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長編歴史小説

黄花太平記 第二部

1.建武改元

 鎌倉幕府が滅亡してから半年が過ぎた、元弘三年(1333)十二月。京の都の片隅で、一人の老人が静かに息を引き取った。

 老人の名は、大友おおとも 貞宗さだむね といった。九州の御三家の一人として、天下にその名を轟かした男である。 この老人は、鎌倉幕府滅亡直後から都に上り、老体に鞭打って大友一族への恩賞問題を有利に運んでいた。その甲斐あって、いまや豊後大友一族は豊後、肥前、肥後の三国の守護となり、一挙に九州の重鎮に成り上がったのである。

 しかし貞宗は、風邪にかかったとたんに、たちまち危篤状態に陥って帰らぬ人となったのだ。慣れない都の水が良くなかったのであろう。

  「そうか、具簡ぐかん (貞宗の法名)がなあ・・・」

 大宰府でその知らせを受けた筑後守護の少弐貞経しょうにさだつね は、世の無常を思い知った。

 彼と貞宗は古い友人で、ともに力を合わせて鎌倉幕府が博多に設置した鎮西探題を滅ぼし、その功績によって後醍醐天皇の新政権でも共に高く評価されていたのだ。その盟友が、こうも呆気なく亡くなるとは思わなんだ。

  「それで、誰が具簡の跡を継いだのじゃ。やはり三男坊の氏泰うじやす か」

  「ええ、そのようで御座ります」

 貞経の問いに答えたのは、差し向かいに座る、家老の饗庭あいば 弾正だんじょう であった。いつもながら愛想の無い木訥な表情をしている。 二人の主従は、大宰府政庁の居間で、仲良く茶をすすりながら歓談しているのだ。

 「ふん、あんな子供に跡目を継がせるとは、具簡も耄碌したわい。兄たちが黙ってはいまい」貞経は、腕を組んで沈思した。

 「ばってん」家老が口を挟んだ。「長兄の貞順さだより どのも、次兄の貞載さだとし どのも、惣領を継ぐ器量の持ち主ではありませぬ。これもやむを得ないのでは」

  「まあな。わしには、太郎(頼尚よりひさ )のような立派な跡目がおって、具簡よりも幸せだったな」貞経は寂しげに微笑んだ。

  「今度、菊池を継いだ武重たけしげ どのも、太郎さまに劣らぬ器量の持ち主だとか。国司の仕事を見事にこなしているそうですな」

 「うん、菊池武重か。我らを差し置いて国司になっただけの男よ。さすがは、あの勇猛な寂阿じゃくあ (武時たけとき )の長男だけのことはあるようじゃな」

 そう言った貞経は、少し苦い表情になった。 なにしろ、内乱の当初、幕府に味方して菊池武時を屠ったのは、外ならぬ貞経と亡き貞宗なのだから。しかし今や、その武時の子供たちは、国司として自分たち以上に羽振りをきかせているという。皮肉であった。

 「面白くない・・・」貞経の唇から、思わず本音が漏れた。

※                  ※

 時を同じくして、豊前規矩きく 郡の大きな屋敷の一画で、二人の男が向かい合っていた。

 薄暗い灯明の陰で、声を落としている。どうやらこちらは不穏な密談のようだ。

  「大友家中で、跡目をめぐって派閥抗争が展開されていたのですが、入道次男の貞載は、肥前守護を譲られる条件で氏泰派に付いたそうです。結局、氏泰の家督は不動ということになりそうです」

  「ふふふ、それでも良い。敵の中に不満分子がいるということは、それだけ我らの計画が有利となること。ところで、故相模入道高時どのの遺児・亀寿丸かめじゅまる どのは、無事に諏訪に入られたのか」

  「はい、亀寿どのは、父の仇、足利と新田討伐に燃えているとのこと」

  「おお、それは頼もしいかぎり」

  不敵に笑った屋敷の主は、規矩高政たかまさ であった。彼は北条一族であったが、鎮西探題の滅亡後に神妙に降伏したために罪を許され、今では大宰府の政務に協力している立場である。そんな彼のもとを訪れた客は、かつての豊前守護で、高政の甥にあたる糸田いとだ 貞義さだよし である。

 彼らの不穏な会話は、一体何を意味していたのだろうか。

  後醍醐天皇の新政府に対する反乱計画に他ならなかったのである。

 鎌倉幕府滅亡から半年が過ぎ去った今、新政府の不人気は明白となっていた。これに乗じて北条幕府再興を企てる者が現れても、何の不思議もない情勢であった。 既に陸奥では、北条時如ときよし が北条残党を集めて蜂起しており、陸奥国司の北畠顕家と交戦中であった。更に、伊予には北条重時しげとき が、北陸には名越時兼なごえときかね が、信濃には北条亀寿丸(後の時行ときゆき )が牙を研いで雌伏していたのである。

 まさに危うきかな、新政府である。

※                 ※

 そんなこととは露知らず、菊池武重は肥後国司としての職務に勤しんでいた。

 しかも武重は、大友家の跡目のゴタゴタに乗じて肥後の軍事指導権をも接収したため、守護としての実権をも掌握していたのである。肥後はもはや、菊池一族の独壇場であった。

 もっとも、肥前国司の菊池武澄は、そううまく事を運ぶ訳には行かず、一般行政権の行使で満足しなければならなかったし、対馬も、木野武茂が国司の実権を宗一族に委譲したので、とっくの昔に菊池一族の手を離れていた。

  さて元弘四年元旦。 菊池一族の面々は、いつものように深川城に集合し、新年を祝った。

  「謹賀新年」

 「おお、恐惶謹言」

 挨拶の声も明るい。当然であろう。倒幕に大きな犠牲を払ったものの、念願の肥後国司を獲得できたのだから。しかも、形ばかりとはいえ肥前、対馬国司のおまけまでついて。

 「六郎兄者、仕事の方はどうだい」七郎武吉が、からかうような口調で言った。

  「まあな、順調だよ、順調。守護の大友貞載なんぞ目じゃないぜ」と、肥前から里帰りしてきた武澄は、負けずに言い返した。

 「ははん、ほんとは貞載が怖くてしょうがないんだな」

 「なんだと、このやろう」

  酔っ払った二人は、ふざけて取っ組み合いの真似をした。二人とも、まだ二十前の若さである。しかも去年の正月を、河内千早城の殺伐とした雰囲気の中で送ったことだし、そのはしゃぎ振りも無理ないことである。

  「こんな子供が国司とは、御新政もいいかげんだよな」横でニヤニヤしながら、五郎武茂が言った。彼はどっかり座って、旨そうに杯を干している。

  「そうとも、おいを国司にすれば良かったのに」と、真顔で九郎武敏が漏らした。気の強い彼は、何事にも負けず嫌いな性分なのである。

 「なに言ってやあがる、九郎。お前の方がずうっと子供じゃないか。兄上に向かってそんな口を叩くのは十年早いぜ」八郎武豊は、笑顔でからかった。

  「そんなことは無い。おいが国司なら、大友なんぞ鼻毛の先で吹き飛ばしちゃる」武敏は、肩を怒らせ、口から唾を飛ばしながら反論する。

  「九郎よ、上ばかり見てると足元をすくわれるぞ。虎若のやつが、毎日裏庭で剣の稽古をしてるのを知らぬのか」と、五郎武茂が口を出した。

  「なんだって」九郎は絶句した。「あいつ、このおいに剣で勝てると思ってるのか」

 「虎若だって再来年は元服だ。いつか剣の腕で弟に負ける日が来るぞ。さあどうする」と、嬉しそうな口調は八郎武豊。

 「ふん、虎若なんぞ、目じゃないわい。おいの方が、遥かに腕は上さ」九郎はうそぶいたが、その表情は少し焦り気味であった。

  一方、次郎武重は一人、酒の座を離れ、庭に降り積もる雪を縁側から眺めて感慨にふけっていた。去年の今頃は、来るべき倒幕を前に、期待と不安にさいなまれていたのだが。今では北条幕府は滅亡し、自分たち一族の未来は、新政府のもとで前途洋々たるものである。

 もちろん、肥後国内にも、新政府の施策に反対の者が大勢いる。でも、それは仕方ない。後醍醐の君の政策が新しすぎて、ついて行けないだけなのだ。彼らだって、今にきっと分かる時が来るだろう。

 降り続ける白い雪を見つめながら、武重の空想は、いつしか京の思い出へと移っていた。 名和長年の派手な行列、楠木正成の恩情、阿蘇惟時との対面、大智との再会、そして。 五条大橋で出会った遊女の小夕梨こゆり 。彼女のことを考え出すと、武重は仕事が手につかなくなるのだ。せめてもう一度会いたいものだ・・・・。

 「あなた、何を考えていなさるの」後ろからの声。いつのまにか、妻の裕子が寄り添っていた。

  「いや、別に。なんとなく雪を見ていただけさ」少々うろたえ気味の武重。遊女のことを考えていたなどと知れたら、どうなることやら。

  「早苗がね、さっき一人で立って歩いたのよ。それを知らせに来たの」

  「ほう、それは正月早々めでたい。亡き父上が聞いたらどんなに喜ぶか」

  「きっと、あの世で見てますわ。三郎どのや覚勝さまとご一緒にね」

  「うん、そうだな」武重は、力強く頷いてみせた。

※                 ※

 しかし、今年の正月は、めでたいことばかりでは無かった。

 正月中旬になると、筑前と筑後で北条残党の反乱が起きたのである。その首謀者は、いわずとしれた規矩高政。

 彼は筑前の帆柱岳城ほばしらたけじょう に籠もり、甥の糸田貞義は筑後堀口城ほりぐちじょう に籠もって兵を集めた。

 これに呼応して、伊予では北条重時が蜂起した。

  筑前と筑後の守護である少弐貞経、頼尚の親子は、あわてて大宰府で兵を集った。しかし北条軍の勢いは強く、手がつけられない状況となった。新政の恩賞沙汰に不満を持つ豪族が、多く北条党に加勢したからである。

 「おのれ、規矩高政め、降伏したとき命を救うのでは無かったわっ」少弐頼尚は歯軋りして呻いた。しかし、もう手遅れである。

 京都の朝廷は、この事態に驚愕した。実は、このころ朝廷では改元を計画中であったが、その時期を早め、兵乱の鎮圧を祈ることにした。しかし、新しい元号は「建武」であった。兵乱を治めるための改元なのに、「武」の字が入るのは不吉であるとの反対も多かったが、後醍醐天皇の一存で決定されたのだ。かくして、元弘四年は建武元年に改元された。

  しかし、こんなことで戦争が無くなるなら誰も苦労しない。

 北条党の反乱は加速する一方で、北陸でも関東でも反乱が起きた。

 「大内裏だいだいり の建立を執り行う」

  こんな不穏な状況の中でも、後醍醐天皇は強気であった。承久の大火で焼失したままの大内裏の再建を計画したのだ。しかし諸国は元弘の戦乱から立ち直っておらず、この経済的負担に耐えることは出来なかった。そこで天皇は、本邦初の紙幣を発行し、これで建立費用を賄おうとしたのである。着想は良かった。しかし、実行に移す能力は公家たちには無かった。結局、諸国の武士に年貢の二十分の一という無理な重税を課し、怨嗟を強めるだけの結果に終わったのである。

 問題はそれだけでは無かった。地方では、コネの力で国司になった公家や僧侶が苛斂誅求の限りを尽くし、私利私欲のために民を苦しめていた。中には善良な公家もいたのだが、彼らとて小さいときから遊び暮らしていた訳だから、政治のやり方など分からない。結局、目茶苦茶な政治を行い、結果的に民百姓が苦しむことには変わりなかった。

 今や建武政権は、武士はおろか民百姓や商工業者にまで見放されようとしていたのだ。

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