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長編歴史小説

昭烈三国志

20.呂布の最期

 

 曹操は、劉備の危機を知ると、直ちに大軍を動員した。この機会に徐州を攻めることは、彼の既定の戦略でもあったからだ。

 劉備は、関羽と張飛を連れて、曹操の本陣に挨拶に向かった。

 「無事だったか、臭い三兄弟」曹操は、幕舎で出迎えた。豪奢な皮鎧を身に着けた司空は、虎皮の上に座して威を払っている。

 「一戦して敗れました。面目ござらぬ」劉備は、拱手して礼をした。

 「なあに、勝敗は兵家の常だ。まあ、見ているがいい。我が軍の戦振りを」曹操は、自信たっぷりの笑顔を見せた。

 勉強家の彼は、古今東西の兵法を諳んじるまで学んでおり、『孫子』の注釈本をつくるほどの人物に成長していた。その成果を、徐州で発揮しようと心ぐんでいたのである。

 対する呂布は、曹操の大軍に対する戦略を決めかねていた。陳宮は豫州州境での迎撃を主張し、陳登は下邳での篭城策を披見した。困った彼は、またもや妻の顔を見に行った。

 「心細いから、あまり遠くへいかないで」

 妻の一言で、呂布軍の戦略は決まった。曹操軍を、下邳に引き付けて叩くことになったのである。

 「ふふん、孟徳を泗水で溺れさせてやる」腕まくりする飛将軍。

 「曹操は、なまじ大軍を率いてきたため、補給に問題が起きるはずです」陳登は、勇躍して発言した。「私が、広陵の軍勢を率いて遊軍となり、奴の補給路を叩きましょう」

 「元龍、よくぞ言った」呂布は大喜びである。「この戦いが勝利に終わった暁には、軍功第一は貴君にあるぞ」

 こうして陳登は、領国の広陵に帰り、五千の軍勢を動員した。これらの大半は、陳登の善政を慕って投降してきた海賊や山賊たちから構成されていた。

 さて、手薄になった沛城を一撃で奪還して、徐州へ乱入した曹、劉連合軍は、十月、彭城に殺到した。ここを守る侯諧は、しきりに援軍を求めたが、下邳に黙殺されたために諦めて降伏したのである。

 勢いに乗る連合軍は、まっしぐらに下邳の城下に達した。

 「来たな、曹操」呂布は、城門を開かせた。「兗州での恨み、晴らしてやるぞ」

 呂布軍三万は、一気呵成に敵の大軍に突っ込んだ。精鋭騎馬軍は、中央に呂布、左翼に高順、右翼に張遼を配して荒れ狂った。しかし、歴戦の曹操軍は慌てず騒がず、方陣を組み、盾を並べてこれを受け止め、強弩を連射してこれを撃ったのである。こうなると、数で劣る呂布軍は不利となる。頃合を見て城内に引き上げた。

 「ようし、凱歌だ」曹操は叫び、城下は六万の軍勢の歓声に埋め尽くされた。

 下邳城内に動揺が走る。ただでさえ纏まりきれない軍閥は、次第に不協和音を奏ではじめた。

 「これはいかん」焦った陳宮は、再度の攻撃を呂布に進言した。

 「言われるまでもない、やってやる」

 呂布軍は、夕闇を待って城門を開いた。夜襲を仕掛けるつもりである。しかし、これを予期していた曹操は、かがり火を焚き、伏兵でこれを迎え撃ったのである。呂布軍は、またもや痛破されて城内に逃げ帰った。

 「すごいな」後陣で待機していた劉備は、曹操軍の強さに舌を巻いた。「孟徳は、いつの間にこんなに強くなったんだ」

 「ううむ、全ての面で呂布の上を行ってますね」関羽も、感嘆の面持ちで髯を撫でた。

 「呂布の奴、怒りのあまり、人質を殺そうとしなけりゃよいがなあ」張飛は、愛妻を想って胸が潰れそうになっていた。

 曹操軍は、その翌朝から下邳の周囲に展開し、この城を完全に包囲する態勢を示した。

 「なあに、我々には元龍がいる」呂布は余裕を失っていなかった。「あいつが、今に敵の糧道を食い破ってくれるさ」

 その陳登軍が、南の丘陵地帯から姿を現したのは、それから三日後の朝の出来事だった。城内は大いに沸き立った。

 「おかしいですな」陳宮は、さすがに怪訝顔だ。「彼は、遊軍になるはずでは」

 「気が変わったのだろう。迎えに行くぞ」呂布は、兜と戟を手にとって赤兎へと走った。

 南門を開いて突撃した呂布軍は、手薄な敵の歩兵隊を突き破り、陳登軍の前面に達した。

 「元龍、早く来い」軍頭で手招きする呂布の目は、次の瞬間、大きく見開かれた。

 陳登軍は、旗指物を『曹』に持ち替えて、一斉に矢の雨を放ってきたのである。油断していた騎馬隊は、次々に射抜かれて大地に倒れていく。

 「裏切ったなあ」両眼を充血させる呂布の左右から、曹操の騎馬隊が突撃してきた。最初の歩兵の敗走は、野生児を死地に追いやるための罠だったのである。

 「殿、お逃げください」側近の成廉が、立ちふさがって敵と渡り合った。彼は敵に取り囲まれて討ち死にしたが、呂布はその隙に城内に逃げ戻ることができた。しかし、この敗戦で彼の騎馬軍は破滅的な打撃を受けたのである。

 陳登の行為は、かねてよりの手はずどおりであったから、彼自身は、主君を裏切ったという意識は持っていなかっただろう。怒り心頭に発した呂布は、城下に残っていた陳登の三人の弟と父・陳珪を誅殺しようとしたのだが、後難を恐れた張弘というものが手引きして、城を抜け出させた後だった。

 白門楼(南門の上に立つ楼)に登った呂布は、四方から轟きわたる連合軍の凱歌に耳を押さえ、低くうめいた。

 「あの元龍まで敵に寝返るとは何て事だ」

 そこに、伝令兵が曹操からの手紙を携えてきた。降伏を勧める書簡である。

 「おお」呂布は大きく目を見開いた。「降伏しよう。それが良い」

 傍らに侍していた陳宮は、主君の前に立ち塞がった。

 「ここで降伏しても助かりませんぞ。我々が、曹操と劉備に加えてきた仕打ちを思い出しなされ」

 「でも、もうどうしようもないだろうが」野生児は、駄だっ子のように喚く。

 「袁術に救援を求めるのです。そして、城門を堅く守るのです。もうすぐ冬が来て、城外に陣取る曹操軍は寒さに耐え切れずに撤退するでしょう。それを待つのです」

 陳宮は、過去に曹操を手ひどく裏切った前科がある。ここで降伏しても命がないから、何が何でも主君を説き伏せなければならないのだ。そして、その熱意は呂布の胸を打った。

 その夜、陳宮の同志である許汜と王楷、そして秦宜禄が、城を抜け出し、警戒網を掻い潜って寿春へと走り去った。彼らを送り出した下邳城は、門を堅く閉じて攻囲軍の挑発に応じようとしなくなったのである。

 「これでは攻めきれぬ」曹操は憂い顔だ。「陳宮め、思ったよりもうまく呂布を操りおるわい」

 「河内の張楊が、西で呂布を支援するべく動き出したそうです」片目の夏侯惇も、苦虫を噛み潰したような顔を見せる。

 「袁紹や袁術の動きも気になるし、ここはいったん許昌に引き上げようか」さすがの曹操も弱気になった。

 「お待ちくだされ」謀臣の荀攸が進み出た。「私に策がございます」

 「私にも腹案がございますぞ」同じく謀臣の郭嘉も名乗り出た。

 二人は目を見交わすと、同時に声をあげた。

 「水攻め!」

 数日後、曹操、劉備、陳登の連合軍は、緩やかに包囲の輪を広げ始めた。せっかく造った塹壕を放棄して、後ずさりに去っていく。

 「奴ら、撤退するつもりかな」陳宮の胸は躍った。

 しかし、糠喜びだった。連合軍は、城から離れた高地に陣を移しただけだったのである。

 「奴ら、どうして高地に・・・・まさか」

 気づいたときは遅かった。堤防を破壊された泗水と沂水の奔流が、渦を巻いて城に押し寄せたのである。大量の泥水が、門の隙間から城内に流れ込み、資財や兵糧はもとより民の生活をも冷水に浸し、下邳は大混乱に陥ったのである。

 劉備と張飛の妻子は、政庁舎の最上階に押し込められていたのだが、押し寄せる洪水の有様に、我を忘れて震え上がるばかりであった。赤ん坊は泣き出し、彼女を抱く鈴はおろおろと目を彷徨わせ、淑は夫からもらった髪飾りを強く握って唇を噛み締める。

 そこへ、呂布の妻と娘が、二人の衛兵に守られて入って来た。彼女たちは、住んでいた屋敷を水に追い出されて政庁舎の地階に移り、そこも昇がり行く水位に侵されたので、階段を上って最上階に逃げて来たのである。

 十四歳になる呂布の娘は、鈴に抱かれる桐を見て頬を和らげた。「あたしにも抱かせて」

 鈴は呆然と、桐を娘に渡した。すると不思議なことに、桐はぴたりと泣き止んだ。

 「見て、お母様」娘は、厳氏を振り返った。「あたし、いいお母さんになれるかも」

 「ええ、ええ」呂布の妻は笑顔で頷いた。「お前は、名門・袁家の立派な花嫁になれるわよ」

 そのころ、三人の使者は寿春に到着し、袁術に救援を要請していた。

 「うむ、分かった」落ち目の皇帝は、精一杯胸を張った。「朕に任せよ。必ずや、天子の威光で呂布を助けて見せようぞ」

 しかし、これは虚勢だった。袁術には、もはや外征に出せる兵力は残っていなかったのである。相次ぐ敗戦と失政で、多くの部下が彼を見捨てて去ってしまったからである。彼が自由に出来る兵力は、飢えに苦しむ一万余人にしか過ぎなかったのだ。

 そうとは知らぬ呂布は、水浸しの城内でひたすら援軍を待ち望んでいた。

 陳宮は呂布に、騎兵隊を率いて出撃し、ゲリラ戦を仕掛けて敵の糧道を塞ぐよう献策した。だが、例によって呂布の妻が反対した。彼女は、陳宮が曹操の昔の部下だったことから、夫の留守中に敵に内応するのではないかと疑ったのである。

 こうして、包囲下の孤城は手詰まりに陥った。

 「どうして袁術は来ないのだ。もう水攻めにあってから二十日になるぞ」

 「殿の誠意を疑っているのかもしれません」陳宮が、こけた頬を震わせた。「殿の令嬢を、寿春まで届けることができれば、援軍を出してくれるかも」

 「よし、それをやろう」呂布は目を輝かせた。「俺が娘を連れて、郊外まで送ろう」

 白門楼を拠点にしている呂布は、小船を用意させて政庁舎へと向かった。いまや、城内の拠点間の移動には、船を用いるしかなかったのである。

 従者とともに政庁の最上階に上った呂布は、女たちの泣き声に鼻じろんだ。

 「何だ、何を泣いているのだ」

 「お父様」奥から出て来た娘は、涙を流しながら父の分厚い胸に飛びついた。「桐ちゃんが、桐ちゃんが死んじゃったの」

 「なんだって」娘の頭を撫でながら奥へと進んだ呂布は、三人の女が伏して号泣する床の真中に、ひっそりと横たえられた一歳半の幼児の遺骸を目の当たりにした。そのやつれた蒼白な死に顔は、明らかに栄養失調によるものだ。

 「可哀想に」呂布は、涙ぐんだ。自分の置かれた境遇が思い起こされたからかもしれない。「これも、みんな曹操のせいだ。奴が耳君と元龍をそそのかしたからだ。許せんぞ」

 「お父様、悪い奴らをやっつけてよ」娘は、甲高い声で叫ぶ。

 「おうとも、苑、俺と一緒に来い。この城から出るぞ」呂布は、妻と人質たちに目もくれず、娘の手を引いて政庁舎を駆け下りた。

 城壁の上から、縄を使って小船を降ろさせる。音を立てずに、うまく着水させることに成功した。乗り込んでいるのは、呂布とその娘、そして六人の従者である。

 「お父様、どこへ行くの」

 「これから袁術のところへ行く。お前の花嫁姿が楽しみだ」

 「お母様はどうするの」

 「後できっと助け出すさ」

 夕闇の中、小船はそろそろと動き出す。流れを遡って河川に入り、適当な集落で乗馬を手に入れる算段であった。呂布は、当初はその時点で城に引き返すつもりだったが、なんだか馬鹿らしく感じられてきた。このまま逃げて、袁術のところで暮らすのも悪くないかもしれぬ。そう考えた瞬間、数本の松明がこちらに投げ入れられてきた。

 「しまった」呂布は小さく叫んだ。

 右方向から、松明を燈した数艘の小船が現れた。張飛の率いる見廻隊であった。

 「おお、呂布」船首に立つ張飛は、虎髯を逆立てた。「ここで会ったが百年目だ。俺と勝負しろ」

 「よりによって張飛か」呂布は切歯した。「貴様の奥方は、今や俺の人質だ。諦めて降参すれば、会わせてやるぞ、どうだ張飛」

 「呂布、お前は侠客の心を無くしたのか。人質をとることはもとより、人質で侠者の心を操ろうと考える貴様の性根。俺には信じがたいぞ」

 「何が侠だ。お前、いつまで侠客のつもりでいるのだ。俺はもう侠客ではない。乱世の英雄だ」呂布は叫びながら、右手で漕ぎ手に合図を送っていた。引き返そうという合図を。

 張飛は、それに気づいた。「てめえ、逃がさねえぞ」

 見廻隊は、波を逆立てながら急追し、次々に弓矢を射掛けた。呂布の従者たちは、主君親子を救おうとして次々に盾になって倒れる。

 「張飛、頼む」呂布は叫んだ。「ここには、俺の幼い娘がいるのだ。後生だから助けてくれよ」

 「なんだと」驚いた張飛は目を凝らす。相手の小船の中まではうまく見通せないけれど、確かに女の子の泣き声が耳に届く。「わかった。俺も侠客だ」

 張飛の船団は兵を退いた。

 逃げ切った呂布親子は、城壁から垂れ下がる縄に船を結わえて、再び部下たちに城内に引き上げて貰ったのである。

 こうして、彼らの寿春行きの企図は、画餅に終わった。

 

 その翌日、小船に乗った呂布の軍使が曹操の本陣を訪れた。軍使は、劉備と張飛の妻と、冷たくなった劉備の愛児を連れていた。呂布は、もはや人質の意味がないことに思い当たって、劉備に恩を売るために解放したのであろう。

 急を知って本陣を訪れた劉備と張飛は、人目をはばからず妻と抱き合った。劉備は、愛児の亡骸に頬を寄せ、息を吹き返してくれる事を痛切に望んだ。その願いが虚しいことを悟ると、低い声で啜り泣き始めた。

 虎皮に座した曹操と側近たちは、沈痛な表情でその有様を眺める。

 やがて、おもむろに立ち上がった曹操は、劉備夫妻の傍らに寄り添う関羽に語りかけた。

 「君は最近、読書に勤しんでいると聞いた。何か、仇討ちの妙策は思いついたかね」

 「策はありませんが、お願いがあります」

 「ほお、何でも言ってみよ」

 「敵の陣中にいる張遼は、文武両道のつわものです。助命していただけるなら、司空どのの片腕となって活躍するでしょう」

 「彼の噂なら、かねてより聞いている。もちろん、助命しよう」

 「それから・・・」

 「何だ、まだあるのか」

 「・・・・・・」

 「どうした、早く言え」

 「敵の武将・秦宜禄の妻を、この私にいただきたいのです」

 「へえ」曹操は、実直な武人の顔を穴の開くほど見つめた。「君の口から、そんな言葉が出るとは思わなかった」

 「・・・私だって人間です」むすりと言って黙り込む関羽だった。

 一方、軍師の郭嘉は、張飛夫妻のところに行って、昨日の呂布との交戦の模様や城内の状況について詳しく聴取した。

 「あと、十日ですな」郭嘉は、喜怒哀楽の喧騒の中で、曹操に耳打ちした。この天才軍師は、呂布の寄越した使者の様子や張飛夫妻のもたらした情報から、篭城軍の状態を読みきったのである。

 

 呂布の袁術工作が失敗に終わったらしいとの風説は、周囲を満たす冷水のように城内に浸透していった。民衆は怨嗟の声を上げ、諸将の間では降伏論が渦を巻いた。

 呂布の子飼いの并州出身者、魏続、宋謙、侯成は、かねて不仲の兗州派の首を手土産に投降しようと考えた。彼らとしては、厳しい篭城に耐えてまで、朝廷を擁する曹操に敵対する意味が無かったのである。同調する将兵を語らって蜂起した彼らは、陳宮の宿舎に押し入って彼を捕虜にし、城門を開けて白旗を振った。

 人質解放から、ちょうど九日目のことだった。

 曹操軍は、大歓声を上げながら小船に乗って、あるいは腰まで冷水に漬かりながら城内に侵入を開始した。食い止めようとした高順は、部下に一斉に裏切られてその場で捕虜となったのである。

 孤立した呂布と張遼は、白門楼に手勢百名を集めて立て篭もった。周囲を圧する敵兵の数は、ますます増えていく。

 「文遠、最期まで俺に付き従ったのは、お前だったか」呂布は、石床に衝き立てた戟に寄りかかりながら言った。「公台(陳宮)は、君が劉備に内通しているのではないかと疑っていたようだが」

 「公台どのは、人望はありませんが名軍師でした」張遼は、まっすぐに呂布の目を見つめた。「元龍や奥方の言うことを聞かずに、彼だけを信じていれば、このような事態にはならなかったはずです」

 「そうか、公台に謝らなければいけないな」

 「さあ、繰言は止めにして、華々しく散りましょう」気丈な武人は、戟を上段に構えて、階下に布陣する敵兵に向き直った。「死してその名を青史に刻むのです」

 そのとき、包囲軍の中から次々に声があがった。

 「無駄な抵抗は止めて降伏せよ。降伏せよ」

 呂布は、迷いから覚めた目つきになって、戟を放り投げた。

 「降伏する。降伏するぞ」

 唖然とする張遼の周囲で、部下たちが武器を棄てていった。

 建安三年(一九八)十二月末、下邳は落城のときを迎えたのである。

 

 最初に曹操の前に引き出されたのは、陳宮だった。

 「お前ほどの男が、どうしてこんな羽目に陥ったのか」曹操は、笑みを含んだ表情で、白門楼の高台から見下ろした。その左右には、劉備と陳登が居並ぶ。

 「あの男が」陳宮は、楼の階段の下に引き据えられた呂布を指差した。「俺の言うことを聞かなかったからだ。もしも俺の策を受け入れていれば、貴公がここで命乞いをしていたはずなのだ」

 「なるほど」曹操は頷いた。「仕えるべき主を間違えたというわけだな。ならば、これからはしっかと目を見開いて生きるが良い」

 「えっ」

 「これから、前のように俺に仕えよ、公台」

 陳宮は、しばし呆然とした。なぶり殺しにあうだろうと覚悟を決めていたその心は、散々に乱れた。こんなことなら、もっと前に降伏するべきだった。多くの民や兵士を犠牲にすることなど無かったのだ。しかし、陳宮は迷いを振り払った。彼は、曹操の残虐を憎み、大義のために彼を裏切ったのだ。その大義を貫かず、おめおめと生きのびて何になろうか。士大夫として四十年の生を営んできた以上、その信念を貫かなければならないのだ。

 「早く殺せ」そう言ってうつむいた。

 「虜になった君の老母と娘はどうするのだ」曹操は、優しく問いかけた。

 「俺に聞いてどうする。貴公の思いのままじゃあないか」

 「老母の面倒は死ぬまで見てやる。娘は良縁を見つけて嫁がせてあげる」

 「かたじけない」陳宮は涙ぐんだ。

 後ろ手に縛られた彼の体は、楼の下に設えられた刑場に引き立てられた。そこに置かれた台の上には、高順の首が掲げられている。彼は、脱走を企ててその場で殺されたのである。陳宮は、胸を張って堂々と正面を見据えながら首を打たれた。

 次に、呂布が引き据えられた。彼の体は、太い縄でがんじがらめに縛られている。

 「孟徳、もう少し緩めてくれんか。体が痛くてしょうがない」そういう呂布の視線は、どういうわけか劉備の大耳に据えられている。

 「どこを向いてしゃべっているんだ」曹操は笑った。「痛いのは気の毒だが、虎を縛るにはそれなりのやり方があるんだ」

 「ふふん」囚われの虎は、鼻を鳴らした。「しかし、これであんたの天下は定まったな」

 「何の話だ」

 「あんたが歩兵、俺が騎兵を率いれば、天下平定などわけもないぞ」

 「ふうん」曹操は唸った。人材を愛する彼は、虎の言葉に動かされたのである。

 「耳君、耳君」呂布は、劉備のほうを向いた。「俺は捕虜となったが、君は賓客だ。俺のために、何か言ってくれてもいいじゃないか」

 劉備は、呂布の無邪気な笑顔を見て、はらわたが煮え繰り返った。先ほどの陳宮の見事な最期に引き比べて、この男の態度はどうだろう。呂布は、沛城を落として多くの兵を殺した挙句、俺の娘を死に追いやった。無益な篭城で多くの軍民を苦しませ、偽帝と手を組もうとした逆賊だ。

 「丁原と董卓の運命をお忘れか」劉備は、曹操に向かって低い声で言った。

 曹操は微笑んだ。「玄徳がそういうのなら仕方ない」

 兵士たちが群がって、呂布を立たせ、刑場に引きずろうとした。

 「ちょっと待て」呂布は絶叫した。「この大耳野郎。一番信用できねえのはてめえだ」

 「貴様に、それを言う資格があるのかよ」劉備は、立ち上がって拳を震わせた。「早くくたばれ、この獣野郎」

 劉備は、呂布に対して、心のどこかで親近感を抱いていた。似た境遇に生まれ育ち、似た状況の中で頭角を現したことによる一体感だろうか。どんなに酷い目に合わされても、何か憎みきれない思いがあった。今だってそうだ。しかし、呂布の醜い命乞いは、劉備の心を強く揺さぶった。自分の行く末を見ているような、暗い予感を沸きおこした。このときの劉備は、呂布に対して近親憎悪を抱いていたのかもしれない。

 「耳い、この裏切り者おお」

 身をよじって泣き騒ぐ呂布は、劉備と同じ想いを胸にしていたのだろうか。兵士たちを振り払い、刑場行きを全身で拒否した。

 しかし、それも虚しかった。処刑役人が壇上に上がり、その場で野生児の首に縄をかけて押さえ込み、三人がかりで絞め殺したのである。

 乱世を揺るがした飛将軍は、ここに壮絶な最期を遂げたのであった。

 

 呂布、陳宮、高順の首は塩漬けにされて許昌に送られ、彼らの胴体はその場に埋葬された。張遼をはじめ降伏した諸将は、曹操軍に再編成されて許昌への凱旋行進に加わることになり、在野の士大夫陳羣も、曹操の招聘に応じたのである。

 下邳政庁に身を潜めていた呂布の妻と娘は、最愛の人の死を知るや、凌辱を恐れて自害していた。二人は、最上階の床の上に並んでその身を横たえていた。

 関羽は、お目当ての人がここに隠れていると聞いて飛び込んだのだが、その人は,既に曹操に連れさられた後であった。曹操は、秦宜禄の妻の美貌が気に入って、彼女を自分の妾にしたのであった。

 「うぬっ、一足遅かったか。恐れていたとおりだ」関羽は、女性たちの死体の真中で、床に拳を打ち付けて憤った。

 義弟を迎えにきた劉備は、予想外の惨状に胸を痛めてうなだれた。美しかった呂布の妻と可憐だったその娘は、今や息をせぬ物体になってしまっている。

 「思えば、奉先は幸せだった。この有様を見ないで済んだのだから」

 毒を呷って事切れた呂布の娘は、穢れを知らぬ唇の上に清純な笑みを浮かべて、なぜだか幸せそうに横たわっていた。

 喚きやまぬ関羽の肩を抱いて政庁の階段を降りた劉備は、万雷の歓声を浴びた。周囲の民家の屋根屋根に群がった群衆が、かつての主に向かって両手を打ち振っていたのである。

 「玄徳さま」「良く来てくれました」「お帰りなさい」

 劉備も、苦い勝利を胸に抱きながら、両手を振ってこの歓呼に応えた。

 

 ところが曹操は、徐州での劉備の人気の高さを知って頬を引き締めた。

 「玄徳の仁は、侮れぬ。徐州の民は、俺の大虐殺を忘れていないだろうから、彼をここへ置いておいたら、どんな変事が起きるか分からぬな」

 そばに侍る軍師の荀攸が、統治の腹案を立てた。

 この策に従って、曹操は、呂布に加担していた泰山郡の四将(臧覇、呉敦、尹礼、孫観)を懐柔し、徐州の北部と中部、そして青州南部の統治を一任した。そして、下邳には政務官の車冑を置いて、民生管理を行なわせたのである。

 劉備は、曹操軍とともに都に向かうことになった。この仁君を、徐州から引き離すためであることは言うを待たない。

 伏波将軍に任命された陳登は、軍兵を率いて任地の広陵に戻ることになった。そんな彼の新たな任務は、江東の孫策を押さえ込むことである。

 「元龍、今までご苦労だったね」劉備は、旧友の背中を叩いた。

 「玄徳どのこそ、本当にたいへんな苦労をされましたね。これからは素晴らしい日々になるでしょう」陳登は、劉備の手を握って優しい眼差しを向けた。「私は、広陵で新たな夢を見つけました。屯田を興して土地を富まし、無頼漢どもを教化していく喜びです」

 「それは素晴らしい。元龍なら、きっとやり遂げるよ」

 「ありがとうございます。玄徳どのも、都で新しい夢に向かって羽ばたいてください」

 「ああ、お互い頑張ろうよ」

 去り行く広陵軍を見送りながら、劉備は陳登に対する尊敬の気持ちを抑えきれなかった。彼との別れは、本当に辛かった。

 そして、これが二人の今生の別れとなったのである。

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