせよ、孫策の成功は、袁術勢力の拡大強化に直結する。

 自信をつけた袁術は、徐州征討の準備を始めた。

 

 「公路が攻めて来るってか」劉備は、政庁で筆を取り落とした。

 「歩騎三万。率いるのは、紀霊、張勲の二将とのこと」諜報担当の孫乾が報告した。

 「袁紹か曹操に援軍を要請しましょう。そして、篭城するべきです」麋竺は憂い顔だ。

 「でも、城内には備蓄がないぞ」簡雍は、首を左右に打ち振る。「劉さん、税を安くしすぎたね」

 「運を天に任せて、出陣するしかありますまい」陳登は、顎を引き締めた。「南方でなら、現地徴発できるかもしれません」

 「私は、反対です」従事の陳羣が進み出た。「小沛の呂布が、きっと裏切って攻めて来るでしょう。我が軍は、南北から挟み撃ちになりますぞ」

 満座は凍りついた。

 「兄貴、俺に任せてくれ」張飛が叫んだ。「俺が留守を守れば、あんな豚野郎に、指一本ささせねえぜ」

 「うう・・ん」劉備は、首を無理やり前に倒した。「頼むぞ、益徳」

 こうして、劉備直卒の二万が、淮陰に向けて出陣した。従うのは、関羽、陳登、麋竺、その弟の麋芳、そして孫乾である。張飛と曹豹、そして陳羣は、下邳の留守についた。

 しかし、劉備軍を待ち受けていたのは、飢餓地獄だった。

 淮陰の一帯は人口が激減し、徴発できる食糧など一石もなかった。これでは、戦争どころではない。

 劉備にとって幸いだったのは、袁術軍の方も似た状態だったことである。ケチな袁術は、軍隊に十分な糧食を用意しなかったのである。

 こうして両軍とも、敵の輜重を奪って腹を満たすために戦った。敵にロクな輜重がないことが判明すると、敵の捕虜を食らうために戦った。まさしく地獄図である。

 「袁紹も曹操も、こちらに援軍を出す余裕がないようです」孫乾が、こけた頬を水で濡らしながら報告した。「ただ、曹操は、天子に上表して、殿を鎮東将軍・宜城亭侯に任命してくれたとのこと」

 「官位なんて、今はいらねえよ」劉備は、すきっ腹を押さえながらうめいた。「公祐、奴らはどうして忙しいんだ」

 「袁紹は、公孫瓉との戦闘を再開しました。息子の袁譚を総大将にして、青州を攻撃中です。曹操は、長安を脱出してきた天子を迎えるために、黒山や西方豪族たちと戦闘中です」

 「せめて、食い物くらい送ってくれてもいいのに・・・」徐州牧は、力なく肩を落とした。

 だが、餓鬼のような軍隊同士が凄惨な殺し合いを演じている頃、下邳では異変が起きていた。

 

 袁術の密使は、小沛の呂布のもとを訪れた。

 内応して劉備を背後から襲撃してくれるなら、十万石の米を筆頭に、武器、戦具など不足のものを全て用立てするとの趣意である。

 「十万石は大きいな」呂布は大きく頷いた。「この州の人民は飢えておる。この申し出を受けるのが、人民のためだ」

 「しかし」張遼は慌てていった。「恩を仇で返すのは、世評かんばしからず」

 「何を言う」呂布は、意外そうに側近を見た。「大耳は、兵糧も持たずに悲惨な戦をしているというぞ。俺がそれを止めてやるんだ。あいつも喜ぶだろう」

 なんという勝手な理屈。張遼は愕然としたが、呂布は、自分の吐いた屁理屈を本気で信じているらしい。

 参謀の陳宮と部将の高順も首をかしげたが、裏切りは乱世のならいと割り切って、彼らは出陣の準備を始めた。

 一方、下邳では、張飛が張り切っていた。初めて一城を任されたので気がはやってならない。早朝から全兵士を招集して鍛錬を始めた。

 「実戦だと思って、しっかりやれい」怒号する張飛は、鞭をびゅんびゅん言わせながら、動きの悪い兵士を引っぱたく。勢いあまって、命を落とす兵士が続出した。

 「くたばるとは、根性がないわい」

 いつしか日が傾き、夕刻になっても鍛錬は終わらなかった。兵士のほとんどが、食事も与えられなかったために体力が尽きてへたりこむ。そんな彼らにも、容赦なく鞭が飛んだ。

 「殿と前線の兵は、今ごろ、食事もとらずに戦しているんだ。お前ら、彼らのことを考えて歯を食いしばれ。根性を俺に見せてみろ」張飛は、ますます猛り立っていた。

 見るに見かねた部将・曹豹が、張飛のところに駆け寄った。

 「益徳どの、いいかげんにしないか」

 「なんだ、おめえ。俺に逆らうのか」

 「このままじゃ、みんな死んでしまうぞ」

 「弱い兵が死ぬのは大いに結構だ。口減らしにならあ」

 「なんだって」曹豹は、思いがけぬ冷酷な返答に、顔を引きつらせた。「殿は、そのような事は望んでいないはずだ」

 「兄貴と俺は、違う人間だ」張飛は、どんぐり眼を細くする。「今は、この俺が城主だから、この俺のやり方で行く。文句あるか」

 「あるとも」曹豹は、腰の剣を抜いた。

 「てめえ、俺とやるってえのか」張飛は、口をあんぐりと開けた。「さては、俺が素人童貞だからって嘗めていやがるな」

 「なに、なんだって」

 「思い知れ、おらあ」

 張飛の右拳が、曹豹のこめかみに直撃し、武官の体は錬兵場の大地に叩きつけられた。そして、それっきり動かなくなった。

 「おい、曹豹」張飛は慌てて助け起こしたが、武官の息は絶えていた。よほど打ち所が悪かったのだろう。

 錬兵場は、大混乱になった。兵士たちは、恐慌に駆られて四散する。

 「おい、ちょっと」張飛は慌てて駆け出したが、彼らを止めるには遅すぎた。

 呂布軍が攻め込んだのは、ちょうどその時だった。張飛の冷酷非情ぶりに呆れ返った下邳の守備兵が戦わずして城門を明け渡したため、たちまち匈奴騎馬軍が城内に充満する。

 「ちくしょう」張飛は頭を掻き毟った。「これじゃあ、戦になんねえ」

 城内を逃げ惑う兵と民衆に押される形で、張飛は城外に飛び出した。見上げると、櫓には呂布の旗がたなびいている。もはや、どうしようもない。張飛は、ほとんど身一つで南へ向かって駆け出した。

 残された陳羣と劉備の妻は、なすすべもなく捕虜になった。

 

 劉備は、本拠地の異変を、三日後に張飛の口から直接聞いた。

 「陳羣の言ったとおりになったな」盱眙の本営で、劉備はぽつりと呟いた。

 「私の不明です。呂布を信じるべきではありませんでした」陳登が歯軋りする。

 「君のせいじゃない」劉備は、陳登の肩を叩いた。「あいつの亡命を受け入れた時点で、今日のことは決まっていたんだ」

 「そんなことより、兄者の奥方が心配です」関羽がうめいた。

 「あいつ、身ごもったんだ」劉備は、義弟を振り向いた。

 「えっ」

 「一昨日の手紙に、そうあったんだ。驚かせたいから、みんなには内緒にしておいてって書いてあった」

 「鈴ちゃんらしい」簡雍が目を落とした。

 そのとき、帷幕の入り口で立ち尽くしていた張飛が、本営を支える支柱にしがみつき、その頭を柱に打ちつけ始めた。その額から血が流れ出し、柱を真っ赤に染める。

 「おい」「やめろ」みんなでしがみついて、彼の体を柱から引き離す。

 「死なせてくれよ」張飛は号泣した。「恥ずかしくて生きていられないよ」

 その頬を、関羽の拳が打ち据えた。

 「ばかめ。どうせなら、呂布を倒して奥方の無事を確かめてから死ね」

 わんわんと泣きじゃくる義弟を前に、劉備はなぜか冷静だった。周りが大いに狼狽しているので、かえって醒めてしまったということもあるが、もともと逆境を苦にしない、図太い神経の持ち主だったからである。

 「とにかく、このままでは挟み撃ちになる。前面の袁術軍が動き出す前に、逃げようじゃあないか」

 総大将の沈着な提案に、満座は落ち着きを取り戻した。確かにそのとおりなのだ。

 その翌日、劉備軍一万五千は、東へ向けて撤退を開始した。

 幸いなことに、袁術軍は追撃をして来なかった。彼らも飢え、疲れきっていたからである。それでも重い腰を上げて、呂布と合流するため、ゆるゆると北上を始めた。

 一方、飢えに苦しむ劉備軍は、背後を気にしながら進軍を続け、海西郡に入った。その途中、脱落者が続出して軍勢は日増しにやせ細った。体力が尽きて倒れた者は、味方の兵士に食われた。気がついてみれば、その軍勢には一千名しか残っていなかった。

 一ヶ月の行軍ののち、疲労困憊した彼らの前に青い大海原が広がった。飢えた兵は、魚貝を獲り海藻をほおばって、ようやく人心地をつくことができたのである。

 「この海の向こうには」陳登が言った。「倭という島国があるそうです」

 「ふうん」劉備は、潮風を浴びながら、陳登の指差す先を見つめた。

 「秦の始皇帝の御世、道士の徐福が、不老長寿の薬を求めてこの海を渡ったそうです。もしかすると、倭の国で今も生き続けているかもしれません」

 「四百歳か」劉備は指を折った。「すごいな、そんなに生きてどうすんだ」

 「倭の皇帝になっているんじゃないですか」

 「そこは、食い物は多いのかな」

 「ここよりは多いでしょう。住民も、礼儀正しくて、のんびりしているみたいですよ」

 「良さそうな国だね。俺も、倭の皇帝になろうかな」劉備は、そう嘯くと兜の泥を拭った。「でも、船がなけりゃ渡れないか」

 「それにしても、呂布も袁術も攻めてきませんね」陳登は、背後の陸地を振り返った。

 「俺たち、忘れられた存在になったんだ。共食いして全滅したとでも思われてるんじゃないか」劉備は、笑顔で怖いことを言った。

 

 実は、呂布と袁術の関係は、既に破綻していた。

 袁術が、約束の物資を送って寄越さなかったからである。

 下邳の郊外で袁術軍を出迎えた呂布は、急ごしらえの宴の席で、しきりに報酬を要求した。しかし、紀霊、張勲両将は、主君に何も聞かされていなかったので、口篭もり、とまどうばかり。彼らは取りあえず寿春に帰還し、主の真意を聞いてくることとなった。そして、話はそれっきりになったのである。

 「名門のくせに、約束を破るとはどういうことだ」呂布は歯軋りしたが、裏切り常習犯の彼に道徳をうんぬん言う資格はないだろう。

 名門意識の高い袁術は、呂布のことなど人間扱いしていなかったので、約束を破ることに何の呵責も感じなかったというわけである。

 劉備は、これらの動向を住民の噂話から知ると、意外な決意を満座に披露した。

 「呂布に降参しよう」

 「な、何ですって」群臣は、一斉に声を上げた。

 「陳羣と女房は、城内で無事に保護されているらしい。下邳の民衆も、略奪や暴行は受けていないようだ。呂布は、少なくとも董卓のような悪人ではない。きっと、我々の投降も受け入れてもらえるよ」

 「そういう問題じゃないでしょう」関羽は舌打ちした。

 「兄貴には、誇りとか意地とかねえのかよ」張飛も叫ぶ。

 「だって、他に手段はねえだろうが」劉備は、悠然と微笑んだ。

 こうして、劉備の敗残軍は下邳への道を辿ることとなった。

 この判断は、劉備という人物の特異な個性を浮き彫りにしている。

 現在の状況を冷静に分析し、誇りや意地といった非合理な感情要素を排除すれば、確かに答えは降伏の一手しかない。だからといって、普通の人間は、なかなかそうは思い切れない。ところが、劉備は、確固たる政策ポリシーを持っていないし、欲望も淡白なので、地位や名誉に拘らず、恥を恥とも思わぬ厚顔さがあった。それだからこそ、心理的抵抗をさほど感じずに究極の選択ができるのだ。しかし、このような淡白な性格の人が、本当に乱世の英雄になれるのか、誰もが首をかしげるところだろう。

 いずれにせよ、劉備の読みは的中した。

 呂布は、大喜びで敗残軍を迎え入れたのである。

 「耳君、耳君」彼は、愛馬・赤兎を駆って城門まで出迎えた。彼の部下たちも左右に従う。「無事でよかったな。心配してたんだ」

 「ああ、心配かけたね」薄汚れた鎧を纏った劉備は、薄い無精髯を撫でながら、笑顔で応えた。

 「耳君の留守中、この城内で内紛が発生してたいへんだったんだ。俺たちが抑えに入って、ようやく収まった。俺たちの活躍で、民衆も君の家族も、みんな無事だよ」

 張飛が、いきり立って飛び掛かろうとしたが、劉備の右手がその肩を押さえて引き戻した。

 呂布は、無邪気な笑顔で見つめてくる。彼はどうやら、本気で自分がこの城を救ったと思っているらしい。実に不思議な精神構造だ。自己のための行動を、何だって正当化できる心の造りになっているのだろう。このような人物に、理屈を言っても無駄である。劉備は、そう理解した。

 やがて、呂布の後ろから、麋夫人が飛び出してきた。

 「あなた」

 「鈴ちゃん」

 抱き合う二人。劉備は、妻を抱き上げてその下腹に頬を押し付けた。新たな命の鼓動を聞こうというのだ。みんな微笑んで、そんな夫婦を見守る。

 

 劉備たちは、下邳の城内でくつろいだ。

 呂布は、占領後の城内での狼藉を禁止していたので、治安は頗る良かった。呂布は、野生児ではあったが、前の主・董卓のような非道な人間ではなかった。感覚が人と少々違うだけで、内面は紳士的な男だったのである。麋夫人も、実に丁重な扱いで保護されていた。

 「安心したよ」劉備は、浴場で顔をこすりながら関羽に語った。「これなら、呂布に州牧を譲っても大丈夫そうだ」

 「州牧を譲る、ですって」隣で垢を削っていた関羽が、目をむいた。

 「忘れちゃいけないよ。俺たちは降参人なんだ。下手に逆らうと命が無い。助かるためには、それしかないだろう」

 「しかし、何と言う口惜しさか」関羽は、目を潤ませた。両手にすくったお湯で、溢れる涙を洗い流す。

 「焦ることはない」劉備は、柔和な目の底で光を輝かせた。「今は、雌伏の時だ」

 ちょうどそのころ、呂布の参謀・陳宮は、ある決意を胸にしていた。

 「劉備玄徳」陳宮は、顎に手をやった。「恐ろしい男だ。誇りを投げ捨てて、ここまで卑屈に徹するとは、胸中に遠謀を抱くたいへんな人物に相違ない。これは、生かしてはおけぬ」

 彼は、部将の郝萌に密命を発した。

 そうとは知らぬ劉備と関羽は、浴室を出て身繕いをすると、襦袢を夜風に当てながら宿舎へと歩いた。城の閉門の時を告げる太鼓の音が、耳に心地よい。

 「益徳は、まだ怒っているのかな」

 「ずっと、居間の床に頭を打ち据えていましたよ」

 「もうちょっと、大人になってもらわんと」

 「あなたが、大人すぎるのです」

 「でも、今夜は、鈴ちゃんの胸の中で子供になるんだもん」

 「やれやれ、また始まった。好きにしてください」

 「あははは、妬くな、妬くな」

 「ふん、俺だっていつかは幸せになってやるんだ」

 「せいぜい頑張りな。秦宜禄の家に夜這いでもかけたらいい」

 「・・・今の呂布との関係では難しいですな。だいたい、文遠(張遼)とだって、再会後、直接の付き合いはしていません。手紙のやり取りだけです」

 「ふうん、なんで。こんなに近いのに」

 「あいつも辛い立場なのです。呂布の部下たちは、派閥を作って互いに足の引っ張り合いをしています。あいつは、私との友情が、讒言の種になることを恐れているのです」

 「面倒くさいな。・・・その点、俺たちは大丈夫だな」

 「州牧にしては、組織の規模が小さいですから」

 「ううむ、残念ながらそのとおり・・・」

 そのとき、馬蹄の音が鳴り響き、二十名ほどの騎馬武者が、路地の向こう側から姿を見せた。みんな戟を横たえて、覆面をしている。

 「誰だ」関羽は鋭く叫び、駆け寄った従者の手から青龍刀を取る。

 覆面武者たちは、おめき声を上げながら突貫してきた。

 「雲長、逃げろ」雌雄一対を手にした劉備は、従者たちに守られながら、後ろに走り出す。

 路地には人影がなかったが、狭い通路の中で騎馬武者たちは渋滞した。それでも、なかなか逃げ切ることはできない。いつしか、袋小路に追い詰められた。

 「やるしかないか」劉備は、両手に握った剣に力を込める。

 「こっちにも馬があれば、二十人ていどなぞ屁じゃないんだが」関羽も、青龍刀を上段に構えて唇を噛む。

 四人の従者たちは、彼らを円状に囲んで守り抜こうとしていた。

 覆面の騎馬武者たちは、彼らの武勇を恐れてか、慎重に間合いを詰めてくる。

 そのときであった。彼らの後方から、夜目にも鮮やかな真っ赤な馬が飛び込んできたのは。

 「赤兎」劉備は叫んだ。

 赤い馬に乗っていた呂布が、振り向きざまに三人の覆面を斬り倒していた。らんらんと眼光を輝かせた野生児は、目にも止まらぬ早業で戟を繰り出していく。劉備たちも加勢したため、覆面たちは総崩れとなった。

 首領らしい男は、慌てて逃げようとしたが、後ろから襟首を掴まれて落馬した。

 「謀反人め、顔を見せやがれ」呂布は、馬から飛び降りてそいつを立たせ、覆面をはぎとった。

 「てめえ、郝萌じゃあねえか」

 「と、殿・・・」唇から血を流した、赤ら顔の部将がうめく。

 「誰の差し金で、俺の弟を狙った」呂布は、両手で首をぐいぐい締め付ける。

 「う、ううう・・・・ち、ち」

 「そうか、陳宮か」呂布の目は冷酷な光を放ち、郝萌の首は、音を立ててへし折れた。

 死体を片手でぶら下げながら、野生児は劉備たちを振り返った。

 「これで、俺の指図じゃないことが分かってもらえたかな」

 「あ、ああ」劉備と関羽は、生唾を飲み込んだ。「奉先どの、どうしてここへ」

 「久しぶりに、耳君と一杯やりたくてな」呂布は、赤兎の馬腹にくくられた酒壷を指差した。しかし、その夜の酒宴が取りやめになったことは言うまでも無い。

 その翌朝、政庁に劉備たちと自分の部将連を集めた呂布は、昨夜の事件を手短に語ると、拳を振り上げて叫んだ。

 「郝萌に謀反をそそのかした奴、名乗り出ろ」

 満座は動揺してざわめいた。そして、進み出たのは陳宮だった。

 「謀反ではありません」士大夫は、堂々と胸を張った。「全ては、殿のために仕組んだことです。今ここで劉備を倒さなければ、後で必ず後悔しますぞ」

 「いい度胸だ」呂布は、腰の刀を抜いた。「俺に黙って軍を動かすのは軍令違反だ。この場で殺してやる」

 「お止めください」候成、魏続、宋謙が口々に言った。「我々も、陳宮どのの見識に賛成です。劉備を信用してはなりません」

 「なんだとお」

 「待ってくれ」劉備が、たまりかねて叫んだ。「徐州牧は奉先どのに譲る。俺たちは、小沛に移る。それでいいだろう」

 満座の空気は、たちまち和らいだ。問題の人物が、権力を捨てて城から去ってくれるなら、事は一挙に解決するのである。

 「弟よ」呂布は、劉備に抱きついた。「お前、本当にいい奴だな」

 「いやあ、降人として当然でしょう」

 「そうか、ならば豫州牧となって、西の州境を守ってくれ」

 さっそく、主君面して任命権を行使する無邪気な呂布であった。

 こうして劉備たちは、痩せ細った軍勢を連れて小沛に移った。部下たちは、概ねこれに従ったが、陳羣と陳登は下邳に残った。陳羣は、父とともに隠棲するために。陳登は、呂布を陥れるために。

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