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長編歴史小説

昭烈三国志

21.左将軍となる

 

 建安四年(一九九)二月、曹操、劉備連合軍は許昌に凱旋を飾った。以前より活気を増した民衆と街並みは、大喜びでこの軍勢を迎えたのである。

 劉備玄徳は、軍功を賞されて、左将軍に昇進した。一気に漢王朝の重臣となった彼は、都の中心に大きな屋敷を与えられ、大勢の召使に傅かれる立場となったのである。

 彼はさっそく、曹操に同道して昇殿した。戦功報告とお礼を言上するためである。

 宮殿は、洛陽のものより小規模だったが、天子を中心に文武百官が居並ぶ謁見室の壮麗さは、田舎者の心胆をたまげさせるには十分であった。

 曹操の後ろに続いて進む左将軍は、興奮のあまり何も目に入れることが出来ぬまま、天子の座る壇の下に平伏していた。

 皇帝・劉協は、ふくよかな顔立ちをした青年だった。幼年の頃から様々な苦難に当たってきたはずだが、そのような苦労の跡は少しも示していない。これが、天子の大徳というものであろうか。

 そのような感慨を抱く劉備の隣では、同じく平伏した曹操が、朗々たる声で徐州攻めの戦果報告を読み上げていた。続いて劉備の昇進お礼言上となる。劉備は、下腹に力を入れて堂々と答辞を述べることができた。土壇場で肝が据わるその性格は、生まれつきである。

 「劉備と申したな」天子は、玉座から優しい目を注いだ。「幽州の生まれと聞いておるが、もしや伯安(劉虞)の一族ではあるまいの」

 「お答えするが良い」隣の曹操が、ひそひそ声で励ましてくれる。

 再び下腹に力を入れた左将軍は、本当の出自を包まず話す決意をした。

 「我が一族は、中山靖王・劉勝さまの子・劉貞どのの後裔でして、代を経ること十代にして、祖父・劉雄は東郡范県の県令を勤め上げ、父・劉弘は涿郡涿県の参事をしておりました。不肖、劉備。先祖の名を辱めず、国家のために尽力してゆく所存であります」

 居並ぶ百官の間に、期待の篭ったざわめきが起きた。田舎の没落した王族の子孫が、国の危機に臨んで再び立ち上がったというのだろうか。

 系図を調べていた調査官が、小走りで玉座に近づくと、系図からは劉備の出自が確認できないことを小さな声で報告した。無理も無い。中山靖王は三百年前の人物で、百二十人の子供がいた精力家である。その子・劉貞は、罪を犯して野に下った人物である。宮廷に備え付けられた系図で確認できないのも無理はない。

 「まあよい」天子は、それでもご満悦であった。「劉備よ、朕の親族として、これからも社稷を支えていってくれよ」

 「ははあ」劉備は、床に頭を打ち付けた。感動で胸が一杯に膨れていた。

 「良かったな、玄徳」曹操は、自分のことのように喜んでいた。

 曹操と劉備の仲は急速に深まった。出かけるときは同じ輿に乗り、座るときは席を同じにした。二人の関係は、どちらかというと曹操の方が積極的だった。曹操は、劉備のことが好きだったのである。

 曹操は、孤独な男だった。

 芸術家タイプに良く見られることだが、彼はもともと喜怒哀楽の激しい感情的な人物だった。文章を書いたり詩作にふける彼こそが、人間としての本性だったのだろう。しかし、彼は政治家であるから、己の感情を強靭な意志で抑え込まなければ仕事にならない。そのための手段として、有能な人材を招聘し、自分の周りに置きたがったのである。しかし、こうして集めた人材は、言わば道具である。道具には、心を許すことなど出来はしないし、ましてや友達にはなれない。政治家として成功すればするほど、曹操の孤独は深まっていたのである。だが劉備は、道具ではなかった。少なくとも、曹操にとって有用な人物ではない。しかし、曹操にはない長所を持ち、英雄としての風格を漂わせる大人であった。曹操は、そんな劉備に友の姿を見たのである。対等に付き合って心を割って楽しめる、そんな人物を見たのである。

 劉備にとっては、ありがた迷惑だった。曹操のことは嫌いではないが、彼はもともと男同士のべたべたした関係には興味が無かった。関羽と張飛は別格として、全ての人間と一定の距離を保ちながら、軽い友達づきあいをするのが、劉備の楽しみ方だったからである。そういう意味でドライな彼は、朝から晩まで特定の人物に付きまとわれるのが気持ち悪かった。曹操の複雑な人格や、笑えない駄洒落に翻弄されて疲れることも嫌だった。

 困った劉備は、曹操の誘いを断る口実を設けるために、邸宅に菜園を造って野良仕事をしてみたり、あるいは書庫に篭ったりした。もっとも、読書が嫌いな彼は、書庫の中では居眠りをすることが多かった。学問の必要を感じたときは、関羽や孫乾に講義してもらって概略だけ把握すれば十分だと思っていたのである。

 だが、そんな彼のもとに悲報が届いた。

 師兄・公孫瓉が、袁紹に攻め殺されたというのである。

 

 公孫瓉は、仁君の名の高い幽州牧・劉虞を殺害してから、逆境に転落していた。劉虞の遺臣たちが、劉虞の遺児・劉和を助けて挙兵すると、幽州の士人や民衆は続々とこれに呼応したのである。もちろん、袁紹もこれを支援する。

 追い詰められた公孫瓉は、幽州の易という地に巨大な城塞を築き、ここに十年分の食料を集めて立て篭もった。亀の子のように閉じこもり、天下の趨勢を観望しようというのである。

 袁紹率いる七万の軍勢は、劉和たちと合流して、この城を十重二十重に取り囲んだ。もはや公孫瓉に残された味方は、息子の公孫続を派遣して盟約を強めた黒山賊の張燕だけである。しかし両者の連携は、使者が敵に捕われたことによって失敗した。城を飛び出した公孫瓉軍は、待ち伏せしていた袁紹軍に散々に打ち破られたのである。

 「わははは、伯珪は蜂の巣頭の持ち主じゃわい」袁紹は快哉を叫んだ。

 疑心暗鬼に囚われた公孫瓉は、妻妾を連れて城塞の本丸に立て篭もり、部下の誰にも姿を見せなくなった。こうして、城内の戦意は次第に低下していく。

 包囲する袁軍は、密かに城内に抜けるトンネルを掘り進めた。

 建安四年(一九九)三月、地下道を伝って城内に突入した袁紹軍は、各所で放火しながら本丸を目指した。もはや逃れられぬと知った公孫瓉は、妻妾を自らの手にかけ、炎の中で自害した。

 一代の野心家は、ここに壮絶な最期を遂げたのである。

 これに先立って公孫続も戦死し、孤立無援となった張燕は、袁紹に降伏した。

 こうして、袁紹の勢力は大いに拡大された。幽、冀、并、青の四州を平定し、烏丸や鮮卑ら北方異民族を手なずけた彼は、今や十五万の軍勢を擁する乱世の最大勢力へと成長したのであった。

 

 「俺には分かっていた」劉備は、執務室に一人で佇み呟いた。「劉虞さまを惨殺した時点で、伯珪兄貴の運命は見えていたのだ」

 ちょうどそのとき、執務室に孔融が訪れた。袁紹に北海国を奪われた彼は、今は朝廷に仕える文官である。一瞥以来の挨拶を交わした二人は、しばし四方山を語り合った。

 孔融は、傲岸不遜で敵の多い人物だったが、劉備のことはひどく気に入っていた。劉備が、いつも嫌な顔一つしないで、偏屈な彼に付き合ってあげたからであろう。

 孔融は、つい、それに甘えて要らぬことまでしゃべってしまった。

 「伯珪の最期は、自業自得よ。仁君を殺害し、士大夫を弾圧し、挙句の果てには無策にも城に立て篭もって居すくまるとは笑止千番。道理のわからぬ愚か者の分際で、天下を狙おうとした当然の報いを受けたのだ」

 「文挙どの、あなたが伯珪どのの立場でも、きっと同じ目にあったでしょうな」

 「えっ、なに」意外な反論に目を見張る孔融。

 「袁紹の鋭鋒を恐れて、戦わずに逃げて来たあなたに、あの伯珪どのを批判する資格がありますか。彼は、最期まで強敵に屈せず勇敢に戦ったのです。そのお陰で、袁紹の南下は大いに遅れ、朝廷は曹司空のもとで今も安泰です。あなたがここで大きな事を言えるのも、全て伯珪どののお陰でしょう」語る劉備の感情は、次第に激しくうねった。「さあ、私の気持ちが分かったなら、早くここから出て行ってください」

 いつもは温厚な劉備に手ひどい叱責を受けた孔融は、その長い顔を青ざめさせて帰っていった。

 劉備は、部屋の中央に立ち尽くした。師兄の逞しい顔を思い起こそうとしたが、なぜか出てこない。代わりに、趙雲の大きく澄んだ目が脳裏に蘇った。

 「子龍、せめて君だけでも無事でいてくれよ・・・」

 祈るように、一人呟く左将軍であった。

 

 四月、曹操軍は再び活動を開始した。袁紹が攻めて来る前に、少しでも黄河流域の地歩を固めなければならない。その標的は、洛陽の北東に位置する黄河北岸の要衝・河内である。

 河内の張楊は昨年末、呂布を救援しようとして出兵したが、その途中で部下の楊醜に殺害された。楊醜は、軍勢を纏めて曹操に投降しようと考えたのだが、部下の眭固が裏切って、その寝首を掻いて袁紹領に逃げ込もうとしていた。

 曹操軍は、これを射犬で補足し、壊滅的打撃を与えて眭固を倒したのである。

 既に、水面下で袁、曹二大勢力の暗闘が始まっていたことが分かる。

 生き残った敵兵は、三々五々、冀州に逃げていったが、魏仲という部将は逃げ遅れて捕虜になった。誰もが、彼の死を予想した。なぜなら魏仲は、曹操の同郷の友人でありながら、かつて張邈に加担して裏切っていたからである。曹操は、口癖のように、「魏仲だけは許せぬ。地の果てまで追い詰めて殺してくれる」と言っていた。しかし、意外なことに、曹操は彼を赦したのみならず河内太守に任命し、袁紹に対する備えを一任したのである。不思議がる部下たちに、曹操はこう言った。「才あるのみ」。才能ある人間であれば、どんな者でも登用して昇進させるというのが、曹操の大方針なのであった。

 個人的な感情を抑えて政策を優先させるのが、この人物の真に偉大なところである。

 そんな曹操に、あるとき荀彧が尋ねた。

 「劉備を優遇するのは、彼の才のためですか」

 「良く分からぬ」曹操は、素直に答えた。

 「司空どのから、分からぬという言葉を聞いたのは、これが初めてです」

 「・・・劉備は、俺のともがらだ」

 「まさか」荀彧は笑った。「あの男は戦が弱く、一州すら保持することができないではありませんか。司空どのとは比較になりませんぞ」

 「今はそうかもしれぬ。だが、俺だって昔はああだった。これからは分からぬ。劉備が化ければ、袁紹を上回ることが有り得るぞ」

 名参謀は、主君の言葉を聞いて唸った。確かに劉備は、他の有象無象とは違った光を放っている。

 「あの才能は、おそらく俺の覇業にいつか必ず必要となる。だから今は大事にしてやるのだ」曹操は、そう言って議論を締めくくった。

 このころの曹操は、袁紹との決戦を想定して様々な施策を展開していた。

 既に昨年の初め、謁者僕射の裴茂を関西(函谷関の西)に派遣し、李確らを討伐させていた。裴茂は、馬騰ら関西の諸将を統率して戦い、飢えに苦しみ弱体化した李確軍を全滅させて李確を誅殺した。郭汜は必死に逃れたが、部下の五習に暗殺された。こうして、長安を中心とする関西主要部は、曹操の掌中に納まったのである。

 次に曹操は、南の孫策との連携を強化した。彼を会稽太守、その叔父・呉景を丹楊太守に任命し、袁術の勢力を牽制させたのである。

 また、長沙太守・張羨と連絡を取り合って、荊州の劉表の後方を脅かそうとした。

 さらに、政治的布石を打った。袁紹の冀州牧を取り上げて、配下の董昭を冀州牧に任命したのである。これにより袁紹は、冀州を支配する正当な根拠を失うことになり、その威信は低下したのである。

 「本初め、怒り狂っておるだろうな」曹操はほくそ笑んだ。決戦の準備は整いつつある。

 しかし、彼の見込みはまだまだ甘かった。膝元の最強の敵が、今まさに動き出そうとしていたのだ。

 その敵の名を、漢王朝という。

 

 衛将軍・董承は、古くから朝廷に仕える廷臣の代表であった。彼は先帝(霊帝)の母の一族、すなわち外戚である。何進暗殺以来の大動乱を良くぞ生き延びたものだが、それだけに、この人物は一筋縄では行かない謀略家なのであった。

 十常侍と何進の対立のときは、中立の立場をとって身を守った。董卓の乱のときは、董卓と同姓なのを利用してこの暴君におもねった。そして董卓が死んでからは再び漢の忠臣に逆戻りして、天子の長安脱出に大いに貢献し、さらに、自分の娘を天子に嫁がせて外戚の地位を確保したのである。それゆえ、彼の政治的立場は、曹操に匹敵するほど大きかった。諸侯が朝廷に宛てた書状には、曹操と連名で董承の名が列挙されるのが常だった。

 決戦を目前に控える曹操は、この廷臣には大いに気を遣い、この年の五月に入ると、自分の車騎将軍位を彼に譲った。しかしこの行為は、謀略家の廷臣に、新たな野望を植え付ける結果となったのである。

 董承は、しばしば同志の王子服や仲輯、呉子蘭らと密談を交わした。

 「もしも曹操が袁紹を打ち破れば、もはや漢王室は有名無実の飾り物となり、行く行くは曹操めに帝位を簒奪されることだろう」

 「その前に、何としてでも曹操を誅殺しなければならぬ」

 「しかし、我々が集められる兵力は著しく少ない」

 「曹操が大軍を率いて出征している間に、背後で蜂起するしかあるまい」

 「いや、そうでもないぞ」董承が言った。「かつて、あの董卓を見事に誅殺した司徒の王允どのの事跡を思い起こしてみたまえ。我々は、王司徒と同じ立場にあるではないか」

 「しかし、それには呂布のごとき人物が必要だぞ」王子服は怪訝顔だ。

 「いるではないか。曹操の近くにおりながら、節操という言葉を知らぬ男が」

 満座は、しばし互いの顔を見交わした。危険な賭けだが、確かに試してみる価値はある。

 その数日後、董承の邸宅で、主の昇進を祝う会が執り行われた。気軽に楽しめる内輪の集いだったが、なぜか劉備も招かれていた。

 「俺も、左将軍になったから、貴賓の集まりに招かれるのだ。名誉なことだ」

 劉備は無邪気に喜んで、その宴席を大いに楽しんだ。しかし、その帰り際に、董承から小さな書状を手渡された。それには、極秘の話がしたいので、日を改めて来訪して欲しいと記されていたのである。

 「極秘の要件とは、穏便ではないな。左将軍になったから、しょいこむ物まで増えるのだろうな」劉備は嫌な予感を感じたが、運命に逆らうつもりは毛頭無かった。

 

 その翌日、劉備は、わずかな供回りを連れて董承の屋敷に向かった。

 自ら出迎えた董承は、離れに賓客を誘うと、使用人を遠ざけて差し向かいとなった。

 精悍な面構えの車騎将軍は、何でも見通す鋭い目を注いできた。しばしの歓談の後、彼は劉備という人物の概略を見切っていた。あるいは、見切ったと思い込んだ。

 「左将軍は、漢室の遠縁と承っておりますが、この時勢をどう御覧になりますか。四百年続いたこの王朝は、今や、波に洗われる小石のようになっている。嘆かわしい事とは思いませんか」

 「然り」劉備は大きく頷いた。「でも、世の趨勢は良い方向に向かっていると拝察します。屯田の成功で飢民は激減し、征伐の成功で逆賊は滅びていきます。偽帝は弱体化し、朝廷の威光は日増しに高くなっているではありませんか」

 「それは、表向きのことなのです」董承は、居住まいを正した。「これを御覧あれ」

 董承が奥の手文庫から取り出したのは、白絹の巻物だった。それには、真っ赤な文字で何か書いてある。

 「これは」劉備は、思わず飛び上がった。真っ赤な文字は、血文字であった。そして、その文章は、明らかに天子しか使わない言葉で埋められている。

 「天子は、苦しんでおられる」董承は、重々しく言った。「もうすぐ二十歳になられるというのに、政治の全てを曹操に壟断され、籠中の鳥の境遇を嘆いておられる。このままでは、あの残虐な小男に殺されるのではないか。その悲壮な心中を拝察すると、この私の胸は張り裂けそうになるのですよ」壮年の両眼から、涙が滴り落ちた。

 その白絹の血書は、曹操誅殺の密勅なのだった。

 

 自分の屋敷に帰った劉備は、一人で書庫に閉じこもって沈思した。

 彼の心は大いに乱れた。彼は今まで、曹操を漢朝の忠臣なのだと信じてきた。民生と秩序の回復にその身を捧げる名政治家なのだと思っていた。しかし、事実はそうではないらしい。廷臣たちは、その身を脅かされ、天子も簒奪の脅威に日夜怯えているというのだ。

 「俺は、曹操の人物を見誤っていたのだろうか」劉備は、自分の両耳を引っ張った。「曹操が徐州の民衆を虐殺したとき、俺はそのことがとうてい信じられなかった。あのような立派な人物が、そんな愚かなことをするはずがないと思い込んでいた。実際に惨状をこの目で見て、ようやく事態を理解したのだった。つまり、俺は曹操という人間が良く分からない。今だってきっとそうだ。ということは、全てが董承の言うとおりということも有り得るのだ。曹操が実は大逆賊であっても、おかしくはないのだ」

 いつしか日が暮れて真っ暗になっても、悩める左将軍は書庫で思案にくれているのだった。

 董承の見せた血染めの絹が、巧妙に仕組まれた偽書だという可能性には、少しも思い当たらなかったのである。

 

 曹操は、政務に余裕が出来ると、劉備を誘って遊びに出かけた。舟遊びのときもあれば、狩猟のときもある。

 董承の密書を見せられて以来、劉備はいたって無口で無愛想になったのだが、曹操はあまり気にしていないようだ。

 そんなある日、曹操は邸宅のあづま屋で、劉備と二人きりで酒を酌み交わした。

 「左将軍は、最近、廷臣たちと良く会っているね」曹操は、にこやかに言った。

 「ええ、彼らは、私が漢室の連枝と知って、ちやほやしてくれるんです」劉備は、かねて考えていた言い訳を口にした。実際には、クーデターの密謀を重ねていたのである。それでも、彼の心にはまだ迷いがあった。

 「車騎将軍・董承どのは、天下の英傑だとの噂だが」曹操は、杯を干した。「君はどう思う」

 「分かりません」内心で冷や汗をかきながら、劉備は平静な口調で答えた。

 これは何かの罠なのではないか。曹操は、全て知っているのではないのか。

 「そうかね」曹操は、意外そうな顔を向けた。「君は、とぼけた振りをして、良く人物を観察しているじゃないか。董承のところに入り浸るからには、彼の人物を高く評価したのだと思ったのだが」

 「司空どのは、どう評価されますか」劉備は、上目遣いに問うた。

 「あいつは、謀略家としての風評が高すぎる。天子の名を騙って悪事を目論むなど、へいちゃらな奴だ。だが、人から一旦そう思われたら、やることなすことが謀略に思われてしまうぞ。あれは、頭は良いが、英雄とは言い得ないな」

 そのとき西の空で、遠雷の音がした。

 やはり曹操は何かを見抜いている。あるいは疑っているのだ。劉備の手に持つ箸は小刻みに震えた。何としても、曹操の気をそらさねばならない。

 「それでは、司空が英雄と思う人物は誰でしょうか」やっとの思いで切り出す。「袁本初などは、天下の英雄ではありませんか」

 「本当にそう思っているのか」曹操は、愉快そうに小魚を口に入れた。「この世に、英雄と呼べる人物は二人しかいない。乱世を平均して世を安定させられる人物は、二人しかいない」

 「二人・・・それは誰ですか」

 曹操は、悪戯っぽい笑みを浮かべて、最初に自分を、次に客を指差した。

 「俺と君だ。曹操孟徳と劉備玄徳だ。本初などは、物の数に入らぬ」

 劉備は、持っていた箸を取り落とした。その顔面は蒼白だ。

 曹操が、これほど自分を評価しているとは思わなかった。きっと、自分の行動は全て把握されているのだ。これでは、クーデターなど思いもよらない。

 ちょうどそのとき、雷鳴が鳴り響き、辺りは豪雨に包まれた。

 「いやあ、たいへんな雷でしたね。ほら、まだ手が震えています」

 劉備は、鳥肌のたった手を司空の方にかざした。

 曹操は、笑いながらも、油断ならぬ目を注いでいた。

 

 屋敷に帰った劉備は、またもや書庫に閉じこもった。

 今日ほど恐ろしい思いを味わったのは、生まれて初めてだった。

 「俺は、陰湿な謀略には向いていない。心ばかり疲れて何にもできなくなる」

 そして、彼の心に残った曹操の言葉。董承は謀略家ゆえ、天子の密勅を偽造することくらい朝飯前・・・。もしもあれが董承の野心の産物であるなら、劉備にはこれに加担する義理などありはしない。

 「都というのは、恐ろしいところだ。知らないうちに、いろいろな物に巻き込まれて身動き取れなくなってしまう」彼は、故郷の立派な桑の木を思い浮かべた。「俺は、乱世の英雄になるのだとあの木に誓った。こんなところで恐怖に震えている俺は、英雄ではない。断じて違う」

 煩悶する彼に、幸運が訪れた。偽帝・袁術が、徐州方面に動き始めたというのだ。曹操は、劉備に袁術迎撃を命じたのである。

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