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長編歴史小説

黄花太平記 第一部

17.悲しき女たち

 虎若と惟澄が奉行所で暴れ回った翌日、いつものように、博多で討ち死にした菊池一族の首級が犬射の馬場にさらされた。

 もうこの頃では、博多市民の見物人は数えるほどしかなく、旅商人や旅行者が時々眺めに来るだけであった。

  「おそろしいのう」

  「探題に逆らうなんて、身の程知らずというこっちゃ」

  竹格子の向こうに列をなして陳列されている首を恐ろしげに眺めながら、どこかの旅商人たちが話している。

 彼らから少し離れて、二人連れの旅衣装の女性が、笠を目深に被ってたたずんでいた。しかしその視線は、食い入るように竹格子の中に吸い込まれている。もしもこの時、梅富屋の者が通りかかったとしたら、その一人の顔に懐かしい面影を見いだすことであろう。いや、それは無理かもしれない。なぜなら、妙子の顔は涙と絶望感で埋め尽くされ、いつもの快活さはどこにもなかったからである。

  妙子の目は、夫の土色の首級だけを見ていた。しかし、かつては菊池三郎頼隆のものであった首は、もはや生前の面影を止めてはいなかった。馬蹄に踏みにじられたうえに、初夏の陽気は、酒漬けにされたくらいでは腐敗を阻みはしなかったからである。

 妙子は、その両目に映っている物体が、あれほど愛した夫であるとはとても信じられなかった。信じたくなかった。夫がいつか笑って帰ってくれる日を、夢見ていたかった。 武重から夫の戦死を聞かされたとき、妙子は、また武重がからかっているのだろうと思って本気にしなかった。武重の瞳に映る涙を見たときも、そこまでしてうちを困らせたいのか、と武重に怒りを覚えたものだった。なにしろやっとつかんだ幸せを、神様が簡単に奪うはずはないではないか。

 しかし、彼女は真実が知りたかった。そこで武重に無断で、お人よしの章子に泣きついて、博多までついて来てもらったのだった。 そして真実に直面した今、真実を知りたかったはずの彼女は、真実を受け入れることを拒絶しようとした。その結果、彼女が採るべき道は一つしかなかったのであった。

  「うふふ・・・・」 妙子の低い笑い声に、念仏を唱えることに夢中だった章子は、我に返って顔を上げた。妙子はどうして笑っているのだろうか。

 「妙子どの・・」

 章子の呼びかけが聞こえないかのように、妙子は顔を伏せたまま低く笑っている。しかしその笑い方は尋常なものではなかった。やがて低い笑いは、はじけるような爆笑へと変わったが、それはまさに地獄に吸い込まれるような調子の狂った笑い声であった。

  「・・どうなさった」旅商人の一人が恐る恐る近づいて来た。

  「い、いえ、何でもございません」章子はしどろもどろに言い繕うと、笑い続ける妙子の手を引いて、その場を立ち去ろうとした。

  「どこ行くのじゃっ、うちはあの人を待ってなきゃいけんにっ」妙子は金切り声を上げ、抵抗して駄太っ子のように暴れた。その目は異様に血走っていた。

 「何があったんじゃ」

 「あの娘さん、生首を見て気が違ったらしい・・」

 「ほお、遺族の者じゃろか」

  「ほんに可哀想なこっちゃのう」

  口々に言う旅商人の視線を避けるように、章子は妙子を引きずるようにして犬射の馬場を去って行った・・・。

  やがてしばらく後、梅富屋本店の前で章子の姿を見ることができた。彼女は、外出中の庄吾郎を門前で待ち受けていたのである。

 庄吾郎は、このところ毎日のように探題館に呼び付けられ、取り調べを受けていたのだ。菊池氏に軍資金の貸し付けを行っていたことが発覚したからである。彼は菊池武時の叛意については知らぬ存ぜぬ(これは事実だった)で押し通し、頑張っていた。今日もやっとのことで解放され、足取り重く家路をたどっているのだった。

  「やれやれ、罪に問われることはないだろうが、競争相手の肥富屋に相当後れをとることになりそうだな・・」

 思わず独り言を言ったちょうどその時、見慣れぬ女性が彼のそばに近づいて来た。

 「梅富屋庄吾郎さまですか」その女性は低い声で早口で喋った。

 「いかにもそうですが」

 「うちは、肥後菊池の章子というものです。お嬢様のことでお話があって・・」

  「おお、菊池の方でしたか・・・して、妙子が何か」

  「それが、この向こうの廃寺におられるのですが、ちょっと」

  「おお、娘が来ているのですか。早速参りましょう」

  取る物もとりあえず、庄吾郎は章子とともに廃寺に向かった。しかし、彼は変わり果てた娘の姿に呆然とするほかなかったのである。

 「娘よ、どうじゃ、このわしが分かるか」

 父に肩を掴まれても、妙子の目はそこにある何物をも見てはいなかった。彼女の意識は既に涅槃をさまよっているものであろうか。時折、その喉の奥から低いうなり声があがるだけである。 章子は、この悲しい親子の対面を正視することができず、荒れ果てた本堂の片隅で、ひたすら涙に暮れていた。

 やがて娘との対話を諦めた庄吾郎は、静かに章子に話しかけた。

  「章子どの、知らせてくれてかたじけない。かくなる上は、娘はわしが引き取ることにいたします。次郎(武重)どのには、よしなにお伝えください」

 「・・・その方が、妙子どのにとっても幸せでございましょう」

 章子は涙を拭いながらそれだけ言うと、名残惜しそうに妙子に目をやった。そして、今まで本堂の外で控えていた、護衛に菊池からついて来てくれた二人の若党とともに、その日のうちに博多を去って行ったのである。

 一方、妙子は父に肩を抱かれながら、懐かしいはずの梅富屋の家へと重い足取りで向かったのであった。

  人の噂は早いものである。菊池党戦死者の若妻の発狂は、たちまち巷間に広まって行った。そして鎮西探題北条英時は、この噂話を妻から寝物語に聞いた。

  「そうか」英時はうつむいた。「わしは幕府を守るために菊池、阿蘇の一味を無我夢中で討ち果たした。しかし、彼らとて鬼ではない。その祖国には、夫や兄弟の帰りを待つ女子供が大勢いたというのにな」

  「・・・悲しいことです。でも殿が悩むことではございますまいに」英時の妻は、強いて笑顔を見せようとした。

 「・・・このような悲劇は、戦が続く限り無くなりはしまい。しかし、もう大丈夫じゃ。鎌倉の兄(執権守時)からの知らせによると、ついに幕府は我が妹婿・足利高氏どのの出陣を決定したそうな。足利の力をもってすれば、赤松、千種、名和、楠木の輩は敵ではあるまい。こうして幕府に刃向かう凶徒どもを平定した暁には女たちも安心して過ごせる世が来よう」

 英時は、自らに言い聞かせるかのようにつぶやいた。

※                ※

 希望の星、足利高氏が西上を開始したのは、三月も終わりのころであった。

 北条一門の名越なごえ 高家たかいえ も同行している。 高氏の軍勢は、鎌倉を出発したときわずか一千たらずであったが、全国に氏族の多い高氏のもとには、東海道を進むたびに次々に軍勢が加わって行った。そして、この足利の威勢こそ、幕府最後の頼みの綱であった。

 しかし、高氏の心は既に決していたのである。

 足利勢は、あたかも物見遊山のように、わざとゆっくり東海道を歩んだ。これは、後醍醐帝の綸旨を受け取るための時間的猶予を得るためであった。

  「いまこそ北条一門を打倒し、我ら源氏の世を取り戻すのだ」

  一人つぶやく高氏の脳裏には、政争に敗れたあげく切腹し、非業にして死んだ祖父家時の書き置きが浮かんだ。

 『我より三代のちの子孫に天下を取らせたまえ・・・』

 そしてこの書き置きは、今こそ実現されようとしていたのだ。

  足利勢が近江おうみ 鏡の宿(滋賀県)に到着した四月の中旬、高氏のもとに待望の綸旨がもたらされた。三河(愛知県)から先発していた船上山への使者が、無事に帰って来たのである。

  「よし、これで大義名分は整ったぞ」高氏は、弟の直義ただよし に向かって微笑んだ。

 実を言うと、高氏の挙兵計画は全てこの弟が練ったのである。直義は、冷静沈着な優れた参謀であった。

  足利の真意を知らぬ六波羅は、強力な援軍の到着に喜んだ。高氏と名越高家は、六波羅探題に大いにもてなされ、戦況についての説明を受けた。

  「聞けば、六波羅は勝ち戦の連続という。なのに何故こうも軍勢が少ないのじゃ」 名越高家の質問である。

 「それが、勝ち戦にもかかわらず宮方に寝返るものが後を絶たぬのじゃ。つい先日、奥州白河(福島県)の結城親光ゆうきちかみつ も、手勢を引き連れて敵に回りおったわ」苦渋に満ちた顔で答えたのは探題北条仲時なかとき である。

 「なにっ、結城親光といえば、あの結城宗広むねひろ どのの次男ではないか。父の宗広どのは無二の幕府方だというのに、なぜじゃっ」 高家は単純に驚いたが、一族を二つに分け、どちらが勝っても家を守れるようにする政策は当時の豪族たちの習性で、なにも今に始まったことではなかった。

  「勝ち戦にもかかわらず兵が減って行くとは、末期症状ではないか」高氏は冷ややかに心の底で思った。

  その翌日、足利勢は都の北西に陣取る千種忠顕軍を、名越勢は南西で待ち受ける赤松円心軍を叩く手筈で六波羅を後にした。 年も若く血気にはやる名越高家は、遮二無二赤松軍に突進した。その勢いに、赤松勢は散り散りになって敗走した。

 「いまだ、追えっ。円心入道の首を討てっ」 調子にのって深追いした名越勢は、久我くが なわて の泥田の中にまんまと誘い込まれた。最初の赤松勢の敗走は、敵をおびき寄せるための円心の罠だったのだ。

  「いかん、退けっ」 あわてる名越勢も、泥田の中では自慢の騎馬隊も役に立たず、赤松の弓隊の的になるだけであった。名越高家も狙撃され、泥にまみれて無残な最期を遂げたのだった。

 「なんと、高家どのがっ」驚愕する六波羅探題に、さらなる凶報が飛び込んで来た。

  足利高氏の背信である。

 一度は千種軍に向かったかに見えた足利勢は、方向転換して老の坂を越えると、丹波篠山(京都府北部)の八幡宮で源氏の白旗を翻し、倒幕の誓いを立てた。このとき、社殿に願文の矢が山のように積もったという。

  高氏は、ただちに各地の豪族に御教書を送った。倒幕への呼びかけである。

 これは河内にいた阿蘇惟時はもとより、九州の少弐、大友、島津、菊池氏のもとにも届けられた。彼は、既に戦後の発言力強化をねらっていたのである。これも参謀の直義の発案であろう。

  ともあれ、源氏の頭領、足利氏の声望は大きかった。阿蘇前大宮司惟時をはじめ、これまで情勢を静観していた豪族たちが、次々に足利の旗のもとに馳せ参じたのである。その軍勢は二万に達した。

  足利高氏と六波羅との決戦は、五月七日に起こった。

 この結果、六波羅探題は炎上し、探題仲時は光厳天皇らを守って関東へと落ちのびようとした。しかし伊吹山で亀山天皇の皇子、五辻宮いつつじのみや 守良もりよし 親王の軍勢に遮られ、やむなく一族郎党四百人とともに切腹して果てた。 光厳天皇とその一族は保護されたが、やがて先帝後醍醐に譲位する運命にある。

 こうして、鎌倉幕府の畿内の拠点はあっけなく滅びたのである。

  急を知った幕府の千早城攻撃軍は、背後を襲われることを恐れ、包囲を解いて奈良へと潰走して行った。

  「やったで。わいらは勝ったんや」

 千早守備の面々は涙を流し、肩をたたき合い、抱き合って喜んだ。千早城の三カ月に及ぶ奮闘は、ついに報われたのである。

  鎌倉幕府滅亡の足跡が、ひたひたと近づいた。

  五月八日、上野で新田義貞が倒幕の旗を揚げた。日付から推察すると、事前に足利高氏と連絡を取り合ったに違いない。いずれにせよ、東西で同時に源氏の有力者が挙兵したことになる。

  しかし、新田氏は足利氏と異なり、北条氏と累代にわたって対立していため、その勢力はそれほど大きくはなかった。ゆえに生品いくしな 神社で旗揚げしたとき、馳せ参じた兵力はわずか百人程度であったという。

 だが新田義貞の奮戦は目覚ましかった。兵力の劣勢にもめげずに鎌倉目指して南下し、各地で幕府勢を撃破した。

 そんな義貞のもとに、足利高氏の嫡男千寿王せんじゅおう が参陣した。千寿王はまだ子供であったが、これまで人質として鎌倉に留め置かれていた。それが今、父の挙兵に呼応して無事に脱出して来たのである。

 これを見た各地の豪族は、高氏の御教書を手に次々に新田勢に合流した。かくして新田勢はたちまち数万の大軍に膨れ上がっていったのである。

  事態を重視した幕府は、北条泰家やすいえ を大将として分倍河原(東京都)に防衛線を引いたが、裏切り者が現れたこともあって、激戦の末に敗れ去った。

 かくして北条一族は、もはや全軍で鎌倉に立てこもり、最後の勝機をつかむより無くなったのである。

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