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長編歴史小説

黄花太平記 第二部

5.大塔宮の悲劇

   菊池勢は、その日から武者所直属軍となり、京に居住することとなった。

 同僚には、伊賀兼光かねみつ や名和長年、結城親光ゆうきちかみつ 、宇都うつの 宮公綱みやきみつな、それに塩谷えんや 高貞たかさだ ら、今を時めく帝の寵臣がこぞっていた。

 しかし、例によって足利一族の名は無く、京童はこの状況を「尊氏なし」と呼んで不思議がったものである。

  京での足利尊氏の立場は、今で言うところの窓際族であったが、彼の私設奉行所の治安維持活動は黙認されていた。全国の武士が彼を慕っていたからである。と言うわけで、公家たちは、腫れ物にさわるような思いを彼に対して抱いていた。

  菊池一族の京都滞在期間は、一年と定められていた。一年間は武者所に常勤し、都の治安を守らなければならない。

  菊池武重は、阿蘇惟時や楠木正成から京都の情勢を聞き、その深刻さに驚いた。特に阿蘇惟時は帝に深く信頼され、三種の神器の衛兵を率いる立場にあったので、かなり本質的な事まで立ち入って教えてくれたのである。それによると・・・。

 大塔宮と足利尊氏の対立は、激化する一方であった。これには、伯耆閥と吉野閥の抗争がからんでいた。

 自分の皇子を世継ぎにしたい三位局さんみのつぼね ・阿野廉子れんし は、伯耆閥を利用して大塔宮の排斥工作を進めていた。

  彼女は帝の寵后であったから、直接帝に讒言できる立場にあり、その政治力は大塔宮に勝っていた。そのため、大塔宮の立場は次第に不安定となった。廉子にとっては、大塔宮派の武将の恩賞を薄くして、宮の武力を削減することなど朝飯前だったからである。

 あせった宮は、親戚の北畠顕家に頼んで、奥州の兵力を京に派遣してもらったりしたが、それでも征夷大将軍としての威信は薄れる一方なのであった。

 この窮状を打開するためには、武家の棟梁を自認し、私設奉行所をもって新政に対して独立の立場をとる足利尊氏を打倒するしかない。どうせ尊氏は、近いうちに新政に反旗を翻すであろうから、帝のためにも尊氏を倒すべき。

 そう思い定めた宮は、父帝に尊氏追討の勅語を要求したが、これを得ることはできなかった。なぜなら、後醍醐天皇は尊氏の実力を内心恐れており、尊氏に対しては徹底的な融和主義を採ったからである。

 それで宮は、独力で尊氏を倒そうと謀ったのだった。

 しかし、廉子の謀略によって、赤松や高間といった武士たちはとっくに宮のもとを離れていた。かつて最大の同志であった楠木正成でさえ、政争に巻き込まれるのを嫌がり、宮の暴挙を諌めた。のみならず、尊氏と武家の棟梁を巡って対立関係にある新田義貞までも、帝の勅命なく兵を動かすことを拒んだのである。

 それだけではない。

 宮はやがて、廉子の差し金によって征夷大将軍の地位も奪われてしまったのだ・・・。

 大塔宮は京で孤独であった。 今では、暗殺によって尊氏の命を奪うことを企み、自ら覆面姿で夜の町に出て、訓練のために辻斬りをしているとの専らの噂であった。

 ところで、今度の武者所の拡充は、大塔宮の没落と無関係では無い。従来、武力を持たない公家は、二つ以上の勢力を噛み合わせ、その冷戦構造の上で初めて安住する人種である。ゆえに足利尊氏と大塔宮の勢力の均衡が崩れた今、宮に代わる勢力として新田義貞を取り立てようとし、その前提として武者所を強化したわけである。

 菊池武重は、こうしていつのまにか、京での複雑な政争の勢力図に組み込まれていたのだった。

※                  ※

 そんなこととは気づかずに、菊池武重は非番の時にはよく五条まで遊びに出掛けた。春薫楼の芸伎・小夕梨こゆり に会うためである。

  「あんた、憶えていてくれたのね」 小夕梨は、武重が初めてやって来たとき、大はしゃぎで喜んだ。

 「みんな、この人がうちを暴漢から救ってくれたお侍さんや」

 これを聞いて、大勢の芸伎が集まって来た。いずれも劣らぬ美女たちではあったが、武重の関心の的は、小夕梨ただ一人であった。 この武重の意外な女道楽は、兄弟や武者所の同僚の笑いの種になっていたが、本人はどこ吹く風といったふうである。

 「裕子には言うなよ」弟たちに、一言クギを刺しただけであった。

 武重は、単なる遊びではなく、心から小夕梨に魅かれていたのだ。だから自分の行為について良心が痛むようなことはなかったのである。

  「あんたみたいな男は初めてよ」 武重の大きな胸の中で小夕梨はつぶやいた。武重の身分を知っても、彼女の態度は少しも以前と変わらなかった。それが武重には嬉しい。

  「おまえも、芸伎にしておくには惜しい女。肥後の山奥には、おまえのような女はおらぬ」武重は、強く小夕梨を抱き締めるのだった。

 一方、七郎武吉は、頻繁に楠木正成のところへ遊びに行った。正成の屋敷にはいつ出向いても新しい発見がある、と口癖のように言うのである。

 「七郎兄上は、まるで信者ですなあ」八郎武豊が苦笑した。

  「ふん、楠木さまの魅力が分からんとは、哀れな奴め」武吉は、そう言って嘯くのが常だった。

  こうして武吉は、楠木一族の面々とすっかり仲良くなってしまった。武吉が来ない日は、楠木屋敷の家人が皆で寂しがるほどであった。

 都はしばらくの間は平和そのものであった。しかし、十月に入ると大きな事件が相次いで世情を驚かせた。

 最初の事件は、万里までの 小路こうじ 藤房ふじふさ 卿の失踪である。藤房は、無能者が多い公家の中で例外的に有能な政治家であった。それゆえ、新政の破綻が誰よりもはっきり見えていたのである。

 彼は、十月の始めに帝の遊宴に乗り込み、政治批判を行った。その眼目は以下のとおり。

  一、戦災復興もまだなのに、大内裏の造営のために諸国に重税を課することの非。

 二、帝をはじめ、公家たちが遊興三昧で驕り高ぶることの非。

  三、雑訴決断所の拡充にもかかわらず、恩賞審理は依然として不公正であり、武士たちの間に怨嗟の声が広がっている非。

 その原因は、帝が女官たちの内奏に動かされ、決断所の決定を後から覆したり、官僚たちが賄賂に応じて審理を進めたりするからである。その結果、一つの所領に複数の所有者が認められることなど当たり前となり、混乱の度を高めている事の非。

 藤房は、懸命にこれらの諸点について反省を促したが、帝をはじめとする公家たちは聞く耳を持たなかった。

 絶望した藤房は、屋敷に書き置きを残すと、単身身をやつして都を出奔してしまった。彼には新政の悲惨な末路が見えていたに違いない。

 藤房の出奔は、帝を大いに慌てさせた。人をやって彼の身柄を捜索させたのだが、ついに見つからなかった。

 この様子を冷ややかに見守っている人物が一人。誰あらん、河内守・楠木正成である。

 大局観のある正成は、藤房の最大の相談相手であった。藤房は、正成だけには出奔の覚悟を事前に伝えていたのである。正成も、新政の未来に不安を抱く一人であった。彼はかつて、商人や流通業者の利益を護るために、決死の覚悟で北条幕府と戦った。しかし、蓋を開けてみれば、公家たちには商人たちの利益を護る能力は無かった。そのため、新政の要人である正成は、自分の生活基盤である流通業者たちにすら見限られつつあったのだ。

  「わいも、出奔したいわい」これが、藤房の失踪を聞いた正成の感想であった。

  十月に起きた二つ目の事件は、紀伊飯盛山での北条残党の反乱である。

 新政に不満をもつ大和や摂津の豪族もこれに参加し、当たるべからざる勢いになった。この鎮圧を命じられたのは楠木正成であった。

  「紀伊は、わいの持ち場じゃないんやが」首をかしげながら出陣した正成は、彼のおハコのはずの山岳戦に苦戦した。

 そして正成が留守の間に、宮中では恐るべき陰謀が進んでいたのだ。これが十月中の最大の事件、大塔宮の逮捕に外ならなかった。

  十月二十二日、大塔宮護良親王は遊宴に呼ばれて参内した。しかし、宮の前に現れたのは親しい公家などでは無く、名和長年と結城親光の兵だった。

  「こ、これは何としたことっ」

  大勢の兵士に取り押さえられ、縄をかけられた宮は、その日のうちに、憎むべき敵である足利尊氏に身柄を引き渡されてしまったのである。

  これは、阿野廉子と足利尊氏が企んだ陰謀の結果であった。 足利尊氏は、いわれもないのに大塔宮に命を狙われ弱っていた。それで、宮を憎む阿野廉子と手を結び、後醍醐天皇に働きかけたのである。

 天皇も、自分の許しも得ずに足利討伐を目論み、勝手に兵を動かす息子を快く思っていなかった。つまり、この逮捕は帝と伯耆閥と尊氏の総意によるものとも言える。宮の盟友である楠木正成を紀伊に遠ざけたのも、その計画の一環だったのかもしれないのだ・・・。

 「尊氏よりも、父が恨めしい」宮は、そう言って唇を噛んだと言われる。

 宮の私兵は全て斬られた。残党による身柄の奪還を恐れた当局は、宮を鎌倉に流すことに決めた。

 鎌倉は当時、尊氏の弟直義ただよし の勢力下にあり、これで宮の運命はほとんど絶望的となったのである。これはおそらく、武力を背景にした尊氏の要求に帝が屈した結果であろう。帝は自分の理想のために、倒幕の最高殊勲者でもある皇子を生け贄にしたのである。

 この情報を受けた紀伊の楠木正成は動揺した。

 「な、なんでや」

 藤房といい大塔宮といい、自分の尊敬する人は次々と去って行く。正成は悩んだ。全軍を引き連れて京に帰り、宮を救出するべきであろうか。

  「それはできへん。それをやったら、わいも賊軍になる。それはできへん」正成は、頭を抱えてうずくまった。

  飯盛山の反乱が、援軍の力によってやっと平定されたのは、年が明けた正月末日のことであった。名将のはずの正成の活躍は全く見られなかったという・・・。

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