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長編歴史小説

昭烈三国志

19.沛城陥落

 

 建安三年(一九八)正月、劉備は、新年の挨拶に来た部下たちと無礼講で語り合った。

 劉備の横に座る麋夫人の腕には、女の赤ちゃんが抱かれている。前年の冬に生まれた桐である。劉備にとって始めての子供であるから、可愛いくて可愛いくて仕方がなくて、いつも身近に置いていた。

 劉備と向かい合って座る張飛の隣にも、若く美しい女性が座している。彼が去年の秋、狩猟の途中で出会って見初めた夏侯氏の女性・淑である。熱烈に口説いて結婚にこぎつけて、はや二ヶ月。彼は、夢のような日々を生きていた。

 その横に座る関羽は、未だに一人身だった。頑固に、人妻のことを想い続けているらしい。その傍らには、『春秋左氏伝』が積まれている。彼は、最近は学問に凝っていて、肌身離さず書物を持ち歩いているのであった。

 その他の面々は、簡雍、麋竺、麋芳、孫乾、陳到、劉琰とその家族である。みんなこの土地に落着いて、ようやく人間らしい生活に馴染んでいた。

 「ここに移ってから、もう一年半になるんだなあ」劉備が感慨深げに呟いた。

 「一つ所にこんなに長くいるなんて」と、関羽。

 「我々が出会ってからの最長記録ですよ」簡雍が笑う。

 「まるで、百姓になったみたいだ」張飛が、右手の指先で愛妻の髪飾りをいじりながら言った。

 「でも、我々の知人の運命は、大きく変わりました」麋竺は、いつもと変わらぬ真剣な面持ちである。「袁紹は青州を完全に制圧し、田楷どのは殺されて、孔融どのは許都に亡命したそうです。幽州の公孫瓉どのは、袁紹の猛攻に耐えかねて、易という地に大要塞を築いて立て籠もったそうです」

 「こりゃあ、いずれ、袁紹と曹操の対決になるな」孫乾が唸った。「先に、勢力を安定させた方が有利になる」

 「だから、袁も曹も、しゃかりきになって外征を繰り返しているのだ」劉琰が、髯をひねりながら言った。この人は、劉備がこの地に来てから招聘した新参の士大夫である。

 劉備は、無言で妻の手から赤ちゃんを取り上げると、しげしげとその寝顔に見入った。

 「徐州の呂布は、どうなるのかな」と、陳到。この人は、兵卒上がりの部将だ。

 「曹操は、倒したいのでしょう。それも、袁術が立ち直る前に」簡雍。

 「・・・今年中に、嵐が来るだろうな」麋竺は、腕を組んで目を落とした。

 「兄上の言うとおりなら、こうして車座になって家族と語らえるのも、これが最後かもしれない」麋芳は、切なげに満座を見渡す。

 「何を言うか」張飛は歯軋りした。「あの禽獣から徐州を取り返して、今度は下邳で車座を作るんだ。そのときは、雲長兄貴の奥さんも一緒に座っているはずさ」

 「ありがとうよ、益徳」関羽は、書物から目を離して、義弟に優しい目をくれた。

 

 三月、曹操は再び張繍攻めに三万の軍勢を進発させた。

 陣頭に立つ曹操は、淯水のほとりまで来ると、昨年戦死した典韋たちを悼んで黙祷し、そして落涙した。敵討ちに燃える兵士たちの士気は、大いに高まったのである。

 しかし、張繍が劉表の援軍を得て迎え撃ったため、曹操軍は苦戦となる。なんとか穰城を包囲するが、五月に入って、またもや袁紹軍南下の噂が入った。仕方なく包囲を解いて撤退する曹操軍を、張繍の軍勢一万が執拗に追跡した。そして、劉表軍五千は、先回りして安衆県を押さえる。挟み撃ちだ。

 「張繍め、これで勝ったと思うなよ」

 曹操は冷静だった。安衆の手前に到達した彼は、塹壕を掘って、輜重隊と兵の半数一万五千をその中に隠れさせたのである。

 鬼算深謀の軍師・賈詡も、この策略を見抜くことができなかった。曹操軍の半数が、負け戦を前に逃散したと思い込み、安易に攻撃を命じたのである。

 曹操軍は、包囲されて死地にあったため、逃げ場を失った兵の戦意は、ただでさえ強固であった。それに加えて、塹壕から大軍が飛び出したのだ。奢る張・劉連合軍は、予期せぬ猛反撃を受けて、致命的な敗北を喫したのである。

 この大敗によって、張繍の勢力は、二度と攻勢に出る能力を失ってしまった。これは、曹操にとって極めて重要な勝利であった。

 曹操軍の次なる標的は、呂布だ。最大のライバルである袁紹が公孫瓉に止めを刺す前に、呂布の勢力を潰しておかねばならない。

 

 曹操が西で目覚しい戦果を挙げているころ、劉備も豫州東部の安定に奔走していた。

 このころ、白波賊残党の楊奉と韓暹は、先の戦争で袁術から呂布に寝返ってみたものの、その後、呂布が兵糧を補給してくれなかったため飢餓に陥り、豫州に侵入して略奪を繰り返していた。

 豫州牧・劉備は、彼らを討伐する決意を固めた。

 「無駄に兵を損ずる事はない。謀略を使おう」

 劉備は、楊奉と韓暹を酒宴に招いた。予期せぬ誘いにとまどって、二人は相談した。

 「劉玄徳は、仁君だという。きっと我らに食料を与えて味方にしようというのだ」

 「いや、危ないぞ。劉玄徳は曹操の一味だ」

 意見が割れたため、楊奉が一人で招かれる事となった。そして、彼の運命は窮まった。宴半ばにして劉備に逮捕されたのである。

 「貴様、俺をどうするつもりだ」縄をかけられ刑場に引き出された髯面の武将は、唾を飛ばしながら叫んだ。

 「お前は、朝廷を脅かした逆賊だ」劉備は、刑場にしつらえた上座から厳かに言った。「その悪事を悔いるどころか、今また、我が州で良民を苦しめている。朝廷に仕える豫州牧として、その罪業を許すわけにはいかぬ」

 「何が朝廷だ。奇麗事を言いやがって」楊奉は睨んだ。「許昌の天子は、曹操の飾り物だ。寿春の天子は、天命に見放された偽者だ。本当の天子は、これから現れるのだ。それがお前であっても俺であってもおかしくない。俺を殺すと、後できっと後悔するぞ」

 「お前のような山賊が、天子になれると思っているのか」

 「ふん、漢を興した高祖劉邦だって、秦の役人に追われて山賊をしていたじゃないか。天命は、誰に降りてくるか分かりはしない」

 「高祖を冒涜するな」劉備は激怒した。最も尊敬する人物の名が、楊奉ふぜいの口から出て来た事が気に入らなかったのだ。「早くこいつを斬れ」

 首切り役人の一閃で、楊奉の首は地に落ちた。

 そのしばらく後、韓暹討伐に出動していた関羽、張飛、陳到の軍が、城下に帰ってきた。彼らは、楊奉の逮捕を知って浮き足立つ韓暹軍に強襲を仕掛け、これを大破させて帰ってきたのである。

 「逃げ足の速い奴でしてな、首は取り損ねました」関羽が無念そうに言う。

 「長年連れ添った相棒を失ったんだ。奴の命運もこれまでだろう」劉備は、悠然と笑顔で出迎えた。

 劉備の予見どおり、韓暹は逃亡中に部下に寝首を掻かれたのである。豫州牧は、二人の首を許昌に送った。朝廷は大いに喜んで、金品と感状を届けてくれたのである。

 劉備の心に嬉しさが染み渡った。

 「やっぱり、俺は漢朝の臣下なのだな。これからも忠勤に励まねばなるまい」

 劉備という人物の奇妙なところは、天下に名を知られた豪傑であるにも係わらず、自分がこの乱世で何を成し遂げたいのか見えていないことである。漠然と「乱世の英雄」になりたいと思っているだけで、その具体的な中身について考えたことがない。だから、方針がすぐに変わるのだ。公孫瓉から陶謙に、呂布から曹操に鞍替えしても、それほど心に葛藤を抱かない。今の彼は、朝廷の忠臣としての自分の姿に酔っていた。

 そういう無邪気なところは、主君を次々に代えながら悪びれない呂布に良く似ている。

 もっとも、仕方ない面もある。劉備も呂布も、共に辺境から裸一貫で挙兵して、頼るべき親族もいない状態だから、一寸先の情勢も読めないこの乱世で、確固たる方針を持てというほうに無理がある。共に、州牧の地位に就いただけでも、大成功として誉めてあげるべきであろう。

 しかし、今やこの似たもの同士に運命の岐路が待ち受けていた。

 

 袁術勢力の衰退は、呂布の勢力を不安定にしていた。西の劉備と南の孫策は、共に曹操の一味である。北の青州から迫る袁紹も、建前の上では曹操の盟友だ。次なる曹操の狙いが、徐州を「不法占拠」する呂布になることは明白な情勢であった。

 「包囲網を破りましょう」陳宮が進言した。「まずは西の劉備を撃ち、前哨陣地を確保するのです」

 「私は反対です」陳登が言った。「劉備を攻撃すれば、我々は逆賊の汚名を着ることになります。討伐するなら、偽帝・袁術でしょう」

 「江東の孫策は、先ごろ呉郡に侵入し、君の一族・陳兎どのを殺した」陳宮は、広陵太守を鋭く見つめた。「これは、曹操の次なる攻撃目標が、我が州であることを示唆している。座して滅ぶのを待つよりは、曹操が張繍に手こずっている今こそ、全力で打って出るべきだ」

 呂布は、上座に座って二人の部下の口論を聞いていた。二人の議論は、甲乙つけがたく思われたので、彼は心中で頭を抱えた。

 呂布政権の内幕は、極めて不安定であった。彼の勢力は、三つの派閥から成り立っていた。第一に、并州出身の騎将、張遼、高順、魏続、宋謙、侯成、秦宜禄ら。彼らは、呂布が丁原の部将だったころからの仲間である。第二に、兗州出身の士大夫、陳宮、許汜、王楷ら。彼らは、呂布が曹操領の兗州に侵入したとき、彼を手引きした人々である。そして第三に、徐州出身の士大夫、陳珪、陳登親子ら。彼らは、呂布が徐州牧を自称したころからの配下である。

 これら三派同士の仲は、軍師の陳宮に人望が無いせいもあって険悪であった。そして、これを取りまとめるべき立場の呂布には、調整のための政治能力が欠けていた。

 つまり、呂布勢力の実態は、寄せ集めの集団だったのである。

 困った呂布は、妻の顔を見に行った。家臣団が口論して採決できないとき、彼はどういうわけか妻の意見を聞くことにしていたのである。

 「娘を名門・袁家に嫁がせたいわ」妻の厳氏は、夫の目をまっすぐに見てそう言った。

 「そうか」呂布は大きく頷いた。「ならば、袁術と組んで劉備を攻めるのが良さそうだな」

 こうして、徐州の政治方針はまたもや変わった。建安三年(一九八)九月、袁術に同盟を求める使者を出すと同時に、沛城に向けて三万の兵を進発させたのである。これを率いるのは、張遼と高順。軍師として陳宮も同行した。

 急を知った劉備は、慌てて軍勢を整えた。豫州牧としては、逃げ出すわけにはいかない。彼の軍勢は、一万二千であった。

 「兵が足りない」劉備は唇を噛んだ。「曹操どのに援軍を頼んでくれ」

 孫乾は、譙郡へと馬を駆った。ここには、片目の猛将・夏侯惇がいる。

 急を知った夏侯惇は、ただちに三千の兵を率いて救援に向かうと答えたので、安心した劉備は、篭城を決意した。

 「時間を稼ぐのだ。いずれ、孟徳の本隊が来てくれる」

 しかし、予期せぬ悲報が届いた。急行中の夏侯惇軍が、高順の待ち伏せを受けて敗退したというのだ。

 孤立無援の沛城の前面は、呂布軍の堅陣に埋め尽くされた。

 「このままでは包囲されます」関羽が唸った。

 「打って出て、機先を制するべきでは」張飛も詰め寄った。

 「よし、やろう」劉備は拳を振り上げた。「一撃を与えてから篭城だ」

 東門を開けた劉備軍は、魚鱗の密集陣を組んで突撃した。前面に蟻集する戦車や歩兵隊を蹴散らして直進すると、そこには敵の攻城機械と多量の強弩が山積されていた。

 「しめた、これを破壊すれば、篭城は成功も同然だぞ」喜んだ劉備と二人の義弟は、お宝に群がって陣形を大きく崩したのである。

 「ばかめ、引っかかったな」陳宮は後陣でほくそ笑んだ。「戦を知らぬ山猿め。虎の子の攻城兵器が、そんなところに無造作に置かれているのを不審に思わぬのか」

 彼の合図と共に、後方に待機していた騎馬軍団が襲い掛かった。彼らは、劉備軍の脆弱な左右を突破して、たちまち後方に回り込んだのである。

 「しまった。みんな退け」劉備は絶叫したが、彼の周囲は、反撃を開始した敵によって完全に包囲されつつあった。

 「城には戻れません」関羽は、赤ら顔を興奮で、青龍刀を鮮血で真っ赤に染めて叫んだ。「兄者、こうなったら手薄な右から突破しましょう」

 「ちっくしょう、雑魚ども、どきやがれい」張飛が、虎髯をふるわせながら蛇棒を水車のように振り回して道を拓いた。彼の一撃を浴びたものは、人も馬もひしゃげた血袋と化す。

 三兄弟は、一丸となって右方突破を目指した。逃げ遅れた兵は、彼らの後方で餌食となって倒れ伏す。血煙のすさぶ阿鼻叫喚の世界だ。

 なにげなく城を見ると、城壁の上で剣戟を交える兵たちの影が映る。

 「鈴ちゃん、桐ちゃん」劉備は口中で、城に残してきた妻子の名を呼んだ。

 彼の横を騎走する張飛も、切なげな視線を城に向けて何やら呟いていた。

 いつしか突破軍の先頭に位置した関羽は、その前に立ちふさがる懐かしい姿を目にした。

 「おお、文遠」思わず目を細める。

 「雲長どの」目礼した張遼は、馬上で戟を上段に構えると、素晴らしい勢いで旧友に打ちかかった。「ごめん」

 二人は、互角の技量で渡り合った。

 関羽は、青龍刀で戟を受け止めると、無言の言葉を発した。兄弟は逃がしてやってほしいと。張遼は、二頭の馬腹が交錯する瞬間にそれを悟った。彼は、左手を頭上に挙げて、部下たちを自分の周りに集めた。その一瞬の隙を突いて、劉備と張飛は包囲網を抜け出ることができたのである。

 関羽は、左横から飛び掛ってきた騎兵を斬り倒すと、笑顔で旧友に目礼した。張遼の目は、それに応えると、すかさず右に流れた。右に隙を作るから、そこから逃げろというのだ。

 「かたじけない」関羽は、素早く馬腹を巡らせて、立ちふさがる雑兵を打ち払いながら兄弟の後を追っていった。

 しかし、彼らの後方では、沛城が落城の炎を巻き上げていた。城頭に次々と翻る『呂』の旗は、敗走する劉備たちの心を残酷にえぐった。

 「文遠、なぜ奴らを逃がしたか」騎将の高順が、旗下の騎兵一千を引き連れて左翼に進出してきた。

 「・・・奴らは手ごわかった」張遼は、同僚から目をそらす。

 「よかろう、このことは不問にしてやる。お前は、ここで待機しておれ」高順は、左手を高く上げて合図すると、部下たちとともに劉備の後を追った。

 

 高順の執拗な追撃を受けて、劉備軍は四分五裂の状態となった。歩卒は餌食となり、騎兵は逃げ切れずに討ち取られるか投降していく。残った兵は、散り散りになって西を目指したが、もはや軍隊の形を留めてはいなかった。

 「ひどい負け方をした」劉備は、疲労困憊して、沛から西に遠く離れた山肌に倒れ伏していた。その傍らに控えるのは、張飛ただ一人である。「戦は謀略で決まると分かっていながら、むざむざと陳宮にしてやられたわ」

 「張遼に目こぼしをされた」張飛は、そのことが悔しいらしい。「・・・情けねえ」

 「雲長は無事だろうか。孫乾や麋竺たちは逃げきれただろうか」

 「どうして、家族のことを気にしないんだ」張飛は、横目で睨む。

 「・・・・・」劉備は目を落とした。

 「今ごろ、みんな捕まって殺されているかもしれねえ」

 「奉先は、そんなことはしない。女子供はきっと無事だ」

 「分かるもんかよ」張飛は叫んだ。「俺は行くぜ。助けに行くぜ、一人でも」

 「曹操と合流してからだ。曹操を待とうよ」

 「・・・兄貴はここにいてくれ。俺は、様子を見てくる」

 「益徳、無茶はするなよ」

 張飛が去り、劉備はただ一人、星空の下で横たわっていた。いつしか疲れは癒えたが、この空腹には耐えられない。

 そのとき、山間の茂みから音がした。

 慌てて身を起こした豫州牧の前に、一人の木こりが現れた。粗末な身なりの訪問者は、驚きを隠せない様子だったが、やがておずおずと切り出した。

 「殿様でがしょう」

 「うむ」頷いた劉備は、腰の剣に手を置いた。「どうして分かる」

 「その大きな耳ですがな」乱くい歯が、夜闇の中でかすかに光った。

 「いかにも俺は劉備だが、あなたは」

 「御覧のとおりの木こりです。李班といいます。ここは虎が出るので危険ですがな。あっしについてらっしゃいませ。夜露はしのげますよ」

 純朴そうな木こりの様子に安心した劉備は、彼について山奥へと分け入った。

 木こりの粗末な家は、山中の集落の中にあった。十二人もの大家族だ。四人の老人と一人の妻、そして六人の子供たちが賑やかにしている。

 木こりの妻に鹿の肉を振舞われた劉備は、ようやく空腹を癒すと、居間の片隅に場所を借りて横になった。夜はしんしんとふけ、月明かりが窓から子供たちの寝顔を照らす。のどかな空気の中で、なんとなく敗戦の痛みが癒される自分を感じていた。

 「妻子は今ごろ殺されているかもしれん」劉備は漠然とそう思った。「義弟たちも、無事とは限らない。そうなったら、俺の覇業も終わりだ。何もかも捨てて、ここで炭焼きにでもなるのが幸せなのかもしれないな」

 その翌朝、劉備は木こりに斧を借りると、薪割を始めた。周りの人々は、恐縮して止めさせようとしたが、劉備は聞かなかった。こうして村人の中に溶け込んでいる方が、追っ手に見つかりにくいだろうとの計算もあったのである。

 昼になると、集落の人々が木こりの家に集まった。劉備は、気さくにみんなと話をして、山菜汁をすすった。仁君の噂の高い州牧と身近に歓談できる喜びで、集落は沸き立った。州牧本人も、俗世間を離れた純朴さに触れて大いに慰められていた。彼の印象に残ったのは、つぶらな瞳をした一人の少女が、赤ん坊を抱きかかえる姿だった。この辺りでは、母親になるのが早いらしい。

 そろそろここを出ようと考えた劉備は、集落の人々に引き止められた。もう一晩、泊まって行ってほしいという。押し切られて頷いた彼は、その日の午後は弓矢を借りて狩に出かけた。何か獲物をとって、恩に報いようと思ったのである。しかし、獲物になりそうな動物はほとんど見かけなかった。鳥すら鳴かぬ冬山の、昨日の鹿肉は何だったのだろう。劉備は、汗を拭いながら首をかしげた。

 その夜の食事も鹿肉だった。どう見ても獲りたての新鮮な肉だった。夕餉には、昼に歓談した人々が大勢集まっていた。つぶらな瞳の少女もいた。彼女の胸には、赤ん坊の姿はなかった。

 劉備は、全てを悟った。彼の目からは涙が溢れ出た。

 「俺は間違っていた。この人たちは、大きな犠牲を払って俺を支えてくれている。この期待に応えなければならない。覇業を捨ててはならないのだ」

 その翌朝、劉備は乗馬を斬り殺すと、その肉を集落に提供し、自分は徒歩で山を西に越えた。なんとかして、曹操の勢力と接触しなければならない。

 山を越えたところは、梁国の田園地帯だった。人々が屯田で働いている。ここまで来れば安心だ。

 この地を治める士大夫は、甘粛という人物であった。州牧の劉備は、もちろん彼と面識があったが、その領土を訪れるのは初めてである。そして甘粛は在宅中で、敗残の豫州牧を両手を広げて出迎えたのである。

 そして、屋敷の中では関羽と張飛が待っていた。張飛は、劉備と別れて東に向かった直後に関羽と出会い、敗残兵を収容してこちらに来たのだと言う。

 「心配したぜ、兄貴。さんざん探したんだよ」張飛は、大喜びで義兄に抱きついた。「てっきりこっちだと思ったのに姿がないし。一人で、どこに行ってたんだい」

 「まあ、いろいろな」劉備は、満足げに満座を見渡した。

 陳到、孫乾、簡雍、麋竺、麋芳、劉琰らも、手傷を負いながら、何とかこの地に辿り着いていたのだった。彼らの妻子は、沛城内の民衆に紛れて隠れているという。

 「殿と益徳どのの妻子は、下邳に拉致されました」陳到が、無念そうに言う。「呂布は恐らく、人質に使う心積もりなのです」

 「人質」劉備は眉をひそめた。「何のために」

 「お聞きになられていませんか」甘粛は、意外そうにこちらを振り向く。「曹司空が、呂布討伐の大号令を発したのですよ。ほどなく、この地に到着されるでしょう」

 「呂布は、その報を聞いて高順たちを下邳に呼び戻したそうです。戦略を決めかねているのでしょうな」関羽が、重々しく言った。

 そのとき、帳が開いて美しい娘が姿を現した。後ろに、酒肴を携えた侍女たちが続く。

 「私の娘、甘媛です」甘粛が紹介した。「さあ、今夜は疲れを癒してくださいな」

 劉備は、しっかり者のその娘が気に入ったので、自分の妻子が敵に囚われている悲しみや、一歳を迎えたばかりの娘の可愛らしさについて、果てるともなく語りつづけた。娘は、同情の篭ったまなざしで見つめてくる。朝になって気づいてみたら、劉備は娘を抱いたまま眠りに就いていたのであった。

 この顛末を知った甘粛は、気を悪くするどころか大いに喜び、娘を劉備の側室にくれる約束をしてくれたのである。

 「女房を救出したら、きっと迎えに来るからな」劉備は、甘媛に唇を寄せた。

 その翌日、西の彼方から曹操直卒の大軍が姿を現した。その総勢は六万。劉備は、生き残った二千を引き連れてこれに合流した。

 今ここに、呂布に対する総攻撃が開始されようとしていた。

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