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長編歴史小説

昭烈三国志

24.白馬、延津の戦い

 

 建安五年(二〇〇)二月中旬、黎陽に集結した袁紹軍十二万は一斉に南下を開始した。

 黄河を押し渡る大軍の先鋒には、顔良将軍が任命された。その最初の攻撃目標は、黎陽の真南に位置する黄河南岸の要衝、白馬であった。

 白馬城を守るのは、東郡太守の劉延率いる一千である。彼は顔良の五千の猛攻に耐えながら、許昌からの援軍を待った。

 「本初め、ついに来おったか」曹操は、唇を引き締めた。「これからは、一瞬たりとも気を許せぬぞ」

 彼は、騎兵を中核とした五千名を率いて援軍に向かおうとした。そのとき、彼の脳裏にひらめいたのは関羽のことである。

 「あいつを連れて行こう。手柄を立てさせてやろう」

 さて、黄河はその河幅が数キロにも及ぶので、橋を架けることはできない。比較的河幅の狭くなったところに渡河点を設けて、ここを船で渡るのである。そして、袁、曹の二大勢力の間には、二つの渡河点があった。白馬津と延津である。

 袁紹軍の顔良は、前線基地の黎陽から最も近い白馬津を越えてきたのである。ところが曹操は、その西にある延津に軍勢を集結させた。袁紹は、この行動に驚いた。

 「孟徳め、白馬を見捨てて、延津からこちらに攻め込むつもりなのか」

 袁紹は当初、自ら主力軍を率いて顔良を後詰する予定であったのだが、曹操の動きを見て予定を変更し、黄河北岸沿いに延津へと向かった。こうして顔良軍は、黄河南岸で孤立する。袁紹は、曹操のフェイントに引っかかったのである。

 袁紹軍主力の西進を知った曹操は、その軍勢を強行軍で東進させた。その目標は白馬。先陣を勤めるのは関羽と張遼である。

 顔良は、猪突猛進型の武将であった。袁紹の幕僚たちは、彼一人に先陣を任せることを危ぶんでいたのだが、総大将の決定に異を唱えることは出来なかった。

 果たして顔良は、曹操の援軍の接近を知ると、城攻めを中止し、自ら先陣に立ってこれを迎撃しようと考えた。そして、見よ。砂埃をあげながら突進してくる敵の先頭には、大将とおぼしき人物の姿が見えるではないか。あれを討ち取れば勝負は決まる。

 「あいつは俺に任せろ」顔良は、左右を振り返った。

 その人物は、青龍刀を操りながら顔良軍の先鋒を突破した。見る見るうちに本陣に近づく。

 「いい度胸だ」顔良は、車から飛び降りると馬に乗り換えて、愛馬を疾駆させつつ、その人物に声をかけた。「黄泉に旅立つ前に名を名乗れ」

 「我こそは、河東の関羽、字は雲長なり」馬を寄せつつ名乗る。

 「なんだって」鉞を掲げた顔良は驚いた。関羽と言えば、客将・劉備の義弟ではないか。どうして敵の先陣を勤めているのだ・・・・。

 顔良の動作は隙だらけとなり、美髯の猛将はこれを見逃さなかった。

 青龍刀の一閃は、敵将の首を吹っ飛ばしたのである。

 総大将を討ち取られた袁紹軍は総崩れとなって逃げ散り、こうして白馬城は解放された。入城した曹操は、この地の軍民を引き連れて延津方面に転進したのである。

 さて、延津北岸の袁紹は、顔良軍壊滅の報を聞いて激怒した。

 「弔い合戦だ。全軍で曹操を追撃する」

 黄河一面を船で埋めた大軍の先鋒は、騎将の文醜。その後ろに劉備が続く。周囲は、顔良を討ち取った謎の武将の噂で持ちきりだった。

 「噂は本当だろうか」劉備はうめいた。「本当に雲長がやったのだろうか」

 「敵の謀略かもしれませんよ」簡雍は、平静な口調で言った。「俺たちを動揺させるためのね」

 「曹操は、そんなセコい謀略は使わない」劉琰が唇を歪めた。「彼の謀略は、全て『孫子』などの正統軍略だろう。噂が本当なら、雲長は我らの敵ということだ」

 「いいや、俺は、雲長兄貴を信じているぜ」張飛が、河面に唾を吐いた。

 「俺だって信じているさ」劉備も、真似して唾を吐いた。

 黄色い河面に、二つの唾が浮きつ沈みつ。

 渡河を終えた先鋒部隊は、船から軍馬や輜重を引き出すと、直ちに戦闘行軍を開始した。騎兵のみで構成された文醜軍二千は、全速力で曹操を追ったのである。

 「文醜め、せっかちな野郎だ」第二陣の劉備軍三千は、慌てて先鋒の後を追ったのだが、何しろ劉備軍には歩卒が多い。見る見るうちに引き離されていく。

 南阪の丘陵地帯に陣取る曹操は、自ら殿軍となって敵を待ち受けていた。白馬の軍民は、張遼と関羽に護衛させて官渡に先行させてある。曹操も、敵の先鋒に痛打を浴びせた後で、直ちに退却する手はずであった。

 「思ったより少ないですな」軍師の荀攸は、丘の上から小手をかざす。

 「騎兵ばかりが二千か。やれそうだな」傍らに立つ曹操は、顎鬚を撫でた。

 彼らは目配せすると、輜重隊と裸馬を街道に放った。急追してきた文醜軍は、この好餌に飛びついて隊形を大きく乱し始めたのである。

 「まだまだ、まだまだ」丘の上で戦況を見つめる曹操は、高く挙げた右腕を震わせる。「まだまだ、まだまだ・・・・ようし、今だ、行けっ」その右腕は強く振り下ろされた。

 四方の丘に隠れていた曹操の伏兵は、一斉に立ち上がると、矢の雨を乱射しつつ突貫をしかけた。丘陵地帯で機動力を封じられ、しかも撒き餌によって隊形を崩されていた文醜軍は大混乱に陥り、総崩れとなった。これに止めを刺したのは、精鋭騎馬隊六百。

 「おのれ、おのれ」絶叫する文醜は、次の瞬間、強弩の一斉射撃で蜂の巣になった。

 後続の劉備軍が駆けつけたとき、先鋒騎馬軍は文字通り全滅し、曹操軍は撤退した後だった。

 「恐るべし、曹操」馬上の劉備は、文醜の首なし死体の前で震え上がった。

 顔良と文醜は、袁紹軍最強の猛将であった。その二人を、相次いで苦もなく討ち取るとは尋常ではない。袁紹軍は、激しく動揺した。

 「劉表と孫策は、いったい何をしているのだ」延津の袁紹は、激しく舌打ちした。南方の彼らが、呼応して攻撃してくれることを期待していたのである。

 しかし、袁紹の旧い仲間である荊州牧・劉表は、長沙太守の張羨が長江南部四郡を率いて反乱を起こしたため、その鎮圧に追われて中原に兵を出せる状況ではなくなっていた。張羨をそそのかしたのは、他ならぬ曹操である。

 江南の孫策は、しかし曹操の予想を上回る政略を発揮していた。孫策は、この春、曹操が任命した楊州刺史の厳象を攻め殺し、さらに盧江太守の劉勲を攻め潰してしまった。このとき、名高い美人姉妹の二喬を手に入れ、姉は自分が娶り、妹は義兄弟の周瑜に娶らせた。また、袁術勢力の残党を降伏させて、袁術の忘れ形見・袁耀をその配下に組み込んだのである。さらに、南昌に拠る劉繇の残党も、太史茲を介して降伏させた。ここに、孫家の江南六郡制覇が成ったのである。さらに、大軍を西進させて、劉表の江夏太守・黄祖の軍を大破した。この黄祖は、孫策の父の仇だったのである。

 この孫策の進撃を阻んだのは、ただ一人。広陵を守る陳登であった。彼は、洪水のように押し寄せる江南軍を、しばしば奇策で打ち破ったのである。

 それにしても、孫策の急激な勢力拡大は、曹操勢力の脆弱な南部を脅かした。許昌では、孫策軍襲来の噂が引っ切り無しに流れたのである。そして、孫策には、その意思と能力が備わっていた。

 しかし、曹操は幸運だった。

 建安五年(二〇〇)四月、小覇王・孫策は、刺客に襲われ、その二十六年の生涯を閉じたのである。

 下手人は、孫策によって迫害された呉郡の士大夫、許貢の家の者であった。狩猟中に毒矢を射掛けられた小覇王は重態に陥った。彼は、瀕死の床で、重臣の周瑜と張昭を呼び寄せてこう言った。

 「中原の地は、いま混乱の中にある。呉越の地の軍勢と長江の堅い守りがあれば、形勢を観望しつつ行動を起こせるはずだ。どうか、俺の弟を良く補佐してやってくれよ」

 次に、弟の孫権を呼び寄せると、噛んで含めるように言った。

 「江南の軍勢を総動員して乱世に雌雄を決する事にかけては、お前は俺に及ばない。しかし、賢者を取り立て能力のあるものを任用し、彼らに喜んで仕事に力を尽くさせ、この地を保つことに関しては、お前は俺よりも上手だ。後のことは頼んだぞ」

 こうして江南の小覇王は、眠るようにこの世を去ったのである。

 後を継いだ孫権は、弱冠十九歳の青年であった。彼は、兄の死が悲しくて毎日泣いてばかりいたのだが、張昭らに叱咤されて立ち直った。彼は、兄の遺言どおりに士人を待遇して人材登用に力を尽くしたので、江南の動揺は程なく収まったのである。

 しかし曹操は、この機会を逃さなかった。寿春に腹心の劉馥を送り込むと、この地に大規模な屯田を起こさせて掌握してしまった。さらに、孫権を討虜将軍と会稽太守に任命して、その行動を掣肘したのである。

 ここに、南方の諸勢力は沈黙し、袁紹は、単独で曹操と戦わざるを得ない状況に追い込まれたのである。

 それでも、袁紹軍は十一万の大軍である。これを官渡城塞で迎え撃つ曹操軍は、各地に守備隊を派遣したため、わずか三万しかここの防備に使えなかったのである。

 官渡は、許昌北部を扼する要衝の地である。ここを突破されたら、もはや許昌への進撃を阻む地形は無い。それだけに、曹操は一年以上も前からこの城塞の防備に注力していた。四方を運河と砂丘に囲まれたこの城塞は、守りやすく攻めにくい。周囲に張り巡らした砦は、完全包囲を不可能にする。袁紹の大軍をこの地に引き寄せるのは、いわば既定の戦略だったのである。

 

 戦局が新たな段階を迎えようとする六月、関羽は許昌の邸宅で沈思していた。その手元にあるのは、官渡城塞への参集命令である。この命令に従うことは、曹操に与して劉備と戦うことを意味する。また、彼の机の上には印綬が置かれていた。白馬の戦いの直後、曹操は朝廷に上表して、関羽を偏将軍と漢寿亭侯に任命していたのである。

 「曹操、俺の本心を張遼から聞いていように・・・」

 関羽の胸は乱れた。顔良を斬って、恩には報いたはずだ。しかし、黙って立ち去るのは心が痛む。いや、去りがたい気持ちが彼の心を引く。

 そのとき、彼の妻が姿を見せた。その白い頬に涙の跡がある。いつものように、前夫を想って泣いていたのだろう。

 「あなた、そんな暗い部屋で何を悩んでいらっしゃるの」

 「分かっているはずだ」

 「劉備さまのこと」

 「・・・・・・・」

 「あたしが男なら、今すぐにでも去りますわ」

 「お前・・・」

 「あなたは、せっかく男に生まれたのに、その幸運を生かそうとはしないのかしら」

 薄幸の女性は、光の篭った眼差しを向けてきた。彼女は、女として生まれてきたばかりに、戦利品として男たちの間を転々と流されて来た。男である夫が、自分と同じような境遇に置かれていることが歯がゆく感じられるのだろう。

 「そうだな」関羽は、ようやく笑みを返した。「俺は、お前の分まで人間らしく生きる。曹操の下で道具として生きるより、劉兄者の下で人間として生き抜いてみせるよ」

 その翌日、関羽は、曹操から与えられた全てのもの、妻、財宝、武具、侍女たち、そして印綬を置き去りにして、単騎で都を抜け出した。

 官渡城内で防戦準備を進める曹操のもとに、許昌から張遼がやって来た。彼は、親友の関羽が逃亡したことを告げに来たのである。

 「そうか、ついに行ったか」曹操は、天を仰いだ。

 「後を追うべきです。逃がしてはなりません」諸将は口々に言った。

 しかし、曹操は、寂しげに首を左右に振った。

 「義士の忠節を全うさせるのだ」

 

 袁紹軍は、延津の東西数百里に陣営を築き、少しづつ南下する戦略に切り替えた。

 その猛攻に、曹操軍は後退を余儀なくされ、八月、とうとう官渡城内に押し込められた。勝ち誇る袁紹軍は、嵩にかかってこの城を攻め立てる。そして、あの公孫瓉の易京を攻め落とした袁紹軍は、城攻めのプロフェッショナルであった。

 砂丘の上に巨大な櫓を組み立てた彼らは、そこから弩を雨のように城内に射ち込んだ。矢は、文字通り雨のごとく降り注ぎ、城内の兵は、盾を傘代わりにしなければ一歩も動けない有様となった。しかし曹操は、これに備えて新兵器を用意していた。巨大な投石器『発石車』である。ここから投ぜられる石は、十二斤(約三キロ)で、その飛距離は三百歩(四三二メートル)である。降り注ぐ石の雨によって、袁軍の櫓は悉く破壊されてしまったのである。

 空中戦に敗れた袁紹は、地下道を掘って城内に潜入する戦術に切り替えた。これぞ、公孫瓉を屠った切り札『掘子軍』である。しかし曹操は、城外に掘り返された土が積もってゆくのを見て、この作戦に気づいた。彼は、城内の壁際一面に塹壕を掘って、そこを厳重に見張らせたのである。城壁の下を掘りぬいて塹壕に出て来た袁兵は、たちまち強弩に狙撃されて蜂の巣となった。地下の戦いも、曹操軍に凱歌が上がったのである。

 こうして、戦局は膠着状態に陥った。

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