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長編歴史小説

黄花太平記 第一部

9.千早城攻防

 鎮西探題館では、北条英時が伊予征伐の準備に追われていた。

 伊予は元来、長門にある長門探題北条時直ときなお の管轄であるが、土居、得能の勢いの激しさに独力では対処できず、ここに鎮西探題も全面協力することになったのである。

  「この筑紫とて、いつまでも平穏ではあるまい・・・」 居室で一人、一息つきながら、英時はつい先日の少弐貞経の行動を、あれこれ思い返していた。

  聞いた話によると、貞経は探題の命令と偽って、無断で帰国しようとする菊池武時と密談したというではないか。しかし、自分は少弐に対して赴任以来このかた、あからさまに命令を出したことなど一度もないのだ。むしろ、少弐の我が儘に悩まされることのほうがよっぽど多い。

  「そもそも探題館とて、筑紫の中心部である大宰府に置きたかったのだ。それを大宰府を本拠にしている少弐めに遠慮したからこそ、博多の片隅で我慢しているのではないか」 思わず声に出して愚痴を言ってしまうほど、近ごろの英時は苛ついていた。

  それにしても、と英時は腕を組み直した。万が一少弐が、菊池や阿蘇と結託して反乱軍に回ったらどうなるか。おそらくこの館は一日たりと持ちこたえられまい。

  ただ、あの打算的な貞経が敵に回る時には、余程宮方が優勢でなければならないはずだ。しかし、今畿内には幕府の主力部隊が集結している。これをもってすれば、楠木正成も大塔宮も洪水の前の蟻と同じである。そして畿内が平定されれば、少弐がおかしな動きをする余地もなくなるであろう。

 「ふふん、何も心配はいらん」 北条英時は、しかし一抹の不安を完全には拭いきれずにいるのだった。

※                ※

 そのころ菊池では、武時らの無事な帰還を祝って宴会が開かれていた。中でも、半年ぶりの六郎武澄と城隆顕の姿は座の雰囲気を大いに盛り上げたのである。

 ただし、城館の一郭に新たに尊良親王が居住することは、一部の側近以外には秘密にされていた。

  「六郎、母さんは、こんなに心配していたんだよ」と、しきりに涙ぐむのは、武澄の生母である武時の第三夫人の桃子である。この人は一口でも酒を飲むと涙が止まらないという、いわゆる泣き上戸であった。

 「母上、やめてよ。恥ずかしいぜ」しきりに泣きつかれて、武澄は心底困った様子である。しかし、その様子がまた、酔っ払いたちにとっては一興なのである。

 一方武時は、酒の座に連れて来られた赤ん坊の早苗に付きっきりであった。

  「おいの早苗、もう会えないかと思ったぞ。心細かったぞ」 この見幕には、母の智子も苦笑する他なかった。

 「おやじは大袈裟だなあ」九郎武敏は馬鹿にしたような目付きでニヤニヤしていたが、近くで杯を干している次郎武重は、父を笑う気にはなれなかった。 あのとき、少弐貞経を納得させることができなかったら、今頃は親子ともども博多にさらし首となっていたかも知れないのである・・・・。

  城隆顕は、酒の席でも厳粛そのものであった。息子の武顕に向かってしきりに楠木流兵法について語るのであった。それを武顕は憑れたように聞き入っている。彼らは、一族の中でもかなり個性的な親子であった。

  他方、三郎頼隆は酒の座を離れ、一人夜の庭にたたずんでいた。 気真面目な頼隆は、六郎から梅富屋船襲撃の状況を聞き、呑気に酒を食らっていられなかったのだ。父には悪いが、やはり早いうちに自分の口から梅富屋に告白するべきだ。そうでなければ、もはや妙子と愛を語る資格など自分には無いのだ・・・・・

※                 ※

 二月中旬。畿内ではついに幕府の大軍が動き始めた。

  鎌倉幕府は、楠木正成と大塔宮の首に懸賞をかけてまでして、一気に畿内を平定しようとしたのである。

  「やれるもんなら、やってみい」

 迎え撃つ楠木正成は、赤坂と千早の二城に全軍を集中した。かねての計画どおり籠城戦で時間を稼ぐつもりである。

 一方、大塔宮は千早の背面にあたる吉野を要塞化し、幕府軍に対峙した。

  正成は、忠誠の薄い新附の豪族を全て赤坂城に集中させ、弟の正季を軍監としてつけた。地形上、幕府軍は赤坂を陥落させない限り千早を攻撃できないのである。そこで正成は、赤坂を捨て石として時間稼ぎに使うつもりなのである。精鋭は千早に残し、決着は千早でつける。これが正成の必勝の作戦であった。

 赤坂城の将兵は、しかし必死に頑張った。幕府の二万の大軍は、わずか数百の楠木勢の前に見る見るうちに死体の山を築いたのだ。

  「力攻めはいかぬ。兵糧攻めにせい」 幕府軍の総大将、阿曽あそ 治時はるとき は業を煮やした。

 しかしこの時は、天運は幕府に味方したのである。密偵が赤坂城の致命的な弱点を発見したのだ。

 「御大将、赤坂城は城外から桶で水を引いているのです。これを止めれば・・・」

 「でかしたぞ。さっそく手配じゃ」

 水を断たれては、もはやどうしようもない。赤坂城は攻防開始から十日目にして陥落したのである。軍監の楠木正季は千早に脱出したが、主将の平野ひらの 将監しょうげん は捕らえられ、京都で斬首された。

  同じころ、大塔宮の籠もる吉野も破局を迎えていた。

 もともと、千程度の兵で守るには吉野は大きすぎたのである。地理に詳しい地元の将兵を先頭に搦め手から乱入した二階堂さだ ふじ を総大将とする幕府軍は、大塔宮を自決寸前にまで追い込んだ。

 「宮様、私が身代わりになります。死を急がず、再起を図ってくだされい」

  大塔宮の腹心の村上義光むらかみよしてる は、宮の鎧兜を身につけると炎の中を敵に向かって突撃し、壮絶な戦死を遂げたのである。幕府軍が村上に気を取られている隙に、宮はからくも高野山に逃れることができたのだった。

 幕府軍の凱歌が千早城を取り囲んだ。もはや正成は絶体絶命。誰もがそう思ったのである。四万の軍勢に立ち向かうは、わずか一千であった。

 元弘三年は閏年であり、二月が二回あった。幕府軍の千早総攻撃は、閏二月に始まったのである。

  「者共、頑張るんや。やがて各地の宮方が蜂起して、敵の背後を衝いてくれる」

  正成の檄がとぶ。

 城内で、菊池七郎武吉は天下の大舞台の前に武者震いした。食料も水も十分にある。後は皆の気力の勝負だ。

  もっとも、嶮岨な山奥に、幕府の大軍は数の利を生かすことが出来ないでいた。四万の軍勢といっても、一度に攻撃出来るのはせいぜい一千がいいところである。しかも千早城は金剛山の斜面の中腹にあるので、それをよじ登るだけでも一苦労なのだ。騎馬戦なら天下無敵の坂東武者も、崖をよじ登る姿はサマにならない。

  「いまや、いてこませ」

 正成の下知のもと、下方をはいずり回る武士たちの上に、岩石や巨木が襲いかかる。木石が底をついても、熱湯や糞尿が有効な代用物となった。木製の攻城具の上には、油と火種が襲いかかる。

  楠木勢の奇想天外な戦術に大損害を被った幕府軍は、例によって城の水の手を止めようとしたが、しかしこれを断念せざるを得なかった。千早城内には、わき水がいくつもあったからである。 その上、金剛山の背面は修験道の聖地であって、軍隊の許可無き侵入は禁止されているはずなのだが、金剛寺と手を握っている正成は、ここを利用してゲリラを指揮し、兵糧を城内に運び込むことができた。

 かくして千早攻めは長期化したのである・・・ 。

 さらに、幕府軍の黒星が、もう一つ西国に上がった。

 閏二月十一日、鎮西探題の支援を得た長門探題北条時直は、伊予に上陸し、一気に土居、得能両氏を滅ぼさんとした。彼らに連れ去られたと考えられる尊良親王の奪回も、その目的の一つであった。

 土居、得能連合軍は、忽那島の忽那重清しげきよ と力を合わせ、果敢にこれを石井浜いしいはま に迎え撃った。その結果は、探題側の大敗であったのである。

 命からがら長門に逃げ帰った北条時直は、その混乱の隙をついて数十隻の海賊船団が日本海に脱け出たことなど、知る由もなかったのである。

  この石井浜の戦勝は、全国の宮方を勇気づけた。

  やがて、播磨の赤松則村入道円心も、閏二月下旬に入って京都へ向けて進撃を開始した。幕府の主力は全て千早に釘付けになっているので、都への道は平坦であった。しかし、歩兵を中心に編成されている赤松勢は、平野での合戦では所詮、坂東武者の騎馬隊の敵ではなかった。さすがの赤松則村も土壇場で敗北し、一時播磨に退却し鋭気を養うよりなかったのだ。

 それでも、六波羅がその喉に短刀を突き付けられた事実には変わりはない。

 このような情勢下、幕府勢の心胆を寒からしめる大きな出来事が起きた。 隠岐に配流されていた先帝後醍醐が脱出し、伯耆ほうき (鳥取県)の豪族、 和長年わながとし のもとに身を寄せたのである。先帝の脱出を手引きしたのは、瀬戸内海から回航してきた海賊船団だったという。

 後醍醐帝を迎えた名和一族は、漁業や流通業にも従事していたというから、楠木や赤松と同じような立場にある豪族といえる。やはり北条氏のやり方に不満をもっており、先帝の脱島を契機に倒幕の旗をあげたのである。一族をあげて伯耆の船上山せんじょうせん に立て籠もった名和一族の勢いはすさまじく、討伐に来た幕府軍を連破し、瞬く間に山陰を平定してしまった。

 「都を奪回し、護良と楠木を救え」

 伯耆の後醍醐帝の命令一下、側近の千種忠ちぐさただ あき を大将とする京都攻略軍が組織され、北西から都を狙うことになった。ついに戦局は大詰めを迎えようとしていた・・・

※                 ※

 しかし大宰府では、船上山から送られて来た錦の御旗を前に、少弐貞経が考え込んでいた。

 後醍醐帝は、手当たり次第に各地の豪族に綸旨りんし や錦旗をばらまいているようだ。この方策は、なるべく御家人の力を借りずに倒幕を進めて来た大塔宮とは大きな違いである。苦しい台所事情が良く見える。

  貞経が考えるに、宮方の不利は明白であった。

 その理由の一。後醍醐帝と大塔宮の二本の命令系統がバラバラで、ただでさえ乏しい武力をさらに分散させてしまっている。

  その理由の二。楠木正成の重要性が高すぎる。正成の千早城は、今や宮方の象徴である。これが陥落するようなことになれば、宮方の士気は崩壊するであろう。

 その理由の三。宮方の主力は、楠木にしろ赤松にしろ、名和にしても、野戦においてはとても坂東武者の敵ではない。いくら籠城戦で有利に戦いを進めても、野戦で決定打を浴びせることができなくては、幕府にとどめはさせない。

  「まあ良い、菊池の挙兵準備が出来るまで暫く時間があろう。その間、じっくり情勢を検討させてもらおうか」 貞経は不敵にほくそ笑んだ。

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